(2021.12.30 Crux Editor John Allen Jr.)
ローマ–毎年、特定のストーリーがバチカンのニュース報道を支配している。過去20年間のそれぞれの年の最大のバチカンのニュースの有力候補だった聖職者による性的虐待スキャンダルのように、多くは後ろ向きの傾向があるが、なかには前向きなものもある。
ニュース報道の扱いは、必ずしもそれが重要かどうか、ではなく、「売れる記事」かどうか、報道機関の判断によって決まる。
2021年はローマから、教皇フランシスコの3月のイラク訪問、夏の結腸手術、そして古いラテン・ミサ典礼を大幅に制限するという非常に物議を醸す決定まで、多くのニュースが発信された。
年の終わりに、今年注目された報道を振り返るのは価値のあることだ。ここではそのうちの5つを振り返ってみよう。
5.ハートとディマルツィオ
米国では、シャイアンのジョセフ・ハート司教とブルックリンのニコラス・ディマルツィオ司教が、どちらも聖職者による性的虐待に関わったことが明白になった。一つには、2人とも性的虐待で訴えられたからだが、バチカンでこの問題を担当する教理省で2人とも「虐待の疑いなし」とされた。
ディマジオが2人の人物によって告発される一方、ハートは12の別々の虐待の罪で訴えられていた点で、事件は異なっていた。ハートの場合、告発にある程度の信頼を与えた個人的な行為が過去にあったようだ。 結局、バチカンは、12の訴えのうち7つは虐待は認められない、とし、他の5つは虐待を証明できない、と判断したが、それでも、彼が未成年者と2人でいたことがあったケースがあるとし、「慎重さが甚だしく欠如」していた、と注意を与えた。ディマジオの場合、教理省は、2件の訴えが「真実の外見」を欠いていると判断した。
いずれにせよ、二人の司教の”事件”は、ジャーナリズムの”厳格な法則”を2021年において思い起こさせることになった。起訴されたら、トップ記事になるが、無罪放免なら、中面に落とされる。 確かに、聖職者による性的虐待スキャンダルの苦い教訓は、”火の無い所に煙は立たない”の諺のように、すべての告発は(それが真実である、という前提で)真剣に受け止められなければならない、ということだ。二人の司教の”事件”も、告発は証拠には必ずしも結びつかず、現実は、諺が言うよりも、ずっと厄介で複雑なケースが多いことを、改めて知らしめた。
4. オリバー師のバチカン未成年者保護委員会のトップ解任
米人の高位聖職者ロバート・オリバー師が4月にバチカンの未成年者保護委員会のトップを解任されたこと自体は、大きな問題ではなかった。彼はすでにバチカンに9年間働いており、そのポストは、非常に神経を擦り減らすものだった。
オリバーの”追放”で注目に値するのは、追放そのものではなく、どのように追放されたのか、である。私たちは、「バチカンへの奉仕のために人生のほぼ10年を捧げた、親切で寛大で、完全に献身的な勤労者」について話しているのだ。バチカンは、彼を”追放”することに決めた時、彼よりも高位の聖職者が、彼を脇に連れて行って、「よい仕事をしてくれました」と感謝しただろうか?教皇のメダルか何かを与え、小さな送別会を開いただろうか?
いや、その代わりに、彼が米国に戻る途中で目にしたのは、自分の名前の無いバチカンの未成年保護委員会の再任者リストの載せた広報資料だった。もっとも公平を期すなら、このような扱いは彼だけではない。バチカンの、職員の大半についてとられるやり方だ。それが、私が、バチカンを「HR pandemic(悪しき人的資源活用法の感染症)」を患っている所、と呼ぶゆえんである。
バチカンが、慢性的な虐待と最も価値ある資産、すなわち労働力への配慮の欠如という慣習を打ち壊せない唯一の理由は、”すべて”のオリバーに共通するものだ。つまり、教皇の電話に喜んで応える、才能があり、献身的な人物が他にもいる、ということである。それは素晴らしいことだが、率直に言って、オリバーに対してバチカンが示した振る舞いの言い訳にはならない。
3.教皇とユダヤ教の最高権威
このことが2021年に起こったことを覚えていなくても、気分を害する必要はない。イスラエル国外ではほとんど関心を引かなかったからだ。だが、8月、教皇フランシスコがユダヤ法を意味する律法についてのコメントで、ユダヤ人の世界で論争を巻き起こした、という事実は変わらない。
「法(律法)は命を与えない」と教皇は8月11日の一般謁見での講話の中で発言した。「それは命を充足できる能力がないので、約束を達成することはありません… 命を求める人は約束と、キリストにおける達成を求める必要があります」。
ユダヤ教とカトリックの対話に携わっている経験豊富な人々の中から、そのようなレトリックは、置換神学(新約聖書解釈の一つで、選民としてのユダヤ人の使命が終わり、新しいイスラエルが教会になった、とする説)に強く影響されたもの、と批判の声が上がり、イスラエルのユダヤ教のラビの最高権威が、バチカンに抗議の手紙を送って「(教皇の)講話で示された侮蔑的な言葉は、明確に否定される」よう求めた。
それから一か月後の9月初旬の一般謁見で教皇は、「単なるキリスト教教育…そして他には何もありませんでした」。ユダヤ教や他の主題についての間違いのない教えを宣言するつもりはなかったので、実際には、発言に見るべきものはなかった、という意味だった。
その間、ユダヤ教とカトリックの対話の教皇の代理者であるスイス人のクルト・コッホ枢機卿は、教皇の2015年の発言を引用した書簡をラビに送り、「キリスト教徒はキリストに、ユダヤ教徒は律法に、一致を見出しています」と釈明し、教皇はその後、最高位ラビに「新年が、主の法に忠実に歩む人々にとって良い年でありますように」と祈りを込めた挨拶を送った。、
この出来事は、教皇の見方がどのようにコントロールされているかを思い起こさせるものだ。教皇は、宗教間対話を支持するリベラルな改革者と見なされているため、相手を軽蔑するよう見みられる発言はマスコミから軽視されるか、無視される。だが、(「カトリック・あい」注:放言が他宗教とたびたび摩擦を起こした)教皇ベネディクト16世が、フランシスコとまったく同じ発言をしていたら、世間の反応がどうだったか想像してみてもらいたい。教皇フランシスコは、そのことに感謝していることだろう。
2. 信徒組織の活動
多くの点で、カトリック教会の論理が死ぬ場所であり、6月の信徒の活動に対する教皇フランシスコの締め付けは、その象徴的な例と言っていい。教皇は、ほとんどの点で、「千本の花を咲かせる」種類の人物であり、聖職者の権力掌握に挑戦する運動にとって、特に有利だ、と思うかもしれない。
フランシスコは、そうした運動の一つ、聖エジディオ共同体にも非常に関心が高い。これは、教皇が定期的にローマに迎え入れる難民の世話を含む、幅広い問題で頼りになる選択肢なのだ。だが、6月に彼がとった行動ほどきつい対応をした者は、最近の歴代教皇で、彼以外にはいなかったようだ。事実上、これまで創設者が一生ショーを運営する傾向があったこれらの運動の指導者に任期制限を課し、また、すべてのメンバーが指導者の選出に当たって発言権を持つことを確実にする措置を取るよう命じた。
この動きは、バチカンが長年にわたって、組織の指導者の権力の乱用を中心に、そうした組織の現役とOB/OGからの無数の苦情申し立てがあったという事実に対する単なる応答だった。したがって、組織のトップ交代と民主的な継承方法を確保することは、行政上の自然の成り行きだ。
だが、信徒の活動が教会の性的虐待スキャンダルの次のフロンティアでもあると多くの関係者は確信している。世界の教区、神学校、修道会の大部分は、これまでに彼らの行為を浄化したが、これらの半自律的な信徒の組織に対しての教会による監視は、まだきちんと整備されず、潜在的な”地雷原”は残ったままだ。
1.バチカンにおける”その他”の裁判
バチカンの検察官が夏の間、ロンドンにおける不動産巨額取引問題の調査を進める中で、現職の枢機卿でバチカン国務省の元”参謀”の起訴を決めた時、その後の裁判が”cause celebre 〈フランス語で、世間の耳目を集める事件)となり、強い関心を集めまた。検察官が起こした「世紀の裁判」は自らの重さで崩壊するかのように見え、今その決定を後悔するかもしれないが、とにかく、人々の注意をいまだに引いている。
その間、今年のもう一つのバチカンでの重要だが、あまり目立たなかった裁判が始まった。最近までバチカンの敷地内に置かれていた聖ピオ十世小神学校での生徒による他の生徒に対する性的虐待を巡る裁判だ。
今は28歳の司祭であるガブリエル・マルティネリは、2007年から2012年にかけての少年時代に、LGのイニシアルで呼ばれる同じ神学生寮の年下の少年を性的に虐待したとして起訴され、裁判に持ち込まれた。虐待がされたとされる時期に、その施設の司牧者で、この問題の調査を妨害したとして告発されていたエンリコ・ラディス神父も、同様に起訴された。
この事件は非常に複雑だったため、多くのマスコミは、記事にするのをやめた。その理由の一つは、未成年者が別の未成年者を性的に虐待したとされる場合、大人が加害者である場合ほど犯意が明確でないこと。
もう一つは、虐待の被害者が実名でなくLGというイニシアルだけで示されたため、信ぴょう性に欠ける可能性があるように見られたことだ。”水をさらに濁らせる”のは、古いラテンミサ典礼をめぐる根深い深い対立が、その小神学校には存在し、マルティネリは第二バチカン公会議後の新ミサ典礼を支持する陣営に属し、被害を訴えたLGはもう一方の陣営ー古いラテンミサ典礼に属していた、そして、その対立がどの程度事態を悪化させたのかを知ることも不可能だった。
結局、マルティネリとラディスは共に無罪となった。バチカン裁判所は、マルティネリが告発者に加えて、他の小神学生と性的関係を持ったことを認めたが、それが”強制”されたものだった、という証拠を見つけることができなかった。
だが、裁判の中で浮上した重要な問題は、誰が小神学校の責任者なのか、誰も本当に知らなかったということだった。この小神学校は、イタリアの修道会であるOpera Don Folciによって設立され、イタリアのコモ教区によって運営されていた。だが、バチカンの敷地内にあるため、ほとんどの人は、聖ペトロ大聖堂の”首席司教”かバチカン市国の政府責任者によって監督されているもの、と考えていたようだ。
実際には、「誰かが担当しているのに、担当者が誰もいない」という典型的なケースであり、結果、この小神学校は、一種の”真空状態”の中で運営され、そのことを誰も気にかけていなかったのである。
性的虐待の容疑がかけられた行為は、前教皇、ベネディクト16世の治世に起こされた。世界の教会内部での性的虐待に関する数々のスキャンダルはすでによく知られるようになっており、信頼回復のためのバチカン改革が始まっていた時期だ。仮にこの小神学校で性的虐待がなかったとしても、明らかにそのようなことを放置する環境があった。監視についての明確さの欠如は、実際には2021年までずっと続いていた。教皇フランシスコが小神学校の施設をバチカンの敷地外に移すよう命じた時、問題の責任が教皇にないことが明らかになった。
バチカンが自分の”領土”内に、少年のための住まい置いており、そこで、少年たちがあらゆる種類の年上の神学生や聖職者と定期的に接触していたが、権威ある立場の者が”ダムが決壊する”まで、誰も”品質管理”を行わなかった可能性について問う必要がある。それは、バチカン改革の進展状況について疑問を抱かさせる問題であり、改革の狙いの一つである「管轄権の重複」の解消がされた、と信じる理由はない。バチカンの敷地外の、どれほど多くの教会の機関、学校、運動体、その他のカトリックの独立体が同じような問題を抱えているのか、誰がそれぞれの場所にある”店“を気にかけているのか、疑問に思うだけだ。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
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