・「時間のかかる取り組みに」ートービン枢機卿が教皇の” synodalityの旅”で寄稿(LaCroix)

(2021.5.29 La Croix United States Cardinal Joseph W. Tobin |)

   教皇フランシスコの教皇職の行動計画は、たとえ初めからはっきりしていたとしても、在位が長くなればなるほど、一段と鮮明になってきている。次の例を見てもらいたい。

 教皇に就任された2013 年に登場した教皇選出の風刺漫画は、宇宙から地球を見たように描かれ、教皇フランシスコが極点の 1 つに巨人のように立ち、彼の出身地である南米大陸が際立っていた。視覚効果を高めるために、作者のデビッド ホージーは、やや”預言的”な手法をとった。地球をひっくり返しに描き、教皇がその最上部の南極に立っているのだ。

 要するに、フランシスコの教皇就任で「世界がひっくり返った」というわけだ。この漫画が描かれたのは、米国の大統領にドナルド・トランプ氏が選出され、世界中が大きく動揺する3年前、チリや米国のニューアーク市のような所で聖職者の性的虐待問題が再燃する5年前、さらに、現在の新型コロナウイルスの世界的大感染が始まる7年前のこと。つまり、2013年以降、私たちは何度も、世界がひっくり返るような大事件を体験して来た。

 だが、これらの大事件はまた、「神はなぜ、地球の南部の辺境から、フランシスコの様な羊飼いを、私たちにお届けになったのか」、その理由をはっきりさせている。

 2013年の初め、私たちは、カトリック教会にとっての主要課題は、制度的な改革に関するものだと考え、新教皇を、「教皇絶対主義の乗組員を督励してまとめ上げ、カトリック教会を元のコースに戻すことのできる”よそ者”の登場」と受け止めていた。

 3年後の2016年、トランプ米大統領、ドゥテルテ・フィリピン大統領をはじめとする煽動政治家が権力の座に就くに至って、かつてアルゼンチンで起きた軍事独裁政権による恐怖政治を身をもって体験した教皇フランシスコが、このような暗黒の、残忍な世界観に代わるものを預言的に提起する可能性のあることを、私たちは、はっきりとさとった。

 フランシスコは、独裁者たちとの便宜的な同盟が必ず、涙、死、そして福音の本質の喪失で終わってきた、と私たちに警告することができた。さらに、2018年、聖職者による性的虐待問題が世界各地で再燃した時、私たちは教皇を改革者のレンズを通して見ようとしたが、ご自身は、単に組織の管理運営の役割に留まらない、ずっと重い役割を追っていることを明確に認識されていた。

 そして、新型コロナウイルスの大感染が地球の動きを止めた時、私たちは白い服を着た男ー教皇フランシスコーが、雨に濡れた誰もいないサンピエトロ広場を 1歩き、中央の壇上に一人座って、神に憐れみと救いを求められている姿を中継を通して見つめ、心に刻んだ。

*霊的交わり、参加、宣教

 旅を長く、遠くすればするほど、出会いの機会が増え、物事が明確になる。だが、ローマの司教と神の民が共に歩むこの旅の中で現れ続けるいくつかの言葉ー慈悲、喜び、識別、形成、対話ーの中で、最も誤解されているのは「synodality」だ。

 今では、「synodality」は教皇職と密接に関連する言葉になっている。教皇フランシスコは、中央集権的でない、共同かつ協議による意思決定を特徴とする教会ー西洋のトップダウン方式のローマ的位階構造よりも、東洋の教会の水平構造に親和性のある教会ーを求め続けておられる。

 教皇フランシスコは就任からこれまで8 年の間に、世界の教会の代表者たちの会議を5つ招集されている。なかでも、「家庭」をテーマにした世界代表司教会議(シノドス)は2014、2015両年に二回開かれ、その成果をもとに使徒的勧告「(家庭における)愛の喜http://radiko.jp/び」を発出された。 2018年の「若者」をテーマにしたシノドスでは、悩み多い若者たちの人生の旅に、教会としてどのように寄り添っていけるかについて、議論を深めた。

 そして、2019年のアマゾン地域シノドスでは、世界から遠ざけられたこの地域の声を聴き、キリストにおいて兄弟姉妹であるこの地域の人々に向けられている排除の力がどれほど有害なものであるかについて集中的に話し合った。

 そして、今年10月からは、「For a synodal Church: communion, participation, and mission.(共働する教会へ:霊的交わり、参加、そして宣教)」をテーマにしたシノドスが開かれる。

 このテーマについて、「synodalityについてのシノドスだって? 教皇が、あまりに”自己言及的”だと教会を非難し、我々に警告する言葉の要約ではないか?」と疑いの目を向ける人がいるかも知れない。

 だが、私はあえて主張したい。このシノドスは、キリストの体として私たちが共に成長するために、そして、この千年紀に主が私たちに期待される教会のモデルとして、教皇がはっきりと理解し、公けに提唱されていることを、受け入れる際に、もっと意識し、意図的になるために、欠かすことができないものだ、と。

 千年紀は、 教会の用語として使われる場合も、”時間のかかる取り組み”である。「synodalityの旅」は、教皇にとって、確かに、時間のかかる勝負。そして、私たちに課題として突き付け、教会としての私たちのあり方を変えることを求めるプロセスだ。私たちが気付くであろうことは、synodalityが、歴史を通じての「キリストの体」(である私たち)の旅ー継続的な回心を促し、救いの手を他者に差し伸べるよう求める旅ーに照準を当てている、ということである。

*「旅を共にする」

 教皇フランシスコに対する場合、あなたのガイドとして思いやりをもつのがいいだろう。バチカンの教理省に助言する国際神学委員会のメンバーに選ばれたReligious Sisters of Mercy.のシスター、プルーデンス・アレンについて考えてみよう。

 委員会が2018年にまとめた「教会の活動と宣教におけるsynodality」と題する報告書の中で、シスターはこのように書いている。「共に旅する弟子たち… 旅の仲間たちは互いに仕え合った… 人々は、神の王国の実現に向けて歴史の中を歩む… 謙遜の心をもって大胆に語る形でキリストと共に歩む… ”対話の旅”、そこで、私たちはどのようにして『私たちの側を歩まれるキリストの現存』を理解する…」

 このような言葉に聞き覚えがないだろうか? 多くの人は、「旅を共にする」という考えを教皇が好んでおられることに気が付いているのだ。

 もっとも、皆がこのように「旅」を解釈しているわけではない。英カトリック・ヘラルド紙の3月号は「共に歩む。だが… どこへ?」という見出しの記事を載せた。このような見方は、考え過ぎであり、伝統の周りにある枠組みを無視しているのだが… ともかく、イエスは、たくさん歩かれた。そして、弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民を弟子にするように」とGreat Commission (大宣教命令)を出された。

 パウロは自身の福音宣教を振り返って「私は、レースを走り切った」と語り、教皇ヨハネ23世が第2バチカン公会議を招集された理由の1つは「地上での人類の滞在の悲しみを減らすこと」だった。このヨハネ 23 世の言葉は注目に値する。それは、多くの点で、私たちが、彼が第 2 バチカン公会議で始められた旅の行程に取り込まれているからだ。

 偉大なイエズス会士の学者、ジョン・オマリーは、「公会議を完全に受け入れるには、教会は100年を必要とする」と述べている。教皇に選出され、教皇職を始められたのが第二バチカン公会議50周年と重なったフランシスコは、このことを(そしてこれからの50年がさらに興味深い時となっていることを)知っておられる。彼は、慈しみの特別年を呼びかけた時、ヨハネ23世の公会議の開会あいさつの言葉を引用し、この特別年が第二バチカン公会議の延長線上にあることを明確にされたー「教会は、厳格な精神よりも慈しみの薬を好みます」と。

*”シノドス・モデル”を批判する声も

 ”シノドス・モデル”に対する別の批評は、それが”「部分的なEmmaus”であり、共に歩くことを求めるが、回心はもとめていない」というものだ。これに対して、私は、「厳しさから慈しみへの動きが、すでに『回心』なのだ」と反論したい。

 だが、私たちは、人々が汚名を返上し、戻ってくるのを、ただ待っているわけにはいかない。まず自分自身の回心に取り組む必要がある。そして、そのために、外に出なければならない。 私たちは、キリストの体、この世界で外に向かう者。健康な体で何をするのか? 動くのだ。

 第二バチカン公会議の第 3 回会期が始まる少し前に、ヨハネ23世の後を継いだ教皇パウロ 6 世は、彼にとって初の回勅「Ecclesiam suam」を発表。その中で、単に「意思疎通や問題解決のための実用的な手法」としてではなく、「神と人間との救いをもたらす関係を表現する規範」としての対話を提起し、さらに、公会議の最後の数か月に、世界代表司教会議(シノドス)を制度化した。それ以来、シノドスは通常総会が15回、特別総会も数多く開かれ、聖ペトロの舟(カトリック教会)に教会活動の肝要な課題解決に推進力を与えようとした。

 しかしながら、最近のシノドスを見ると、敵味方から激しい非難にさらされている。2018年には、東方典礼と神学が専門のアダム・A・J・デヴィル教授から記憶に残る批判がなされた。彼は著書の中で、カトリック教会、正教会、東方諸教会、そして英国国教会の歴史を通して理解されたものとして、シノドスは「一定の集団の特定の関心について議論するもの。テーマに沿った会議ではない」と言明。

 そして、「(世界のメディアの関心を集めることがめったにない)法律を通し、司教を選ぶ(そして時には、規律を与える)権限を持った実務的な会議だ」と決めつけたが、いわゆる「ローマ・シノドス」の現行の管理・運営規則は、そうした権能をシノドスに認めていない。仮に、ローマ・カトリック教会がシノドス的な方向で続いているとすれば、1965 年以降の秩序を欠いた疑似シノドスに、真正シノドスについて恐れさせてはならない。

 デヴィル教授は最終的に、国際神学委員会の「多様なレベル、多様な形」で行われる真のsynodality の呼びかけを取り上げた。この呼びかけは、現地の司教たちのリーダーシップと教皇の一致の司祭職を含めた普遍教会の信仰を反映してたものだ。

*教皇の真の意図は…

 コンスタンティノープルのバーソロミュー・エキュメニカル総主教のような人物が教皇フランシスコに対して抱いている敬意を説明するのが、この野心的なビジョンだ、と私は信じている。伝統を生かそうとする教会のあり方を深い意図をもって捉える権威の用い方を、教皇が認識しておられると、私は信じている。

 フランシスコは、キリストの体に両肺で呼吸させようとする努力で、正教会を単に真似ているわけではない。私たちの伝統に焼き付けられた制度的な慣性の第二の千年紀を迎えてはいない現在、より協力的な教会を取り戻そうとしているのだ。

 第二バチカン公会議を象徴する用語は「ressourcement刷新)」ー新しい命を引き込むために、私たちの伝統の古代のルーツと繋ぎなおすことーだった。私たちが否定できないのは、何世紀にもわたって教会が、人々を追い出す手段としてsynodalityを使ってきたことである。

 シノドスが始まった頃は、異端を否認するために、あるいは、教義を定めるために、集合し、教会は悪路を歩むことが多かった。だが、私は言いたいー私たちは今、「旅」の新たな段階に入ったのだ、と。synodalityの行為は、独断的な宣言として機能するのではなく、福音を「時のしるし」に当てはまるよう微調整するために使われる。そして、synodalityとともに、フランシスコの長きにわたる”ゲーム”のもう一つの要点、「回心」が次に来る。

*第二バチカン公会議が書いた設計図を具体化するのが私たちの使命

 「回心」と言うとき、私は、教会自身の回心ー私たちが宣教の使命をどのように果たすのかを理解し、近づくための新しい方法ーについて話している。

 教皇フランシスコは、「でも、私たちはいつも、このやり方でやっている」というような惰性の様な思考態度を批判されている。また、第二バチカン公会議を招集された教皇ヨハネ23世の有名な言葉に、「私たちの教会は、『博物館を守る』ようにではなく、『満開の命の庭園の番をする』ように求められているのです」がある。同じことは、synodal(共働的な)教会についても言える。あたかも、すべての回答をもっているかのような、傲慢な態度をとることはできない。

 そしてまさに、ヨハネ 23 世は、 20 世紀前半に顕著になった混乱と破壊から時のしるしを読み取り、教会は証人として、可能な限り意識的で宣教的でなければならず、それを成し遂げるには教会会議が必要、と考えた。そして、それを実行に移す形で、第三の千年紀にふさわしい教会を動かすエンジンの設計図を書くために公会議を招集されたのである。ヨハネ23世はビジョンを提示された。それが、私たちが具体化すべきものだ。

 第二バチカン公会議は設計図を書いた。ヨハネ23世の後を継いだパウロ 6 世が、具体化に着手された。続くヨハネ・パウロ2世は、具体化の作業が求められた仕様通りに続けられていることを確認された。そして、ベネディクト 16 世がエンジンの最後の仕上げをし、フランシスコは今、それを実際に動かそうとしている。

 (興味深いことに、教皇フランシスコが、何ができるか知るためにエンジンの回転を上げ始めた今、それを最も恐れているように見える人々は、すべての規範と教会法令についての最もエンジニアらしい理解を備えた人々だということー仮にA=不規則な一致、B=兄弟姉妹として生きていない、とすると、A+B=聖体拝領は決して認められない、となる)。

 だが、フランシスコは、単に、私たちをもっと速く前に動かすことに挑戦されているのではない。より徹底した制度的な転換には、機敏で戦略的な識別も含まれる。

 フランシスコに対する最高の評価の一つは、ジャーナリストのクリストファー・ラムによるものだ。彼は「教皇は、どのダムが必然的に決壊するかを知っておられる」と言う。

 たとえある男が、堤防の上を飛び跳ね、変化を早めたり、止めたりしようとしているのなら、それが教皇であっても大した違いはない。だが、本当に指導的立場にある人が他の人々を率いて堤防を強化しようとしているなら、違う。私たちは、共に、心を込めて、誠実に、そして聖霊が導く方向を見極める意識をもって、強化作業に従事せねばならない。

*もはやsynodalityの行為は、独断的な宣言を一掃する機能を果たさない

 教皇フランシスコの下でこれまでに開かれた教会会議を通して、多くの人々にとって大きな驚きの 一つは、2019年のアマゾン地域シノドスの勧告ー特に、司祭の少ない辺境地域において効果が証明されている「既婚者の司祭叙階」ーを、彼が拒否したことだ。

  興味深いのは、彼が述べた理由が、神学的でなく、過程指向であり、このシノドスを「正統な集団識別」であるよりも、「議会の論理」を示すもの、としていたことだ。ご存じの通り、シノドスを計画するのに、何年もかかる。それほど秘密ではない議題を教会に押し付けるのを、教皇に認めるための、単なる見せかけだったとしたら、変わったやり方だ。

 Synodality に関するシノドスのテーマは、「もう一度やってください。今度こそ、あなたの作品を見せてください!」だろう。米シカゴ教区長のジョセフ・バーナーディン枢機卿の後を継いだブレイズ・キューピッチ枢機卿は、福音書に登場する東方の三博士についての素晴らしい描写を使って、シノドスのプロセスを説明したー「彼らは別の道を取って自分の国へ帰って行った」と。

 第二バチカン公会議の出来事とsynodalityが公会議の教父たちの間に醸成した変革の動きに注目しよう。公会議の作業文書が諸改革を一掃するのを受け入れることのないように、教皇庁が尽力したが、会議場に 3000 人の司教が集まり、聖霊を呼び求めると、「何か」が起こったのだ。

 98歳で教皇フランシスコによって枢機卿に任命された、ヨハネ23世の私設秘書ロリス・フランシスコ・カポビラ師は、Catholic News Serviceが作成したドキュメンタリー”Voices of Vatican II”の中で、第二バチカン公会議を招集されたヨハネス23世の理論的根拠について語っているー「とても素晴らしいことでした。第二次世界大戦のあと、三つの国際機関ー平和のためのUN(国連)、パンのためのFAO(国連食糧農業機関)、文化のためのUNESCO(国連教育科学文化機関)ーが設立されました。それなら、私たちも、なぜ皆で集まって、話し合いができないのでしょうか?」。

  そしてまさに、世界観が根底から覆されたこの戦後の時期に、フランシスコの長いゲームの最終的な到達点としての回心ー慈しみへの回心ーが、私たちに示されたのだ。

 

*”周辺部”の視点から考える

 synodalityと「ひっくり返った世界」に共通することの 一つは、ディートリッヒ ・ボンヘッファー(20世紀を代表するプロテスタント神学者、ヒットラー暗殺計画に関与し、ナチスに捕らえられて刑死)が「下からの視点」と呼んだもの与えてくれることだ。代表例として、教皇フランシスコの選出を契機に、宣教への強い使命感、出会い、”周辺部”、慈しみをもつラテンアメリカの教会の豊かな神学的刺激の扉を開かれたことを挙げることができる。

 ボンヘッファーの「下からの視点」を理解するもう 一つの方法は、疎外され、抑圧された人々について”周辺部”からの視点で考えることだ。教皇ヨハネ23世は、窓を開けるために公会議を招集したと言われている。「窓を開ける」からすぐに連想するのは「外の新鮮な空気を取り込む」だが、別のことも起きるー「外にいる人々の話し声が耳に入る」だ。

 難問を考え、検討してもらうために人々を集める場合、「自分の属している階層、あるいは教会全体でも得るのが難しい」と思う問いへの答えを、得ようとするだろう。

 第二バチカン公会議が始まる前に、ユダヤ人の歴史家ジュール・アイザックはヨハネ23世に 謁見を求めた。アイザックは公会議が、これまで教会が長い間続けてきたユダヤ人に対する「蔑視の教え」を取り消すことを希望していた。

 アイザックは自身の研究で「キリスト教会の反ユダヤ主義が、ナチのユダヤ人大虐殺を扇動する上で、いかに中心的な役割を果たしたか」を解き明かしているー教皇にできることはなかったのか? ヨハネ23世の開かれた心と第2バチカン公会議の共働性の成果として、公会議は「Nostra aetate(キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言)」を発出し、「ユダヤ人に向けられる憎悪や迫害や反ユダヤ主義的表現…を糾弾する」と言明した。

 ”氷河期”にある教会にとって、これは私たちの信仰表明に対する強烈な浄化の閃光だった。そして、synodalityの文脈の中でもたらされた典型例だと、私は確信している。

 

*synodalityは慈しみへの回心を刺激した

 ヨハネ23世がジュール・アイザックと会ったように、フランシスコはチリの性的虐待被害者、フアン・カルロス・クルスと会見した。彼の教皇との出会いは、被害に遭った神の子たちの叫びを聴く、新たな、慈しみ深い取り組みを始めるのに重要な役割を果たした。クルスはフランシスコが設置したバチカンの未成年者の保護のための委員会のメンバーになった。”周辺部”が中心に置かれるようになり、カトリック教会は、教皇ご自身も含めて、回心を経験している。

 そして、注意すれば、現在の教会の中に、synodalityに触発された慈しみへの回心のしるしを至るところで目にすることができるだろう。フランシスコは回勅「Fratelli Tutti(兄弟の皆さん)」に書いているー「それ(synodality)が、すべての人に場を作り、情報を操作したり隠したりしないなら、真実をよりよく理解するための絶え間ない刺激となる」。

 シノドス(世界代表司教会議)事務局のナタリー・ベクカール次長は、「(女性である自分がこのポストに就くという)歴史的な人事は、教会が女性たちの声を中心に置くようにとの要望に注意をはらっている証拠です」と指摘している。

 バチカンの人間開発省の難民・移民部門は、最新の文書は、気候変動の為に移住を余儀なくされた人々の窮状に焦点を当てた。聖アルフォンス・リグオリ(1696–1787・イタリアの司教、法律家であり芸術家でもあった)は最近、教会博士に叙せられて150周年を迎えたが、教皇フランシスコは彼の「見捨てられ、打ちひしがれた男女に耳を傾け、受け入れる」振る舞いを強く讃えた。

 これを「社会的差別」の匂いがする、と言う人がいるかも知れないが、私が言いたいのは、10億人を超える世界のカトリック信徒、2000年を超えるキリスト教の伝統の素晴らしさは、ほんのわずかな差別を受けている人も支える体制が整っている、といることだ。

 私たちは深く根を張っている。 キリストの体(教会)に保身はない。 主は貧しい人々の叫びを聴いておられる。 私たちは主に倣わねばならない。ものごとが実際にそうであるよりも公正で調和がとれているという思い違いをすべきではない。

 極めて重要なことは、私たちが教会として、単に人の言葉に耳を傾けるだけでなく、実際に人々から聴くことだ。そうすることが、私たちの心を和らげ、回心への準備を整える。そして私たち司教に知ることーそう、私たちが識別している新たなことが聖霊の働きだということを知ることに自信を与える。なぜなら、信徒たちもまた、それを聴くからだ。

 

*”キリストの体”を一つにまとめる助けに

 教会が慈しみにどのようにアプローチするかについての重要な言葉の一つであり、synodalityを理解するのに役立つ言葉の一つでもあるのは、「integration(統合)」ー何が統合される必要があるのかの問題だ。そして、私が言おうとしているのは、この場合、教会の頭とキリストの体の他の部位を統合する助けとなる、ということだ。

 手足の表面が冷たくて灰色の体を想像してみよう。心臓は動いているかもしれないが、生命力がすべての毛細血管に及んでいない。 私は、(教皇フランシスコが使徒的勧告)「Amoris laetitia (家庭における愛の喜び)」で示された「教義や道徳、あるいは司牧上の議論すべてが(教皇の)教導権による介入で解決される必要はない」という言葉について考える。意図的に婉曲的な表現をとったと思うこの言葉の一つの解釈は、「この使徒的勧告そのものが教導権の一部をなしていないことを示唆している」だ。いや、フランシスコが言いたかったのは、「バチカンだけが『キリストの体』を構成しているのではない」ということなのだ。

 教皇は、はっきりしているー彼が認識しているのは、自分の役割は伝統を守ることだ、ということだ。考え、周りを見回し、多分、遠くの地平線に私たちのビジョンを設定し、そして時々は、私たちが欲求不満で額を壁にぶつけるのを「やめよ」と言うのに、「頭」は適している。だが、「頭」だけでは物を持ち上げられないし、人々を抱きしめることもできない。「キリストの体」の他者に手を差し伸べる腕はどこにあるのか?

 中心部と周辺部の循環が、教会の日常の出来事の大部分を占める必要がある。そして、神から授かった宣教の使命を遂行し続ける中で、私たちは自分の体全体、緊張を感じる箇所、さらには、私たちの証しを有毒にする危険のある治っていない傷ー人種差別、女性蔑視、聖職者主義、性的虐待などーをも調和させねばならない。.

 だが、神はすべての形を変えられる。神が触れられて癒されなかった傷は?それは、フランシスコと言う名の男が体に負っっているーstigmata(聖痕)ーイエス・キリストが負われた傷だ。共に歩み、聴き、私たちが内と外で出会う人々すべてに慈しみをもたらす、真のsynodalityの教会は、私たちの負った傷を、そして信仰を奮い立たせるために人々が持つ力を決して忘れることがない。

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(カトリック・あい)synodalityについて・・・教皇フランシスコが就任当初から重要課題とされてきた「シノダリティ(synodality)」の言葉通りの意味は「ともに歩む」。日本語では「共働性」「協働性」あるいは「共同制」などとも訳されるが、教会内部でも定訳がないため、この評論では、あえて原文の英語表記のままとした。教皇がこの言葉に込められた意味は「教皇を頭とする司教団がキリストから与えられた権威をもって、神の意志を識別し、聖霊の声を聴きつつ、世界の全ての聖職者、信徒とともに進める、新しいアプローチや教義の転換をも導く可能性に開かれた、対話、洞察、協働のプロセス」と解釈できるのではないかと思われる。今後も頻繁に使われる言葉なので、適訳があれば、提示くださるよう、皆さんにお願いしたい。

*ジョセフ・W・トービン枢機卿は、1952年5月、米国生まれ。レデンプトール会士で、2017年1月から米ニューアーク大司教。2016年11月に枢機卿となり、2020年8月にバチカンの財務の実権握る財務評議会のメンバーに任命された。この評論は、今年5月3日にシカゴのロヨラ大学で”Cardinal Bernardin Common Cause Address ”のシリーズの一環として、トービン枢機卿が行った講演をもとにしたもので、米国のカトリック系評論誌Commonweal Magazineに掲載されている。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

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2021年6月1日