バチカン改革に、教皇はひるまないーコーマック枢機卿が語る(TABLET)

(2017.9.27 Tablet   Christopher Lamb)

 教皇の改革のビジョンは三つの言葉に要約

コーマック・マーフィー・オコナー枢機卿と昼食をともにしたとき、皿に残った最後のアマトリチャーナ・スパゲティーをフォークに巻きつけながら、「フランシスコ教皇は第二バチカン公会議を実践していられるのです。」と総括してくれた。それは、私が聞いた中で最も適切な教皇フランシスコの教皇職の要点だった。そして、コーマック枢機卿は、教皇フランシスコの教会へのビジョンは次の3つの言葉に要約される、と語った。

まず第一は「collegiality(司教協働制)」。これは、教皇が枢機卿や司教として選ぶ人物の特徴にみられる。飽くことを知らぬ福音の伝道者であり、人々の喜びと苦しみを共に分かち合う霊的指導者であることが期待されている。

第二は「synodality(司教合議制)」である。司教、司祭、信徒が集まってお互いの意見を聞き、問題を自由に議論し、共に決定する。そして最後がsubsidiarity(補完性原則)である。カトリック教会の中央集権的典型であるトップダウン方式を手放し、司教に権限を与え地方の教会への責任と管理を段階的に委譲していくことである。

 世界に開かれた教会―現代化と原点回帰

これらは、むろん第二バチカン公会議の主要テーマのうちにあった。50年前にカトリック教会の使命を刷新し、aggiornamento(アジョルナメント―現代化)と呼ばれるように「現代世界に開かれた教会」にし、カトリック教会をもっとしっかりと、福音書と初代教会の根本に立ち返らせることで、失われた福音的熱情を回復させようという「ressourcement(源泉・原点回帰)」として知られる源への立ち帰りが求められた。

公会議が1965年に閉会した数年後、有力なドミニコ会士イヴ・コンガールは、「終わりのない仕事が始まった」と語った。また、公会議の主要な課題がカトリック教会内にしっかりと根付くには100年はかかるだろう、ともいわれた。

 現地に合ったミサ典礼へ権限を各地の司教に委ねる

枢機卿は教皇フランシスコとは旧知の仲で、我々が昼食を共にした翌日に会うことになっていた。二人は2001年に同時に枢機卿に選出されていた。この英国人枢機卿は「もしチャンスが到来したなら、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオこそが、第2バチカン公会議後の行き詰った改革に息を吹き返させる」と確信していた人々の一人だ。枢機卿は自身の自叙伝の中で、教皇ヨハネ・パウロ二世とベネディクト16世が物憂げに「停止ボタンに指を乗せていた」のに対し、フランシスコは2013年の就任以来ずっと断固として「動作ボタンを押し続けている」と気の利いた表現で述べている。

教皇が先に自発教令「マニュム・プリンチピウム(重要な原則)を発出し、各国の司教会議にミサ典礼をその国の話し言葉で訳す権限を回復させたのもこの趣旨によるものだ。教令の中で、教皇は「典礼の祈りは、人々がよく理解できるものとする」と公会議の文書で正式に述べられており、その仕事は司教たちに任されている、と説明しているが、典礼の翻訳のような重要事項が司教会議の自治制に委ねるなら、カトリック教会の他の分野の事項もそれに準じることになるだろう。

 使徒的勧告「Amoris Laetitia(家庭における)愛の喜び」を最重要視

教皇がこの路線上に、彼が最重要視している使徒的勧告「Amoris Laetitia(家庭における)愛の喜び」の「すべての教義上、道徳上、司牧上の問題は上からの介入で解決される必要はない」という事項を置いているのは、ほぼ間違いない。

教皇は、公会議のビジョンを本気で実践する意志を明確にしている。ローマ(バチカン)は、もはや、あらゆる厄介な司牧案件にフリーサイズで適合する答えを出すことはできない。しかし、誰でも議論に参加して良いということではない。個々のケースの指導が妥当かどうか、各地域の状況など注意深い識別が必須だ、という認識に立っている。

これには、使徒的勧告の発出以来、大きな議論を呼んでいる「離婚し、再婚した信徒の聖体拝領」の問題も含まれる。フランシスコは、カトリック教会は問答無用にで拒否する前に、現代の信徒たちが暮らしている家庭生活の現実を理解する必要がある、と判断している。このような判断の延長上で、教皇はこのほど自発教令で、「結婚と家庭の科学のための教皇庁立神学研究所ヨハネ・パウロ2世」を発足させた。聖ヨハネ・パウロ2世が1980年の家庭がテーマのシノドス(全世界司教会議)とそれを受けた使徒的勧告「家庭‐愛といのちのきずな」発表のあと設立した研究所を発展改組したもので、現実の家庭・結婚生活への認識と対応に焦点を合わせた研究に力を入れようとしている。

 強まる保守派の抵抗

教皇に対し、公会議の改革に不安を感じる人々や、公会議が求めるものをもっと慎重に読み取るべきだとする人々からの抵抗の動きが強まっている。先週末には、一団の不満を持つ司祭、学者たちから、8月に教皇宛に出された25ページからなる冊子を”filial correction”として、発刊した。その中で 彼らは「教皇はカトリック教会内に異端を蔓延させている」と無遠慮に非難している。署名者の中には、公会議の改革反対派の中心人物、聖ピオ十世会総長のベルナルド・フェレー司教もいる。

教理省長官を解任されたゲルハルト・ミューラー枢機卿は、 使徒的勧告「Amoris Laetitia」の解釈の相違がカトリック教会内の統一を脅かすだろう、とし、批判グループと対話する枢機卿たちを任命するよう教皇に求めた。ローマ在住のレイモンド・バーク枢機卿も「教皇が訂正を出すように」と迫っている。バーク枢機卿と3人の保守派枢機卿(うち二人は亡くなっているが)は昨年、「Amoris Laetitia」に関する一連の質問状を送りつけた。枢機卿が教皇の批判者としては最も高位で最も目立つ存在だが、ローマ情報筋によると、20名から30名の枢機卿たちも同様の意見だという。

 バチカン財務責任者の性犯罪容疑での豪州の裁判所への召喚

教皇にとって、もう一つの頭痛の種は、バチカンの財務管理の問題だ。先週末、バチカン市国の初代会計検査院長のリベロ・ミローヌ氏が「バチカン財務に不正行為があったのを公けにして強制的に職を追われた」と告訴し、バチカン側は「ミローヌ氏は上司をスパイするために外部のエージェンシーと契約していた。辞職しなければ、違法行為で逮捕されていた」と反論した。

もっとも、バチカン財務委員会のメンバーだったコーマック枢機卿は、それほど心配しているようにはみえなかった。カトリック教会の財務の現状よりも、金に関しての亡くなった枢機卿の無頓着さのほうが問題だ、と言いたかったのだろう。彼は「自分たちで何とか解決するでしょう」と語った。だが、そう言ったのは、バチカンの財務責任者、ジョージ・ペル枢機卿が高位聖職者としては史上初の性犯罪容疑で故国オーストラリアの裁判所に出廷するために帰国する前のことだった。財務責任者が事実上、不在になってしまったのだ。教皇は聖座の財政収支に不備があるとは考えていないが、司牧訪問先について、より透明で納得できる場所にするよう調整しなおしている。

  それでも「寛容、慈悲、対話と和解の教会」へひるむことはない

それは、教皇庁の改革への対応にも当てはまる。どの部署をどう再編するかよりも、考え方そのものを変えることの方が重要なのだ。教皇は日ごろから「教皇庁が世界の教会に奉仕するのであり、その逆であってはならない」と強調している。教皇にとって、キリスト教は「美術品」ではなく、「行動し、生きている」ものなのだ。

ローマでよく言われることだが、教皇フランシスコにとって「でも、いつもこうやってきましたから」と言う言葉ほど嫌いなものはない。第二バチカン公会議が求めたものは、「現代にカトリックを取り戻し、初代教会の精神とエネルギーを活力の源とすること」だ。公会議に参加し、議論した司教たちの信仰を強固にしたのは「神の力は過去からの遺物ではなく、教会の中に生き続けている」という信念だった。その信念を、教皇フランシスコも持っている。彼が教皇に選出された初めの数時間から、フランシスコには、建設の助けを神の民に強く求める将来のカトリック教会の姿が、はっきりと見えていた。それは「寛容、慈悲、対話と和解の教会」だ。「貧しい者のための教会、難民やホームレス、社会の片隅にいる人々に奉仕するために喜んで腕まくりをする教会」なのだ。

(翻訳「カトリック・あい」岡山康子)

(Tabletはイギリスのイエズス会が発行する世界的権威のカトリック誌です。「カトリック・あい」は許可を得て翻訳、掲載しています。 “The Tablet: The International Catholic News Weekly. Reproduced with permission of the Publisher”   The Tablet ‘s website address http://www.thetablet.co.uk)

 

 

 

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2017年10月7日