Newly-elected Pope Leo XIV gives his first Urbi et Orbi blessing from the central balcony of St. Peter’s Basilica after his election to the papacy on May 8, 2025. (Credit: Vatican Media.)
ローマ₋発-8日の木曜日、教皇選挙のためにバチカンに集まった枢機卿たちが、ロバート・プレヴォスト枢機卿を史上初の米国出身の教皇に選出し、その教皇名がレオ14世と宣言され、教会の歴史に刻まれた。
長い間、「米国人教皇の誕生は考えられない」と言われてきた。新大陸からの蒸気船はローマに到着するまでに時間がかかるため、米国人枢機卿の到着が投票に間に合わないことがしばしばあった。
その後、「米国人教皇」に対する拒否権は、地政学的なものとなった。バチカンで教皇の決定がなされているのか、それとも米国のラングレーのCIA(中央情報局)本部でなされているのか、世界中の多くの人々が疑問に思ったからだ。
しかし、プレヴォストが教皇に選出されたことで、その考えは払拭された。米国はもはや世界唯一の超大国ではないし、いずれにせよ、枢機卿会議内部の力学は変化した。
枢機卿たちは、もはや、候補者がどのようなパスポートを持っているかではなく、どのような精神的、政治的、個人的プロフィールを体現しているかに関心があるのだ。
過去2年間、教皇フランシスコの下でバチカンの超強力な司教省のトップを務めたレオ14世は、世界中の新司教を選ぶ際に教皇に助言する責任を負っていた。
同僚の枢機卿たちはこのアウグスチヌス修道会の元総長を知るにつれ、多くがその人柄に好感を持つようになった。 穏健でバランスの取れた人物で、確かな判断力と鋭敏な傾聴能力で知られ、自分の意見を聞いてもらうために胸を張る必要のない人物、だということに。
レオ14世は1955年にシカゴでイタリア人、フランス人、そしてスペイン人の血を引く家庭に生まれ、高校は「アウグスティノ会」と呼ばれる聖アウグスティヌス修道会が運営する小神学校に通った。そこからフィラデルフィアのヴィラノヴァ大学に入学し、1977年に数学の学士号を取得した。同じ年にアウグスティヌス修道会に入会し、カトリック神学大学(CTU)で学び始め、1982年に神学修士号を取得した。(CTUの卒業生として初めて枢機卿に任命された)。
次にローマに送られ、ドミニコ会が運営する聖トマス・アクィナス大学(通称 「アンジェリカム」)で教会法の博士号を取得した。
1985年、レオ14世はペルーのアウグスチヌス会の宣教活動に参加した。彼の指導者としての資質はすぐに認められ、1985年から1986年までチュルカナス管区の管区長に任命された。その後、ペルーに戻るまでの数年間は、シカゴでアウグスチヌス会管区の召命担当司祭として過ごし、その後10年間は、トルヒーヨでアウグスチノ会神学校を運営するかたわら、教区神学校でカノン法を教え、学務総長を務めた。
聖職者生活には古くからの”ルール”がある。有能であることが災いし、「物事を成し遂げる才能がある」と認められるのに正比例して仕事量が増える傾向がある、というものだ。こうして、プレヴォストは本職に加えて、教区司祭、教区本部の役人、トルヒーヨの養成部長、教区の司法官の仕事もこなした。
レオ14世は1999年に再びシカゴに戻り、今度は管区長を務めた。この時期、司祭の性的虐待スキャンダルに遭遇し、告発された司祭を学校の近くの司祭館に住まわせる決定を下した。この対応は後に批判を浴びることになるが、これは、米国司教団が2002年にこのようなケースを扱うための新基準を採択する前のことであり、彼の署名は基本的に、大司教区と告発された司祭の霊的アドバイザーおよび安全計画の監督者との間ですでに行われていた取り決めによる形式的なものだった、と判断された。
2001年、レオ14世は世界的なアウグスチヌス会の総長に選出された。ローマにあるアウグスチノ会教皇庁教理学院に本部があり、「アウグスチニアヌム」として知られている。プレヴォストは2期にわたって総長を務め、手際の良い指導者、管理者としての評判を得た後、2013年から2014年にかけて、修道会の養成ディレクターとしてシカゴに一時帰国した。
2014年11月、教皇フランシスコは彼をペルーのチクラヨ教区の使徒的管理者に任命し、1年後に教区司教となった。歴史的に言えば、ペルーの司教団は解放の神学運動に近い左翼とオプス・デイに近い右翼の間でひどく分裂していた。その不安定なミックスの中で、レオ14世は2018年から2023年まで会議の常任理事会と副会長を務めたことに反映され、穏健な影響力を持つと見なされるようになった。
この2月、教皇フランシスコは当時のプレヴォスト枢機卿を枢機卿司教団に入会させたが、これは教皇の信頼と好意の明らかな表れである。観測筋によれば、プレヴォスト枢機卿と故フランシスコは常に意見が一致していたわけではなかったが、それでもフランシスコは米国人のプレヴォスト枢機卿の中に信頼できる人物を見出していた、という。
基本的に、枢機卿が法王候補を検討する際には、常に3つの資質を求める。「 宣教師」-つまり信仰に前向きな顔を見せることができる人物、「政治家」-つまりドナルド・トランプ、ウラジーミル・プーチン、習近平といった世界的な舞台で堂々と立ち回ることができる人物、そして「総括・管理者」-つまりバチカンを掌握し、財政危機への対処を含め、”列車を定刻通りに走らせるこ””ができる人物である。
レオ14世が、この3つの条件をすべて満たしていることは確かだ。
彼はキャリアの大半を宣教師としてペルーで過ごし、残りの一部を神学校や養成課程で過ごしたため、信仰の火を灯し続けるために何が必要かを理解している。そのグローバルな経験は、国家運営の課題においても財産となるだろうし、生まれつき控えめで平静な性格は、外交術にも適しているかもしれない。最後に、修道院長、教区司教、バチカン総監など、さまざまな指導的地位で成功を収めたことは、彼の統治能力を証明している。
さらに、彼は「生意気な米国人の傲慢さ」という古典的なステレオタイプに翻弄されることはない。むしろ、イタリアの新聞『ラ・レプッブリカ』や 国営テレビ局『RAI』が最近評したように、彼は 「il meno americano tra gli americani (米国人の中で最も米国人らしくない人物)」という印象を与える。
基本的に、レオ14世の選出は、大まかには「教皇フランシスコのアジェンダの中身の多くの継続」を多くの有権者枢機卿たちが支持したものと見ることができる。
カトリック教会の活動における多くの争点に関しては、「フランシスコ」はある種の隠語である。女性司祭の叙階、同性婚の祝福、ラテン語ミサといった問題で、レオ14世は、自分のカードをベストの近くで使っている。
加えて、レオ14世は、聖職者による性的虐待の訴えを不当に扱ったとして、「神父に虐待された人の被害者ネットワーク(SNAP)」が苦情を申し立てた数人の米国人枢機卿の一人だ。1人はシカゴで告発された神父、もう1人はペルーのチクラヨで告発された神父である。その話には説得力のある別の側面がある。つまり、 両事件とも、複数の関係者がレオ14世の当時の行為を擁護しており、ペルーの被害者の弁護を最初に担当した教会法弁護士は、恨みを持つ失脚した元神父である一方で、レオ14世は、チクラヨでは教区の児童保護委員会の責任者として成功を収めた、と評価されている。
要するに、プレヴォストの教皇選出は、枢機卿たちが伝統的に求めてきたことの多くを満たすものであり、いくつかの争点について明確な実績がないことでさえ、結果的には”負債”というよりむしろ”資産”になったということだ。
2023年、プレヴォストが枢機卿に昇格した時のCTUからの以下の賛辞は、彼の魅力をほぼ要約している。
「プレヴォストは、宣教師の心と、学問の学び舎から貧しいバリオ、行政の上層部まで、長年の聖職経験を枢機卿団にもたらす。聖霊が導くところ、どこにでも奉仕する用意がある、という福音の呼びかけを体現している」。
教皇レオ14世として選出されたことを考えると、歴史上初の米国出身の教皇であり、彼の枢機卿選出者たちがその思いを共有していたことは明らかである。