(2020.8.26 Vatican News)
カトリック教会の歴史で最短の在位に終わった教皇の1人が、20世紀を生きたもう一人の聖人教皇となるだろうーヨハネ・パウロ1世が聖ペトロの座におられたのは34日に過ぎなかった。だが、その短い教皇在位の期間だけでなく、その前の何十年もの司祭、そして司教としての、信仰の証しは、今に至るまで、国境を越え、世界中の教会ではっきりと受け止められている。
ベニス大司教だったアルビノ・ルチアーニ枢機卿が1978年8月に行われた教皇選挙で、26日の4回目の投票で教皇に選ばれ、前々任のヨハネ23世、前任のパウロ6世に二人に敬意を表して「ヨハネ・パウロ」という名を冠することになったのは、42年前のことだ。第二バチカン公会議を招集されたヨハネ23世は、彼をヴィットーリオ・ヴェネトの司教に任命し、公会議を引き継いだパウロ6世は彼をベニス大司教とし、枢機卿に任命していた。
*「ほほえみの教皇」の内に秘めた力
ヨハネ・パウロ1世は、1か月足らずの教皇在位で、マスコミから「ほほえみ教皇」という愛称をつけられた。だが、それが示した「穏やかな性格」が、霊的な明晰さと司牧への活力の欠如を示すものではないことを、すぐに世界は知るようになった。彼の第二バチカン公会議での振る舞いと業績に、既にそれが表れていたのだ。
*公会議に”普遍教会”の息吹を感じた
第二バチカン公会議の分科会で、未来の教皇は”普遍教会”を強く体験した。1963年に自分の教区の信徒たちにあてた手紙にこう書いていた。「公会議の議場で、私の目の前の階段に目を上げるだけで十分です… そこには、現地で宣教する司教たちのひげ、アフリカ人の黒い顔、突き出たアジア人の頬骨… そして、彼らといくつかの言葉を交わすことで十分。将来への展望と今求められていることが、明らかになります… 私たちはそれについて名案がないことも」。
言い換えれば、彼は、公会議に”キリスト教的楽観主義”の息吹を感じ、それが、相対主義的な文化についての”広範な悲観主義”に対して、公会議の果実となることを約束するものだったのだ。
*列聖調査の最終段階、奇跡の有無の判断
ヨハネ・パウロ1世を列聖する動きは2003年に始まっている。ベニス大司教区での3年間の調査を経て、報告書が2006年にバチカンに提出され、担当の列聖省による関係者の証言と関係書類の綿密な調査・検討で、2017年11月に結論が出された。現在は、聖人と認めるのに必要な「奇跡」についての調査が行われている。具体的には、アルゼンチンのブエノスアイレス大司教区で起きた「ヨハネ・パウロ1世の執り成しによる特別の癒し」についてだ。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)