(2018.4.11 Tablet Laurence Freeman)
聖性についての教皇フランシスコの考えは、大量消費至上の個人主義の手ぬるい凡庸さ、それと同時に、知的説明に走る宗教性に対する、預言的な怒りに根差している。
新しい使徒的勧告の簡潔で、巧みに作られた5つの章で、教皇フランシスコは、カトリック教会の説教壇から語っているが、その聴き手は、現代の信仰の危機にある全ての人だ。
彼は、空虚なライフスタイル、目に余る消費、そして貧しい底辺の暮らしをしている人々の中に神を見ようとしないことで生み出された人間の堕落を白日の下に晒している。フランシスコは具現化された霊性、教皇職のもつ決定的な主調―「現実は理想よりも偉大だ」という彼の言葉で表現される―によって、突き動かされているのだ。
教皇に就任して以来、「福音の喜び」「(家庭における)愛の喜び」に次いで三つ目となる今回の使徒的勧告 Gaudete et Exsultate (“Rejoice and Be Glad”) は、聖性に関する神学的な学術論文ではなく、聖性への願望を高めようとする信仰にあふれた口説き文句だ。
こうした願望がなぜ、真の幸せをもたらすことになるのか。それを説明するために、フランシスコは、消費主義の隔絶した浅薄さと対比させて、聖性が個人の道徳的な完全さや他者の賛同に関するものではないことを、私たちに思い起こさせて、こう語る―「聖人の語ることすべてが、福音書に完全に忠実である、ということではありません」。聖人の人生全体を良く見つめる必要があるのだ。
教皇が名指しするカトリック教会最初の聖人たちは女性たちだ。そして、聖性の「女性らしいスタイル」について述べ、具体的、経験的な聖性というテーマを女性の日常的な振る舞いを例に使って説明している―ある女性が買い物にでかけ、(主婦たちが好むうわさ話の輪に入るのを避け、くたびれて家に戻るが、助けを求める子供に気を配り、沈黙の祈りで一日を終える。聖性は、特種な人や世間から隔絶して暮らす人にあるのではない。私たちのそばに住む良き隣人とかかわること、私たちがすでにやっていることをもっと完全にする方法を見つけ、特別な方法で普通の事をすること、の中にある。聖性は、沈黙の、一人の、静寂の時を必要とするが、「他の人々との交流を避けて静寂を愛することは健全ではない」。
聖性は、受肉の神秘に基礎を置いた、実際の一生の過程だ。共同体社会は、日々の一瞬一瞬を通して動いていく生き方の実習室であり模範。祈りは、日々の愛の約束と聖イグナチオが識別、心の知力と言明した深い祈りの特別な恩恵を育てるゆえに大切なものだ。これは、小さないくつものしぐさからなるが、明白な、キリストを中心に置いた神秘主義の聖性である。環境問題に関する回勅Laudato Si’で、フランシスコは創造の神秘主義と挑戦的な社会、経済的な論評を結びつけている。今回の使徒的勧告では、教皇はイエスのように、聖性の敵―明確な外部の敵ではなく、ずっと内部に近いもの―を激しくたたいている。
(物質と霊の二元論をとる)「グノーシス主義」と(原罪を否定し人間 の自由意志と禁欲を強調する)「ペラギウス主義」がカトリック教会でいまだに人気のある異端の害毒だ、と指摘し、このうち「グノーシス主義」については、肉体から離れた絶対化された宗教的主知主義―教皇がしばしば批判する「聖職権主義」の特徴―であり、「ペラギウス主義」は恩寵の常に先取的な役割に対する自己満足的な盲目、との見方を取っている。教皇は直観的に調和よりも独創性を優先する―ということが、教皇の聖性についての理解に不可欠だ。
これは、聖性の熱情的、預言者的な理解である。教皇は、預言者たちがしたように、いかさまの聖性に怒りを覚える―だが、すぐに、怒りから確信に移る。彼の聖性の手順は誰にでも適用される。ひとりよがりの選民意識と我々作る文化を見て彼を悲しませるような、退屈な凡庸さを、彼はともに避ける。人間が置かれた状態としての孤独は、消費者個人主義によってさらにひどくなる。(注・そうした現代社会において)聖性は「癒し」だ。
聖書は彼を駆り立てる。フランシスコは、イエスの言葉に直接、立ち戻るように、私たちを強く促す。生き方を変えるよう求めることで私たちを動揺させる。八福(注・キリストが山上の垂訓で説いた八つの幸福の教え)についての評論で、教皇は「心において貧しい人は幸いである」というイエスの言葉を「私たちが真の安心を得る、まさにその場を見出すために自分自身を見つめるよう招くもの」として理解し、柔和さを「常に支配、管理しようとすることで疲弊することから救う既存の文化を否定する徳」と理解している―心に残る洞察において、教皇はこう言っている―「私たちの最も深い願望は、柔和さに満ちている」。
フランシスコは新たな例をひいて元のテーマに戻る。彼は書いている―聖性は「神秘的な歓喜( 注・キリスト教終末論においてイエス・キリストの再臨の際に起きるとされる現象)に恍惚となる」ものではない。むしろ、寒い夜に家の外で寝ている人に出会った時の私たちの対応に例えられる―と。今の世界における聖性の実際的なプログラムの中で、難民危機は、生命倫理よりも優先すべき課題だが、教皇は、キリスト教が「光り輝く神秘をはぎ取ったNGOのようなもの」になる危険がある、と警告している。自分自身の中にキリストを見出すことは、一人ひとりの中にキリストを歓迎するのを認めることだ。ロシアの霊的古典「巡礼の道」の著者が行っていた絶えることのない心の祈りは、彼を彼の周りで起きていることから彼を引き離すのではない。「長い祈りの沈黙なしには、まず、私たちはできない」―とこのとても活動的な教皇は、私たちにこのように生き生きと思い起こさせる」。
私たちはまた、この勧告の中にイエズス会士、フランシスコを見る―識別、日課となっている自己究明、瞑想―だ。教皇は、一人ひとりの聖人の人生の中にマルタとマリアの一致を見ている。教皇がいかにして規則正しく聖務日課と個人的な祈りをしているかに、数多く言及している。この疑いのなさは、教皇が日々の祈りの時に置いている大切さを説明する。この中に、私たちは、急進的な仕方―私たちの文化の疎外された世代のためのキリスト教徒の聖性の道を新たにするもの―の中に働く教皇の伝統への本能的な敬意を見るのだ。
1943年に、シモーヌ・ベイユは「今の時が求める『新たな聖性』、新鮮な泉と創作力」を予見した。この使徒的勧告で、教皇フランシスコは、退屈な凡庸さと宗教的選民主義を拒否する、人の姿をした聖性のプログラムの中に「ささやかな日々の事柄」の包括的な神秘を見ることによって、この「新たな聖性」を雄弁に推奨している。教皇は、全ての人生の目標としての聖性への教会の呼びかけを新にしたのだ。
「聖性を恐れないように」-フランシスコは強く勧めている。
(Laurence Freeman はベネディクト修道会所属の修道士。キリスト教徒の瞑想の世界協会(WCCM)事務局長)