・「故教皇が重きを置かれた『神の慈しみ』は、私たちを信仰の中心へと導く」-パロリン枢機卿、27日の服喪ミサで (2025.4.27 Vatican News Devin Watkins) バチカン国務長官、ピエトロ・パロリン枢機卿が27日の復活節第2主日(主の慈しみの主日)、聖ペトロ広場で、故フランシスコ教皇を悼む「9日間」の2日目のミサを捧げ、世界と私たちの心の平和のためにキリストの限りない慈しみに目を向けるようキリスト教徒に呼びかけた。 パロリン枢機卿は、説教の中で、イエスの死後、使徒たちが上座の間に身を寄せていた時の恐れと悲しみを思い起こさせるこの日の福音書は「主の復活の翌日に亡くなり、26日に埋葬された故教皇フランシスコを悼むキリスト教徒の心境を表しています」と指摘。「教皇の死に対して、私たちを襲う悲しみの感覚、私たちの心に感じる動揺、困惑の感覚。私たちは、イエスの死を嘆き悲しむ使徒たちのように、これらすべてを経験しています」と述べた。 そのうえで、「キリストはまさにこの暗闇の中で、復活の栄光のうちにご自身を現し、私たちの心を照らすために来られるのです」とし、「教皇フランシスコは就任以来、私たちにこのことを思い起こさせ、福音の喜びを教皇職の中心に据えて、たびたび繰り返して来られたのです」と語った。 「ティーンエイジャーのための聖年祭」の期間中に行われたこの追悼ミサには、多くの若者が参列した。その若者たちに向かって、枢機卿は「たとえ喪失の痛みの中でも、主の復活の喜びを迎える」よう促し、イエスが常に 「生きる勇気 」を与えてくださることを思い起こさせた。 続けて、枢機卿は、この日が「神の慈しみの主日」であることに注意を向け、「教皇フランシスコの教えは、神の慈しみに大きな重点を置いておられました… 教皇に対する私たちの愛情は、今この時に現れています。私たちは、神の慈しみに自らの心を開き、また互いに慈しみ合うことで、教皇が残された遺産を受け入れ、私たちの生活の一部としなければなりません」と強調。「慈しみは、私たちを信仰の中心に連れ戻し、私たちと神との関係や教会としてのアイデンティティを、この世のものではなく、神の範疇に従って解釈する助けとなります」と付け加えた。 そして、「福音の良き知らせとは、何よりもまず、私たち一人ひとりの長所に関係なく、慈愛に満ちた優しい感情を抱いておられる神に愛されていることを発見することです。私たちを限りなく愛し、赦してくださる方がいてこそ、私たちは転んでも立ち上がり、未来を見据えることができるのです」と述べ、「慈しみだけが、憎しみと暴力の火を消し去り、癒しと新しい世界を創造するのです」と指摘した。 「復活した主は、神の愛と赦しを喜んで受け入れる人々のために、人類のための慈しみの道具となるよう、弟子たち、すなわち教会に指示しておられます」とした枢機卿は、「教皇フランシスコは、傷ついた人々に優しく身をかがめ、慈悲のバームで癒す教会の輝く証人でした… 互いを認め合い、赦し合うことなしには平和はあり得ないと強く信じておられました」と強調した。 最後に枢機卿は、「私たちは、教皇フランシスコがご自身の埋葬の場として聖マリア大聖堂をお選びになるほど献身された聖母マリアに、私たち自身を委ねます。マリアが私たちを守り、私たちのために執り成し、教会を見守り、人類の平和と友愛の旅を支えてくださるように」と祈って、説教を締めくくった。 (翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二) ツイート
(2025.4.27 Vatican News Devin Watkins) バチカン国務長官、ピエトロ・パロリン枢機卿が27日の復活節第2主日(主の慈しみの主日)、聖ペトロ広場で、故フランシスコ教皇を悼む「9日間」の2日目のミサを捧げ、世界と私たちの心の平和のためにキリストの限りない慈しみに目を向けるようキリスト教徒に呼びかけた。 パロリン枢機卿は、説教の中で、イエスの死後、使徒たちが上座の間に身を寄せていた時の恐れと悲しみを思い起こさせるこの日の福音書は「主の復活の翌日に亡くなり、26日に埋葬された故教皇フランシスコを悼むキリスト教徒の心境を表しています」と指摘。「教皇の死に対して、私たちを襲う悲しみの感覚、私たちの心に感じる動揺、困惑の感覚。私たちは、イエスの死を嘆き悲しむ使徒たちのように、これらすべてを経験しています」と述べた。 そのうえで、「キリストはまさにこの暗闇の中で、復活の栄光のうちにご自身を現し、私たちの心を照らすために来られるのです」とし、「教皇フランシスコは就任以来、私たちにこのことを思い起こさせ、福音の喜びを教皇職の中心に据えて、たびたび繰り返して来られたのです」と語った。 「ティーンエイジャーのための聖年祭」の期間中に行われたこの追悼ミサには、多くの若者が参列した。その若者たちに向かって、枢機卿は「たとえ喪失の痛みの中でも、主の復活の喜びを迎える」よう促し、イエスが常に 「生きる勇気 」を与えてくださることを思い起こさせた。 続けて、枢機卿は、この日が「神の慈しみの主日」であることに注意を向け、「教皇フランシスコの教えは、神の慈しみに大きな重点を置いておられました… 教皇に対する私たちの愛情は、今この時に現れています。私たちは、神の慈しみに自らの心を開き、また互いに慈しみ合うことで、教皇が残された遺産を受け入れ、私たちの生活の一部としなければなりません」と強調。「慈しみは、私たちを信仰の中心に連れ戻し、私たちと神との関係や教会としてのアイデンティティを、この世のものではなく、神の範疇に従って解釈する助けとなります」と付け加えた。 そして、「福音の良き知らせとは、何よりもまず、私たち一人ひとりの長所に関係なく、慈愛に満ちた優しい感情を抱いておられる神に愛されていることを発見することです。私たちを限りなく愛し、赦してくださる方がいてこそ、私たちは転んでも立ち上がり、未来を見据えることができるのです」と述べ、「慈しみだけが、憎しみと暴力の火を消し去り、癒しと新しい世界を創造するのです」と指摘した。 「復活した主は、神の愛と赦しを喜んで受け入れる人々のために、人類のための慈しみの道具となるよう、弟子たち、すなわち教会に指示しておられます」とした枢機卿は、「教皇フランシスコは、傷ついた人々に優しく身をかがめ、慈悲のバームで癒す教会の輝く証人でした… 互いを認め合い、赦し合うことなしには平和はあり得ないと強く信じておられました」と強調した。 最後に枢機卿は、「私たちは、教皇フランシスコがご自身の埋葬の場として聖マリア大聖堂をお選びになるほど献身された聖母マリアに、私たち自身を委ねます。マリアが私たちを守り、私たちのために執り成し、教会を見守り、人類の平和と友愛の旅を支えてくださるように」と祈って、説教を締めくくった。 (翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)