教皇レオ14世は、近年カトリック教会における議論の中で最も注目を集めている話題の一つ、すなわち第二バチカン公会議以降数十年にわたって続いているいわゆる「典礼戦争」について語っている。
Crux Nowの編集長が5月に指摘したように、レオの就任当初からの目標の一つは教会内の「緊張を和らげる」ことだったため、なぜ今なのか、と疑問に思うのは当然だろう。
「時には、困難を乗り越える唯一の方法は、真正面から立ち向かうことである」という古いことわざがあるが、これはまさにその表現が当てはまるケースの一つかもしれない。
レオは、典礼に関する事柄に光を当てれば必ず波紋を呼ぶことを理解しているようで、自分が何に巻き込まれるかをよく分かっているかのように、慎重に進めている。
教皇は、最近行われた毎週の一般謁見で、第二バチカン公会議の『典礼憲章(Sacrosanctum Concilium)』について語った際、「典礼改革の必要性は公会議以前の複数の教皇によって強調されてきた」とし、「第二バチカン公会議によって推進された典礼改革は、教会の生きた伝統にしっかりと根ざしている… 実際、典礼は生きた存在であるため、何世紀にもわたって常に発展と変化を遂げてきたのだ」と述べた。
教皇は5月から、第二バチカン公会議の文書を取り上げる連続講話の一環として、『典礼憲章』について語ってきた。典礼をめぐる論争について直接言及することはなかったが、論争は確かに存在し、彼は、それを暗に示唆した。1970年にパウロ6世のミサが導入されて以来、緊張状態が続いていることを認めた。
「(新しいミサの)正しい理解は、第二バチカン公会議後の時代に教会の特定の部門で起こった不正行為を拒絶することにもつながる」とし、「残念ながら、改革の根底にある原則の一部が極端に解釈されたり、誤解されたりして、今日でも時折濫用が発生している」ことを認めた。
第二バチカン公会議後のカトリック教会における「革命」は、しばしば誤って解釈されている。聖職者と修道者は、公会議からわずか数年後に、神学的信念を変え、しばしば大挙して聖職を放棄した。
第二バチカン公会議は明らかに問題点を露呈させたが、問題を作り出したわけではない。残った人々の多くは、公会議以前から存在していた問題に焦点を当て、変革が必要であることを認識していた。彼らは、離脱した人々の多くが、宗教的実践においてよりリベラルになったか、あるいは宗教を実践しなくなったかの、どちらかであることを観察した。また、より保守的なプロテスタント教派に加わる者も多かった。
数十年にわたり、人々を教会に呼び戻す方法をめぐる最も大きな論争は、より「リベラルな」カトリックを提唱するか、より「福音主義的」な礼拝を行うかという点だった。
伝統主義的なカトリック教徒は、特に彼らの多くが教会法上非正統的な聖ピオ十世会に所属するようになったため、この議論からほぼ排除された。しかしながら、一般のカトリック信者は、特に結婚式、葬儀、洗礼式といった行事において、カトリックのより伝統的な側面を依然として多く望んでいたのも、事実である。
私は1990年代に教区で働いていたが、その仕事の一つに、教会に関する様々な質問をする人々からの電話に対応することがあった。よく受ける質問の一つは、「結婚式を挙げるのにふさわしい素敵な教会はどこにありますか?」というもの。「どうして新しい教会はあんなに醜いの?」と、若い女性たちが、時には涙ながらに、私に何度も尋ねてきた。
なぜ? はっきり言ってしまえば、質問をした人の多くは、定期的にミサに出ていなかった。その一方で、定期的に出ていた人たちは、”醜い教会”の方が「初期教会」の意図に合致している、と書かれた本をよく読んでいた。
米国の「保守的なカトリック教徒」は、80年代から90年代初頭にかけて多くのプロテスタント牧師がカトリックに改宗したことに大きな影響を受けた。彼らはカトリックのミサに参加した際に経験したこと、すなわち毎週の聖体拝領、英語で行われるミサの聖書的根拠、そして第二バチカン公会議以前には容易に経験できなかったこと、ましてや1900年代以前にはなおさら経験できなかったであろうことについて、よく語っていた。
それは”改革の改革”の時代であり、敬虔かつ伝統的な方法でパウロ六世ミサを用いることが強調された時代であり、それは現在レオ14世が提唱していることでもある。
だが、1980年代後半から、「第二バチカン公会議以前」のミサがより広く行われるようになり、21世紀が近づくにつれて、ますます多くの「保守的な」カトリック教徒がそれに参加するようになった。
これは”改革の改革”が終焉を迎えたという意味ではない。
教会建築はより伝統的な様式になり、多くの典礼もより伝統的な要素を取り入れるようになり、データによると、新任の司祭は概してより保守的になったが、「黒を唱え、赤を行う」、つまり、定められた典礼の言葉と行為に注意深く意識的に取り組むことは、「保守的」な典礼であれ、「自由主義的」な典礼であれ、多様な典礼の形式を生み出すことにつながる。
米国の多くの地域では、司教たちは「あなたの教区とは、あなたが通う教会のことだ!」という考え方を広めることでこの問題に対処してきた。「リベラル派」は自分の好きな教区に行き、「保守派」は自分の好きな教区に行くということだ。
これはつまり、多くの教区において、熱心なカトリック信者のほとんどが「誰もが、自分と同じように考えていると思い込んでいる」ということだ。どの教区も地域的なつながりを持たず、熱心なカトリック信者でない人や非カトリック信者は福音宣教を受けられず、議論から取り残されている、ということでもある。
教区生活におけるそのような状況では、司教が教区を「統一」しようと決めた場合、どちらかの側に立つことになり、当然ながら反対側の人々を動揺させることになる。
また、信徒たちにとっても、礼拝の形式が次々と変更されるという混乱が生じる。そのたびに、新しい形式が正しいと告げられ(少なくとも、以前の形式が間違っていたという強い示唆を伴う)、混乱を招くことになる。
それはまさに衝撃だ。なぜなら、彼らの前の司祭/司教が赴任してきてすべてを変えた時、まさにそう言ったからだ。
カトリック作家のエイミー・ウェルボーンは、X誌でこのことについて語り、典礼をめぐる世代間の対立を指摘した。「耳を傾ける教会、聖霊が聖職者だけでなく神の民全体を通して語りかける教会においては、この問題に関して、偏見のない対話と傾聴が優先事項となるはずだ、と考えるのが自然でしょう」と書いている。
これは重要な点だが、「偏見のない対話」は、容易に白熱した議論に発展する可能性がある。
レオ教皇は、「カトリック教会は究極的には家族である」と述べ、教会の統一を図るために尽力してきた。しかし、時には、激しい口論こそが、家族間の争いを終わらせる唯一の方法となることもある。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
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