(評論)第二バチカン公会議が始めた教会変革は未だに完了していない(Global Catholic )

(2026.9.17 Global Catholic  )

 第二バチカン公会議が開かれて64年が経った今、カトリック教会を大きく変革したが、より深い回心への呼びかけは未だ完了していない。真の試練は公会議を擁護することではなく、それを実践することにある。

*公会議が求めた「回心の精神」に、教会は真に身を委ねているか

 第二バチカン公会議は、完璧な教会を作り出すことを目的として開催されたわけではなかった。教会がその最も深いアイデンティティを再発見し、変化する世界に対してより説得力のある福音を語ることが目的だった。その開会から64年が経った現在、決定的な問題は、第二バチカン公会議が完全に「実施」されたかどうかではなく、「公会議が求めた回心の精神に、教会は真に身を委ねているか」である。

戦争、宗教的分断、移民、不平等、環境危機、そして制度への信頼の低下といった問題が蔓延する世界において、公会議のビジョンは依然として教会に課題を突きつけている。実際、教会の最も重要な役割のいくつかは、これから始まるのかもしれない。

 第二バチカン公会議の最大の功績の一つは、教会に対する新たな理解をもたらしたことだ。

 『教会憲章』は、教会を単に上から統治される組織としてではなく、神の民、すなわち洗礼を受けたすべての人々が共通の尊厳と責任を分かち合う共同体として描写した。また、教会は人類と神との一致、そして人類の統一のしるしであり、手段でもあると提示した。

 そのビジョンは根付き、信徒たちは自らの使命をより意識するようになった。聖書はカトリックの生活においてより中心的な位置を占めるようになり、司教協議会、教区評議会、教会運動、そして新たな形の信徒指導者の育成が世界中で発展してきた。

*公会議が提起した「全員参加」はまだ実現せず、「聖職者中心主義」も消滅していない

 

 しかし、「参加」というビジョンはまだ実現していない。多くの場所で、カトリック信者は依然として教会生活や使命において、「積極的な参加者」というよりも、「受け手」として扱われている。

 「聖職者中心主義」は消滅していない。女性たちは、意思決定や指導的立場における自分たちの役割について、依然として難しい問いを投げかけている。若者たちは、教会が自分たちの声に耳を傾けるよりも、「自分たちのことを語る方が簡単だ」と感じることが多い。

 世界代表司教会議(シノドス)のプロセスは、聖職者中心のモデルを超越することの可能性と難しさの両方を示してきた。2024年のシノドス総会は、交わり、参加、そして宣​​教を教会の未来の中心に据え、この取り組みを第二バチカン公会議の「神の民」というビジョンと明確に結びつけた。

 

*ヨハネ23世が求めたように「恐れることなく現代世界と向き合って」いるか

 

 第二バチカン公会議を始めたヨハネ23世は、公会議に「時代の徴」を読み取るよう求めたことで有名だ。それは、「現代社会が提案するすべてを受け入れる」という意味ではなく、「恐れることなく現代世界と向き合う」という意味だった。

 この点において、第二バチカン公会議は依然として革新的である。『現代世界憲章』は、人類の喜びや希望、悲しみや不安は、キリストの信徒にとっても関心事であると主張した。

 公会議はカトリック信者に対し、「現代文化から後退するのではなく、現代文化と真剣な対話を行うように」と奨励した。

 そのアプローチは大きな成果を上げてきた。カトリック教会の人権、平和、開発、信教の自由、社会正義への取り組みは、公会議によって大きく形作られてきた。例えば、公会議の信仰の自由に関する宣言『人間の尊厳』(Dignitatis humanae)は、信教の自由を人間の尊厳に基づく権利として肯定した。

 公会議はまた、カトリック教会と他のキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒、そしてその他の宗教の信者との関係を大きく変革した。宗教的アイデンティティが疑念や対立の火種となりやすい現代において、これは特に重要な意味を持つ。

 しかし、社会が政治的、文化的に分断されると、対話は困難になる。カトリック教徒自身も、対立する陣営に分かれて生きる誘惑に駆られることが増えている。ある者は公会議以前の教会に戻りたいと願い、またある者は第二バチカン公会議をあらゆる問題に対する最終的な結論であるかのように語る。どちらのアプローチも、公会議のより深い目的を見失っている。

 

*公会議の深い目的は「福音によって絶えず回心する教会」の実現にあったが

 

 第二バチカン公会議は”政治的なプログラム”ではなく、その実績は典礼の変更、新たな組織構造、あるいは採用された改革の数だけで測れるものではない。その深い目的は、「教会の刷新」、すなわち「福音によって絶えず回心する教会」の実現であった。それは、まだ、完了していない。

 聖職者による性的虐待が世界の教会にもたらした危機は、「説明責任」、「透明性」、そして「組織文化」における欠陥を露呈させたが、これらは、「聖性と奉仕に向かう共同体としての教会」という、公会議の理解とは、両立し得ないものだ。

 移民、貧困層、そして社会の周縁に追いやられた人々への対応は、教会が声を聞かれる機会の少ない人々の中に真にキリストを見出しているかどうかを試すものでもある。

 

 第二バチカン公会議は、単なる一連の決定事項を完了させるだけのものではなかった。それは、「絶え間ない刷新」への招きだった。「傾聴し、参加し、宣教し、外に目を向ける教会」というそのビジョンは、今もなお進行中のものである。

*『典礼刷新』だけでなく、公会議の成果全体を受け入れる必要

 

 もう一つ未解決の課題がある。それは、「公会議全体を受け入れること」だ。第二バチカン公会議は、典礼に関する議論に矮小化されがちだ。

 しかし、公会議は、ミサの祝い方という問題にとどまらず、はるかに大きな意義を持っていた。教会に対し、聖書に立ち返り、洗礼を受けたすべての人々の召命を深め、現代社会に関わり、キリスト教の一致を追求し、信教の自由を尊重し、人類に奉仕するよう呼びかけたのだ。

 フランシスコ教皇は、第二バチカン公会議60周年の式典において、「教会が自らを省察し、神の民としての自らを再発見した瞬間であった」と述べ、教会の本質を的確に捉えた。同時に、教会が絶え間ない批判、争い、分裂の場となることへの警鐘も鳴らした。

*「傾聴し、参加し、宣教し、外に目を向ける教会」のビジョンはまだ進行中

 

 第二バチカン公会議はその構想と使命を果たしたと言えるのだろうか? 率直に言うと、答えは「イエス」でもあり「ノー」でもある。

 「イエス」。公会議はカトリック教会を根本的に変革した。その言語、神学、典礼、他のキリスト教徒や宗教との関係、信徒への理解、そして現代世界との関わり方など、すべてが永続的な影響を残した。公会議の決定は簡単に覆せるものではない。

 「ノー」。第二バチカン公会議は、単に完了すべき一連の決定事項ではなかった。それは、絶え間ない刷新への招きだった。「傾聴し、参加し、宣教し、外に目を向ける教会」というそのビジョンは、今もなお進行中のものである。

 おそらく、60年を経て公会議がもたらした最大の贈り物はここにあるのだろう— 教会が性急に自己満足に陥ることを許さない。「教会は耳を傾けているか、奉仕しているか、対話能力があるか、そして福音を必要としている場所を聞き取れるほど、世界の傷に寄り添っているか」と問い続けているのだ。

 アジアでは、キリスト教徒は仏教徒、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、そして土着信仰の信者たちと共に、少数派として暮らしていることが多い。対話と連帯を求める公会議の呼びかけは抽象的な理想ではなく、日々の生活に不可欠なものだ。ロヒンギャの人々から湾岸諸国の移民労働者に至るまで、この地域の傷は、まず耳を傾け、恐れることなく奉仕する教会を必要としている。

 第二バチカン公会議がカトリック教会に課した真の試練は、信者が公会議を擁護できるかどうかではなく、公会議の教えを実践できるかどうかにあるのだ。

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*Global Catholicはフランスに本拠を置くカトリックの独立系評論・ニュースサイト。バチカンと世界の教会を形作る動向について、詳細な分析と洞察力に富んだ解説を提供、優秀なライターチームは、無数のニュースサイトやソーシャルメディアプラットフォームに溢れる雑音の中から真実を見抜き、明瞭さ、文脈、そして誠実さを基盤とした、思慮深く独立したジャーナリズムを提供することに尽力している。質の高いカトリック系ジャーナリズムは、情報を提供し、人々にインスピレーションを与え、有意義な対話を促進するものであるべきだと考えており、広告や商業的な影響を一切、排除し、カトリック教会を含めて外部機関、企業からの財政支援は受けていない。このような趣旨を理解してくださる方の寄付が求められている。「カトリック・あい」もまさに、同様の趣旨のもとに発行しており、今回、Global Catholid の同意を得て、記事の翻訳、掲載をさせていただくことになった。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2026年9月19日