(2026.8.13 Global Catholic Andrew Phelan)
豪州のカトリックのある大司教区の度重なる評議会や総会は、信頼関係の崩壊、そして何よりもビジョンの欠如を反映しており、「シノダリティ(共働性)」は、「目的のない参加」を意味するだけの言葉になってしまっている。
最近、米国の人気ロックバンド、トーキング・ヘッズの「Road to Nowhere (行先の無い道)」ロード・トゥ・ノーウェア」という曲 が頭の中でずっと流れている。豪州のある大司教区で現在進行中のプロセス、つまり、それぞれに作業部会、中央集権的な議題、そしてシノドス(世界代表司教会議)の正当性を主張する、並行して重なり合う一連の活動を表現するのに、まさにぴったりのテーマソングのように思えたのだ。
その大司教区では、4つの小教区が1つに統合されたが、統合すべきかどうかについての事前協議は一切行われなかった。
構成員や教会法上の根拠が不明確な大司教区暫定識別評議会はそのままで、司教総代理によって招集された大司教区司牧評議会作業部会が新たに組織され、8月に開催される大司教区総会で最初の報告を行う予定だ。この総会自体、”中央”で管理された議題を予定し、どうやら”中央”から提供されるシノダリティ(共働性)でなされるようだ。
これは、豪州の教会が近年の歴史において最も重要な改革に手を付けようとする際に、構造的な問題を抱えていることを示している。
*豪州の教会が直面している問題は、少なくとも3つの失敗の結果
思慮深いカトリック改革者たちが最もよく主張する論点―ティモシー・ラドクリフ枢機卿(英国出身の神学者、元ドミニコ会総長)は先に世界代表司教会議でもそれを指摘した―は、「(教会が改革を進めるうえで)聖職者の惰性が中心的な障害であり、教会のあり方についての継続的な養成こそがその解決策だ」というものだ。
これは間違いではないが、不十分だ。豪州の教会が直面している問題は、少なくとも3つの複合的な失敗の結果であり、そのどれもが養成だけで解決できるものではない。
第一の失敗は、虐待スキャンダルとそれに対する組織側の対応だ。それを主因に、教会組織に対する信頼が壊滅的なまでに崩壊し、しかもその崩壊は未だに十分に認識されていない。これは極めて深刻な信頼性の問題である。
教会を去った人々、あるいは距離を置いている人々は、教会のあり方についての教育を受けるのを待っているわけではない。彼らの多くは、真摯な信仰と高い知性を持つ人々であり、教会という組織に欠陥がある、と感じている。その欠陥は、必ずしも教義上の欠陥ではなく、組織としての「基本的な誠実さの欠如」である。欠陥をそのままにして、教会内にいる人々を対象とした教育をしようとしても、彼らには届かないだろう。
第二の失敗は、聖職者と信徒の間の相互不信だ。これは単なる文化的傾向ではなく、教育によって和らげられるものではない。
これは、司教にほぼ絶対的な権限を与え、信徒の真の参加を権利ではなく司教の裁量に委ねるという、教会法上の枠組みにおける構造的な問題だ。このような枠組みでは、「透明性」と「説明責任」は「培うべき美徳」ではなく、「管理すべき脅威」とみなされる。
ビジョンは人々から生まれる。その前提条件は、ビジョンを受け入れるだけの誠実な組織構造が存在することだ。地域的な例を挙げると、統合予定のキャンベラ北部の小教区では、新しい教区評議会で奉仕を希望する者の名前さえも、大司教区の承認を得るために提出しなければならない。これは、神学としてではなく、組織的な反射反応として表れた「聖職者主義」だ。
相互不信のもう一つの側面は、「信教の自由」というスローガンの下、教会が”文化戦争”にますます深く関与していることだ。これは、教会がすでに大多数の信徒との議論に敗れた問題に対する″後方支援の戦い”であり、教会の対外的な信頼性が著しく損なわれている大きな理由の一つである。
存在しないビジョンに基づいて人々を導くことはできない。目標が定められていない場所へ変化を導くこともできない。そして、協議の仕組みや戦略的な枠組みがなければ、コミュニティの未来に関する重大な決定を下すことは不可能だ。
第三の失敗、そして最も一貫して見過ごされてきた失敗は、「豪州の教会が、実際にどのような存在になろうとしているのか」という、一貫した展望が全く存在しないことである。
私は2020年に書いた論文でこのことを述べたが、それ以来、その真実味はますます増大している。この期間、将来の豪州のカトリック教会がどのような姿であるべきか、あるいはどのような姿になり得るのか、つまり人々を鼓舞し、興奮させ、活力を与え、入信、再入信、あるいは留まりへと導くような展望は、微塵も示されませんでした。
その代わりに出てきたのは、まとまりがなく、しばしば陳腐な手続き上の提案の数々だった。5年経った今も、状況は実質的に改善されていない。
集会、識別評議会、作業部会、養成プログラムなど、運動として提示されるプロセス活動は数多く存在するが、明確な目的地は示されていない。このような状況下では、シノダリティ(共働性)はビジョンではなく、単なる言葉になってしまう。参加者に、何を目指して参加しているのかを明示することなく、参加を示す言葉になってしまうのだ。
*なぜこの失敗がこれほど長く続いているのか
なぜこの失敗がこれほど長く続いているのかを問う価値がある。第二バチカン公会議は、教会を交わり、信徒を共同責任へと招き、バチカンから教区に至るまで、共に働く構造を定め、神学的な観点からその目指す方向性を示した。だが、その神学は教区や小教区レベルで、それを支える統治構造へと具体化されることはなかった。
小教区評議会と教区評議会は、公会議およびそれに続く1983年の教会法典によって義務付けられていたが、多くは適切に組織されることはなく、組織された場合も、司教を拘束するものではなく、諮問機関としての役割にとどまっていた。
公会議の60年後、まさにそのギャップを埋めるために世界代表司教会議の総会が招集されたが、そこでも同じパターンが繰り返された。最終文書でも、共働性、識別力、洗礼を受けた者の尊厳が肯定されたものの、司教が単独で決定できなくなった事項は何なのか、信徒が教区財政にどこまで発言する権利を持つのか、あるいは教区が健全であると判断されるために何を証明する必要があるのか、などについて具体的に規定されなかった。
もし教区の信徒たちが、何らかの決定が下される前に真摯に意見を求められていたなら、彼らは自分たちのコミュニティが抱える傷や、教区事務所ではなく街の匂いが漂う教会がどのようなものであるべきかなどについて、大司教区に多くのことを伝えることができたはずだ。
再生は価値として肯定された。しかし、具体的な設計図は示されず、それがない価値は、実現することはできず、ただその方向性を示すにとどまる。
つまり、私が「ビジョン」と言うとき、それは単なる願望よりも具体的なものであり、行政能力とは異なるものを意味する。
教会の業務、財務の透明性、そして安全文化の維持は重要だが、それらは組織が誠実に機能するために必要な条件であって、誰かが「その組織に所属したい」と思う理由にはならない。
人々が所属したり、留まったりする教会は、どのような共同体を目指しているかを明確に述べ、それを実現しようとしていることを示すことのできる教会だ。
見知らぬ人を信仰を問うことなく歓迎し、女性を上層部から管理される例外的な存在としてではなく、奉仕活動や運営において対等なパートナーとして扱い、手続きに逃げ込むのではなく、社会正義や貧困層、疎外された人々の問題について率直に語り、自らの組織的存続のためではなく、社会の周縁にいる人々のために資源を惜しみなく投入する教会である。
それは、福音書の「山上の垂訓」に描かれているビジョンであり、それを真剣に追求する教区であれば、さらに具体的な行動をとることができるはずだ。
集会が開かれる前に、どのような行動や組織の変化がそのビジョンに向かって進む証拠となるのか、いつまでに達成すべきなのか、そして誰がその変化が起こったかどうかを判断する権限を持つのか、を明記すべきなのだ。しかし、現在、豪州の教区でこれができるところはほとんどない。
*信者減少と財政難で重大な決断を迫られた教区で必要な規定が欠如すると…
キャンベラ・ゴールバーン大司教区は例外的な事例ではなく、信者数の減少と財政難によって重大な決断を迫られた教区において、そうした規定が欠如するとどのような事態が生じるかを示す典型的な例だ。
権限が明確に定められていない選考委員会、公的な手続きを経ない作業部会、中央で議題が決められた集会といった、同じようなパターンは全国の教区で繰り返されている。キャンベラ北部で起きていることは、全国的なパターンからの逸脱ではなく、その地域的な事例に過ぎない。
その影響は、現在大司教区で進行中の一連のプロセスに表れている。代表性に欠ける構成員からなる大司教区暫定識別評議会は、何年も断続的に会合を開いてきたが、いまだに司牧評議会を発足させていない。
司教総代理は、公的な協議プロセスを経ることなく、作業部会(過去6年間で3番目)を設置し、その評議会の設立を推進している。そして、その最初の報告書は、奉仕を謳う地域社会ではなく、総会に提出される予定である。
並行して進められているのは、北部の4つの小教区を1つに統合する計画だ。この決定は、統合の是非や代替案の有無について、影響を受ける地域社会との事前協議を一切行わずに下された。決定が下された後になってようやく教区民へのアンケート調査が実施されたが、これは既に決着済みの問題に対する、遅すぎる協議の姿勢と言えるだろう。
これらの決定を開始、情報提供、または評価するための大司教区司牧評議会も司牧計画も存在しなかった。
作業部会は、こうした事態が始まる前に存在すべきだった組織を設計するよう求められているが、その作業部会が報告を行う議会自体は、真の意味での一般市民の監視を受けたことのない決定を下す階層組織によって構成され、支配されている。
*教皇フランシスコの使徒的勧告『 福音の喜び』の言葉を都合よく解釈している
今回の大司教区の総会のテーマである「渇いた者のための聖域」は、フランシスコ教皇の使徒的勧告『 福音の喜び』 (Evangelii Gaudium)における福音宣教の言葉遣い、すなわち教会が「共同体の共同体」となり、「絶え間ない宣教活動の中心」となるよう呼びかける言葉遣いに基づいている。これはまさに聖書的なイメージである。
しかし、 『福音の喜び』 は、そのテーマが示唆するよりもはるかに厳しい内容の文書だ。教会に宣教活動を呼びかけたフランシスコ教皇は、同文書の中で「強迫観念と手続きの網に囚われた」教会に対して警告を発し、「真の信仰には常に世界を変えたいという深い願望が伴う」と主張した。
『福音の喜び』の宣教的な言葉遣いを用い ながら、同時に統治、財政、教会法上の構造を議題から排除するこの総会は、フランシスコ教皇の言葉を都合よく解釈している。渇望は本物だ。この総会が聖域となるのか、それとも単なる手続きに過ぎないのかは、今後の展開を見守る必要がある。
総会参加者の構成もまた、示唆に富む。参加者は、教区、学校、組織そして大司教区機関の指導者たちを通して集まっており、これらの組織関係者は多くの場合、大司教区と雇用関係にある。自己推薦は、大司教区総会計画グループによって審査される。先の世界代表司教会議総会の最終文書の第106項で具体的に挙げられているような一般信徒、すなわち女性、若者、社会的に疎外された人々は除外されるわけではないが、特に求められているわけでもない。
*存在しないビジョンに基づいて人々を導くことはできない
制度上の代表者に偏った総会は、最終文書が言うところの代表制ではなく、また 『福音の喜び』が描く貧しい人々のための貧しい教会というビジョンにも当てはまらない。
存在しないビジョンに基づいて人々を導くことはできない。目標が定められていない場所へ変化を導くこともできない。そして、協議の仕組みや戦略的な枠組みがなければ、コミュニティの未来に関する重大な決定を下すことは不可能だ。
この大司教区で現在進行中のプロセスは、シノダル(共働的)な転換の証拠ではない。シノダリティ(共働性)に関する言葉遣いは、完全に習得されているものの、その本質的な部分は依然として先送りされていることの証拠だ。
これは、司祭の数は減少の一途をたどり、残っている司祭の平均年齢は上昇し続けている。ごく一部の成長地域を除けば、教会は高齢化と規模縮小が進んでおり、保険、安全対策、および繰延修繕費といった負債が財政的な負担をさらに増大させている。教区の合併、学校の閉鎖や統合、行政組織の統合は、場合によっては本当に避けられないことであり、司教や教区財政委員会が直面するあらゆる困難な決定に、費用のかからない代替案が存在するなどと考えるべきではない。
しかし、まさにこのような状況においてこそ、有意義な協議が最も重要となるのであり、軽視されてはならない。
人口動態の変化や財政的な圧力のもとで下される決定は、影響を受ける地域社会だけが持つ知識がなければ、誤った結果を招く可能性が高い。例えば、どの建物がボランティアが集まるような意味を持ち続けているのか、どのような小教区の組み合わせなら、”駐車場を共有する”だけでなく、1つのコミュニティとして機能できるのか、信徒はどのサービスにお金を払い、どのサービスを単に廃止するのか、といったことだ。
現在のような状況下での協議は、信徒の感情を尊重して行う単なる礼儀ではなく、意思決定に不可欠な情報をもとにしてなされるべきだ。そして、決定が下された後にだけ協議を行う教区は、困難な決断の重荷を軽減されるわけではない。正しい決定を下すために必要だった唯一の情報源を放棄したことになるだけだ。
*教皇フランシスコが自発教令『Ad Theologiam Promovendam」で求めていることを受け止めているか
驚くべきことに、最近の教皇文書は、まさに今、教会に欠けているような、知的で文脈に即した関わり方を認め、いや、むしろ要求している。
フランシスコ教皇が2023年に出された自発教令『Ad Theologiam Promovendam(神学を促進するために)』 は、教皇自身の言葉を借りれば、教会が自らのあり方や使命について考える方法における「勇気ある文化革命」を呼びかけている。この文書は、神学研究者向けの教令として受け止められた。しかし、それ以上に切迫した意味合いで読むべきだ。
フランシスコ教皇は、「神学は、過去の定式や枠組みを抽象的に再提示するだけに留まるべきではない」と述べている。神学は「深い文化的変革」に立ち向かわなければならず、「私たちが生きているのは単なる変化の時代ではなく、時代の転換期である」ということを認識する必要がある。
優れた神学者は、優れた司牧者に似ている、と彼は書いている。豪州のすべての教区作業部会で朗読されるべき一節だ。彼らは「人々と街の匂いを漂わせ、自らの姿を通して人々の傷に油とワインを注ぐ」のだ。
この教令は、「根本的に文脈に即した神学」、 すなわち人々が置かれている具体的な状況から出発し、「現実によって真剣に問い直される帰納的な方法 」をとることを求めている。また、人々の常識に宿る知恵を「神の多様なイメージが息づく神学的場」として尊重することを提唱している。自身の使徒的勧告『福音の喜び』の宣教的な言葉遣いを用いながら、統治、財政、教会法上の構造を議題から除外する集会は、 フランシスコ教皇の言葉を都合のいいように解釈していると言える。
*教皇が提唱する参加型再建のモデルと正反対のことを実践していないか
教令は、豪州の教会が総会プロセスで拒否した、そして中央集権的に議題が管理される議会では提供できない種類の関与を、まさに認めるものである。
もしキャンベラ・ゴールバーン大司教区のインナーノース教会共同体の人々が、何らかの決定が下される前に真摯に意見を求められていたなら、彼らは自分たちのコミュニティが抱える傷や、教区事務所ではなく街の匂いが漂う教会が実際にはどのようなものになるのかについて、大司教区に多くのことを伝えることができたはずだ。
だが、彼らは意見を求められなかった。大司教区司牧評議会がどのようなものであるべきか、あるいは自分たちの教区の形態が自分たちのニーズに合致しているかどうかについても、意見を求められなかった。フランシスコ教皇の自発教令『Ad Theologiam Promovendam』 は2023年からバチカン文書館に保管されているが、豪州の聖職者たちは、ほとんど読んでいないようだ。
教皇レオ14世が5月に出されたの回勅『Magnifica Humanitas(偉大な人類)』の中心的な構造的イメージは、ネヘミヤがエルサレムの城壁を再建する姿だ。彼は上から解決策を押し付けるのではなく、人々の声に耳を傾け、組織を作り、責任を割り当て、人々が共に再建するのを助けている。
これは、真の司牧計画とはどのようなものかを説明するものだ。一連の作業部会、識別評議会、統制された集会といった、それぞれが上から構成され、それぞれが最終的にコミュニティが少なくとも2017年から待ち望んでいる構造を生み出す協議プロセスだ、と主張するようなものを説明するものではない。
教会の最高位の指導者が共同体的な参加型再建のモデルを提唱しているにもかかわらず、現地の教区が依然として正反対のことを実践しているというのは、養成プログラムでは解決できない矛盾だ。