・司教に肩書や”飾り”は必要かーコロナで亡くなったフィリピンの名誉大司教の言葉(LaCroix)

 「洗礼だけが私たちに至高の品格を与える、それは神格そのものだ」

(2020.9.10 LaCroix  David M. Knight)

 フィリピンのオスカーV.クルス名誉大司教が8月26日、新型コロナウイルス感染による多臓器不全で85年の人生を終えた。

 10年前に彼のブログーOVCRUZ、JCDーを見つけた時、私は、”司教たちの尊大な肩書”について彼が当時出版した著書に、どれほどの信頼性があるのか、分からなかった。

 クルス名誉大司教は、かつてフィリピン司教協議会の会長を務め、アジア司教協議会連盟の議長も務めていた。彼の葬儀では、彼のことがこのように語られたー「説教台に立っているだけでなく、戦う活動家だった。違法なギャンブルと売春に反対する我々の運動に加わり、社会正義と女性の権利を守ろうとする、聖人… 世界と教会を愛するがゆえに怒り、物事のあり方に怒り… それは、希望から生まれた怒りだった」と。

 百聞は一見に如かず。大司教の写真を見てもらいたい。2008年2月27日、フィリピンのマニラでの記者会見で、汚職を糾弾している場面だ。(EPA / ROLEX DELA PENA / MaxPPP)

 名誉大司教は自身のブログで、読者たちにこう問いかけたことがあったー「どの司祭も司教になった瞬間に英語表記では名前に『D.D.』が付く。これは『Doctor of Divinity(神学博士)』の略称ですが、この肩書は、本当にその通りの意味なのでしょうか?そもそも博士号というのは何なのでしょうか?」と。

*仮面舞踏会の衣装と同じような…

 彼自身の答えは、「この肩書が単なる名誉称号で、自動的に授与される場合は、それはほとんど神聖を汚すものです。だが、それが本当の意味を持たせる形で、意図されて授与される場合、『D.D.』というイニシャルは嘘になります」だった。そして、次のように書いている。

 一般の人は、その肩書は、司教が大学で博士号を取得し、学位を授与されか、あるいは少なくとも名誉博士号を授与されたことを示している、と考えるだろう。

 だが、本当は、全くそのようなのことではない。大半の司教たちは神学校で一学期も神学(の博士課程)を学ばず、まして大学から神学博士の学位を受けたことはないのだ。

   現在の聖職者の肩書と祭服はすべて、仮面舞踏会の衣装と同じようにまがい物。それにふさわしい名前を付けるべきだ。『聖職者主義』と呼ばれる酷くゆがんだ姿、教皇フランシスコが「聖霊が私たちの人々の心に注ぐ洗礼の恵みを損ない、価値を落とすような振る舞い」と非難されるものだ。

 「すべての権力には腐敗する傾向がある。絶対的な権力は絶対に腐敗する」という有名な格言を残した英国の歴史家、思想家、政治家、ジョン・ダルバーグ・アクトン(1834~1902)は、1887年にマンデル・クライトン司教にあてに同じ手紙に次のように書いている。「権力の所持者を公けに聖別することほど、酷く”異端”的なことはない」と。

 私たちは、この言葉を、「一般信徒が洗礼を受けることで、叙階された聖職者と対等でない、ということほど酷く”異端”的なことはない」、あるいは「叙階された聖職者のReverends, Very Reverends and Most Reverendsというようなランク分けは、『至高の尊厳ー神格そのものーを人に与えるのは、洗礼のみ」という真理と全く矛盾している」と、言い換えることができるだろう。

*司教の肩書についての6つの問い

 私は、世界の司教たちに次のような6つの質問をしたいと思うのだが、現実には無理なので、この記事をお読みになった方々に、ご自分の司教に、答えをお聞きになることをお勧めする。

1.これらの肩書が最初に教会で使われたのはいつか?イエスの使徒たちが生きている間でなかったことは確かだ。

2.なぜ使われるようになったのか?そうする宗教的、あるいは霊的な動機があったのか、今のあるのか?

3.肩書を使うことが、聖職者と一般信徒の両方にある教会のイメージにどのような影響を与えているのか?

4.イエスはこれらの肩書について福音書のどこで語っているのか?

5肩書は、どれほど重要なものなのか?そのわずかな単語に関心を抱きすぎではないのか?実際には何にも影響を与えない「うわべだけ」のものではないのか?

6.今日、教会でこうした肩書を使い続けたい、または止めたいと思っているのは誰で、その理由は何か。私たちが真似たいライフスタイルを持っている人か?

*自分自身はこう答える

 私がが考える答えは次のようなものだ。

 1.肩書がいつ生まれたか?ーローマ皇帝、コンスタンティヌスが教会を統治機構の一部とし、司教に世俗的な地位を与えた後、と見るのか適当だろう。

 2.なぜ使われるようになったのか?ーまず推測されるのは、単に、ローマ帝国の宮廷の儀典を真似た、ということだ。イエスの教えと模範に反するような動機を、誰が創造することができるだろう。もしも、軍隊のように、肩書が教会の権威に対する従順さを高めるとすれば、肩書を用いることが、信仰を基礎に置いた動機を妨げる目的のために、このような世俗的な手段を使うことを意味することはないのか?

 もしも、私たちが「timor reverentialis(畏敬の念)」ー彼らの祭服と肩書が作り出すものーから司教たちに敬意を払い、従うのだとすると、私たちは、どのようにして、その中に神の働きを意識するのだろうか。

 3.肩書が教会のイメージに与える影響は?ー教会に階級意識があることを示しているのか?思い上がり?ある者を他の者よりも”高い水準にある”とすることで、聖職者の間に分裂を引き起こすことはないのか?

 種々の肩書は、聖職者が平等の兄弟ではないことを明確にするものだ。(英語表記の場合)聖職者の肩書には、 “Most Reverends,”  “Very Reverends”そして、単なる “Reverends”があるが、そうした区別は、司祭からも、助祭や一般信徒からも明確に認識されている。これはイエスが望まれた結果なのか、果たして、司教たちが望んでいることなのか?

 

*イエスは肩書について、どう語っているか?

 4.イエスは肩書きについてどこで、どのように語っているのか?マタイ福音書23章2節以降でイエスは弟子たちにこう語っている。

 「律法学者たちやファリサイ派の人々は… 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む」「だが、あなた方は『先生』と呼ばれてはならない。あなた方の師は一人だけで、後は皆、兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなた方の父は天の父お1人だけだ」「『教師』と呼ばれてもいけない。あなた方の教師はキリスト1人だけである。あなた方のうちで一番偉い人は、仕える者になりなさい。誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」

 今の教会では、英語などの表記で、司教に対して「Excellency」や「Most Reverend」、枢機卿に対して「Eminence」などの”尊称”が使われているが、これがイエスの言葉に反している、と正直に言える人はいるだろうか?

 カトリックの信徒たち、とくに高位聖職者たちが、「このような慣行は、あなた方が承知の上で、故意に、そしてはっきりと、このイエスの言葉とその教えの真髄に反したものだ」と批判された時に、慣行を弁護することが、私たちにできるだろうか?

 教会のこのような位階は、マルコ福音書9章33節で、イエスが弟子たちに「道で何を論じ合っていたのか」とお尋ねになった時のことを思い起こさせる。マルコは「彼らは黙っていた。道々、誰が一番偉いか、と言い合っていたからである」と書いている。そして、イエスは座って、十二人を呼び寄せ、「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と忠告されている。

 もしイエスが、肩書を好む人たちが考えているような考えであったら、こう言われるだろう。

 「論じ合うことはない。あなた方は皆、誰が偉いか、偉くないかをはっきり分かっている。私の普通の信徒たちよりも偉いことを示すために、全員が”Reverend”という肩書を付ける」

 「だが、あなた方の中に、他の者よりも高い職務にあることを示すために、”Very Reverend”と呼ばれるだろう。そして、司教として地方教会を担当する者は、他の皆よりも偉いから、”Most Reverend”と呼ばれるだろう」

 「あなた方の間に分裂が起きないように。あなた方の一致は、あなた方の教会を『位階的な教会』とする明確な不平等の受容を基礎に置くことになるだろう」 

 「偉くなりたい人は、もっと重要な職務に就くように努めることができる。そして、それを手に入れた時、あなたの肩書は、立っている場所を正確に教えてくれるだろう」と。

*その言葉をよく注意せよ!

 このような言葉を、イエスが語ったように述べるのは、ショッキングで、冒涜的でさえあるかも知れない。だが、教会の約束事が私たちに告げているのは、まさにこういうこと。否定することはできない。そしてそれは、人々の心に教会のイメージを植え付けるために、イエスのすべての言葉と神学者の教えを合わせたものよりも、多くのことをしている。

 だが、そうした肩書がどれほど重要なのか?何の重要な影響力もない、単なる「うわべだけ」のものではないのか?

 女性解放運動は、私たちに何も教えなかったのか? 私たちが女性を認識する仕方に影響を与えてきた「見境なく女性を男性と区別する”男っぽい”言葉を使う」という何世紀にもわたる慣習のように、「性差別語」の廃止が日常化するまで、女性たちは、抗議の声を上げ続けた。英語の言葉にいつくかの小さな変更をもたらすために、バリケードを張るのは価値があると考えた。

 ずいぶん昔のこととして私の記憶にあるのは、黒人を表現する”N”で始まる言葉や何度も口に出せない言葉を、礼儀正しい社会でさえ、受け入れていたことだ。現在では、そうした言葉を恐怖を感ぜずに使うことはできないし、公務員がそうした言葉を使ったら、解雇されるだろう。

 教会では言葉は重要ではない、と私たちはまだ言い続るのだろうか?

*肩書を持ちたい人とそうでない人

 今日の教会の誰が、本当にこれらの肩書を持ち続けたいのか、誰がそれを変えたいのか?

 教皇フランシスコは、”肩書維持派”に反対のようだ。彼はご自分の回勅に「Franciscus」とだけ署名している。ローマの司祭たちへの手紙の最後に「Fraternally, Francis」とだけ書いている。

 今から半世紀余り前、カナダ・モントリオール大司教だったポール=エミールレジェ枢機卿は、第2バチカン公会議で次のことを検討するよう提案した。

 「私たち司教ががしばしば自分の意に反して使用し、司牧に有害な記章や装身具、肩書に関する一連の規制の導入… 古代からの豪華な飾り物の継続的な使用は、福音の精神の障害になる(と考えられるからだ)」

 豪華な飾り物は、恐らく、司教たちが世俗的な権利を持っている時にも必要と考えられていたのだろう。だが、私たちの現代では… そのような飾り物は社会生活の通常のあり方に、合わなくなっており、時代の精神と一致しない(「第二バチカン公会議における演説集」(114~115ページ)1964年 Paulist Press刊)。

 公会議が閉幕する数日前、40人の司教たちが、ローマの聖ドミティラのカタコンベ(地下墓地)でミサを捧げた後、「カタコンベの誓約」に署名し、「兄弟司教」を名乗り、「貧困の生活」を送ること、権力を象徴するものとその特権を放棄することを誓い合った。

 13の具体的な誓いのうちの2つは次のようなものだった。

 「私たちは、偉大さや権力を表わそうとする名称や肩書 (Your Eminence, Your Excellency, Monsignor …)で、 演説や書き物で自分が呼ばれるのではなく、福音書にある「父」と呼ばれたい(マタイ福音書20章25~28節、23章6~11節、ヨハネ福音書13章12~15節参照)」

 「私たちが自分の教区に戻って、この誓約を教区司祭たちに示し、理解と協力、祈りを願う。神は私たちが忠実であるように助けてくださる」

 イエスは、十字架につけられる前に、「すべての人を一つにしてください」と父に祈られた。父と子と聖霊が一つだからだ(ヨハネ福音書17章21節)。父と子と聖霊が一つであるように、私たちが一つになるためには、すべてのキリスト教徒が尊厳に置いて平等であり、他者よりも優れたものに取り巻かれないに注意する必要がある。

 先に渡した提起した6つの質問に対する答えは1つしかない、と私は思っている。

 福音書でパウロは、「互いにこのことを心掛けなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。キリストは神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の形を取り、人間と同じものになられました」(フィリピの信徒への手紙2章5~7節)と語っている。

 

David M. Knight=米国のカトリック、メンフィス教区の主任司祭。洗礼の5つの神秘に基礎を置く霊的成長を確信する運動「Immersed in Christ」の指導者でもある。元イエズス会士で、神学博士号、19か国で50年にわたる宣教活動を経験し、40冊の著作がある。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

LA CROIX international is the premier online Catholic daily providing unique quality content about topics that matter in the world such as politics, society, religion, culture, education and ethics. for post-Vatican II Catholics and those who are passionate about how the living Christian tradition engages, shapes and makes sense of the burning issues of the day in our rapidly changing world. Inspired by the reforming vision of the Second Vatican Council, LCI offers news, commentary and analysis on the Church in the World and the world of the Church. LA CROIX is Europe’s pre-eminent Catholic daily providing quality journalism on world events, politics, science, culture, technology, economy and much more. La CROIX which first appeared as a daily newspaper in 1883 is a highly respected and world leading, independent Catholic daily.

このエントリーをはてなブックマークに追加
2020年9月12日