(2025.1.17 La Croix Massimo Faggioli)
米国の歴代大統領で ジョン・F・ケネディとジョー・バイデンはカトリック教徒だった。一人は、米国でカトリックが明確な役割を果たそうとする時代を特徴づけ、もう一人は、教会が二極化した国での役割を果たそうとする中で、深い文化的、政治的分裂をもたらした。
ケネディ大統領は米国のカトリックの歴史に新しい時代を開いた。「貧しいカトリック教徒」(彼の妻、ジャッキーの言葉)を集合的な想像力における”準聖人”に置き、「 貧しい移民の教会」…。米国の政治、文化、社会の中心に教会が来たことを告げた。だが、殉教者のような最後を迎えた。
バイデン大統領の任期も悲劇的な形で終わった。 有罪判決を受けた重罪犯でクーデター未遂のドナルド・トランプに、大統領選で敗北… 陳腐な言い方をすれば、バイデンは老いていったのだ。合衆国憲法には「司教は75歳で辞表を提出せねばならない(そして80歳で枢機卿として、次の教皇に投票する資格がなくなる)」というカトリック教会のような規定や知恵はない。
ケネディは、カトリック教徒を新しくするのを助けた。第二次世界大戦後のアメリカとバチカンとの連携も。ケネディが暗殺された時、新たに 選出された比較的若い教皇、パウロ六世は、その確固たる意図は、第二バチカン公会議を成功裏に導くことであり、それを達成した。教会の未来のための計画があった。 そして、米国のカトリック教徒はその重要な部分だった。
だが、今や米国は、” 投票箱”で二極化しているだけでなく、宗教的にも深く分裂している。祭壇で、学校や大学で、 相互の、事実上の”破門”の状態になりつつある。
*教会とアメリカ政治との間の亀裂拡大
バイデン大統領は 1月11日に、教皇フランシスコに民間人の最高の栄誉である「自由勲章」を授与することを発表したが、これによって教皇職とアメリカ政治との間の拡大する溝を隠すことはできない。 2013年の場合のように、伝統主義者で新保守主義のカトリック右派だけでなく、進歩的でリベラルな左派も、中絶に関する民主党の急進主義と、戦争犯罪と犯罪で告発されたイスラエル政府に対する超党派の支持のために、溝が広まった。
教皇フランシスとの間に強い個人的なつながりがあるにもかかわらず、 バイデン、米国のリベラル派、進歩派(カトリック教徒など)は、教皇フランシスコを、教皇が彼らを必要としていたよりもはるかに必要とした。しかし、アメリカの進歩派が、LGBTQカトリック教徒に対する教皇のシグナルを受け入れ、環境と移民について教えることは、ここ数年に欠けていたもの、つまり道徳的なものに代わるものではなかった。
20世紀の教義の発展まで、 特に公共の場での信教の自由と立憲民主主義などで果たす教会の役割には、神学があった。米国は、世界の民主主義の理想の砦だったが、今はそうではない。問題は、この民主主義の緩慢な死の伝染をいかにして防ぐかになってきている。そして、主導的な存在としての米国カトリックの役割 は 終わったかもしれない。
反動的で、権威主義的で、あからさまなネオファシストが勢力を増す中で、本当に目新しいのは、米国のカトリック教会内に新しく起こってきた動き― ポストリベラルの理想、または新トマス主義の復活、あるいは 小さな共同体のプロジェクトを通しての、第二バチカン公会議のビジョンと教皇フランシスコの世界観を表した回勅「兄弟の皆さん」からの慎重な撤退や時には怒りの拒絶だ。
再任されたトランプ大統領就任を前に、教皇は、ワシントンDCの大司教にマッケルロイ枢機卿を任命した。スタンフォード大学での彼の博士論文は、道徳と米国の外交政策に関するものだった。彼は、教皇庁立グレゴリオ大学で道徳神学の博士号もを取得しており、 イエズス会士の神学者と共著で1989年に米国政治に関する重要な本を出版している。 今日の米国の司教たちの間で思想家であり、彼の任命は、 教皇による米国司教座の再構築の努力の一環だ。