(評論)「次期教皇」をめぐる憶測をするのは不敬? そのような批判は気にしないことだ!(Crux)

 

(写真の出典:バチカンメディア)

(2024.12.15 Crux Editor  John L. Allen Jr.)

Is ‘next pope’ speculation inappropriate? Get over it!について憶測を始める…

 最も熱心な憶測は、現職の教皇のイデオロギー上の反対派から出てくることが多いから、予想の助けにはならない。実際、ヨハネ・パウロ2世とベネディクト16世の時代には、カトリック左派の間で多く出回っていたが、今日では右派の間で多く出回っている。

 教皇フランシスコの88回目の誕生日に間に合うように発表された新しいプロジェクト「The College of Cardinals Report」(別名「Cardinalium Collegii Recensio」)を考えると、こうしたことがすべて頭に浮かぶ。英語でもラテン語でも意味は同じだが、ラテン語の方が気取った響きがある。

 これは、現職の253人の枢機卿全員の経歴情報を提供する、洗練されたインタラクティブなウェブサイトだ。特に、教皇候補者となる可能性があると考えられている22人のpapabili(教皇候補)には特別な注意が払われている。

 このサイトでは、女性助祭、同性愛者の祝福、司祭の独身制、ラテン語ミサ、バチカンと中国の関係、「シノドス(教会会議)」の考え方など、物議を醸している問題について、彼らがどのような立場を取っているか紹介している。

 当然のことながら、すでに一部の人々から、このサイトは「不敬だ」という理由と、「思想的に右寄りだ」という理由の両方で、苦言が呈されている。

 

 まず最初の反対意見について考えてみよう。これに対する最善の答えは、おそらく「気にしないことだ!」というものだろう。

 次のペトロの玉座の継承者について考えることは、失礼にあたるどころか、むしろ不可欠だ。教皇職は、カトリック信者だけでなく全世界に多大な影響を及ぼす可能性を秘めた、世界で最も重要な「ソフトパワー」である。ジャーナリストやアナリストが、この「ソフトパワー」が将来、どのように展開されるかを考慮しないのは、無責任であり、怠慢とさえ言える。

 2002年に私は『コンクラーベ』という本を出版したが、その中で、当時の20人の教皇候補のプロフィールを掲載した。保守派を中心とした一部の不満を抱くカトリック信者たちは「そのような憶測はヨハネ・パウロの教皇職を貶め、彼をレームダックにしようとする試みだ」と不満を述べたが、重要なのは、私が自分の限界の範囲内で、情報に通じた有権者や一般市民が必要とする情報を提供しようとした、ということだ。

 この種の情報を最も熱心に収集しているのは枢機卿たち自身だ。それは、「自分や同僚たちがどのように評価されているか」という”病的”な好奇心からだけではなく、何よりも、次期教皇を選ぶ投票は、おそらく「自分がこれまでの人生で下す最も重要な選択となるだろう」と認識しており、「正しい選択をせねばならない」という義務感からである。

 確かに、コンクラーベの神学では聖霊に重要な役割が与えられているが、それによって、枢機卿が「自分の知性と判断力を働かす」という重荷から解放されるわけではない。「教皇への敬意を欠く」などとは決して言われないシカゴの故フランシス・ジョージ枢機卿が私に、「教皇候補となり得る人物に関する一般公開されている情報をファイルにまとめ、2005年のコンクラーベのためにローマに持参した」と語ったことを思い出す。

 さらに広く言えば、カトリック信者は「誰が次の指導者になる可能性があるのか」を知る正当な関心を持っている。そして、その関心を満たすことは、決して無礼なことではない。むしろ、それは教皇への最高の敬意であり、その職務に世界中のカトリック信者が寄せる信頼の表れである。

 

 最後に、現職の教皇自身も、枢機卿を任命するたびに後継者を考慮していることを指摘したい。なぜなら、避けられない問いかけがあるからだ―「この人物は教皇にふさわしいだろうか?」。

 

 結論から言えば、「次の教皇について疑問を呈する者は、大罪を犯している」という時代遅れの俗説を捨てる時が来たということだ。それは愚かであり、さらに悪いことに、危険でもある。教皇職は重要であり、私たちは皆、それが次にどうなるかに関心を持っている。(確かに、それは特に「シノドス」の時代には特にそうである、n’est-ce pas?

 2つ目の不満点、つまり「今回の取り組みが保守的である」という点については、明らかな答えは「だから何?」である。 確かにCardinalium Collegii Recensio はかなり右寄りである。ラテン語の表記がその証拠だ。主要な問題の選択は、「伝統主義者の固定観念」を代表するものであり、papabili(教皇になる可能性のある枢機卿)のリストは、現実的なハンディキャップというよりも、右派カトリックの空想のように見えることもある。例えば、レイモンド・バーク枢機卿? 本当か?

 しかし、正直なところ、それらはすべて無関係である。 偏りはあるものの、有益な情報もたくさんあり、参考にすれば多くのことを学べる。このプロジェクトに関わっているジャーナリスト、エドワード・ペンティンとダイアン・モンターニャは、ローマの現場で知り合った友人である。彼らが保守的であることは確かだが、同時に賢明で勤勉であり、情報源も豊富であることは知っているので、彼らの発言には注目する価値がある。
 いずれにしても、ペティンとモンターニャに「次期教皇に関する論評の独占権」を与えた者はいない。他の人々が異なる、そしてより良い情報源を構築することを妨げている唯一のものは、「そのようなことをするのは無作法だ」という愚かで、ほとんど自己矛盾した考え方である。 それを乗り越えれば、コンクラーベ考察という”成長産業”が待っている。

 …ところで、波風を静めるための提案がある。次期教皇についての話題に興奮している人も、落胆している人も、新作映画『コンクラーベ』を観に行ってはどうだろう。その途方もない非現実性、漫画的な登場人物、そして政治的に正しい結末は、途中で良い演技が見られるにもかかわらず、両者を嘲笑の念で結びつけるかもしれない。そして、時にはそれさえも、交わりへの”前払い”となり得るのだ。

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2024年12月17日