・教皇の訪日全スピーチ、講話、説教の公式日本語訳全文

「教会は小さくても、命を守り、共感と慈しみの福音を宣言し、日々、主を証しせよ」

【教皇の日本司牧訪問 教皇の講話 日本の司教団との会談 東京、2019 年 11 月 23 日】

 愛する兄弟である、司教の皆さん。

 はじめに、ごあいさつせずに入ってきてごめんなさい。私たちアルゼンチン人は本当失礼ですね! すみません。皆さんとご一緒できてうれしいです。日本人は几帳面で働き者であることはよく知られていますが、それを目の当たりにしました。飛行機から教皇が降りると、すぐに動いてくれましたね。ありがとうございます。

 日本訪問という恵みと、皆様の歓迎にとても感謝しています。日本のすべてのカトリック共同体を代表された、髙見大司教様のお言葉に特に感謝いたします。司教様方との、この最初の公的な会談の場をお借りして、皆さんのそれぞれの共同体、そして共同体全体に、信徒、カテキスタ、司祭、修道者、奉献生活者、神学生に、ごあいさつしたいと思います。また、新しい天皇の即位と、令和という新しい時代の幕開けという画期におられる、日本のすべてのかたにも、ごあいさつと祈りをお届けしたく思います。

 ご存じかどうか分かりませんが、私は若い時から日本に共感と愛着を抱いてきました。日本への宣教の望みを覚えてから長い時間が経ち、ようやくそれが実現しました。今日、主はわたしに、皆さんと同席するという機会を与えてくださいました。私は信仰の偉大な証人の足跡をたどる、宣教する巡礼者としてここにおります。聖フランシスコ・ザビエルが日本に上陸してから470 年が経ちます。ザビエルが、日本におけるキリスト教布教を始めました。彼を思い出しながら、皆様と心を合わせて主に感謝したいと思います。

 その感謝は、その後何世紀にもわたって福音の種を蒔き、熱意と愛をもって日本の人々に奉仕した、すべての人への感謝です。その献身が、日本の教会に独特の性格を与えました。私は、聖パウロ三木と同志殉教者、また、数知れない試練の中で死に至るまで信仰を証しした福者高山右近のことを思い出します。迫害の中で信仰を守ろうとするこの献身のおかげで、小さなキリスト教共同体は成長し、堅固になり、豊かな実りを生みました。

 さらに、長崎の「潜伏キリシタン」のことも思い浮かべてみましょう。彼らは洗礼と祈りと要理教育を通して、何世代にもわたって信仰を守ってきました。それは、その地に輝く真の家庭教会でした。当人たちは意識せずとも、ナザレの聖家族を映し出していたのです。

 主の道は、「神を忘れまい」と努める忠実な民の日常生活の中で、ご自分がいかに「働かれる」かを示しています。沈黙の中に隠れておられますが、聖霊の力と優しさをもって、二人またはそれ以上が、主の名において集まるところには主がおられる(マタイ 18・20 参照)ということを思い出させてくれる、生きた記憶です。あなたがたの共同体の DNA には、このあかしが刻まれています。それはあらゆる絶望に対する特効薬で、目を上げて歩むべき道を示してくれます。

 皆さんは、迫害の中で主のみ名を呼び続け、主がいかに自分たちを導かれたかを見つめてきた、生きている教会です。

 希望に燃えた種蒔き、殉教者のあかし、時が来れば神が与えてくださるはずの実りを待つ忍耐、これらが、日本の文化と共存できた宣教方法を特徴づけたものです。その結果、長い年月を経て、教会の顔が形づくられました。教会は総じて、日本社会からとても評価されています。それは、教会が共通善のために多くの貢献をなしたからです。日本の歴史と普遍教会の歴史の中で重要なあの時代は、長崎と天草地方の教会と集落群が世界遺産に登録されたことでも認められています。ですが何より、皆さんの共同体の魂の生きる記憶として、あらゆる福音宣教の豊かな希望として、評価されるものです。

 この司牧訪問のテーマは、「すべてのいのちを守るため」です。それは、私たち司教の奉仕職というものをよく表しています。司教とは、主によってその民の中から呼び出され、すべての命を守ることのできる牧者として民に渡される者です。このことは、私たちが目指すべき現場をある程度決定してくれます。

 この国での宣教は、インカルチュレーションと対話を希求するという点が特徴的でした。これによって、西欧で発展したものに対し、新しく独自な数々の様式が展開できたのです。周知のことですが、初期のころから、書物、演劇、音楽、あらゆる教材において、ほとんど日本語が使われました。この事実は、初代の宣教師が日本に対して抱いた愛情を示しています。すべてのいのちを守るとは、まず、この愛のこもった寛大な目をもって、神からゆだねられた民すべてのいのちを愛し、何よりも、この民を神から受けたたまものとして認めることです。

 「愛されるだけで救われるからです。すがるだけで変えていただけるのです」1。これは、効果はあるものの副次的な別の考えではなく、「すべての命は無償の恵みだ」という姿勢をとる助けとなる、具体的な行動規範です。

 全ての命を守ることと、福音を告げることは、切り離された別のものではなく、また相反するものでもありません。互いに呼び寄せ合い、必要とし合っています。どちらも、今日この国で、イエスの福音の光に照らされた信じる民の全人的発展を妨げうるものに、注意を怠らず警戒することを意味します。

 日本の教会は小さく、カトリック信者が少数派であることは知っています。しかし、それが、あなたたちの福音宣教の熱意を冷ますようではいけません。皆さんに固有な状況において、人々に示すべき最も強く明白な言葉は、「普段の生活の中での目立たぬ証し」と」「他の宗教的伝統との対話」です。日本のカトリック信者の半数以上を占める多数の外国人労働者を親切に受け入れ、世話することは、日本社会の中で福音の証しとなるだけでなく、教会があらゆる人に開かれていることの証明にもなります。「私たちのキリストとのきずな(教皇フランシスコ「WYD パナマ大会晩の祈りでの講話(2019 年 1 月 26 日)」は、他のどんな結びつきやアイデンティティよりも強く、あらゆる現実のもとに届き触れうるものであることを示すからです。

 殉教者の教会は、何でも率直に話すことができます。とくに、この世界の平和と正義という緊急の課題に取り組む際にはなおさらです。私はすぐに、長崎と広島を訪問いたします。そこで、この二つの町の被爆者のために祈ります。また、核兵器廃絶への皆さんの預言的ともいえる呼びかけに、私も同調を表明したく思います。

 人類史に残るあの悲劇の傷に、今なお苦しんでいる人々、また「〔地震、津波、原発事故という〕三重の災害」の犠牲者の方々にもお会いしたいと思っています。長期にわたる彼らの苦しみを見ると、人として、そしてキリスト信者として、私たちに課された義務をはっきり自覚させられます。身体や心に苦しみを抱えている人を助け、希望と治癒と和解という福音のメッセージを、すべての人に伝えるという義務です。災害は人を選びませんし、身分も問いません。ただ、その激しい破壊力をもって襲いかかります。

 多くの人命を奪い甚大な損害をもたらした先日の台風もそうです。亡くなった方々とそのご家族、自宅や家や財産を失ったすべての人を、主の慈しみにゆだねましょう。日本で、そして世界中で、あらゆるいのちを神からのかけがえのないたまものとして守るために、臆することなく声を上げていく使命を果たせますように。

 皆さんを励ましたいと思います。日本のカトリック共同体の、社会全体の中での福音の明快な証し、それを確実にするよう努力を続けてください。信頼を得ている教会の教育事業は、福音宣教の有効な手段であり、非常に幅広い知的・文化的潮流に寄与しています。貢献の質は、当然のことながら、そのアイデンティティと使命とを、どれだけ盛り立てるか、にかかっています。

 私たちは、「日本の共同体に属する一部の人の、命を脅かす、さまざまな厄介ごと」があることを自覚しています。それらは、いろいろな理由によるものの、孤独、絶望、孤立が際立っています。この国での自殺者やいじめの増加、自分を攻めてしまう様々な事態は、新たな形の疎外と心の混迷を生んでいます。それがどれほど人々を、中でも、若い人たちを苛んでいることでしょう。

 皆さんにお願いします。若者と彼らの困難に、とくに配慮してください。「無償で無私の愛の文化」が、「成功した」人だけでなく、「どの人にも幸福で充実した生活の可能性を差し出せる文化」が、「有能さと生産性と成功のみを求める文化」に取って変わるよう努めてください。日本の若者は、自分たちの熱意とアイデアと力をもって、またよい教育と周囲のよい助けを得て、同時代の仲間にとって大切な希望の源となり、キリストの愛を生き生きと証しする生きた証人となることができます。ケリグマ(福音の告知)を創造的に、文化に根ざした、創意に富んだしかたで行うなら、それは理解を求めている大勢の人に強く響くでしょう。

 「収穫は多いけれども働く人は少ないこと」も私は知っています。だからこそ、皆さんを励ましたいのです。家庭を巻き込む宣教のしかたを考え、生み出し、促すことです。また常に現実を直視しつつ、人々がいる場にまで届くような養成を促進することです。どんな使徒職の出発点も、人々が普段の生活をしている、その場から生まれます。その場所に、つまり、町中や仕事場、大学の中にいる人々のもとにまで行って、思いやりとあわれみの福音を携え、私たちに任された信者たちに寄り添わなければならないのです。

 皆さんの教会を訪問し、ともに祭儀を行う機会をくださったことに、改めて感謝いたします。ペトロの後継者は、「日本の教会の信仰を強めたい」と思っていますが、同時にまた、信仰を証しした多くの殉教者の足跡に触れ、「自分の信仰も新たにしたい」と思っています。

 主がこの恵みを私に与えてくださるようお祈りください。主が皆さんと、皆さんを通して、それぞれの共同体を祝福してくださるよう祈ります。どうもありがとう。

この聖地は死についてよりも、命の勝利について語りかける」

【殉教者への表敬--殉教の記念碑 西坂の丘 2019 年 11 月 24 日、長崎】

 愛する兄弟姉妹の皆さん、こんにちは。

 私はこの瞬間を待ちわびていました。私は一巡礼者として祈るため、信仰を確かめるため、また自らの証しと献身で道を示すこの兄弟たちの信仰に強められるために来ました。歓迎に心から感謝いたします。
この聖地にいると、はるか昔に殉教したキリスト者の姿と名が浮かんできます。1597 年2 月 5 日に殉教したパウロ三木と同志殉教者をはじめ、その苦しみと死によってこの地を聖なる地とした、あまたの殉教者です。

 しかしながら、この聖地は死についてよりも、命の勝利について語りかけます。聖ヨハネ・パウロ 2 世はこの地を、殉教者の丘としてだけでなく、真の真福八端の山と考えました。自己中心、安穏、虚栄から解き放たれ、聖霊に満たされた人々のあかしに触れることができる場です(使徒的勧告『喜びに喜べ』65 参照)。ここで、迫害と剣に打ち勝った愛のうちに、福音の光が輝いたからです。

 ここは何よりも復活を告げる場所です。襲いくるあらゆる試練の中でも、最後は死ではなく、命に至ると宣言しているからです。私たちは死ではなく、完全な神的命に向かって呼ばれているのです。彼らは、そのことを告げ知らせたのです。確かにここには、死と殉教の闇があります。ですが同時に、復活の光も告げ知らされています。

 殉教者の血は、イエス・キリストがすべての人に、私たち皆に与えたいと望む、新しい命の種となりました。その証しは、宣教する弟子として生きる私たちの信仰を強め、献身と決意を新たにします。日々黙々と務める働きによる「殉教」を通して、すべての命、とくに最も助けを必要としている人を保護し守る文化のために働く弟子として。

 私が殉教者にささげられた記念碑の前まで来たのは、このような聖なる人々と会うためです。「地の果て」に生まれた若いイエズス会士の謙虚さに心を重ね、最初の宣教師と日本の殉教者の歴史に、霊感と刷新の深い泉を見い出したかったのです。すべてを捧げた彼の愛を忘れないようにしましょう。

 記念館に丁重に納められ尊ばれる過去の手柄の輝かしい遺物にとどまるのではなく、その愛が、福音宣教の熱い思いを刷新し絶えることなく燃え立たせる、この地におけるすべての使徒的精神の、生き生きとした記憶と燃える熱意になりますように。今の日本にある教会が、すべての困難と展望を含め、十字架の上から放たれた聖パウロ三木のメッセージに日々耳を傾け、道、真理、いのち(ヨハネ福音書 14章6節参照)である福音の喜びと美をすべての人と分かち合うよう招かれていることを感じますように。私たちに重くのしかかり、謙遜に、自由に、大胆に、思いやりをもって歩むことを妨げるものから、日々解き放たれますように。

 兄弟姉妹の皆さん。この場所から、世界のさまざまな場所で、信仰ゆえに今日も苦しみ、殉教の苦しみを味わうキリスト者とも心を合わせましょう。21 世紀の殉教者たちは、その証しをもって、勇気をもって、真福八端の道を自分のものとするよう私たちに求めています。彼らのために、彼らとともに祈りましょう。そして、すべての人に、世界の隅々に至るまで、信教の自由が保障されるよう声を上げましょう。また、宗教の名を使ったすべての不正に対しても声を上げましょう。「人間の行動と人類の運命を誘導する全体支配主義と分断を掲げる政略、度を超えた利益追求システム、憎悪に拍車をかけるイデオロギー」(「人類の兄弟愛に関する共同文書(2019 年 2 月 4 日、アブダビ)」)に対して。

 私たちの母、殉教者の元后に、そして自らの命をもって主の素晴らしさを証しした聖パウロ三木と同志殉教者たちすべてに願いましょう。彼らの献身が、宣教の喜びを呼び覚まし保つことができるよう、皆さんの国、そして教会全体のために、取り次いでくれますように。

「核兵器から解放された世界の実現へ、核保有国非保有国の全ての人の参加が必要だ」

【核兵器についてのメッセージ 長崎爆心地公園 2019 年 11 月 24 日 長崎】

 愛する兄弟姉妹の皆さん。

 この場所は、私たち人間が過ちを犯しうる存在であるということを、悲しみと恐れとともに意識させてくれます。近年、浦上教会で見いだされた被爆十字架とマリア像は、被爆
なさった方と、そのご家族が生身の身体に受けられた筆舌に尽くしがたい苦しみを、あらためて思い起こさせてくれます。

 人の心にある最も深い望みの一つは、平和と安定への望みです。核兵器や大量破壊兵器を所有することは、この望みに対する最良の答えではありません。それどころか、この望みを絶えず試みにさらすことになるのです。私たちの世界は、手に負えない分裂の中にあります。それは、恐怖と相互不信を土台とした偽りの確かさの上に平和と安全を築き、確かなものにしようという解決策です。人と人の関係を蝕み、相互の対話を阻んでしまうものです。

 国際的な平和と安定は、相互破壊への不安や壊滅の脅威を土台とした、どんな企てとも相容れないものです。むしろ、現在と未来のすべての人類家族が共有する「相互尊重と奉仕への協力と連帯」という、世界的な倫理によってのみ、実現可能となります。ここは、核兵器が人道的にも環境にも悲劇的な結末をもたらすことの証人である町です。

 そして、軍備拡張競争に反対する声は、小さくとも常に上がっています。軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは神に歯向かうテロ行為です。

 核兵器から解放された平和な世界。それは、あらゆる場所で、数え切れないほどの人が熱望していることです。この理想を実現するには、すべての人の参加が必要です。個々、宗教団体、市民社会、核兵器保有国も非保有国も、軍隊も民間も、国際機関もそうです。核兵器の脅威に対しては、一致団結して具体性をもって応じなくてはなりません。

 それは、現今の世界を覆う不信の流れを打ち壊す、困難ながらも堅固な構造を土台とした、相互の信頼に基づくものです。1963 年に聖ヨハネ 23 世教皇は、回勅『地上の平和(パーチェム・イン・テリス)』で核兵器の禁止を世界に訴えていますが(112 項=邦訳 60 項参照)、そこではこう断言してもいます。「『軍備の均衡が平和の条件である』という理解を『真の平和は相互の信頼の上にしか構築できない』といういう原則に置き換える必要があります」(113 項=邦訳 61項)。

 今、拡大しつつある、相互不信の流れを壊さなくてはなりません。相互不信によって、兵器使用を制限する国際的な枠組みが崩壊する危険があるのです。私たちは、『多国間主義の衰退』を目の当たりにしています。それは、兵器の技術革新にあって、さらに危険なことです。この指摘は、相互の結びつきを特徴とする現今の情勢から見ると的を射ていないように見えるかもしれませんが、あらゆる国の指導者が緊急に注意を払うだけでなく、力を注ぎ込むべき点でもあるのです。

 カトリック教会は、人々と国家間の平和の実現に向けて不退転の決意を固めています。それは、神に対する、そしてこの地上のあらゆる人に対する責務なのです。核兵器禁止条約を含め、核軍縮と核不拡散に関する主要な国際的な法的原則に則り、たゆむことなく迅速に行動し、訴えていきます。

 昨年の 7 月、日本司教協議会は、核兵器廃絶の呼びかけを行いました。また、日本の教会では毎年 8 月に、平和に向けた 10 日間の平和旬間を行っています。どうか、祈り、一致の促進の飽くなき探求、対話への粘り強い招きが、私たちが信を置く「武器」でありますように。また、平和を真に保証する、正義と連帯のある世界を築く取り組みを鼓舞するものとなりますように。

 核兵器のない世界が可能であり必要である、という確信をもって、政治をつかさどる指導者の皆さんにお願いします。核兵器は、今日の国際的また国家の安全保障への脅威に関して私たちを守ってくれるものではない、そう心に刻んでください。人道的および環境の観点から、核兵器の使用がもたらす壊滅的な破壊を考えなくてはなりません。核の理論によって促される、恐れ、不信、敵意の増幅を止めなければなりません。

 今の地球の状態から見ると、その資源がどのように使われるのかを真剣に考察することが必要です。複雑で困難な持続可能な開発のための 2030 アジェンダの達成、すなわち『人類の全人的発展』という目的を達成するためにも、真剣に考察しなくてはなりません。1964 年に、すでに教皇聖パウロ 6 世は、防衛費の一部から世界基金を創設し、貧しい人々の援助に充てることを提案しています(「ムンバイでの報道記者へのスピーチ(1964 年 12 月 4 日)」。回勅『ポプロールム・プログレッシオ(1967 年 3 月 26 日)』参照)。

 こういったことすべてのために、信頼関係と相互の発展とを確かなものとするための構㐀を作り上げ、状況に対応できる指導者たちの協力を得ることが、きわめて重要です。責務には、私たち皆が関わっていますし、全員が必要とされています。今日、私たちが心を痛めている何百万という人の苦しみに、無関心でいてよい人はいません。傷の痛みに叫ぶ兄弟の声に耳を塞いでよい人は、どこにもいません。対話することのできない文化による破滅を前に、目をつぶってよい人はどこにもいません。

 心を改めることができるよう、また、命の文化、赦しの文化、兄弟愛の文化が勝利を収めるよう、毎日心を一つにして祈ってくださるようお願いします。共通の目的地を目指
す中で、相互の違いを認め保証する兄弟愛です。

 ここにおられる皆さんの中には、カトリック信者でないかたもおられることでしょう。でも、アッシジの聖フランシスコに由来する平和を求める祈りは、私たち全員の祈りとなると確信しています。

 「主よ、私をあなたの平和の道具としてください。憎しみがあるところに愛を、いさかいがあるところにゆるしを、疑いのあるところに信仰を、絶望があるところに希望を、闇に光を、悲しみあるところに喜びをもたらすものとしてください」

 記憶にとどめるこの場所、それは私たちをハッとさせ、無関心でいることを許さないだけでなく、神にもっと信頼を寄せるよう促してくれます。また、私たちが真の平和の道具となって働くよう勧めてくれています。過去と同じ過ちを犯さないためにも勧めているのです。

 皆さんとご家族、そして、全国民が、繁栄と社会の和の恵みを享受できますようお祈りいたします。

「 長崎が原爆で負った傷、現在の多くの罪なき戦争の犠牲者のために、声を上げ、祈ろう」

【王であるキリストの祭日のミサ 長崎県営球場(長崎ビック N スタジアム)2019 年 11 月 24 日、長崎】

 「イエスよ、あなたのみ国においでになるときには、私を思い出してください」(ルカ福音書23章42節)

 典礼暦最後の主日の今日、イエスとともに十字架につけられ、イエスが王だと気づき、そう宣言した犯罪人の声に、私たちも声を合わせます。栄光と勝利には程遠いその時に、
嘲笑と侮辱の声高な叫びの中で、あの盗人は声を上げ、信仰を宣言しました。それは、イエスが聞いた最後の言葉であり、御父にご自分をゆだねる前、イエスは最後に言われました。

 「はっきりいっておくが、あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」(ルカ福音書23章43節)。盗人の後ろ暗い過去は、一瞬にして新たな意味を得たかのようです。すなわち、主の苦悶にしっかりと寄り添い、いつでも、どこにおいても、救いを差し出す、という主の生き方を確かめるものとしたのです。

 カルワリオ、それは無秩序と不正義の場、無力と無理解が相まみえ、罪なき者の死の前で、いつも茶化している者たちの、無関心で自己を正当化する、ささやきと陰口が響く場です。カルワリオ、この語は、この悔い改めた盗人の姿勢によって、全人類にとっての希望という語に変わるのです。苦しむ罪なき人への『自分自身を救え」という嘲りや喚き声は、決め台詞にはならず、むしろ、歴史を作る真の形として、心を動かされるに任せ、いつくしみによって決断する者たちの声を呼び起こすのです。

 今日ここで、私たちの信仰と約束を新たにしたいと思います。あの悔い改めた盗人と同じく、私たちは 、失敗、罪、限界ばかりの人生をよく分かっています。けれどもそれが、私たちの現在と未来を既定し、決定づけるものであってほしくありません。

 私たちは、「自分自身を救ってみろ」という軽々しい無関心の声で、面倒を避ける空気に染まりがちなことを知っています。多くの罪なき者の苦しみを、ともに背負うことの大切さを忘れてしまうことも少なくありません。

 この国は、人間が手にしうる壊滅的な力を経験した、数少ない国の一つです。ですから私たちは、悔い改めた盗人と同じように、苦しむ罪なきかた、主イエスを弁護し仕えるために、声を上げ、信仰を表明する瞬間を生きたいのです。

 主の苦しみに寄り添い、その孤独と放棄を支えたいと思います。そして今一度、救いそのものである、御父が私たち皆に届けようとするあの言葉を聞きましょう。「あなたは今
日、私と一緒に楽園にいる」。

 救いと確信――。それは、聖パウロ三木と同志殉教者、そしてあなたがたの霊的遺産に刻まれた無数の殉教者、彼らがその命をもって勇猛に証ししてきたものです。私たちは彼らの足跡に従い、その一歩一歩を同じように、勇気を携えて歩みたいと思います。十字架上のキリストから与えられ、渡され、約束された愛こそが、あらゆるたぐいの憎しみ、利己心、嘲笑、言い逃れを打ち破るのです。そこに、よい行動や選択を前にして身をすくませる、無意味な悲観主義や、感覚を鈍らせる物的豊かさに、ことごとく勝利する力があります。

 第二バチカン公会議は、そのことを思い出させてくれました。真理から遠いのは、「この世には永遠の都はない」と言って、来るべき都を探し求めているつもりで地上での務めをないがしろにし、注意を怠る人です。まさに、告白する同じ信仰で、神に呼ばれた召し出しの崇高さを示し、それが透けて見えるほどにすべきなのです(第 2 バチカン 公会議『現代世界憲章』43 参照)。

 私たちの信仰は、生きる者たちの神への信仰なのです。キリストは生きておられ、私たちの間で働かれ、私たち皆を命の充満へと導いておられます。キリストは生きておられ、私たちに「生きる者であってほしい」と願っておられるのです。

 キリストは私たちの希望です(使徒的勧告『キリストは生きている』1 参照)。私たちは毎日こう祈っていますー主よ、み国が来ますように。こう祈りながら、自分の生活と活動が、賛美となるよう願っています。宣教する弟子としての使命が、来るべきものの証言者や使者となることなら、私たちは、悪や悪行に身を任せてはいられません。反対にその使命は、神の国のパン種になるよう駆り立てるのです。

 家庭、職場、社会、どこであれ、置かれた場所でパン種となるよう駆り立てるのです。聖霊が人々の間に希望の風として吹き続けるための、小さな通気口となることです。天の国は、私たち皆の共通の目的地です。それは、将来のためだけの目標ではありません。それを請い願い、今日からそれを生きるのです。病気や障害のある人、高齢者や見捨てられた人たち、難民や外国からの労働者、彼らを取り囲んで大抵は黙らせる無関心の脇で、今日それを生きるのです。

 彼らは皆、私たちの王、キリストの生きる秘跡なのです(マタイ福音書25章31-46節参照)。なぜなら「もし私たちが本当にキリストの観想によって出発したのであれば、あの方がご自分を重ねたいと望まれた人たちの顔に、あの方の姿を見い出さなねばならない」(聖ヨハネ・パウロ 2 世使徒的書簡『新千年期の初めに』49)からです。

 あの日、カルワリオでは、多くの人が沈黙していました。そして他の大勢が嘲笑したのに、盗人の声だけがそれに逆らい、苦しむ罪なき方を弁護したのです。それは、勇気ある信仰宣言です。私たち一人ひとりが決断することですー沈黙か、嘲笑か、あるいは告げ知らせるか。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん。長崎はその魂に、癒しがたい傷を負っています。その傷は、多くの罪なき者の、筆舌に尽くしがたい苦しみによるしるしです。これまでの戦争によって踏みにじられた犠牲者たちは、さまざまな場所で勃発している第 3 次世界大戦によって、今日もなお苦しんでいます。

 今ここで、一つの祈りとして、私たちも声を上げましょう。今日、この恐ろしい罪を、身をもって苦しんでいるすべての人のために。そして、あの悔い改めた盗人のように、黙りも嘲笑もせず、むしろ、自ら声を上げ、真理と正義、聖性と恵み、愛と平和のみ国を告げ知らせる者が、もっともっと増えるよう願いましょう。

「核兵器の使用は犯罪、核で威嚇しつつ、平和は語れない」  ‐広島平和宣言

【平和記念公園にて 2019 年 11 月 24 日、広島】

 「私は言おう。私の兄弟、友のために。『あなたのうちに平和があるように』」(詩編 122章8節)。

 あわれみの神、歴史の主よ、この場所から、私たちはあなたに目を向けます。死と命、崩壊と再生、苦しみと慈しみの交差するこの場所から。ここで、大勢の人が、その夢と希望が、一瞬の閃光と炎によって跡形もなく消され、影と沈黙だけが残りました。一瞬のうちに、すべてが破壊と死というブラックホールに飲み込まれました。その沈黙の淵から、亡き人々のすさまじい叫び声が、今なお聞こえてきます。

 さまざまな場所から集まり、それぞれの名をもち、中には、異なる言語を話す人たちもいました。そのすべての人が、同じ運命によって、このおぞましい一瞬で結ばれたのです。その瞬間は、この国の歴史だけでなく、人類の顔に永遠に刻まれました。

 この場所のすべての犠牲者を記憶にとどめます。また、あの時を生き延びたかたがたを前に、その強さと誇りに、深く敬意を表します。その後の長きにわたり、身体の激しい苦痛と、心の中の生きる力を蝕んでいく死の兆しを忍んで来られた方です。

 私は平和の巡礼者として、この場所を訪れなければならないと感じていました。激しい暴力の犠牲となった罪のない人々を思い出し、現代社会の人々の願いと望みを胸にしつつ、じっと祈るためです。とくに、平和を望み、平和のために働き、平和のために自らを犠牲にする若者たちの願いと望みです。わたしは記憶と未来にあふれるこの場所に、貧しい人たちの叫びも携えて参りました。貧しい人々はいつの時代も、憎しみと対立の無防備な犠牲者だからです。

 私は謹んで、声を発しても耳を貸してもらえない人々の声になりたいと思います。現代社会が直面する増大した緊張状態を、不安と苦悩を抱えて見つめる人々の声です。それが、人類の共生を脅かす受け入れがたい不平等と不正義、私たちの共通の家を世話する能力の著しい欠如、また、あたかもそれで未来の平和が保障されるかのように行われる、継続的あるいは突発的な武力行使などに対する声です。

 確信をもって、改めて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代において、犯罪以外の何ものでもありません。人類とその尊厳に反するだけでなく、私たちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反します。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています。それは、私が既に2年前に申し上げた通りです。

 これについて、私たちは裁きを受けることになります。次の世代の人々が、私たちの失態を裁く裁判官として立ち上がるでしょうー「平和について話すだけで、国と国の間で何の行動も起こさなかった」と。

 戦争のための最新鋭で強力な兵器を製造しながら、平和について話すことなど、どうしてできるでしょうか。差別と憎悪のスピーチで、あの誰もが知る偽りの行為を正当化しておきながら、どうして平和について話せるでしょうか。

 平和は、それが真理を基盤とし、正義に従って実現し、愛によって息づき、完成され、自由において形成されないのであれば、単なる「発せられることば」に過ぎなくなると確信しています。(聖ヨハネ 23 世回勅『パーチェム・イン・テリス――地上の平和』37〔邦訳 20〕参照)。真理と正義をもって平和を築くとは「人間の間には、知識、徳、才能、物質的資力などの差がしばしば著しく存在する」(同上 87〔同 49〕)のを認めることです。

 ですから、自分だけの利益を求めるため、他者に何かを強いることが正当化されてよいはずはありません。差の存在を認めることは、いっそうの責任と敬意の源となるのです。同じく政治共同体は、文化や経済成長といった面ではそれぞれ正当に差を有していても、「相互の進歩に対して」(同 88〔同 49〕)、すべての人の善益のために働く責務へと招かれています。

 実際、より正義にかなう安全な社会を築きたいと真に望むならば、武器を手放さなければなりません。「武器を手にしたまま、愛することはできません」(聖パウロ 6 世「国連でのスピーチ(1965 年 10 月 4 日)」10)。武力の論理に屈して対話から遠ざかってしまえば、いっそうの犠牲者と廃墟を生み出すことが分かっていながら、武力が悪夢をもたらすことを忘れてしまうのです。武力は「膨大な出費を要し、連帯を推し進める企画や有益な作業計画が滞り、民の心理を台なしにします」(同)。

 紛争の正当な解決策として、核戦争の脅威によ る威嚇をちらつかせながら、どうして平和を提案できるでしょうか。この底知れぬ苦しみが、決して越えてはならない一線を自覚させてくれますように。真の平和とは、非武装の平和以外にありえません。それに、「平和は単に戦争がないことでもなく、……絶えず建設されるべきもの」(第二バチカン公会議『現代世界憲章』78)です。それは正義の結果であり、発展の結果、連帯の結果であり、私たちの共通の家の世話の結果、共通善を促進した結果生まれるものなのです。わたしたちは歴史から学ばなければなりません。

 思い出し、ともに歩み、守ること。この三つは、倫理的命令です。これらは、まさにここ広島において、よりいっそう強く、より普遍的な意味をもちます。この三つには、平和となる道を切り開く力があります。したがって、現在と将来の世代が、ここで起きた出来事を忘れるようなことがあってはなりません。

 記憶は、より正義にかない、いっそう兄弟愛にあふれる将来を築くための、保証であり起爆剤なのです。すべての人の良心を目覚めさせられる、広がる力のある記憶です。わけても国々の運命に対し、今、特別な役割を負っている方々の良心に訴えるはずです。これからの世代に向かって、言い続ける助けとなる記憶です。「二度と繰り返しません」と。

 だからこそ私たちは、ともに歩むよう求められているのです。理解と赦しの眼差しで、希望の地平を切り開き、現代の空を覆うおびただしい黒雲の中に、一条の光をもたらすのです。希望に心を開きましょう。和解と平和の道具となりましょう。それは、私たちが互いを大切にし、運命共同体で結ばれていると知るなら、いつでも実現可能です。

 現代世界は、グローバル化で結ばれているだけでなく、共通の大地によっても、いつも相互に結ばれています。共通の未来を確実に安全なものとするために、責任をもって闘う偉大な人となるよう、それぞれのグループや集団が排他的利益を後回しにすることが、かつてないほど求められています。

 神に向かい、すべての善意の人に向かい、一つの願いとして、原爆と核実験とあらゆる紛争のすべての犠牲者の名によって、心から声を合わせて叫びましょう。戦争はもういらない! 兵器の轟音はもういらない! こんな苦しみはもういらない! と。

 私たちの時代に、私たちのいるこの世界に、平和が来ますように。神よ、あなたは約束してくださいました。「慈しみとまことは出会い 義と平和が口づけする。まことは地から芽生え 義は天から目を注ぐ」(詩編 85章11-12節)。

 主よ、急いで来てください。破壊があふれた場所に、今とは違う歴史を描き実現する希望があふれますように。平和の君である主よ、来てください。私たちをあなたの平和の道具、あなたの平和を響かせるものとしてください!

 「私は言おう  『あなたの内に平和があるように」(詩編 122章8節)。

「日本人の魂をもってすれば完全な復興は必ず果たせる」 

【三重災害被災者との集まり ベルサール半蔵門 2019 年 11 月 25 日、東京】

 愛する友人の皆さん。

 皆さんとのこの集いは、私の日本訪問中の大切なひとときです。アルゼンチンの音楽で迎えてくださりありがとうございます。とくに敏子さん、徳雲さん、全生さんに感謝しま
す。それぞれのこれまでの歩みを私たちと分かち合ってくださり、ありがとうございます。この 3 名の方、そして皆さんは、三重災害、つまり地震、津波、原発事故によって言
い表せないほどの本当に辛い思いをされた、すべての人を代表しておられます。

 災害は、岩手県、宮城県、福島県だけでなく、日本全土と全国民に影響を及ぼしました。ご自分の言葉と姿で、大勢の人が被った悲しみと痛みを、そして、よりよい未来に広がる希望を伝えてくださり、ありがとうございます。

 全生さんはご自分の証言を終える際に、私に皆さんの祈りに加わってほしいと招いてくださいました。しばらく沈黙の時間を取り、最初の言葉として、1 万 8 千人にも上る亡くなった方、ご遺族、いまだに行方の分からない方のために祈りましょう。私たちを一つにし、希望をもって前を見る勇気を与えてくれる祈りをしましょう。

 地方自治体、諸団体、人々の尽力にも感謝します。皆さんは、災害地域の復興に取り組み、また、現在も仮設住宅に避難して自宅に帰ることができずにいる、5 万以上もの人の境遇改善に努めておられます。

 とくに感謝したいのは、敏子さんが的確に指摘されたように、日本だけでなく世界中の多くの人が、災害直後に迅速に動いてくれたことです。祈りと物資や財政援助で、被災者を支えてくれました。そのような行動は、時間が経てばなくなるものや、最初の衝撃が薄れれば衰えていくものであってはなりません。むしろ、長く継続させなければなりません。

 全生さんの指摘について言えば、被災地の住人の中には、「今はもう忘れられてしまった」と感じている人もいます。汚染された田畑や森林、放射線の長期的な影響などで、継続的な問題を突きつけられている人も少なくありません。

 この集いが、集まった全員によって、この惨劇を被った被災者の方々が引き続き多くの必要な助けを得るための、心あるすべての人に訴える呼びかけとなりますように。食料、衣服、安全な場所といった必需品がなければ、尊厳ある生活を送ることはできません。生活再建を果たすには最低限必要なものがあり、そのために地域コミュニティの支援と援助を受ける必要があるのです。一人で「復興」できる人はどこにもいません。

 誰も一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です。敏子さんは津波で家を失いましたが、命を助けられたことをことをありがたいと思い、助け合うために団結する人を見て希望をもっている、と話してくれました。三重災害から 8 年、日本は、連帯し、根気強く、粘り強く、不屈さをもって、一致団結できる人々であることを示してきました。

 完全な復興まで先は長いかもしれません。しかし、助け合い、頼り合うために一致できるこの国の人々の魂をもってすれば、必ず果たすことができます。敏子さんが言われたように、何もしなければ結果はゼロですが、一歩踏み出せば一歩前に進みます。ですから皆さん、毎日少しずつでも、前に進んでいくよう励まします。連帯と献身に基づく未来を築くための一歩です。だれかのため、皆さんのため、皆さんの子どもや孫のため、そしてこれから生まれてくる次の世代のためです。

 徳雲さんは、私たちに影響する別の重要な問題に、どのように応えることができるか、を尋ねられました。ご存じのとおり、戦争、難民、食料、経済格差、環境問題は、切り離して判断したり対処したりはできません。今日、問題を強大なネットワークの一部とみなすことなく、個々別々に扱えると考えるのは大きな間違いです。的確に指摘してくださったように、私たちはこの地球の一部であり、環境の一部です。究極的には、すべてが互いに絡み合っているからです。

 思うに最初の一歩は、天然資源の使用に関して、そしてとくに将来のエネルギー源に関して、勇気ある重大な決断をすることです。「無関心と闘う力のある文化」を作っていくために、働き、歩むことです。私たちに最も影響する悪の一つは「無関心の文化」です。「家族の一人が苦しめば家族全員が苦しむのだ」という自覚をもてるよう、力を合わせることが急務です。課題と解決を包括的に受け止め、きずなという知恵が培われない限り、互いの交わりはかないません。私たちは、互いにつながっているのです。

 この意味で特別に思い起こしたいのが、福島第一原子力発電所の事故とその余波です。科学的・医学的な懸念に加えて、社会構造を回復するという、途方もない作業もあります。地域社会で社会のつながりが再び築かれ、人々がまた安全で安定した生活ができるようにならなければ、福島の事故は完全には解決されません。これが意味するのは、私の兄弟である日本の司教たちがいみじくも指摘した、原子力の継続的な使用に対する懸念であり、司教たちは原子力発電所の廃止を求めました。

 今の時代は、技術の進歩を「人間の進歩の尺度にしたい」という誘惑を受けています。進歩と発展のこの「技術主義(テクノクラティックパラダイム)」は、人々の生活と社会の仕組みを形成します。そしてそれは、しばしば私たちの社会のあらゆる領域に影響を与える還元主義につながります(回勅『ラウダート・シ』101-114 参照)。

 したがって、このようなときには、立ち止まり、じっくり考え、振り返ってみることが大切です。私たちは何者なのか、そして、できれば、もっと批判的に、どのような者になりたいのか、を省みるのが大事なのです。

 私たちの後に生まれる人々に、どのような世界を残したいですか。何を遺産としたいですか。お年寄りの知恵と経験が、若い人の熱意とやる気とともに、異なるまなざしを培う助けとなってくれます。命という贈り物を尊ぶ助けとなる眼差しです。さらに、ユニークで、多民族、多文化である人類家族として、私たちの兄弟姉妹との連帯を培うことも助けてくれるのです。

 私たちの共通の家の未来について考えるなら、単に利己的な決断はできないこと、私たちには未来の世代に対して大きな責任があること、に気づかねばなりません。その意味で私たちは、控えめで慎ましい生き方を選択することが求められています。

 それは、向き合うべき緊急事態に気づく生き方です。敏子さん、徳雲さん、全生さんは、未来のための新たな道を見つける必要を私たちに思い出させてくれました。一人ひとり
を大切に、そして自然界を大切にする心に基づく道です。この道において「私たちは皆、神の道具として、神が作られた世界を世話するために、各々の文化や経験、自発性や才能に応じた協力ができるのです」(同 14)。

 愛する兄弟姉妹の皆さん。三重災害後の復興と再建の継続的な仕事においては、多くの手と多くの心を、あたかも一つであるかのように一致させなければなりません。こうして苦しむ被災者は助けを得て、「自分たちは忘れられていない」と知るはずです。多くの人が実際に、確実に、被災者の痛みを共に担っていると、兄弟として助けるために手を差し伸べ続けると、知るでしょう。

 改めて、大げさにではなく、飾らない姿勢で、被災者の重荷を和らげようと尽くしたすべての皆さんに、賛美と感謝を申し上げます。そのような思いやりが、すべての人が未来に希望と安定と安心を得るための、歩むべき道のりとなりますように。ここにお集まりいただきましたことに、改めて感謝します。私のために祈ってください。神様があなたと、あなたの愛する人すべてに、知恵と力と平和という祝福を与えてくださいますように。ありがとうございました。

⑥「孤独の奴隷-霊的貧困との闘いは、皆に課せられた挑戦 」

【青年との集い(東京カテドラル聖マリア大聖堂)2019 年 11 月 25 日、東京】

 愛する若者の皆さん。

 ここに集まってくれてありがとう。皆さんのパワーと熱意を見て、聞いて、喜びと希望がもてました。本当にありがとう。そしてレオナルドさん、未希さん、雅子さん、証言に感謝します。あなた方がしてくれたように、心の中のものを分かち合うのは、大変勇気がいることです。三人の声に、ここにいる多くの仲間も共感したはずです。ありがとう。

 皆さんの中には、他の国から来た若者もいるでしょう。中には、避難して来た方もいることでしょう。さあ、私たちが望む未来の社会を、一緒に作り上げることを学んでいきましょう。

 皆さんを見ると、今日の日本に生きる若者は、文化的および宗教的に多様なことが分かります。それこそが、皆さんの世代が未来にも手渡せる美しさです。皆さんの間にある友情と、この場にいる一人ひとりの存在が、未来はモノトーンではなく、各人による多種多様な貢献によって実現するものだということを、すべての人に思い起こさせてくれます。

 私たち人類家族にとって「皆が同じようになるのではなく、調和と平和のうちに共存すべきだ」と学ぶことが、どれほど必要でしょうか。私たちは、工場の大量生産で作られたのではないのです。誰もが、両親や家族の愛から生まれたのです。だからこそ、皆、異なるのです。誰もが、分かち合うべき、自分の物語を持っているのです。

 翻訳されていないことを話すときは、彼(レンゾ神父)が訳してくれます。いいですか。

 友情を育み、他の人を気にかけ、異なる経験や見方を尊重すること、それがどれほど必要でしょうか。この集いは一つの祭りです。出会いの文化は夢物語ではなく、可能です。
若者の皆さんには、それを実現していく特別な感性があるといっているのです。

 三人が投げかけてくれた質問に感銘を受けました。皆さんの具体的な経験と、将来への希望と夢を映し出しているからです。レオナルドさん。あなたが苦しんだいじめと差別の経験を、分かち合ってくれてありがとう。もっと多くの若者が、あなたのような経験について勇気をもって話すことの大切さに気づくでしょう。

 私が若かったころは、レオナルドさんが話したようなことは決して口にしませんでした。学校でのいじめが本当に残酷なのは、自分自身を受け入れ、人生の新しい挑戦に立ち向かうための力をいちばん必要とするときに、精神と自尊心が傷つけられるからです。いじめの被害者が、「たやすい」標的なのだと自分を責めることも珍しくありません。敗け組だ、弱いのだ、価値がない、そんな気持ちになり、とてつもなく辛い状況に追い込まれてしまいます。「こんな自分じゃなかったなら……」と。

 けれども反対なのです。いじめる側こそ、本当は弱虫です。「他者を傷つけることで、自分のアイデンティティを肯定できる」と考えしまうからです。「自分とは違う」と見なすと、すぐに攻撃します。「違いは脅威だ」と思っているからです。実際は、いじめる人たちこそが怯えていて、「見せかけの強さ」を装うのです。

 これについて――よく聞いてください――自分が他の人を傷つけたくなったり、誰か他の人をいじめようとしていると感じたり、そう見えたりしたなら、その人こそ弱虫なのです。いじめられる側は弱虫ではありません。弱者をいじめる側こそ弱いのです。自分を大きく強く見せたがるからです。「自分は大した存在なのだ」と実感したくて、大きく見せて強がる必要があるのです。

 先ほど(証言の後に教皇がことばをかけた際)レオナルドさんには言いました。「太っていると言われたなら、痩せている君よりはマシだよ」と言ったらいい、と教えました。私たち皆で、この「いじめの文化」に対して力を合わせ、はっきりと言う必要があります。「もうやめよう! 」と。

 この疫病にいちばん効き目のある薬は「皆さん自身」です。学校や大人がこの悲劇を防ぐために尽くす手立てだけでは足りません。皆さんの間で、友人同士で、仲間同士で「絶対だめ」「いじめはだめ」「他の人への攻撃はだめ」と言わねばなりません。「それは間違っている」と言わねばなりません。クラスメートや友人の間でともに「立ち上がる」こと以上に、いじめに対抗する強力な武器はありません。そして言うのです。「あなたがしているのは、『いじめ』は、とてもひどいことだよ」と。

 「いじめ」る人は臆病者です。恐れは、常に善の敵です。愛と平和の敵だからです。優れた宗教は、それぞれの人が実践している宗教はどれも、寛容を教え、調和を教え、慈しみを教えます。宗教は、恐怖、分断、対立を教えません。私たちキリスト者は、弟子たちに「恐れることはない」と言われるイエスに耳を傾けます。どうしてでしょうか。私たちが神とともにおり、神とともに兄弟姉妹を愛するなら、その愛は恐れを締め出すからです(ヨハネの手紙1.4章18節参照)。

 レオナルドさんがはっきりと思い出させてくれたように、イエスの生き方を見ることで、私たちは慰めを得られるのです。イエスご自身も、侮蔑され、拒絶され、さらには十字架につけられる意味まで、知っておられたからです。また、よそ者、避難民、ほかとは「違う」者であるとはどういうことか、も知っておられました。ある意味で-ここでは、キリスト者の人と、そうでない人に向けてお話ししていますが、信仰の手本として理解してくださいーイエスこそ、もっとも「隅に追いやられた人」であり、与えるためのいのちに満ちていた人でした。

 レオナルドさん。自分にないものばかりに目を向けることもできますが、自分が与え、差し出すことのできる人生を見いだすこともできます。世界はあなたを必要としている、それを決して忘れないでください。主は、あなたを必要としています。今日、起き上がるのに手を貸してほしい、と求めている多くの人に、勇気を与えるために、主はあなたを必要としておられるのです。

 人生に役立つことを一つ、皆さんに話したいと思います。人を軽んじ、蔑むとは、上からその人を見下げることです。つまり、自分が上で、相手が下だと。相手を上から下へ見てよい唯一正しい場合は、相手を起き上がらせるために手を貸すときです。私を含め、この中にいる誰かが誰かを軽んじて見下すなら、その人はどうしようもない人です。でも、この中の誰かが、手を差し伸べ、起き上がらせるために、下にいる人を見るのなら、その人は立派です。

 だから、誰かを上から下へ見る時、心に聞いていてください。自分の手はどこにあるか。後ろに隠してあるだろうか。それとも立ち上がらせるために、差し伸べているか、と。そうすれば、幸せになります。

 分かりましたか。いいですか、分かりましたか。分かりませんでしたか。シンとしていますね。

 それには、とても大切なのにあまり評価されていない良いものを育むことが求められます。他者のために時間を割き、耳を傾け、共感し、理解する、という手腕です。それがあ
って初めて、自分のこれまでの人生と傷から私たちを新たにし、周囲の世界を変える愛に向かって進み出せるのです。人のために時間を割かず費やさず、「時間を浮かせ」ても、
多くのことに時間が奪われ、一日が終わると空虚でくらくらしてしまう-私の国では「吐きそうなほどお腹いっぱいに用事を詰め込む」という言い方をします-のです。

 ですから、家族のために時間を取ってください。友人のために時間を取ってください。それだけでなく、神のためにも、祈りと黙想をもって-各自、自分の信仰信条に従って…そうするのが難しい時も祈ってください。あきらめてはいけません。

 かつて、ある思慮深い霊的指導者が言いました。「祈りとは基本的に、ただそこに身を置いているということだ」と。心を落ち着け、神が入ってくるための時間を作り、神に見つめてもらいなさい。神はきっと、あなたを平和で満たしてくださるでしょう。

 これはまさに、未希さんが語ったことです。彼女は、競争力、生産性ばかりが注目される慌ただしい社会で、若者がどのように神のために時間を割くことができるかを尋ねました。人間や共同体、あるいは社会全体でさえ、外的に高度に発展しても、内的生活は貧しく委縮し、熱意も活力も失っていることがよくあります。中身のない、お人形さんのようになるのです。

 すべてに退屈しています。夢を見ない若者がいます。夢を見ない若者は悲惨です。夢を見るための時間も、神が入る余地もなく、ワクワクする余裕もない人は、そうして、豊か
な人生が味わえなくなるのです。笑うこと、楽しむことを忘れた人たちがいます。すごいと思ったり、驚いたりする感性を失った人たちがいます。ゾンビのように心の鼓動が止まってしまった人がいます。

 なぜでしょうか。他者との人生を喜べないからです。聞いてください。あなた方は、幸せになります。他の人と命を祝う力を保ち続けるなら、あなた方は豊かになります。世界に、物質的には豊かでありながらも、孤独に支配されて生きている人がなんと多いことでしょう。私は、繁栄した、しかし顔のない社会の中で、老いも若きも、多くの人が味わっている孤独のことを思います。

 貧しい人々の中でも最も貧しい人々の中で働いていたマザー・テレサは、かつて預言的で、示唆に富んだことを言っています。「孤独と『愛されていない』という思いこそが、最も恐ろしい貧困です」と。

 心に聞いてみたらいいと思います。「自分にとって、最悪と思う貧しさは何だろう。自分にとって一番の貧しさは何だろうか」。正直に気づくでしょう。抱えている最大の貧しさは、孤独であり、「愛されていない」と感じることです。分かりましたか。

 私の話はつまらないですか?(「いいえ」)もう少しで終わります(笑い)。

 この霊的な貧困との闘いは、私たち全員に呼びかけられている挑戦であり、あなた方若者には特別な役割があります。それは私たちの優先事項に、私たちの選択に、大幅な変更を求めるからです。最も重要なことは、何を手にしたか、これから手にできるか、にあるのではなく、それを誰と共有するのか、という問いの中にあると知ることです。この問いを問うことを習慣としてください。「何のために生きているのか」ではなく、「誰のために生きているのか」「誰と人生を共有しているのか」と。

 「何のために生きているか」に焦点を当てて考えるのは、それほど大切ではありません。肝心なのは、「誰のために生きているのか」です。物も大切ですが、人間は欠けてはならない存在です。人間不在なら、私たちは人間らしさを失い、顔も名もない存在になり、結局はただの物、最高級でも、ただの物でしかないのです。いくら最高の品でも、それは単なる物です。

 しかし、私たちは人間なのです。シラ書には「誠実な友は、堅固な避難所。その友を見いだせば、宝を見つけたも同然だ」(6章14節)とあります。だからこそ、次のように問うことが大事なのです。「私は誰のためにあるのか」。あなたが存在しているのは神のためで、それは間違いありません。ですが神はあなたに「他者のためにも存在して欲しい」
と望んでおられます。神はあなたの中に、たくさんのよいもの、好み、賜物、カリスマを置かれましたが、それらはあなたのためというよりも、他者のためなのです」(使徒的勧
告『キリストは生きている』286)。他者と共有するため、ただ生きるのではなく、人生を共有するためです。人生を共有してください。

 そしてこれこそが、あなた方がこの世界に差し出すことのできる、素晴らしいものなのです。若者は、この世界に何かを差し出さなければなりません。社会における友情、あなた方の間の友情の証し人となってください。できるはずです。出会いの文化、受容、友愛、そして一人ひとりの尊厳、とりわけ、もっと愛され理解されることを必要としている人の尊厳に対する敬意に基づいた、未来への希望です。攻撃したり軽蔑したりすることなく、他者のもつ豊かさを評価することを学ぶのです。

 私たちの助けとなる考え方があります。

 身体を生かすには、呼吸しなければなりません。意識せず、行っていることです。誰しも、自動的に呼吸しています。身体的に生きることには、呼吸が必要です。それは、意識せず、自動的にしている行為です。

 でも本当の意味で充実して生きるには、霊的な呼吸を学ぶ必要があります。祈りと黙想を通して、心の動きを通して私たちに語りかける神に、耳を傾けることができます。また、愛のわざ、奉仕のわざによって他者に関わる、外的な運動も必要です。この内的外的な動きによって私たちは成長し、神は私たちを愛しているだけでなく、私たち一人ひとりに使命を、固有の召命を託しているのだと気づきます。その召命は、他者に、それも具体的な人々に自分を差し出すほどに、より明確に見えてくるのです。

 雅子さんは、自身の学生時代と教師としての経験から、そうしたことについて話してくれました。若者が、自分のよさや勇気に気づくには、どのような助けを与えたらよいかを尋ねてくれました。

 もう一度繰り返しますが、成長するには、自分らしさ、自分のよさ、自分の内面の美しさを知るには、鏡を見てもしかたありません。さまざまな発明がありますが、ありがたいことに、まだ「魂の自撮り」はできません。幸せになるには、ほかの人の助けが必要です。写真をだれかに撮ってもらわないといけません。つまり、自分の中にこもらずに、他の人、とくに、最も困窮している人のもとへと出向くことです(同 171 参照)。

 皆さんに一つ言いたいことがあります。自分のことを見過ぎないでください。鏡ばかりを見ないでください。見過ぎて、鏡が割れてしまう危険がありますからね!

  もうすぐ話は終わります。もう時間ですね。

 さて、とくにお願いしたいのは、友情の手を広げて、ひどくつらい目に遭って皆さんの国に避難して来た人々を受け入れることです。数名の難民の方が、ここに私たちと一緒にいます。皆さんがこの人たちを受け入れてくださったことは、証しになります。なぜなら多くの人にとってよそ者である人が、皆さんにとっては兄弟姉妹だからです。

 かつて、賢い教師がいっていました。知恵を得るための鍵は「正しい答えを得ること」よりも「正しい問いを見いだすこと」だと。考えてください。「答えられるだろうか」「
ちゃんと答えられるだろうか」「正解を答えられるだろうか」。

 「はい」と答える方がいれば、まあそれは結構なことです。でも、また別の問いを考えてみてください。「正しい質問をすることができるだろうか」「人生について、自分自身について、他者について、神について、途切れることなく、そうした問いへと導く心があるだろうか」と。この問いに正しい答えを出せたら、試験は合格です。でも、正しい質問がなければ、人生の試験には合格しません。

 皆が雅子さんのように教職に就いているわけではありませんが、皆さんにも、よい問いをもって、自分自身に問いかけてほしいと思います。自らに問い、そしてまた他の人が、人生の意味や、次世代のためによりよい未来をどのように築けるかについて、ふさわしく自らに問えるよう助けてください。

 愛する若者の皆さん。熱心に聞いてくれてありがとう。皆さんが割いてくれたこの時間のすべてに、そして皆さんの人生の一部を共有できたことに感謝します。皆さんの夢を黙殺したり、ぼやかしたりせず、視野を広げ、広い地平を目指すことに熱意を燃やして、待っている未来を見つめ、ともに夢を実現する熱意をもちましょう。日本には若者が必要であり、世界にもまた、自覚をもった、目覚めている若者が必要です。寛大で、明るく、情熱的で、皆のための家を築く力をもった若者を必要としています。

 皆さんが霊的な知恵を育み、正しい質問をすることを覚え、鏡を見るのを忘れ、他者の目を見ることを覚えられるよう、祈ることを約束します。 皆さんと、皆さんのご家族とご友人に、豊かな幸せを願いつつ、私の祝福を送ります。そして私にも、幸せを願い、祝福を送ってくださることを忘れないでください。本当にありがとう!

高度に発展した日本では多くの人が疎外され、平和と安定を失っている」

【東京ドーム 2019 年 11 月 25 日、東京】

 今聞いた福音は、イエスの最初の長い説教の一節です。「山上の説教」と呼ばれているもので、私たちが歩むよう招かれている道の美しさを説いています。聖書によれば、山は、神がご自身を明かされ、ご自身を知らしめる場所です。神はモーセに「私のもとへ登りなさい」(出エジプト 24・1 参照)と仰せになりました。

 その山頂には、主意主義によっても、「出世主義」によっても到達できません。分かれ道で、師なる方に、注意深く、忍耐をもって丁寧にお聞きすることによってだけ、山頂に到達できるのです。山頂は平らになり、周りがすべて見渡せるようになり、そこは絶えず新たな展望を、御父の慈しみを中心とする展望を与えてくれるのです。イエスにこそ、人間とは何かの極みがあり、私たちの考えをことごとく凌駕する充満に至る道が示されています。イエスにおいて、神に愛されている子どもの自由を味わう新しいのちを見いだすのです。

 しかし、私たちはこの道で、子としての自由が窒息し弱まる時があることを知っています。それは、不安と競争心という悪循環に陥る時です。息も切れるほど熱狂的に生産性と消費を追い求めることに、自分の関心や全エネルギーを注ぐ時です。まるでそれが、自分の選択の評価と判断の、また自分は何者か、自分の価値はどれほどかを定めるための、唯一の基準であるかのようにです。そのような判断基準は、大切なことに対して徐々に私たちを無関心、無感覚にし、心を表面的ではかないことがらへと向かうよう、押しやるのです。「何でも生産でき、すべてを支配でき、すべてを操れる」と思い込む熱狂が、どれほど心を抑圧し、縛りつけることでしょう。

 日本は、経済的には高度に発展した社会です。今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、命の意味が分からず、自分の存在の意味を見い出せず、社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました。家庭、学校、共同体は、一人ひとりが支え合い、また、他者を支える場であるべきなのに、利益と効率を追い求める
過剰な競争によって、ますます損なわれています。多くの人が、当惑し不安を感じています。過剰な要求や、平和と安定を奪う数々の不安によって打ちのめされているのです。

 力づける香油のごとく、主の言葉が鳴り響きます。「思い煩うことなく、信頼しなさい」と。主は三度にわたって繰り返して仰せになります。「自分の命のことで思い悩むな、… 明日のことまで思い悩むな(マタイ 6・25、31、34 参照)。これは、周りで起きていることに関心をもつな、と言っているのでも、自分の務めや日々の責任に対していい加減でいろ、と言っているのでもありません。そうではなくて「意味のあるより広い展望に心を開くことを優先し、そこに主と同じ方向に目を向けるための余地を作りなさい」という励ましなのです。

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ 6・33)。主は「食料や衣服といった必需品が大切でない」とおっしゃっているのではありません。私たちの日々の選択について振り返るよう招いておられるのです。何としてでも成功を、しかも命を賭けてまで成功を追求することにとらわれ孤立してしまわないようにです。世俗の姿勢はこの世での己の利益や利潤のみを追い求めます。利己主義は個人の幸せを主張しますが、実は、巧妙に私たちを不幸にし、奴隷にします。そのうえ、真に調和のある人間的な社会の発展を阻むのです。

 孤立し、閉ざされ、息ができずにいる私に抗し得るのは、分かち合い、祝い合い、交わる私たち。これしかありません(「一般謁見講話(2019 年 2 月 13 日)」参照)。主
のこの招きは、私たちに次のことを思い出させてくれます。「必要なのは、『私たちの現実は与えられたものであり、この自由さえも恵みとして受け取ったものだ』ということ
を、歓喜のうちに認めることです。それは今日の、自分のものは自力で獲得するとか、自らの発意と自由意志の結果だと思い込む世界では難しいことです』」(使徒的勧告『喜びに喜べ』55)。

 それゆえ、第一朗読において、聖書は私たちに思い起こさせます。命と美に満ちているこの世界は、何よりも、私たちに立って存在される創造主からの素晴らしい贈り物であることを。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それはきわめてよかった」(創世記 1・31)。与えられた美と善は、それを分かち合い、他者に差し出すためのものです。私たちはこの世界の主人でも所有者でもなく、あの創造的な夢にあずかる者なのです。「私たちが、自分たち自身の命を真に気遣い、自然との関わりを真に気遣うことは、友愛、正義、他者への誠実と不可分の関係にある」(回勅『ラウダート・シ』70)のです。

 この現実を前に、キリスト者の共同体として、私たちは、すべての命を守り、証しするよう招かれています。知恵と勇気をもって、無償性と思いやり、寛大さと素直に耳を傾ける姿勢、それらに特徴づけられる証しです。それは、実際に目前にある命を抱擁し、受け入れる態度です。「そこにあるもろさ、さもしさをそっくりそのまま、そして少なからず見られる、矛盾やくだらなさをもすべてそのまま」(「ワールドユースデーパナマ大会の前晩の祈りでの講話(2019 年 1 月 26 日」)引き受けるのです。

 私たちは、この教えを推し進める共同体となるよう招かれています。つまり、「完全でもなく、純粋でも洗練されてもいなくても、愛をかけるに値しないと思ったとしても、まるごとすべてを受け入れるのです。障害をもつ人や弱い人は、愛するに値しないのですか。よそから来た人、間違いを犯した人、病気の人、牢にいる人は、愛するに値しないのですか。イエスは、重い皮膚病の人、目の見えない人、からだの不自由な人を抱きしめました。ファリサイ派の人や罪人をその腕で包んでくださいました。十字架にかけられた盗人すらも腕に抱き、ご自分を十字架刑に処した人々さえも赦されたのです」(同)。

 命の福音を告げるということは、共同体として私たちを駆り立て、私たちに強く求めます。それは、傷の癒しと、和解と赦しの道を、常に差し出す準備のある「野戦病院」となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる慈しみという基準です。

 善意あるすべての人と、また、異なる宗教を信じる人々と、絶えざる協力と対話を重ねつつ、主に結ばれるなら、私たちは、すべての命を、よりいっそう守り、世話する、
社会の預言的パン種となれるでしょう。

「原爆の悲劇阻止へ必要なあらゆる仲介を推進して」

【政府および外交団との懇談 2019 年 11 月 25 日、首相官邸大ホール】

内閣総理大臣閣下、政府高官の皆様、外交団の皆様、お集まりの皆様、

 まず総理大臣閣下の歓迎のお言葉に感謝申し上げます。そして政府高官の皆様と外交団の皆様に、謹んでごあいさつ申し上げます。皆様はそれぞれのお立場において、平和のた
めに、そしてこの崇高な日本という国の人々、および皆様が代表される国々の民の発展のために尽力されていらっしゃいます。私は今朝、天皇陛下にお会いできたことに大変感謝
しております。この新しい(令和という)時代の始まりにあたって、天皇陛下のこれからのご活躍を願い、皇族の皆様、とりわけすべての日本国民に、神の祝福をお祈りします。

 バチカン市国と日本の友好関係の歴史は古く、貴国を最初に訪れた宣教師たちが日本に対して抱いた認識と賞賛に根ざすものです。1579 年にイエズス会士のアレッサンドロ・ヴァリニャーノが書き残した「私たちの神が人間に何を与えたかを見たければ、日本に来て、見ればよい」という言葉を思い起こすだけで十分です。歴史的に両国間の交流の機会
は多く、その関係を深めてきた文化的、外交的使節の往来があったおかげで、大きな緊張や困難も乗り越えることができたのです。このような交流は両国にとって、政府レベルにおいても有益なものとなりました。

 私は、日本のカトリック信者の信仰をさらに揺るぎないものとするために来ました。貧しい人に対する愛のわざを、また国民であることに誇りをもつ国に尽くす姿を確認しま
した。国家として日本は、不遇にある人や障害をもつ人の苦悩に対しとりわけ敏感です。今回の訪問のテーマは、「すべてのいのちを守るため」です。これは、すべての命がもつ
不可侵の尊厳と、あらゆる苦難の中にいる兄弟姉妹に連帯と支援を示すことの大切さを認識するということです。

 これに関し衝撃を受けたのは、(東日本大震災で)三重の災害に遭われた方々のお話をうかがった時でした。被災者の皆様が大変な経験をされ、それによって今も困難な状況におられることに深く心を痛めています。

 前任の教皇たちの足跡に従って、神に切に願うとともに、すべての善意ある人に呼びかけます。人類の歴史において、広島と長崎に投下された原爆によってもたらされた破壊が二度と繰り返されないよう、阻止するために必要なあらゆる仲介を推し進めてください。民族間、国家間の紛争は、その最も深刻な場合においてさえ、対話によってのみ有効な解決を見いだせること、そして対話こそ、人間にとって唯一ふさわしく、恒久的平和を保証しうる手段だ、ということを歴史は教えています。核の問題は、多国間のレベルで取り組むべきものだと確信しています。すなわち、政治的・制度的プロセスを促進することで、コンセンサスとより広範な国際的行動を創造することができるからです。

 出会いと対話の文化-これは見識と展望と広い視野があって成り立つものです-こそが、より正義と友愛に満ちた世界を建設するために重要なのです。日本は、教育、文化、ス
ポーツ、観光の分野において、人と人との交流を促進する重要性を理解してきました。それが、平和という建物を強固にする、調和、正義、連帯、和解に大いに貢献することをご存じだからです。

 その際立った例を、オリンピックの精神に見ることができます。世界中からアスリートが競技に参加しますが、それは、敵対心にではなく、最高のパフォーマンスの追求に基づいてのことです。私は来年日本で開催されるオリンピックとパラリンピックが、国や地域を越えて、家族であるわたしたち人類全体の幸せを求める、連帯の精神を育む推進力になると確信しています。

 この数日間に、何世紀にもわたる歴史の中で育まれ、大切にされてきた日本の素晴らしい文化遺産と、日本古来の文化を特徴づける宗教的、倫理的な優れた価値に、改めて感銘を受けました。異なる宗教間のよい関係は、平和な未来のために不可欠なだけでなく、現在と未来の世代が、真に公正で人間らしい社会の基盤となる道徳規範の大切さを認められるよう導くために重要なのです。

 今年 2 月にアル・ハズハルの大イマームとともに署名した「世界平和と共存のための人類の友愛に関する文書」の中で、私たちは、家族である人類の将来のために共有する課題に促され、「対話の文化を、とるべき態度として協働を、方法・基準として相互認識を採択」しました。

 日本を訪れる人は誰しも、この国の自然の美しさに感嘆します。この自然の美しさは、何世紀もの間、詩人や芸術家によって表現され、とくに桜の花の姿に象徴されてきました。しかしながら、桜の花のはかなさに、私たちの共通の家である地球の脆弱さも想起するのです。地球は自然災害だけでなく、人間の手によって貪欲に搾取されることによっても破壊されているのです。

 国際社会が被造物を守る使命を果たすのは困難だとみなすとき、ますます声を上げ、勇気ある決断を迫るのは若者たちです。若者たちは、地球を搾取のための所有物としてではなく、次の世代に手渡すべき貴重な遺産として見るよう、私たちに迫るのです。私たちは「彼らに対し、空しい言葉によってではなく、誠実に応えなければなりません。まやかしではなく、事実によって応えるのです」(2019 年「被造物を大切にする世界祈願日」教皇メッセージ 2)。

 この点において、私たちの地球を保全するための統合的アプローチは、ヒューマン・エコロジーをも考慮しなければなりません。保全のための責任ある取り組みは、広がりつつ
ある貧富の格差、すなわちグローバルな経済システムにおいて、特権的なごく少数の人が甚だしい富に浴している一方で、世界の大半の人は貧困にあえいでいる、という事実に立ち向かうことを意味します。

 これについて、日本政府がさまざまなプログラムを促進しておられることを存じております。国家間の協働責任の意識を高める啓発を続けてくださるよう励まします。人間の尊厳は、社会的、経済的、政治的活動、それらすべての中心になければなりません。世代間の連帯を促進する必要があり、社会生活においてどのような立場にあっても、忘れられ、排除されている人々に思いを寄せなければなりません。

 私は、とくに若者たちのことを考えます。彼らは成長過程でのさまざまな困難に直面して、押しつぶされそうに感じてしまうことも少なくありません。同様に、高齢者や、孤独に苦しむ孤立した人のことも考えます。結局のところ、各国、各民族の文明というものは、その経済力によってではなく、困窮する人にどれだけ心を砕いているか、そして、いのちをはぐくみ豊かにする能力があるかによって測られるものなのです。

 訪日が終わろうとする今、今回ご招待を受けたことに、そして心からのおもてなしを受けたことに、またこのおもてなしがうまく運ぶように尽力してくださったすべてのかたがたの寛容さに、改めて感謝いたします。このような思いをお伝えすることで、これから皆様の努力によって、よりいっそう生命を守り、人類家族すべての尊厳と権利をいっそう尊重する社会秩序が形成されますよう、応援したいと思います。皆様と皆様のご家族、そして国民の皆様に対し、神の祝福が豊かにありますよう祈ります。
ありがとうございます。

「『偽りや欺瞞の言葉・行動』の現代に、誠実さにおいて知られる者となれ」

【上智大学訪問 2019 年 11 月 26 日、東京】

 愛する兄弟姉妹の皆さん。

 私の教皇としての日本司牧訪問の最後に、貴国を発ってローマに戻る前の少しの時間を皆さんとともに過ごせることを大変うれしく思います。

 この国での滞在は短いものでしたが、大変密度の濃いものでした。神と、日本のすべての人々に、この国を訪れる機会をいただいたことを感謝します。日本は、聖フランシスコ・ザビエルの人生に多大な影響を与えた国であり、多くの殉教者がキリスト教信仰を証した国です。キリスト教信者は少数派ですが、存在感があります。

 私身、カトリック教会に対して一般市民がもつ好意的評価を目にしましたが、こうした互いの敬意が、将来において深まっていくことを期待します。また、日本社会は効率性と秩序によって特徴づけられていますが、一方で、何かそれ以上のものを望み、探しているように見受けられます。よりいっそう人間らしく、もっと思いやりのある、もっと慈しみに満ちた社会を創り出したい、という熱い望みを感じます。

 学問と思索は、すべての文化にあるものですが、皆さんの日本文化はこの点において、長い歴史に育まれた豊かな遺産として誇るべきものです。日本はアジア全体としての思
想とさまざまな宗教を融合し、独自の明確なアイデンティティをもつ文化を創り出すことができました。聖フランシスコ・ザビエルが深く感銘を受けた足利学校は、さまざまな見聞から得られる知識を吸収し伝播する、という日本文化の力を示す好例です。

 学問、思索、研究にあたる教育機関は、現代文化においても重要な役割を果たし続けています。それゆえ、よりよい未来のために、その自主性と自由を保ち続けることが必要です。大学が未来の指導者を教育する中心的な場であり続けるとしたら、そこでは、及ぶかぎり広い範囲における知識と文化が、教育機関のあらゆる側面が、いっそう包摂的で、機会と社会進出の可能性を創出するものになるような着想を与えるものでなければなりません。

 ソフィア(上智)。人間は自らの資質を建設的かつ効率的に管理するために、真のソフィア、真の叡智なるものを常に必要としてきました。あまりにも競争と技術革新に方向づけられた社会において、上智大学は単に知的教育の場であるだけでなく、よりよい社会と希望にあふれた未来を形成していくための場となるべきです。

 そして、回勅『ラウダー・トシ』の精神で、自然への愛についても加えたいと思います。自然への愛は、アジアの文化に特徴的なものです。ここに、私たちの共通の家である地球の保護に向けられる、知的かつ先見的な懸念を表現すべきでしょう。その懸念は、技術主義(テクノクラティックパラダイム)の一部である還元主義的な企て全体を掘り下げ、疑問視できる、新たなエピステーメーの促進と結びつきうるものです(同 106-114 参照)。

 見失わないでください。「真正な人間性は、閉じた扉の下からそっと入り込む霧のように、ほとんど気づかれないながらも、新たな総合へと招きつつ、テクノロジー文化のただ中に住まっているようです。真正なものの粘り強い抵抗が生まれるのですから、いろいろなことがあったとしても、期待し続けることはできるのではないでしょうか」(同 12)。

 上智大学は常に「ヒューマニズム的」「キリスト教的」「国際的」というアイデンティティによって知られてきました。創立当初から、さまざまな国の出身の教師の存在によって豊かにされてきました。時には対立関係にある国々からの出身者さえいました。しかしながら、すべての教師たちが、日本の若者たちに最高のものを与えたいという願いによって結ばれていたのです。

 まさにこれと同じ精神が、皆さんが日本と国外で、最も困っている人々を支援している様々な形の中に脈々と続いています。皆さんの大学のアイデンティティのこのような側面がいっそう強化され、今日のテクノロジーの大いなる進歩が、より人間的かつより公正で、環境に責任ある教育に役立つものとなると確信しています。

 上智大学が礎を置く聖イグナチオの伝統に基づき、教員と学生が等しく思索と識別の力を深めていく環境を作り出すよう、推進していかなければなりません。この大学の学生の中に、何が最善なのか、ということを意識的に理解したうえで、責任をもって、自由に選択する方法を習得せずに卒業する人がいてはなりません。

 それぞれの状況において、たとえそれがどんなに複雑なものであったとしても、己の行動においては、公正で人間的であり、手本となるような責任あることに関心をもつ者となってください。そして、決然と弱者を擁護する者と、言葉と行動が偽りや欺瞞であることが少なくないこの時代にあって、まさに必要とされるそうした誠実さにおいて知られる者となってください。

 イエズス会が計画した「使徒の世界的優先課題」は、若者に寄り添うことが、世界中で重要な現実であることを明確にし、イエズス会のすべての教育機関が、こうした同伴を促進すべきとしています。若者をテーマとしたシノドス(世界代表司教会議)と関連文書が示しているように、教会全体が、世界中の若者たちを、希望と関心をもって見つめています。皆さんの大学全体で、若者たちが単に準備された教育の受け手となるのではなく、若者たち自身もその教育の一翼を担い、自分たちのアイデアを提供し、未来のための展望や希望を分かち合うことに注力すべきです。皆さんの大学が、このような相互のやり取りのモデルを示し、そこから生み出される豊かさと活力によって知られる存在となりますように。

 上智大学のキリスト教とヒューマニズムの伝統は、すでに述べたもう一つの優先事項と完全に一致します。すなわち、現代世界において貧しい人や隅に追いやられた人とともに歩むことです。自らの使命に基軸を置く上智大学は、社会的にも文化的にも異なると考えられているものをつなぎ合わせる場となることにつねに開かれているべきです。そうすれば、格差を縮め、隔たりを減らすことに寄与する教育スタイルを推進しうる状況を追求しつつ、隅に追いやられた人々が大学のカリキュラム

に創造的に巻き込まれ、組み入れられるでしょう。

 良質な大学での勉学は、ごく少数の人の特権とされるのではなく、公正と共通善に奉仕する者という自覚がそこに伴われるべきです。そ

れは、各自が働くよう課された分野で、各自が果たす奉仕なのです。私たち全員にとっての大義であり、ペトロがパウロに与えた今日でも明白な助言です。「貧しい人たちのことを忘れてはいけません」(ガラテヤ 2・
10 参照)。

 上智大学の愛する若者、愛する教員、愛する職員の皆さん。このような私の考えと、今日の私たちの集いが、皆さんの人生とこの学びやの今後において、実を結びますように。主なる神とその教会は、皆さんが神の叡智を求め、見いだし、広め、今日の社会に喜びと希望をもたらす、その使命に加わるよう期待しています。どうぞ、私のため、そして私たちの助けを必要としているすべての人のために、祈ることを忘れないでください。

 最後に、いよいよこうして日本を離れるに際し、皆さんに感謝します。そして皆さんを通して、すべての日本の人に、私の訪問中にくださった心のこもった温かい歓迎に感謝い
たします。私の胸の中に、祈りの中に、皆さんがおられることを約束します。

 

(表記を「カトリック・あい」の表記に変え、読みやすくしてあります)

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2019年12月1日