.(2024.11.3 Crux Editor John L. Allen Jr)
(写真右は、バチカン法廷のジュゼッペ・ピニャトーネ裁判長=出典:バチカンメディア)
ローマ 発– 先週の5日、バチカン民事裁判所は、いわゆる「世紀の裁判」における2023年12月の判決のイタリア語で言う「motivazioni(動機)」をようやく開示した。この裁判は、バチカン国務省による4億ドルのロンドン不動産の悲惨な購入を巡るもので、ジョヴァンニ・アンジェロ・ベッチュウ枢機卿を含む9人の被告に有罪判決が下された。
「motivazioni(動機)」は、事実と法律の両面から見た裁判所の判決の背景にある詳細な理由付けを意味する。ロンドン事件の複雑さを考えると、判決から11ヶ月近く経ってから、819ページにも及ぶ判決文が下されたことは驚くことではないかもしれない。
しかし、検察官と弁護人が具体的に何を不服として控訴しているのかが分からなかったため、控訴手続きが長らく凍結されていたことを考えると、この判決文の真の意義は、控訴手続きがようやく前進できるようになったことにある。
しかし、この件に個人的に関わっていない人にとっては、おそらく「motivazioni」の最も興味深い部分は、冒頭近くにある。それは、バチカンにおいて司法は独立しておらず、したがってその判決は現代の適正手続きの基準を満たしていない、ということだ。
バチカンにおいて司法の独立性を主張することは、控え目に言っても、かなり難しい。法的に、ローマ教皇はカトリック教会において最高の行政、立法、司法の権限を有しており、それは、三権分立など存在しないことを意味している。したがって、バチカン法廷が「独立」していると主張することは、「太陽が地球の周りを回っている」と主張するようなものだ。それでも、「motivazioni」は精いっぱいの努力をしている。
「motivazioni」の対象となっている裁判は、教皇フランシスコが2020年3月に発布し、2023年4月に修正された自発教令を大前提としている。この自発教令は「裁判官は、至高なる教皇によって指名され、その職務の行使においては、法律にのみ従う」”とし、また、「裁判官は、法律で定められた権限に基づき、その範囲内で、公平性をもってその権限を行使する 」とも記されている。
これらは”崇高な理想”であり、あらゆる観点から見て、バチカン法廷の裁判官、特に裁判長ジュゼッペ・ピニャトーネは、それを真剣に受け止めている。ピニャトーネ氏は、現在、40年前にシチリア島パレルモの検察官補佐としてマフィアの捜査を違法に打ち切ることに加担した疑いで調査を受けているにもかかわらず、一般的に非常に高い評価を得ているベテランのイタリア人法学者だ。
第一に、教皇は裁判官を任命するだけでなく、彼らを解雇する権限も有している。2020年3月の自発教令には、「至高なる教皇は、証明された能力不足により職務を遂行できない裁判官を、一時的であっても職務から解くことができる」とも記載されている。
はっきりさせておくと、「証明された無能力」に該当するかどうかを判断するのは教皇である。現代の教皇が、自らの意向に反する判決を下した裁判官を処罰するためにこの権限を行使した、という事例ははないが、教皇がそうできることは事実であり、それを構造的に妨げるものは何もない。
例えば、米国と比べてみよう。大統領は連邦判事を任命することはできるが、解任することはできない。連邦判事の解任には、下院による弾劾と上院による有罪判決が必要だ。
第二に、「motivazioni」も認めているように、バチカン市国の基本法では、訴訟がどのような段階にあろうとも、教皇が民事・刑事事件を自らが選んだ機関に再割り当てすることを決定できる、と規定されている。
繰り返しになるが、「motivazioni」は、教皇がその権限を行使したことは一度もない、と指摘しているが、それでも、教皇にその権限がある、という事実は変わらない。バチカンの裁判官は、特に教皇が明確な意向を示しているような案件では、判決を下す際にそのことを念頭に置いているはずである。
第三に、教皇はいつでも刑事訴訟に介入し、自由に規則を変更することができる。実際、教皇フランシスコはロンドンの事件でそうした。4つの再指令、すなわち「法令」を発行し、捜査段階において検察官に異例の広範な権限を与えた。
真の三権分立制度においては、このような行政権の行動は、司法審査の対象となる。例えば、米国大統領が発令したさまざまな行政命令を考えてみよう。これらは長年にわたり、最高裁判所によって「違憲」として却下されてきた。
しかし、「motivazioni」が指摘しているように、バチカン法典第1404条に明確な原則が定められているため、バチカンの裁判官にはそのような権限はない。同条はラテン語でPrima Sedes a nemine iudicatur(第一審は誰にも裁かれない)と記されている。
結局のところ、関係者全員の善意にもかかわらず、状況の構造的な現実により、バチカンの刑事司法制度の「独立性」を主張する声に、中立的な立場の観察者が真剣に耳を傾けることは難しいということである。
このような状況である必要があるのだろうか? 端的に言えば、答えは「ノー」である。
神学上および教会論上、教皇は、カトリック教会における霊的な事柄、特に信仰と道徳に関する最高権威である。しかし、投資の失敗による刑事責任をめぐる紛争などの世俗的な事柄についても、教皇が絶対的な権力を行使しなければならない、という神学上の理由は存在しない。
実際、教皇がそのような権力を行使すべきではない理由が数多くあり、行使しない方が望ましい。
ほとんどの人は、1870年の教皇領の喪失とともに、教皇が世俗的な権威を失ったと考えている。実際、教皇はその後約60年間、その権威を失った。しかし、1929年のラテラノ条約により、教皇領は復活し、教皇は、より狭い管轄権ではあるが、再び絶対的な主権者となった。
教皇が新しいバチカン市国に対して絶対的な世俗的権力を振るったと、いう事実は、その権力をほとんど行使することのなかった歴代の教皇たちによって、ほとんど見えなくなっていた。しかし、フランシスコは、バチカンの刑事司法制度を実際に機能させたい、と考えている。これはまったく賞賛に値する目標であるが、同時に、近代的な適正手続きの概念に照らして、その制度をいかに信頼に足るものにするかという、長らく先延ばしにされてきた問題に直面することを意味する。
言い換えれば、信仰に関わらない事柄については、真の三権分立を導入し、バチカンの民事司法の管理を自主的に放棄すれば、フランシスコ(あるいはどの教皇であっても)が真の説明責任を果たすのに役立つだろう。そうすることは、1970年にローマが新たに統一されたイタリアの軍勢に陥落してから100周年の記念日に、時の権力を失うことを「神の思し召し」と呼んだ聖パウロ6世の言葉の自然な集大成である、という意見もあるだろう。
2018年にパウロ6世を列聖したフランシスコにとって、この点で故教皇の遺産を完成させることは、特にふさわしい動きであると思われる。
このような改革が行われるまでは、多くの観察者が、「motivazioni」で提示されているような議論を、それがいかに巧妙に、あるいは誠実に表現されているとしても、受け入れがたいと感じるのは避けられないだろう。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
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