・欧州教会のリーダー、オロリッシュ枢機卿が単独会見ー日本での経験、性的虐待、教会離れ、”シノドスの道”、司祭独身制…(LaCroix)

Leading European cardinal says “Church must change”

(2022.1.24 LaCroix  Loup Besmond de Senneville | Vatican City)

 欧州連合司教協議会委員会(COMECE)の委員長でルクセンブルク大司教のジャン=クロード・オロリッシュ枢機卿(元上智大学副学長)が24日、LaCroixとの単独会見に応じ、カトリック教会が抱える問題ー欧州での信徒の減少、欧米でカトリック教会としての役割を担い続ける上での課題、司祭の独身制の議論、司祭による性的虐待とその対応ーなどについて率直に語った。

 オロリッシュ枢機卿は、来年10月の世界代表司教会議(シノドス)通常総会に向けた”シノドス”の歩みで世界の教会から出される意見のとりまとめなどの役割を、教皇フランシスコから委ねられてもいる。

 会見の内容以下の通り。

*カトリックの中で育ち、日本で神学生として“危機”に

LaCroix : あなたは日本で宣教師として活動された経験を持つイエズス会士で、ルクセンブルクの大司教であり、枢機卿です…あなたは、常に、変わらぬ神の追求を続けてきましたが。

オロリッシュ枢機卿:私が最初に日本で過ごしたのは1985年から、若い神学生としてでしたが、とても大きな衝撃を受けました。私は、カトリック信徒が大半のルクセンブルクで育ってきました。様々なカトリックの背景を持ったイエズス会士とともに、カトリックの“典型”ともいえるものを持って日本にやって来たのですが、それでは日本の人たちの求めに応えられない、ということが、すぐに分かったのです。

 私にとって、これは“危機”でした。それまで自分が持っていた信仰の豊かさであった信心深さを脇に置き、私が好んでいたやり方を断念せねばならなかった。私は選択を迫られましたー私が分かるやり方が見つけられない、だから自分の信仰を放棄するか、それとも、”内なる旅”を始めるかー。私は後者を選びました。神への信仰を宣言する前に、私は神の探求者にならねばなりません。私は主に、こう問いかけましたー「神よ、あなたはどこにいらっしゃるのですか?伝統的文化の中に、そして超近代の日本の中に、ですか?」。

 それから約20年、ドイツでの勉強や、ベルギーでの司祭叙階などをはさんで、ほとんどの期間を上智大学の教員や、副学長、理事など日本で司祭、教員、大学経営の仕事をし、10年前に欧州に戻った時、また最初からやり直さなければなりませんでした。正直なところ、私が青年期を過ごした欧州の”カトリック”がある、と思っていたのです。ところが、そのような世界はもはや存在しませんでした。今、この世俗化された欧州で、私は日本に足を踏み入れた時と同じことをしなければならないー「神を求める」です。

*欧州の”教会離れ”、新型コロナ大感染で加速

LaCroix :今日の欧州は、“布教地”に戻っているのですか?

オロリッシュ:以前から、ずっと、です。私の若い頃のルクセンブルグはアイルランドに少し似ていましたーすばらしい聖体行列、多くの人々の確固たる敬虔さなどがありました。私が子供の頃、子供たちは皆、教会に行きました。両親は行きませんでしたが、当時の習慣で私を教会まで送ってくれました。学校で、私のクラスの子が初聖体を受けなかったので、大問題になったのを覚えています。今、大きな話題になるのは、初聖体を受ける子がいた時ですね。

 もっとも、振り返ってみると、こうした過去は、それほど栄光に輝いていたわけではなかったのです。子供だった私には、はっきりと認識できませんでしたが、ルクセンブルクを含む欧州の社会にはすでに多くの亀裂や偽善が生まれていたのです。人々は教会には出かけていましたが、もはや神を信じなくなっていた。それは現在とそれほど変わらなかった。日曜に果たすべき習慣は持ち続けていても、それは、イエスの死と復活を信じてのことではありません。

LaCroix :では、「文化としてのカトリック」は終わった、と思いますか?

オロリッシュ:いえ、まだ終わってはいません。世界のさまざまな地域で事情は異なります。ただし、いま世界中で蔓延している新型コロナウイルスが、そうした流れを加速すると、言えるでしょう。ルクセンブルクでは、教会に来る人が以前の3分の2になっています。3分の1は戻って来ない。中には、”宗教的慣習”に従って教会に行くのを苦痛と感じる年齢層の人たちもいます。

 ただ一方で、日曜のミサに与ることが、生活に安定をもたらす重要な儀式になっている信徒もいます。多くの人にとって、自分自身を「カトリック」と呼ぶことは、公衆道徳をまとった一種の”仮面”です。彼らが社会の動きについていき、「良いクリスチャン」になるのを助けますが、「良いクリスチャン」が実際に何を意味するのかを分からない。このような時代は終わらせなねばなりません。今こを、信仰を基礎に置いた教会を建てなければならないのです。

 私たちが今も、将来も、”少数派”であることは分かっています。そのことに驚いたり、悲しんだりすべきではありません。私は、主が今の欧州におられることを確信しています。疑いの余地はない。その問題で悩むことはありません。若い頃、私はそれを見つけられないのでは、と心配しました。恐怖に悩まされました。私は見つけ出さねばならない。そうしないと沈んでしまう…と。今、私は、当時よりも、ずっと平安です。

*それでも神はおられるー私は主の道具

LaCroix :それは”年の功”によるものでしょうか?

オロリッシュ:”年の功”のようなものがあるのか、私には分かりません (笑)。でも、あったら、うれしいですね!実際には、私はいつも同じ愚かなことをして、いつも同じ壁にぶつかります。少なくとも、壁がそこにあり、ぶつかって傷つくことは分かっています。私が主の道具にすぎないことも知っています。他にもたくさん…。こうした認識は、「神を告げる”必勝の方程式”がある」という人たちに対して、私に少しばかり疑問を持たせます。

 

LaCroix :魔法の”献立”というものはありませんか?

オロリッシュ:ありません。あるのは”福音の謙虚さ”だけです。若い時に、魔法の献立を信じましたか?もちろん、私は信じました。でも、それは若者の持つ美しく、愚かな考えです。若い人たちの熱意も表わしていますが。

 

*福音のメッセージを、現代社会に適した形で伝える必要

LaCroix :キリストのメッセージは、今日でも妥当なものと言えるのですか?

オロリッシュ:そうです。キリストの死と復活の後、2000年を経ても、人は変わらないからです。私たちは、今でも幸せを探し求め、見つけることができない。果てることなく渇き続け、自分の限界に直面し続けています。他の人々に対して深刻な結果をもたらす”罪”と呼ばれる不正を行います。そして今、私たちは人を抑圧する傾きをもつ文化ー消費文化の中に生活しています。この文化は、人間に欲望を満たすことを約束しますが、それはできません。

 そうした中にあっても、人は、危機に直面したり、ショックを受けた時に、多くの疑問が心の中に眠っていたことに気づきます。福音のメッセージは、この疑問に答え、幸福の探求に応える、非常に新鮮なメッセージです。福音のメッセージは、現代社会にあっても、妥当性を失っていませんが、”メッセンジャー”が”昔のままの衣装”で登場することで、メッセージそのものを適切に伝えることが出来ていないのです。現代に適応した伝え方になる必要があります。

 もちろん、メッセージ自体を変えるのではなく、現代社会で、人々に理解できるように伝えねばなりません。世界は答えを探し求め続けていますが、残念ながら、私たちの目指す方向に向いていない。人々がキリストに顔を向けることができるようなやり方で、福音のメッセージを提示せねなりません。

 

*”シノドスの道”の主席報告者として、まず「耳を傾ける者」に

LaCroix :それがまさに、教皇フランシスコが来年10月の世界代表司教会議(シノドス)通常総会の開催と、それに向けた”シノドス”の道”の歩みをお決めになった理由ですね。あなたは、教皇から、そのgeneral rapporteur(主席報告者)に任命されています。あなたは最近、「報告に何を書くか分からない」と言われましたね?

オロリッシュ:私は(注:general rapporteurとして)、”耳を傾ける者”でなければなりません。私が皆さんに数多くの提案をすれば、様々な異なる意見を持つ人たちの意欲をそぐことになります。私の頭を満たし、紙幅を費やすのは、皆さんです。それが”シノドス”なのです。”開かれ”ていなければなりません。教皇はおっしゃいます。「”大工の棟梁”は聖霊です」と。ですから、聖霊に働いていただく余地も残さねばなりません。

 ”上意下達”が通用しなくなっている現代、この方法は重要です。社会、政治、経済、すべての分野で、重要になっているのは”ネットワーキング”です。この意思決定過程の変化は、私たちが直面している文明の真の変化と密接に関連しています。そして教会は、歴史を通して常にしてきたように、その変化に適応せねばなりません。過去との違いは、「文明の変化が前例のない力を持っている」ということです。

 私たちには、20年あるいは30年かかっても誰も理解できない神学があります。今の文明は過ぎ去ります。それゆえ、私たちには、福音を基礎に置いた”新しい言語”が必要なのです。そして、教会すべてが、この新しい言語の開発に参加せねばなりませんーそれが、シノドスの持つ意味です。

 

*キリスト教を政治家の”スーパーマーケット”にしてはならない

LaCroix :あなたは、昨年10月初めにローマで開かれた欧州の右派と中道右派の政党の会議に、欧州のカトリック教会の代表者として出席されました。同席したパロリン枢機卿(国務長官)は退席する際に、「キリスト教を、一定の価値を持つもの限定の”スーパーマーケット”と見なさないように」という言葉を残しました。政治家たちの間には、そのようにキリスト教を見なす”誘惑”があるのでしょうか?

オロリッシュ枢機卿:明らかにあります。右派の人々は、キリスト教をシンボルとして使います。ロザリオや十字架を好みますが、これは必ずしもキリストの神秘を受け入れているわけではなく、過去の欧州文化が背景にある。そうした文化を維持するために、使おうとしているのです。これは宗教の誤った用い方です。

 一方で左派の人々の中には、地球温暖化と戦う献身的なキリスト教徒ではあるものの、中絶を基本的人権とし、欧州議会で、医師の良心の自由を制限する法案に投票する政治家もいる。こういう人々も、宗教を”スーパーマーケット”のように扱っているのです。

 でも、キリスト教民主主義、社会主義、環境保護主義などの立場をとっていても、キリスト教徒であることはできます。多様な主義をもつ様々な政治勢力は、社会に大きな利益をもたらします。政治家の中には、自分たちの”宗教的嗜好”を表に出さない傾向がよくありますが、それは「宗教」ではなく、「個人的な信念」と言えます。宗教は、それ自体を表現するための公共の場を必要とします。

 

*キリスト教徒の政治的信念の中心には「命と人間」がなければならない

LaCroix :キリスト教徒が政治に参加するのは、そうでない場合よりも難しくありませんか?

オロリッシュ枢機卿:指摘したい第一の現実は、実質的な「キリスト教徒」の数が少ないこと。そして第二の現実は、彼らが政治に関与する機会がどんどん減っている、ということです。これは選挙のたびに見られることですが、一方で、司教の社会に向けたメッセージがもはや伝わっていない。ここ数年、フランスの信徒たちはそのことを経験しています。私たちが少数派である結果です。私たちが何を望んでいるのかを理解してもらうために、もはやキリスト教徒でなくなっている人、キリスト教徒であるだけの人と、時間をかけて話し合わねばなりません。

 キリスト教徒に一定の政治的立場があるとすれば、それは、保守的考え方ではなく、「命と人間が中心にならなければならない」と信じていることです。そう主張するために、政策決定者、あるいは異なる考えを持つ政治家との対話や友情が必要だと思います。

 政治家がキリスト教徒でなくても、私たちは、社会の利益のために力を合わせたいという意思を共有します。分断された社会に住みたくない、と思うのなら、互いの話を聞くことができねばなりません。

*過去の言説に捕らわれず、謙虚に他者を理解し、社会の架け橋となる

LaCroix :このことは、教会が自分考えを守るのをあきらめることを意味するのですか?

オロリッシュ枢機卿:いいえ、そうではありません。私たちに求められるのは、他者を理解し、社会との懸け橋を作るように努めることです。キリスト教的人類学について語る場合、相手の人間的な経験に基づいて語らねばなりません。キリスト教的人類学は素晴らしいものですが、私たちが語り方を変えなければ、すぐには理解してもらえないからです。

 

LaCroix :私たちの話を聴いてもらえない場合、話すことは、どのような意味があるのでしょう?私たちが正しい側にいるのを確認するために、話すのですか?私たち自身の支持者を安心させるためですか?それとも私たちは聴いてもらうために話すのですか?聴かれるために必要なことは何でしょうか?

オロリッシュ枢機卿:第一に「謙虚であること」です。外部の人は、本人が必ずしも意識していなくても、キリスト教徒に、「普通の人よりもすべてのことをよく知っている」というイメージを持っていると思います。ですから、「謙虚さ」をもってを接しないと、相手と対話に入ることができません。これのことは、また、他の人から学びたい、という姿勢を示す必要があることを意味します。私は中絶に完全に反対です。キリスト教徒としてそれ以外の立場をとることはできません。ですが、そうした主張に女性の尊厳に対する配慮があり、過去に中絶法に反対するために主張した私たちの言説はもはや通用しない、ということは理解しています。

LaCroix :そうだとすると、命を守るために、他に何ができるでしょうか?

オロリッシュ枢機卿:過去の言説がもはや重みをもたなくなった以上、私たちはそれに執着してはならない。他の方法を探しましょう。

*聖職者の性的虐待、”怪我”を恐れず、教会を変える

LaCroix :フランスでは、聖職者による性的虐待に関する独立調査委員会の報告書で多数の司祭が虐待に関わっていたことが明るみに出るなど、教会内部でなされた性犯罪のために、教会に対する信頼が大きく失われたと多くの人が受け止めています。このような危機について、どのようにお考えですか?

オロリッシュ枢機卿:まず、このような虐待行為は、スキャンダルだ、と言いたい。フランスの独立調査委員会が調査報告で明らかにした数字を見ると、「少数による過ち」とはとても言えません。教会組織全体のどこかに障害があるわけで、それを解明する必要があります。私たちが受けるかも知れない怪我を恐れではなりません。そのような傷は、性的虐待の犠牲になった方々が受けた傷に比べれば、何も無いのと同じです。私たちは、正直になり、痛手を負うことを承知で対応する必要があります。

 数週間前、私はポルトガルでミサを奉げました。ミサの参加者には、私が良い牧者であるかのように見つめている小さな男の子がいました。私を神の代理者と見なしてくれたのです。そのような子供を虐待するのは、まさに犯罪です。教師やスポーツコーチによる虐待よりも、はるかに深刻な犯罪です。「教会を守る」ことを理由にして、こうした行為が容認されてきた、という事実は、痛恨の極みです。(注:未成年に対する性的虐待に)目をつぶった!それはほとんど取り返しのつかないことです。

 あなたの質問に戻りましょう。人々の中には、教会に対する信頼を無くした方もいます。信頼を取り戻すためには、それが可能であれば、まず、謙虚さを持たねばなりません。地域社会や人と共に歩もうとするとき、歩みを共にする人に対して心からの敬意を払わねばならない、ということを常に心に留めておく必要があります。私は、一人たりとも、ないがしろにできません。こうしたことは、”シノドスの道”を歩む中で、すべての人の頭と心に留めておくのが自明であると、私には思われます。私たちは、変化を受け入れる必要があります。

 

LaCroix :教会組織全体に障害があるとすると、「全体を変えねばならない」ということですか?

オロリッシュ枢機卿:その通りです。私の教区には、他の多くの教区と同様に、司祭だけでなく教会で働く一般信徒皆が署名することを義務付けられた行動憲章があります。司祭叙階の前に、神学生に対して、小児性愛の傾向を検出する8つの心理テストを実施するなど可能な限りの対応をしていますが、それだけでは十分ではありません。性的虐待などが繰り返されないような構造の教会にする必要があります。

*女性を含む一般信徒も、司祭育成などに発言権を持つべきだ

LaCroix :それは、どういう意味でしょうか?

オロリッシュ枢機卿:女性や若者たちがもっと声を上げることができていたら、性的虐待などはもっと早く見つけられたでしょう。私たちは、教会の中で、女性たちを重視しない振る舞いを止めねばなりません。女性たちは教会の片隅ではなく、中心にいるのです。教会の中心にいる人たちに声をかけなければ、大きな問題を抱えるでしょう。

 さらに具体的な言及は避けたいのですが、この問題が、シノドスで、様々な文化、多様な文脈の側面から取り上げられるのは避けられないでしょう。いずれにしても、女性たちは、これまであまりにも無視されてきました。私たちは、他の神の民と同じように、女性たちに耳を傾けねばならない。司教たちは、人々の声に耳を傾ける羊飼いでなければなりません。「はい、聞いています。ですが、関心がありません」と言うのは、彼らにとって正しいことではない。”羊の群れ”のただ中にいる必要があるのです。

 

LaCroix :その他に、変えるべきものはありますか?

オロリッシュ枢機卿:聖職者の育成の仕方を変えねばなりません。神学校が、聖職者の育成を非常に重要視していることは理解していますが、典礼だけに集中してはなりません。女性を含む信徒たちが司祭の育成に発言権を持つべきです。司祭の育成は教会全体の義務であり、教会全体が、既婚者と独身の男女と共に、取り組まねばなりません。

*「性」についての教会の見方を変える必要

 また、私たちは「性」についての見方を変える必要があります。これまで、私たちは「性」について、かなり抑圧的な考えをしてきました。だからと言って、何でもしていい、道徳を無くしてしまってもいい、と言うことには、決してなりませんが、「『性』は神からの賜物だ」と言う必要はあると思います。

LaCroix :それは知っています。ですが、私たちはそれを口に出しますか?

オロリッシュ枢機卿:よく分かりません。人々の中には、性的虐待が増えているのは”性の革命”によるもの、と考える人もいます。私の考えは、それと正反対です。私見では、最も酷い行為は、1970年代より前に起きています。

 この問題では、司祭たちが、自分自身の性について語ったり、独身生活で問題を抱えている場合に相談したりできるようにする必要もあります。自分の教区の司教に叱責されず、自由に語ることができなければなりません。同性愛者の司祭たちー数多くいますーについては、そのことを、司教から激しい非難を受けることなく、語ることができればいいと思います。

*司祭の独身制を誇りに思うが、既婚の助祭の素晴らしい働きに注目

LaCroix :独身制と司祭の生活に関してですが、率直に言って、司祭は、どうしても独身でなければならないのでしょうか。

オロリッシュ枢機卿:私は、独身制を誇りに思っていますが、それはかけがえのないものでしょうか?私の教区では、既婚の助祭たちが、とても素晴らしく助祭としての役割を果たしてくれています。彼らの説教は、独身の私たちの説教よりも、もっと強い感動を、信徒の皆さんに与えています。

 

LaCroix :既婚の司祭たちではいけないのですか?

オロリッシュ枢機卿:もしも司祭が、独身生活を続けられなくなったら、私たちは彼を非難せず、理解することができねばなりません。私はもう年を取っているので、この問題にはそれほど関係がありません… 「独身生活に難しさを感じたことがありますか」と聞かれれば、「もちろんです」と答えます。私の人生のある時期には、それはとてもはっきりしていました。そして、時としてどの司祭も恋に落ちるものです。問題は、そのような時に、どのように振る舞うかです。まず、そのことを正直に認め、それから、司祭職を生き抜くことが出来るようにすることです。

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(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。

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2022年1月29日