・”シノドスの道”で日本の司教団が「大陸ステージのための作業文書」についてレポート

(2023.1.15 カトリック・あい)
 日本カトリック司教協議会が12日付けで、”シノドスの道”の歩みでバチカンのシノドス事務局がの「大陸ステージのための作業文書」についてのレポートを出した。”歩み”の進め方が教区によってバラバラなこと、多くの小教区で互いの声に耳を傾ける体制が、”シノドスの道”が始まって一年以上経過した現在に至ってもできていないことなど、”歩み”の進め方に再考の余地があり、このまとめも、各教区などの分かち合いの結果をまとめたものなのか、取りまとめ者の意見なのか判然としない部分が散見されるなど、指摘すべきことは数多くあるが、ここではコメントを加えずに全文を掲載する。
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「大陸ステージのための作業文書」についてのレポート 2023年1月12日 日本カトリック司教協議会

 

はじめに

これは、シノドス事務局が2022年10月24日に発表した「『あなたの天幕に場所を広く取りなさい』大陸ステージのための作業文書」について、日本の各教区が行った分かち合いと意見交換の内容をまとめたレポートです。

期間は短いものでしたが、多くの教区の代表たちが「作業文書」を読み、祈り、黙想し、分かち合いと意見の交換をしました。新型コロナ感染症の感染拡大を避けるため大がかりな集いはできませんでしたが、ある教区は教区内のシノドス・チームがオンラインでのミーティングを実施しました。また、ある教区では、呼びかけを行って小さな単位でのミーティングを実施しました。また、ある教区では司教と司祭評議会のメンバーによる意見の交換を行いました。

「作業文書」についての取り組みをした人々からは、「最初は抽象的な内容が多くて理解が難しかったが、読み進めるうちに共感できる点を多く発見できた」、また、「世界中の教会が同じような現実に直面していることに気づいた」という意見が寄せられました。

そして、今回、シノドス世界代表司教会議第16回通常総会のための大陸別ステージのための「作業文書」を「一信徒にもかかわらず読むことができて、各地の教会とつながっているという連帯感と、安心感を得ることができた」という感想もありました。おおむね、この文書は好意をもって多くの人々に受け入れられている、と思いますし、自分たちが直面する現実を考えるためのよい材料を提供されたと考えられています。つまり、「作業文書」は読んで批評、批判するためにあるのではなく、祈りを触発し、識別するためには有益なものでした。

このレポートでは「作業文書」106に示されている三つの設問にこだわることなく、日本の各教区から寄せられた分かちあいと意見交換の様子をテーマごとに分類して解説していきます。

1. タイトルについて

「あなたの天幕に場所を広く取りなさい」という『イザヤ書』からの引用によるタイトルは、「作業文書」と向き合う際のよいきっかけとなっています。ある教区ではこのみ言葉についてのレクチオ・ディヴィナ(Lectio Dvina)を行いました。そのおかげで、み言葉の時代の背景を深く知ることもできました。今の時代との共通点を見いだすこともできました。いかに多くの人々を天幕へと招き入れるのかが問われていることに気がついた人々もいました。その結果、タイトルから霊感を与えられて(inspire)、グループでの分かちあいと意見交換が豊かになっていきました。

このようなみ言葉に導かれた集い、ミーティングの体験は、参加者にいのちの躍動の新しい体験を与えたのです。さらに、デジタルな天幕という新しいイメージを加え、若い人々と共に歩む必要性を語る参加者もいました。これは「作業文書」を一読して、若い世代の人々の意見が反映されていないのではという疑問から生じるものでした。

タイトルのみ言葉に導かれた体験は、信仰の感覚(sensus fidei)を信者であれば誰もが恵みとして戴いているのだという理解へとつながりました。「作業文書」8と9で示されているように、人々の生きたシノダリティの経験を共有することが可能であるという事実に深く気づくことができたのです。その結果、どの教区でも「作業文書」による分かちあいと意見の交換は、たとえそれがオンラインで行われたとしても聖霊に導かれた霊的な体験となりましたし、この世的な集まりではなく、教会の信仰の共同体による体験となったのです。

 

2. 開かれた教会を目指して

ある人々にとって、この「作業文書」は「開かれた教会」を目指すものであると理解されました。日本のカトリック教会は1980年代から社会に開かれた教会を目指してきました。社会の人々と共に歩む教会を目指してきました。その取り組みの歩みの視点から「作業文書」を読んだ結果です。そして、今、2020年代を迎えて教会はある点で閉ざされたものになっているという反省が生まれました。社会に対して、とりわけ苦しみ、悲しみ、貧困にあえぎ、不当に圧迫され、差別されている人々に対して、教会が開かれた場所になるべきである。さらには、こういった小さな人々にとって教会は安心を与える場所にならなければいけないというビジョン(vision)を分かちあってくれる人々は数多くいました。

 

3. 共同責任と共同識別

このような教会こそが、シノダリティを備えた教会であるという理解は、分かちあいと意見交換をした各教区の人々が共通して抱いていたシノドス的教会の理解だと思います。そのためには共同責任と共同識別は欠かせないという意見が寄せられました。一緒に考え、一緒に責任を果たしていく教会共同体のあり方は必要なものです。しかし、実際には、例えば意思伝達の方法などを取り上げても、教区から小教区へ、司祭から信徒へといったように一方通行なものが多すぎるとの指摘がありました。相互に意見を伝えられる、いわばキャッチボールするような循環型(cycle)の組織へと変わる必要があるとの主張もありました。

また、日本の教会は司祭不足という現実に直面しています。しかし、小教区共同体を守り、宣教するのは信徒自身であって、司祭不足は信徒の活性化のチャンスとなるという分かちあいもありました。これからは、司祭は秘跡を行うことだけに専念してほしいという意見もありました。「作業文書」19、58、59から触発されて、聖職者たちが「共に歩む」教会のあり方に無関心であり、積極的に関わろうとはしないという経験に基づく主張がいくつかありました。「任せることと、丸投げすることとは違う」という発言は、シノドス的教会となっていくために司祭たちのあり方を問いかけるものだと考えます。

すでに2021年に発表された「準備文書」では共同責任と共同識別に関する設問がありました。この点について日本の教会では理解の深まりが乏しかったと思います。しかし、この一年間、それぞれの教区や小教区がシノドス的教会へ向けての独自の歩みに取り組んだおかげで、共同責任と共同識別についての必要性と重要性が理解されてきたと思います。

 

 

4. 「聴く」

共同責任と共同識別を行う教会になるためには「作業文書」11(1)に示されているように「聴く」ことを教会が最優先にしなければなりません。この点については、多くの人たちから意見が寄せられました。「聴く」ことは二つの次元でなされるという主張がありました。一つは教会の外にいる人々の声を「聴く」ことです。複雑化し、閉塞感がある現代の日本社会の中で悲しみや苦しみに直面し、それらに苛まれている人々が少なからずいます。彼らの声に耳を傾け、向かいあう必要があります。

もう一つは教会の中にいる人々の声を「聴く」ことです。伝統的に日本社会は男性中心です。しかし、信仰の共同体の中には多くの女性たちがいます。それでも男性の視点で物事が決められてしまいます。女性たちの意見に耳を傾ける必要があるでしょう。このように二つのものを「聴く」態度は、若者や性的少数者、外国人労働者の声を「聞く」ことへとつながります。こうして、教会の中に「多様性の一致」が生まれるのです。

 

 

5. 存在に気づく

その一方で、耳を傾けて「聞く」よりも前に、様々な生活のあり方、生き方が存在することに「気づく」必要があるという指摘もありました。2000年代以降、日本社会は自己中心的な社会となりつつあります。他者への関心は薄れつつあります。さらにこの数年の新型コロナウイルス感染症蔓延は、人と人とのつながりを断ち切るものとなりました。誰もが感染を恐れ、誰もが孤立の中にあります。そのような状況の中で、どのような生活があり、どのように人々が一生懸命に生き、どのような困難に直面しているかに「気づく」ことこそが何よりも重要であるという意見でした。

「気づき」を促すための信仰の再養成が必要ではないかという提案もありました。なぜなら、ナザレのイエスこそが、人々の喜びと悲しみに気づく方だったからです。さらには信仰の共同体が行っている愛のわざとしての社会活動、例えばボランティア活動なども再編成しなければならないという建設的な意見が生まれました。社会活動の対象者が限定され、実は社会の中でもっと苦しんでいる人、貧しさにあえいでいる人々がいることに「気づく」べきだというものです。

このようにして教会は社会へと出かけて行く教会へと変わっていくでしょう。とりわけ、日本の社会には、外国人労働者が数多くいます。小教区共同体もごく少数の日本人信徒に対して、数多くの外国籍の信徒から成り立っています。彼らと共に生きていくためには、彼らの存在について「気づく」必要があるのです。

 

 

6. 多くの人々と共につくる教会

このように日本にいる移動者、移住者と共に作る教会を目指さなければなりません。シノドス的教会を考える際に「誰と歩むのか」、「誰に寄り添うのか」か、という疑問が生まれてきます。しかし、私たちが相手を選べるのではなく、目の前にいる人と「共に歩み」、目の前にいる人に「寄り添う」のが大切だという意見が数多くありました。教会に集った私たちの目の前にいる人こそが、神さまからのギフトとして与えられたものなのです。

また、信仰の共同体での人間関係に疲れてしまい、時には傷ついた人々もたくさんいるという指摘もありました。こういった兄弟姉妹に寄り添うことも必要ではないのかという提案もありました。さらには、教会が行う環境問題への取り組みも「共に歩む」シノドス的教会を表すものだという意見も多くみられました。

そして、他宗教の方々、キリスト教諸派の方々と一緒に歩む可能性があることも見逃してはならないという意見もありました。「作業文書」52に指摘されている「信仰のあかしが殉教の域に達している」教会もあるという事実に大変驚いたという感想を分かちあってくれた人がいました。「他の宗教の人々とともに歩むためには、預言の勇気が必要です」という一文は祈りと黙想のきっかけとなったそうです。

 

 

7. ケアという宣教の可能性

ある教区では司祭評議会において「ケア」という具体的な宣教の可能性が示唆されていることを、「作業文書」11(2)をテキストに分かちあいました。福音を告げ知らせることが福音宣教であるのは確かですが、具体的にいつ、どのような形で福音を告げ知らせるかを考えてみると、日常生活の中で多くの人々が行っている関わりと交わりとしての「ケア」があるという「作業文書」の指摘は、人をモノのように扱い、利益のみを追求しようとする現代社会にあって新しい宣教の可能性を示しているという分かち合いがなされました。そして、「自分の命をささげるまでにケアする」(11、(2))神の姿を人々に伝えることで、真のケア、真の人間関係を教会が提示できるのではないだろうかという提案もありました。

「ケア」を真に霊的な体験へと変えていくことが福音宣教と結びつくという「作業文書」の意見はさらに深められ、実践されるべきである、と分かちあいました。

 

 

8. 対話し、分かちあうことについて

以上のように開かれた教会、共に歩むシノドス的教会を目指すためには、「聞く」こと、「気づく」こと、「寄り添う」こと、そして「ケア」が必要であることは明らかになったと思います。そして、これらを実行していくためには「対話する」、「分かちあうこと」が何よりも大切な方法論であることにも多くの人々は気がついています。

しかし、その一方で、恐れもあります。まず、信仰の共同体の中で分かち合いの習慣がないという事実です。信仰や体験を「分かち合う」ことに慣れていないのです。また、高齢者が多い日本の社会では、自分の意見を押しつけてしまう人が意外に多いかもしれません。これは高齢者特有の寂しさ、孤独感から生じるものなのでしょう。さらに、信仰の共同体が何か新しいことを始めるときには、必ずネガティブな意見が多数を占めてしまうという事実も複数指摘されました。そのため若い世代や女性などが共同体の中で提案しても実行に移すことが難しいという事実も意見として出されました。

共に歩むシノドス的教会は、信仰の共同体の霊的な成熟に基づいて生まれていくのでしょう。この点について「作業文書」11(4)、(5)に指摘されているような生きた霊性による養成と典礼の重要性についての分かち合いと意見交換がなされなかったのは残念です。しかし、この点についても共同責任と共同識別と同じようにシノドス的教会の旅路の中で次第に自覚され、明確になっていくことでしょう。

 

おわりに

以上、簡単ですが「大陸ステージのための作業文書」についての日本の各教区でなされた分かちあいと意見交換をまとめました。2023年10月の本会議に議論するような具体的な提案はありませんでしたが、教会のあり方をシノダリティの観点から見つめ直す取り組みは日本の各教区ではなされています。200年前に海外からの宣教師たちが始めた日本の教会は、こうして社会の中で生きる命の通った教会へと変化していくと思います。シノドスの旅路は始まったばかりです。聖霊の導きに従って歩んでいきましょう。

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2023年1月15日