・世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会・第2会期最終文書・「カトリック・あい」日本語試訳11.21終了

《世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会・第2会期最終文書「シノダル(共働的)教会のために:交わり、参加、宣教」2024.10.26》

(イタリア語公式全文=一部は英語公式全文=より「カトリック・あい」試訳=聖書の訳は「聖書協会・共同訳」を、第二バチカン公会議の公文書の訳は「カトリック中央協議会公式訳」を使用) 

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【目次】

略語

はじめに

第1部  シノダリティ(共働性)の核心

・聖霊に召されて回心する

・神の民である教会、一致の秘跡

・神の民の秘跡的根源

・シノダリティの意味と次元

・調和としての一致

・シノダルの霊性

・社会的預言としてのシノダリティ 16

第2部   船の上で、共に

・人間関係の転換

・新しい人間関係

・複数の文脈の中で

・宣教のためのカリスマ、召命、聖職

・調和の奉仕における聖職

・宣教のために共に

第3部  網を張る

・プロセスの転換

・宣教のための教会的識別

・意思決定プロセスの明確化

・透明性、説明責任、評価

・シノダリティと参加型組織

第4部  豊漁

・絆の転換

・ルーツと巡礼

・賜物の交換

・一致の絆:司教協議会と教会集会

・ローマ司教の奉仕

第5部  私もあなたがたを送る

・宣教する弟子の民の形成

おわりに

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【略語】

AA 第二バチカン公会議:信徒使徒職に関する教令(1965年11月18日)

AG 第二バチカン公会議:教会の宣教活動に関する教令(1965年12月7日)

CCEO 東方教会正典(1990年10月18日

CD 第二バチカン公会議:教会における司教の司牧任務に関する教令(1965年10月28日)

CIC カノン法大全(1983年1月25日)

CTI国際神学委員会『教会の生活と使命におけるシノダリティ』(2018年3月2日)

CV ベネディクト16世教皇: 回勅『真理に根ざした愛』(2009年6月29日)

DD教皇フランシスコ:使徒的書簡『私は切に望んでいた』(2022年6月29日)

DN教皇フランシスコ:回勅『「Dilexit nos(彼は私たちを愛した)』(2024年10月24日)

DTC 司教協議会第16回通常総会、大陸段階の作業文書(2022年10月27日)

DV 第二バチカン公会議:神の啓示に関する教義憲章(1965年11月18日)

EG 教皇フランシスコ:使徒的勧告「福音の喜び」(2013年11月24日)

FT 教皇フランシスコ:回勅「兄弟の皆さん」(2020年10月3日)

GS 第二バチカン公会議、現代世界憲章(1965年12月7日)

LG第二バチカン公会議:教会憲章(1964年11月21日)

LS 教皇フランシスコ:回勅「ラウダー・トシ」 (2015年5月24日)

MC 聖パウロ6世教皇:使徒的勧告『聖マリアのへの信心について』(1974年2月2日)

NMI 聖ヨハネ・パウロ二世教皇:使徒的書簡『新千年期の初めに』(2001年1月6日)

PE 教皇フランシスコ:使徒憲章「福音を宣教せよ」(2022年3月19日)

SC 第二バチカン公会議:典礼憲章 (1963年12月4日)

SRS 聖ヨハネ・パウロ2世:回勅『 社会に関する懸念』(1987年12月30日)

UR 第二バチカン公会議:エキュメニズムに関する教令(1964年11月21日

UUS 聖ヨハネ・パウロ二世:回勅『キリスト者の一致』(1995年5月25日)

 

(本文)

はじめに

 「イエスは来て、真ん中に立ち、彼らに言われた。そう言って、ご自分の手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ」(ヨハネ福音書20章19-20節)。

1. 教会生活における新しい一歩一歩は、原点に立ち返ることであり、弟子たちが復活祭の晩に上座の間で経験した、復活した主との出会いを新たに経験することだ。彼らと同じように、このシノドス総会に参加している私たちもまた、主の慈しみに包まれ、主の美しさに触れていると感じている。聖霊に包まれて会話をし、互いに耳を傾けながら、私たちは私たちのただ中に主の臨在を感じてきた。

2. よみがえられた方を思い浮かべながら、私たちは「私たちは主の死にバプテスマを受けた」(ローマの信徒への手紙6章3節)ことを思い起こす。 私たちは、新しい命によって変容されながら、その人間性に永遠に刻まれた、主の傷の跡を見てきた。この傷は、私たちの罪のゆえに、多くの兄弟姉妹のからだの中で血を流し続けている。

 私たちの主へのまなざしは、歴史のドラマから目をそらすのではなく、私たちを取り囲み、私たちを貫く苦しみを認識するために目を開くのだ。戦争におびえる子どもたちの顔、母親の泣き声、多くの若者の壊れた夢、ひどい旅に直面する難民、気候変動や社会的不公正の犠牲者たち… 彼らの苦しみは、メディアを通してだけでなく、これらの悲劇的な出来事に家族や人々と個人的に関わった多くの人々の声としても、私たちの間に響いてきた。

 私たちがこの総会に集っている間にも、多くの、あまりにも多くの戦争が、死と破壊、復讐への欲望、良心の喪失を引き起こし続けてきた。私たちは、教皇フランシスコが平和のために繰り返し訴えていることに賛同し、暴力、憎しみ、復讐の論理を非難し、対話、兄弟愛、和解の論理を促進することを誓う。真の永続的な平和は可能であり、私たちは共にそれを築くことができるのだ。「今日の人々、とりわけ貧しい人々、そして苦しむすべての人々の喜びと希望、悲しみと不安」(GS 1)は、キリストの弟子である私たち全員の喜びと悲しみだった。

3. 教皇フランシスコが2021年にこの”シノドスの道2を開始されて以来、私たちはその豊かさと実りをますます発見しつつある旅に乗り出した。私たちは、「御霊が諸教会に語っておられる」(黙示録2章7節)ことを、多くの声の中に聴き取れるよう、注意深く耳を傾けてきた。

 この旅は、私たちの教区と教区における神の民の広範な協議から始まった。それは、シノドス事務局が総括文書や討議要綱を通して、絶えず再開する対話の循環の中で、国レベル、大陸レベルへと続けられた。今、世界代表司教会議(シノドス)第 16 回通常総会を 2 会期にわたって開くことにより、私たちは、新たな福音宣教の推進のために、これまで経験したことの証しと、識別の成果を、教皇と全教会に手渡すことができる。

 この旅路は、どの段階においても、神の民の 「信仰の感覚 」の知恵によって示されてきた。一歩一歩、私たちは「シノドス2021-2024」の中心にあるものを理解した。シノダル(共働的)教会ににおける交わり、参加、宣教……そこには、主に従うこと、主の使命の奉仕に身を捧げること、教会に忠実である方法を模索することにおける、教会の喜びと刷新への呼びかけがある。

4.この呼びかけは、共通の洗礼に基づくものであり、教会が現存する多様な文脈に根ざし、唯一の父、唯一の主、そして唯一の霊において一致を見出すものである。神の民全体が福音宣教の対象であり、洗礼を受けたすべての人が宣教の主人公となるよう召されている。こうしてシノドスの旅は、他のキリスト教伝統の代表団が今総会に出席して証ししたように、キリスト者の完全で目に見える一致に向けて私たちを方向づける。一致は、神の聖なる教会の中で静かに発酵していく。

 

5. 預言的教会の伝統に根ざしたシノドスの旅の全行程は、第二バチカン公会議の導きに照らされてなされてきた。第二バチカン公会議は、事実、世界と教会の畑に蒔かれた種のようなものだった。信者の日常生活、あらゆる民族と文化における教会の経験、聖性の多くの証言、神学者たちの考察が、この公会議が発芽し、成長する土壌となった。シノドス2021-2024は、その種子からエネルギーを引き出し、その可能性を発展させ続ける。シノドスの道の歩みは、福音に耳を傾けることから生まれる絶え間ない回心を通して、聖性に召される「神秘としての教会」、「神の民としての教会」について公会議が教えたことを実践するものだ。その意味で、世界代表司教会議(シノドス)は、公会議をさらに受け入れ、その霊感を長持ちさせ、今日の世界のためにその預言的な力を再出発させる真の行為なのである。

 

6. 私たち自身、疲労、変化への抵抗、神の言葉に耳を傾け識別を実践することよりも自分の考えを優先させる誘惑を経験した事実を隠すことはない。しかし、最も優しい父である神の憐れみによって、私たちはその都度、心を清め、道を歩み続けることができるのだ。私たちは、第二会期を告白の祈りで始め、その中で自分の罪の赦しを請い、恥を感じ、世の悪の犠牲者のために執り成しを行った。

 平和に対する罪、被造物に対する罪、先住民族に対する罪、移住者に対する罪、子どもに対する罪、女性に対する罪、貧しい者に対する罪、傾聴に対する罪、聖体拝領に対する罪など、私たちは自分の罪を名指しで呼んだ。これによって私たちは、シノドスが悔い改めと回心を求めていることに気づかされた。神の慈しみの秘跡を祝うとき、私たちは無条件に愛されることを経験する。だからこそ私たちは、神から与えられる赦しと和解をすべての人と分かち合うことのできる、憐れみ深い教会でありたいのだ。

7. 2021年に始まったシノドスの道の歩みで、私たちはすでに最初の実りを目にしている。家庭、小教区、団体と運動、小さなキリスト教共同体、学校、修道会の活動の中で、最も単純でありながら最も貴重なものが発酵しており、そこでは、聖霊による会話、共同体の識別、賜物の分かち合い、宣教における共同責任の実践が成長している。シノドスのための教区司祭会議(サクロファノ[ローマ]、2024年4月28日~5月2日)は、これらの豊かな経験を評価し、彼らの旅を再出発させることを可能にした。私たちは、教会を歓迎と希望と喜びの場として生きる多くの共同体と信徒の声に感謝し、喜んでいる。

 

8. シノドス総会第1会議の会合は、他の実りももたらした。総括文書は、教会生活にとって大きな関連性を持つ多くのテーマに注意を喚起し、聖なる父は、国際的な協議の末、シノダル(共働的)な手法で作業を行うよう呼びかけられた全大陸の司牧者と専門家で構成される研究グループに委ねた。彼らがすでに深く研究を始めている教会生活と宣教の分野は以下の通りである:

① 東方カトリック教会とラテン教会との関係のいくつかの側面。

② 貧しい人々の叫びに耳を傾けること。

③ デジタル環境における宣教

④ Ratio Fundamentalis Institutionis Sacerdotalisの宣教的、シノダル(共働的)観点からの改訂。

⑤ 特定の聖職者形態をめぐるいくつかの神学的・公教論的問題。

⑥ 司教、修道者、教会集会間の関係を規定する文書の、シノダル(共働的)で宣教的観点からの改訂。

⑦ 司教の姿と職務のいくつかの側面(特に:司教座候補者の選考基準、司教の司法的機能、アド・リミナ使徒訪問の性質と実施)について、シノダル(共働的)、宣教的観点から検討する。

⑧ 宣教的、シノダル(共働的)視点における教皇代理の役割。

⑨ 論争の的となっている教義的、司牧的、倫理的な問題を分かち合って識別するための神学的基準とシノダル(共働的)方法論。

⑩神の民におけるエキュメニカルな旅の果実の受容。

 これらのグループに加え、教会法における必要な革新のためにバチカン法制省と協力して活動する典礼法委員会と、一夫多妻婚の人々の司牧的同伴に関するアフリカとマダガスカルの司教協議会のシンポジウムに委ねられた識別がある。これらのグループと委員会の作業は、実施段階に入り、第2会期の作業を充実させ、聖父の司牧と統治の選択に役立つだろう。

9. シノドスの道の歩みは、今回のシノドス総会が閉幕することで終わるのではなく、実施段階を含めて続く。司教協議会のメンバーとして、私たちは、自らの出身地である教会共同体の中で、シノダリティ(共働性)の宣教師として、その生きた動きに関与することが、自身の使命であると感じている。

 私たちは、すべての現地の教会に、協議と識別というシノダル(共働的)な方法論を用いながら、さまざまな教会の現場(小教区、奉献生活修道会、使徒的生活協会、信徒の集まり、教区、司教協議会、教会グループなど)において、具体的なシノダル(共働的)転換をもたらすための、具体的な方法と養成の道筋を明らかにしながら、日々の旅を続けるよう求める。

 合議制と教会活動へのすべての洗礼者の参加という観点からの進歩の評価もまた、想定されるべきである。私たちは、司教協議会と特別な教会の会議が、福音宣教におけるシノダル(共働的)な教会としての成長の道を伴走し、バチカンのシノドス事務総局との連絡を維持するために、人と資源を捧げることを提案する(EC 19 §1、2参照)。私たちはシノドス事務総局に、研究会の作業方法のシノダルな性質を引き続き見守るよう要請する。

 

10. シノドス第 16 回総会の成果として聖父と諸教会に提供されるこの最終文書は、これまで のすべての歩みを宝物としている。この最終文書は、総会第1会期で明らかになったいくつかの重要な一致点、第1回会期と第2回会期の間の数か月間における諸教会からの貢献、そして第2会期において、特に聖霊による対話を通じて成熟したものをまとめたものである。

 

11.最終文書は、使徒的勧告『福音の喜び』(n.30参照)に示された観点から、宣教への召命は同時に、各特定教会と全教会の回心への召命である、との認識を表明している。このテキストには5つの部分がある。

 「シノダリティの核心」と題された第1部は、次に続くものを照らし、養う神学的・精神的基盤の概略を述べている。第1会期で生まれたシノダリティの共通理解を再掲し、その霊的・預言的観点を展開している。私たちの心に宿る感情、イメージ、思考の転換は、司牧的・宣教的行動の転換とともに進む。

 「舟の中で共に」と題された第2部は、召命、カリスマ、ミニストリーの織り成す中で、キリスト教共同体を築き、宣教を形作る人間関係の転換に捧げられる。

 第3部「網を張る」は、密接に関連する3つの実践、すなわち、教会的な識別、意思決定プロセス、透明性、説明責任、評価の文化について述べている。これらについても、私たちは「宣教的変容」の道を切り開くよう求められており、そのためには参加型組織の刷新が緊急に必要とされている。

 「豊かな漁獲」と題された第4部では、その土地に根ざす、という体験が大きく変わりつつある今、教会において私たちを結びつける賜物の交換と絆の織り成しを、新たな形で育むことがいかに可能であるかを概説している。

 それに続く第5部「私もまた、あなたがたを派遣する」は、宣教的なシノダリティにおいて神の民のすべての人の養成に配慮するという、踏み出すべき最初の一歩に目を向けることを可能にしている。

 

12. 最終文書の作成は、復活に関する福音書の記述に導かれている。主の復活の夜明けに墓に弟子たちが殺到し、上座の間と湖岸に復活したお方が現れたことは、私たちの識別を鼓舞し、私たちの対話を育んだ。私たちは、復活祭の賜物である聖霊を呼び起こし、聖霊が私たちになすべきことを教え、共に進むべき道を示してくださるよう求めた。この文書によって、総会は、教会を構成する次元であるシノダリティが、すでに多くの共同体の経験の一部となっていることを認め、証しする。同時に、この文書は、進むべき道、実行すべき実践、探求すべき地平を示唆している。シノドスで教会を召集された聖なる父は、司教の司牧的配慮に委ねられている諸教会に「失望に終わることはない」(ローマの信徒への手紙5章5節)と励まされ、希望に支えられた私たちの旅をどのように続けるべきかを教えてくださるだろう。

 

 

 

第1部  シノダリティの核心

聖霊によって回心に導かれる

 「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペテロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行った」ヨハネ福音書20章1-2節 )。

13. 主の復活の日の朝、マグダラのマリア、シモン・ペテロ、そしてイエスが愛された弟子は、それぞれがそれぞれの方法で主を求め、希望の幕開けにおいてそれぞれの役割を持っている。マグダラのマリアは愛に突き動かされ、最初に墓に行く。最愛の弟子は、若さゆえの力強さで走り、最初に感じ取った者の眼差しで探し求めるが、導きの任務を与えられた年上の者に道を譲る術を知っている。ペトロは、主を否定したことが心に重くのしかかり、教会の聖職者となる憐れみの任命を待っている。マリアは墓の外にとどまり、自分の名を呼ばれるのを聞き、弟子たちの共同体に主の復活を告げるために自分を遣わされた主を認める。だからこそ、教会は、彼女を使徒の使徒として認めるのである。彼らの相互依存は、共同体の核心を体現している。

14. 教会は、歴史上の決定的な出来事であるイエスの復活を世に証しするために存在する。復活された方は世界に平和をもたらし、私たちに御霊の賜物を与えてくださる。生きておられるキリストは、真の自由の源であり、失われない希望の土台であり、神の真の顔と人間の究極的な運命の啓示である。福音書は、主の復活を信じ、その証人となるために、自分の内なる空虚さ、恐れ、疑い、罪の闇を認識する必要がある、と教えている。そして、暗闇の中で、外に出て探す勇気を持つ人は、実際に、自分が求められ、名前を呼ばれ、赦され、兄弟姉妹とともに遣わされていることを知るのだ

 

 

神の民である教会、一致の秘跡

 

15. 父と子と聖霊の名による洗礼から、神の民のアイデンティティーが流れ出る。洗礼は、聖性への呼びかけであり、すべての人々に救いの賜物を受け入れるよう招 く宣教のための派遣として行われる(マタイ福音書28章18-19節参照)。それゆえ、キリストが私たちにご自身の衣を着せ(ガラテヤの信徒への手紙3章27節参照)、聖霊によって私たちを神の子として生まれ変わらせる(ヨハネ福音書 3章5-6節参照)洗礼から、宣教的なシノドス教会が生まれるのである。 キリスト教生活全体は、私たちのうちに信仰と希望と慈愛のダイナミズムを呼び起こす三位一体の神秘にその源と地平を持っている。

 

16. 「神は、人を聖別し、救うことを喜ばれたのであって、人を別々に、また、人と人との間に何のつながりもなくなさったのではなく、人を、真理において神を認め、聖性において神に仕える民とすることを望まれたのである」(LG 9)。御国へ向かう神の民は、交わりと一致の源である聖体によって絶えず養われる。「パンは一つであるから、私たちは多人数であっても一つのからだであり、皆一つのパンにあずかるのである」(1コリ10:17)。教会は、主のからだの秘跡によって養われ、主のからだとして構成されている(LG 7参照)。恵みによって生かされ、それは聖霊の宮である(LG 4参照)。実際、聖霊は、私たちすべてを霊的な建物の生きた石とし(1ペトロの手紙1・2章5節; LG 6参照)、それを活気づけ、建てるのだ。

 

17. ”シノドスの道”の歩みは、私たちに、あらゆる部族、言語、民族、国民から集められ、異なる文脈と文化の中で生きる神の民であることの 「霊的な味わい」(EG 268)を経験させてくれた。それは決して洗礼を受けた者の単なる総体ではなく、共同体主義的で歴史的なシノダリティ(共働性)と宣教の主体であり、今もなお、巡礼者であり、すでに天の教会と交わりを結んでいるのである。各教会が根ざすさまざまな文脈の中で、神の民は救いの福音を宣べ伝え、証しする。世界の中で、世界のために生きる神の民は、地上のすべての人々と共に歩み、彼らの宗教や文化と対話し、彼らの中に御言葉の種を認め、御国に向かって前進する。信仰と洗礼によってこの民に組み入れられた私たちは、「確かな希望と慰めのしるし」(LG 68)である乙女マリア、使徒たち、命を捧げるまでに信仰の証しをした人々、あらゆる時代と場所の聖人たちによって支えられ、伴われる。

 

18. 教会である聖なる神の民において、信徒の交わり(communioFidelium )は、同時に、教会の交わり(communio Ecclesiarum )であり、それは、「教会は司教の中にあり、司教は教会の中にある」(聖キプリアン『エピストーラ 』66, 8)という非常に古い原則のゆえに司教の交わり(communio Episcoporum )の中に現れている。この多元的な交わりの奉仕者として、主は使徒ペトロ(マタイ福音書16章18節参照)とその後継者たちを置かれた。ペトロの使徒職によって、ローマの司教は教会の一致の 「永続的で目に見える原理であり土台」(LG 23)である。

 

19. 「神の心には、貧しい人々、疎外された人々、排除された人々のための優先的な場所がある」(EG 197)。キリスト教共同体は、キリストの顔と肉体に出会う。「主は富んでいたのに、貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、私たちが豊かになるためだった(コリントの信徒への手紙2・8章9節参照)。貧しい人への優先的選択は、キリスト論的信仰に暗黙のうちに含まれている。貧しい人々は、受難のキリストを直接知ることができ(EG 198 参照)、それは彼らを、賜物として受けた救いの先駆者とし、福音の喜びの証人とするのである。教会は、しばしば信者の大多数を占める貧しい人々と共に貧しくあり、彼らの声に耳を傾け、彼らが聖霊から受けるカリスマを認め、彼らを福音化の対象とみなすことを共に学ぶよう求められている。

 

20. 「諸民族の光はキリストである」(LG 1)。この光は、人間の状態のもろさと罪の不透明さによって特徴づけられるが、教会の顔を照らす。教会はキリストから、人類家族の絆、関係、友愛の効果的な澱(おり)となる賜物と責任を受け(AG 2-4参照)、その歩みの意味と目標を世に証しする(GS3、42参照)。この責任は、今日、参与の危機、すなわち、共通の運命の一部であり役者であると感じることの危機と、幸福と救いについての個人主義的な概念に支配された時代に引き受けるものである。

 教会の召命と預言的奉仕(LG12参照)は、全人類を自由と交わりのうちにご自身のもとに一致させる、という神のご計画を証しすることにある。教会は「すでに神秘的に現存するキリストの国」(LG 3)であり、「地上において、この国の種と始まりを構成する」(LG 5)のであるから、全人類と共に歩み、人間の尊厳、共通善、正義と平和のために力を尽くし、神が 「すべてのうちにすべてのもの」(コリントの信徒への手紙1・15章28節)となられる 「完全な国を切望する」(LG 5)のである。

 

 

神の民の秘跡的ルーツ

21. 教会のシノドスの旅は、多様な召命、カリスマ、宣教の根源は一つであること、すなわち、「私たちは皆、一つの霊によって、一つの体となるために洗礼を受けた」(コリントの信徒への手紙1・12章13節)ことを再発見するものだ。洗礼は、すべての人に神の子となること、すなわち、イエスと御霊なる父との関係を共有する者となること、という最大の賜物をもたらすからである。すべての人に等しく与えられているこの尊厳ほど、私たちにキリストを身にまとわせ、ぶどうの木に接ぎ木された枝のようにキリストに接ぎ木させるものはない。「キリスト者」という名誉ある名前には、私たちの生活を支え、私たちを兄弟姉妹として共に歩ませる恵みが含まれているのである。

22. 洗礼によって、「神の聖なる民は、キリストの預言者的機能にも参与し、信仰と慈愛の生活によって、何よりもキリストの生きた証しをする」(LG 12)。洗礼で聖なる方から油を注がれたことで(ヨハネの手紙1・2章20, 27節参照)、すべての信者は「福音真理」に対する直感を持っている。この感覚は、洗礼を受けた者が聖霊によって 「神の本性にあずかる者とされる」(DV 2)という事実に基づく、神の本性とのある種の結合性から成る。この参加から、教会の交わりの中で、啓示の真理に適合するものを直観的に把握する適性が生まれる。

 だからこそ教会は、洗礼を受けた者全体が信仰と道徳の問題において普遍的な一致を表明するとき、聖なる神の民が信じることに誤りはない、と確信するのである(LG 12参照)。 信者としての感覚行使は、世論と混同してはならない。それは、シノドスの道の歩みの各段階の明確化が示すように、教会生活のさまざまなレベルにおける司牧者の識別と常に結びついている。それは、「特定の教義や実践が使徒的信仰に属するかどうかを決定する確かな基準」(国際神学委員会『Il sensus fidei nella vita della Chiesa』2014年、n.3)を構成する「信徒たちの同意(consensus fidelium )」に到達することを目指している。

23. 洗礼を通して、すべてのキリスト者は「信徒たちの同意(consensus fidelium )」参加する。従って、それはシノダリティ(共働性)の原則であるだけでなく、エキュメニズムの基盤でもある。「エキュメニズムの道が会堂的であるように、カトリック教会が歩む会堂性の道はエキュメニズム的であり、またそうでなければならない」(教皇フランシスコ、東方アッシリア教会 カトリコス総主教、マール・アワ3世への挨拶2022年11月19日)。

 エキュメニズムは何よりもまず、霊的刷新の問題である。エキュメニズムは、悔い改め、過去の傷の記憶を癒し、福音的慈愛の精神をもって友愛的に修正する勇気に至る過程を要求する。総会では、友情、祈り、生活の分かち合い、貧しい人々への奉仕と共通の家庭のケアへの献身を分かち合う、異なる教会的伝統のキリスト者たちの啓発的な証言が響き渡った。世界の少なからぬ地域で、何よりも血のエキュメニズムが存在する。それは、イエス・キリストへの信仰のために共に命を捧げる、所属の異なるキリスト者たちである。彼らの殉教の証しは、どんな言葉よりも雄弁である。一致は主の十字架から生まれる。

 

24. すなわち、主が教会の働きと聖霊の賜物を通して、私たちを復活信仰に導き、三位一体的かつ教会的な交わりに挿入する旅である。この旅は、それが行われる年齢、東洋と西洋の伝統にふさわしいさまざまな強調点、そして各地域の教会の特殊性によって、実に多様な形を知っている。入信は、実に多様な召命や教会の務めに接する機会をもたらす。その中には、子供たちに共に歩むことを教える教会の慈愛に満ちた顔がある。教会は子どもたちの声に耳を傾け、彼らの疑問や質問に答えながら、一人ひとりが自分の歴史や文化とともにもたらす新しさによって豊かにされる。彼は彼らの話に耳を傾け、彼らの疑問や質問に答えながら、一人ひとりが自分の歴史や文化を持ってくる目新しさに心を豊かにする。 この司牧的行為の実践の中で、キリスト教共同体は、しばしば十分に意識されることなく、シノダリティ(共働性)の最初の形態を経験するのだ。

25.キリスト教入信の過程の中で、堅信の秘跡は、証しするという観点から、聖霊の特別な注ぎによって、信者の生活を豊かにする。イエスは聖霊に満たされ(ルカ福音書 4章1節参照)、油を注がれ、福音を告げ知らせるために遣わされた(同 4章18節参照)。聖霊は、神への帰属の印として、また聖別された油注ぎとして信者に注がれる聖霊と同じである。だからこそ、洗礼を受けた人と共同体の生活の中に聖霊降臨の恵みを現存させる堅信式は、宣教の火によってかき立てられ、あらゆる民族と文化に理解される力をもって世界の通りに出て行く勇気を持った教会の奇跡を、私たちのうちに新たにするのだ。すべての信者は、聖霊が一人ひとりに豊かに分配してくださるカリスマを歓迎し、謙遜と創造的イニシアチブをもって、それらを御国のために役立てることを誓約し、この勢いに貢献するよう求められている。

 

26. 聖体の祭儀、特に日曜日の祭儀は、神の聖なる民が集い、出会う最初の、そして基本的な方法である。聖体の祭儀において、「教会の一致は意味づけられ、また生み出される」(UR 2)。すべての信徒の 「完全で、意識的で、積極的な参加」(SC 14)の中で、さまざまな奉仕職の臨在の中で、また司教や司祭による司式の中で、キリスト教共同体は可視化され、その中で宣教に対するすべての人の様々に異なった形の共同責任が実現される。教会の一致と聖体集会の多様性、秘跡の秘義の一致と典礼の伝統の多様性、祭儀の一致と召命、カリスマ、聖職の多様性などである。そして、教会から与えられるすべての賜物は、すべての人の共通善のために運命づけられていることを示す。

 聖体は、何よりも、聖霊によって生み出される調和が画一的なものではないこと、そして、教会から与えられるすべての賜物は、すべての人の共通善のために運命づけられていることを示す。 すべての聖体祭儀は、まだ完全には目に見えていないすべての洗礼者の一致への願いと呼びかけの表現でもある。 主日の聖体祭儀が望まれているにもかかわらず不可能な場合、共同体は御言葉の祭儀に集まる。

 

27. シナクシス(初期キリスト教会の集会)とシノドス(世界代表司教会議)、聖体祭儀の集いとシノダル(共働的)な集いの間には、密接なつながりがある。形は違っても、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ福音書18章20節)というイエスの約束は、両者において実現されている。シノダルな諸会議は、聖霊の働きによってキリストと教会の一致を祝う行事である。聖体の集いにおいても、シノドスな諸会議においても、キリストの教会の一致を確かなものにしてくださるのは、聖霊なのである。典礼は神の言葉に耳を傾けることであり、神の契約のイニシアティブに応答することである。シノダルな会議もまた、同じ御言葉に耳を傾けることであり、その御言葉は時代のしるしと同様に信徒の心の中に響いており、会議はそれを実践するために神のご意志を見極めながら応答するのである。

 典礼とシノダリティ(共働性)の結びつきを深めることは、すべてのキリスト教共同体が、その文化や伝統の多様性の中で、シノダルな教会の顔を目に見える形で示す祝典のスタイルを採用するのに役立つ。この目的のために、私たちは具体的な研究会を設立することを要請する。この研究会には、ミサ典礼をどのようにすればシノダリティをより表現できるようになるかについての考察も委ねられる。研究会はまた、ミサ中の説教や、神秘学的な観点からのシノダリティに関する教理学習資料の開発についても検討することができる。

 

シノダリティの意味と次元‘

28.  「synodality(シノダリティ=共働性)」や 「synodal(シノダル=共働的 )」という用語は、古くから続いてきたsynods(教義や管理上の問題を話し合うために催す教会会議)の慣行に由来する。東方教会と西方教会の伝統において、「synods(シノドス )」という用語は、複数の主題を含むさまざまな形をとる制度や行事を指す。その多様性において、これらのすべての形態は、「対話し、識別し、決定するために集まる」という点で一致している。

 ここ数年の経験のおかげで、これらの用語の意味はよりよく理解され、より経験されるようになった。これらの用語は、より人々に近く、より関係的な教会、すなわち神の家であり家族である教会への願望とますます結びついてきている。

 シノダリティは、キリスト者とともに、神の国に向かって、全人類と一致しながら共に歩むことであり、福音宣教を志向し、教会生活のさまざまなレベルで集い、互いに耳を傾け、対話し、共同体としての識別を行い、聖霊のうちに現存するキリストの表現としてのコンセンサスを形成し、差異化された共同責任において決定を下すことである。

 このように考えると、シノダリティが教会を構成する次元であることの意味がよりよく理解できる(CTI, no.1参照)。単純かつ包括的な言葉で言えば、シノダリティとは、教会をより参加的で宣教的なものにするための、つまり、キリストの光を放つすべての人と共に歩むことができるようにするための、霊的刷新と構造改革の道なのである。

29. キリストの母、教会の母、人類の母であるおとめマリアにおいて、私たちは、シノダル(共働的)で、宣教的で、憐れみ深い教会の特質が、完全な光を放つのを見る。マリアはまさに、耳を傾け、祈り、黙想し、対話し、同伴し、 見極め、決定し、行動する教会の姿である。私たちは彼女から、傾聴の技術、神のみ旨への注意、御言葉への従順、貧しい人々の必要を把握する能力、出発する勇気、助ける愛、賛美の歌、聖霊への歓喜を学ぶ。だからこそ、聖パウロ六世が述べているように「世 界における教会の活動は、マリアの慈愛の延長のようなもの」 (MC 28)なのだ。

30. より詳細には、シノダリティは教会生活の3つの異なる側面を指している:

a)第一に、それは 「教会の生活と宣教を修飾する独特の様式を指し、福音を宣べ伝えるために聖霊の力によって主イエスによって召集された神の民の集まりとして共に歩み、共に集まるという教会の本質を表現している。それは教会の通常の生き方、働き方の中で表現されねばならない。この生き方と働き方は、御言葉を共に聴くこと、聖体の祭儀、交わりの友愛、そして、神の民全体が、そのさまざまなレベルにおいて、また、さまざまな任務と役割の区別において、その生活と宣教において、共同責任を負い、参加することを通して実現される」(CTI, n. 70a)。

b) 第二に、「シノダリティは、神学的・カトリック的観点から、より具体的かつ決定された意味で、教会のシノダリティ的性格が制度的なレベルで、同様に、その実践の様々なレベル(地域、地方、普遍的なレベル)で表現されるような教会的構造とプロセスを意味する。これらの構造と過程は、教会の権威ある識別に奉仕するものであり、教会は聖霊に聞き従うべき方向を識別するよう求められている」(CTI、70b)。

c)第三に、シノダリティとは、「教会が、権限ある権威によって、教会規律によって決められた具体的な手続きに従って招集され、地方、地域、普遍的なレベルで、さまざまな形で関与するシノダルな行事が適時に行われること 、を意味する。ローマの司教と合議的かつ位階的な交わりを持つ司教の司式のもとで、神の民全体が、その旅路と特定の問題を識別し、福音宣教の使命を果たすための決定と方向づけを行うために」(CTI, no. 70c)。

31. それは、すなわち、三位一体の神との一致と、聖霊を通して、キリストにおいて、実現される人間同士の一致である。このような背景から、シノダリティは、「共に歩む 」こと、集会として集うこと、福音宣教に全構成員が積極的に参加することのうちに、教会が交わりであることを現し、具体的に実践する、神の民である教会の具体的な生き方、働き方を示している(CTI, n.6)。

32. シノダリティはそれ自体が目的ではなく、キリストが聖霊によって教会に託された使命を目指すものである。福音宣教は 「教会の本質的な使命であり、……教会に固有の恵みであり、召命であり、教会の深遠なアイデンティティである」(EN 14)。すべての人に寄り添い、個人差なく、説教し、教え、洗礼を授け、聖体と和解の秘跡を祝うことによって、世界のすべての現地教会と全教会は、「すべての民に福音を宣べ伝えよ」という主の命令に具体的に応えるのである(マタイ福音書28章19-20節、マルコ福音書16章15-16節参照)。あらゆるカリスマと務めを大切にすることによって、シノダリティは、神の民があらゆる場所と時間の女性と男性に福音を告げ知らせ、証しすることを可能にし、神によって望まれたキリストにおける友愛と一致の 「目に見える秘跡」(LG 9)となる。福音宣教はシノダリティを啓発し、シノダリティは福音宣教を推進する。

 

33. 司牧者の権威は、「からだ全体を啓発するための、頭であるキリストの霊の特別な賜物である」(CTI, n.67)。この賜物は、宣教の使徒性を守り、あらゆるレベルにおける教会的交わりを促進するために、聖職叙階の秘跡と結びついており、聖職叙階を受ける者は、キリストの頭であり、羊飼いであり、僕であるように構成され、神の聖なる民の奉仕者として位置づけられる。シノダリティは、「階層的な聖職そのものを理解するための最も適切な解釈の枠組み」(教皇フランシスコ、世界代表司教会議(シノドス)設立50周年記念演説、2015年10月17日)を提供し、キリストが聖霊によって司牧者に託した使命を正しい観点から位置づける。それゆえそれは、権力者を含む教会全体に、回心と改革を促しているのである。

 

 

調和としての一致

34. 「人間という被造物は、霊的な本性を持っており、対人関係の中で実現される。対人関係を真正に生きれば生きるほど、個人のアイデンティティは成熟する。人間が自分を大切にするのは、孤立することによってではなく、他者や神との関係の中に身を置くことによってである。それゆえ、そのような関係の重要性が基本になる」(CV 53)。シノダル(共働的)な教会は、イエスが弟子たちに残した新しい戒め(ヨハネ福音書13章34-35節参照)を構成する相互愛ゆえに、人間関係が花開く空間として特徴づけられる。現代の個人主義的な文化や社会の中で、「父と子と聖霊の一致のうちに集う民」(LG 4)である教会は、三位一体に基礎づけられた人間関係の力を証しできる。すべてのキリスト教共同体に存在する召命、年齢、性、職業、境遇、社会的所属の違いは、個人的成熟のために不可欠な他者との出会いを一人ひとりに提供する。

 

35. 家庭のことを第二バチカン公会議は 「家庭の教会」(LG 11)と呼んでいるが、その家庭の中でこそ、性格、年齢、役割の多様性の中で結ばれた人々の関係の豊かさが経験される。それゆえに、家庭はシノダル(共働的)教会の本質的な実践を学び、経験するための特権的な場なのである。家族が経験する亀裂や苦しみにもかかわらず、私たちが愛、信頼、赦し、和解、理解という賜物を交換することを学ぶ場であることに変わりはない。

 家族の中でこそ、私たち一人一人が同じ尊厳を持っていること、互恵性のために創造されたこと、耳を傾ける必要があり、耳を傾ける能力があること、共に洞察し、決定すること、慈愛によって生かされた権威を受け入れ、行使すること、私たちの行動に対して共同責任を負い、責任を負うことを学ぶのだ。家庭は、「私たち 」という関係を通して人間を人間らしくすると同時に、一人ひとりの正当な違いを促進する」(教皇フランシスコ、教皇庁社会科学アカデミー総会での参加者への講話、2022年4月29日)。

 

36. これまでのシノドスの道の歩みは、聖霊が、神の民の中に多種多様なカリスマと務めを絶えず喚起していることを示した。「キリストのからだの建設においても、それぞれ異なる部分と職務がある。霊は一つであって、その富から、豊かに、また役務に応じて、教会の益のために、いろいろな賜物を分け与える=コリントの信徒への手紙12章11節参照=」(LG 7)。同様に、男女を問わず、すべての受洗者の参加と様々な形の共同責任の行使の可能性を広げよう、という熱望が生まれた。

 しかし反面で、この点に関して、この教会刷新の旅路に神の民の多くのメンバーが参加していないこと、また、男女間、世代間、文化的アイデンティティや社会的条件の異なる人々やグループ間、特に貧しい人々や排除された人々の間の健全な関係性を十分に経験することに疲れが広がっていることに悲しみが表明されている。

 

37. さらに、シノドスの道の歩みでは、カトリック教会が存在し、また、そこから生まれている世界中の現地教会の霊的遺産と、その経験を明確にする必要性を強調されてきた。「普遍性のゆえに、個々の部分は、自分に固有な賜物を他の部分と全教会に提供し、こうして、全体と個々の部分とは、相互に交換し合うことにより、また一致における完成を目指して協力することによって成長していく」(LG 13)。ペトロの後継者の務めは、「正当な多様性を保証すると同時に、特殊なものが一致を害することなく、むしろ一致に奉仕することを保証する」(同上およびAG22参照)ことだ。

 

38. 全教会は常に、民族と言語、特定の儀式、規律、神学的・霊的伝統を持つ教会、共通の善に奉仕する召命、カリスマ、宣教の多様性であった。この多様性の一致は、礎石であるキリストと調和の主である聖霊によってもたらされる。この多様性の中の一致は、まさに教会の普遍性によって規定される。そのしるしとして、シノドスの道の旅でその豊かさが強調された教会が複数ある。今シノドス総会は、教会の教会の交わりを養う出会い、相互理解、賜物の交換の道を私たちが歩み続けることを求める。

 

39. シノダル(共働的)な刷新は、「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」(ローマの信徒への手紙 14章17節)である神の国の民の一員となるように、という神の普遍的な呼びかけが現存し、実現される場としての文脈への理解を育む。このようにして、異なる文化は、その多元性の根底にある一致を把握することができ、賜物の交換の展望へと開かれる。「教会の一致は画一性ではなく、正当な多様性の有機的統合である」(NMI46)。救いのメッセージの表現が多様であることは、教会生活と、それが表現される神学的、典礼的、司牧的、懲戒的な形態についての単一の理解にそれを還元することを避けるのにつながる。

40. 文脈、文化、多様性、そしてそれらの間の関係を理解することは、宣教的でシノダル(共働的)教会として成長し、聖霊の働きの下で、キリスト者の目に見える一致に向かって歩むための鍵だ。私たちは、共通の洗礼のゆえに、また、キリストが最後の晩餐で祈られた「弟子たちの交わりと一致を共に生きよう」という呼びかけ(ヨハネ17:20-26参照)に応えて、他のキリスト者とのエキュメニカルな旅を続け、強めていくというカトリック教会のコミットメントを再確認する。今シノドス総会は、過去60年間にわたるエキュメニカルな関係の進展、共通の信仰を表明する対話文書や宣言に、喜びと感謝をもって敬意を表する。兄弟姉妹の代表たちの参加は、今シノドス総会の討議を豊かなものにし、私たちは、教会の実践にエキュメニカルな旅の果実を取り入れることを通して、完全な交わりへの道における次のステップを待望している。

 

41. 地上のいたるところで、キリスト者は、「洗礼を受けず、異なる宗教を実践することで神に仕える人々」と肩を並べて生きている。彼らのために、私たちは聖金曜日の典礼で厳粛に祈り、彼らとともに協力し、よりよい世界を築くために努力し、彼らとともに、世界を苦しめている悪から世界を救い出してくださるよう唯一の神に懇願する。シノダル(共働的)な教会に典型的な対話、出会い、賜物の交換は、「友好、平和、調和を確立し、真理と愛の精神で道徳的・霊的価値と経験を分かち合う」ことを目的として、他の宗教的伝統との関係に開かれるよう求められている(インド・カトリック司教協議会『現代の課題に対するインドの教会の対応』 2016年3月9日、FT271に引用)。地域によっては、他宗教の人々との兄弟姉妹の関係の構築に携わるキリスト者が迫害に苦しんでいる。今シノドス総会は、彼らが希望をもってその献身を忍耐するよう激励する。

 

42. 宗教と文化の多様性、霊的・神学的伝統の多様性、聖霊の賜物と共同体における任務の多様性、そして教会内の年齢、性別、社会的所属の多様性は、各自が自己の偏愛を認識し、それに立ち向かい、自分が中心であるという主張を放棄し、他の視点を歓迎するために心を開くように、という招きである。一人ひとりが、共通の仕事を完成させるための、特別で不可欠な貢献を担っているのである。多様な楽器は、音楽の美しさと調和に命を与えるために必要であり、その中で各楽器の声は、共通の使命のためにそれぞれの特徴を保っている。聖霊が教会に働かせる調和は、このように顕現されるものであり、聖霊は人格にける調和である(聖バジル『詩篇について』29, 1; 『聖霊について』16, 38 参照)。

 

 

シノダル(共働的)な霊性

 

43. シノダリティ(共働性)の霊性とは、何よりもまず、洗礼を受けた人々の日常生活と教会宣教のあらゆる側面に浸透する霊的な性質である。シノダリティの霊性は、聖霊の働きから生まれ、神の言葉に耳を傾け、観想し、沈黙し、心を回心させることを必要とする。教皇フランシスコがこの第2会期の開会の辞で述べたように、「聖霊は確かな導き手であり、私たちの最初の仕事は、聖霊の声を聞き分けることを学ぶことである。シノダリティの霊性はまた、禁欲主義、謙遜、忍耐、赦し赦される覚悟を要求する。

 それは、唯一の主に仕えるために聖霊によって分配されたさまざまな賜物と務めを、感謝と謙遜をもって歓迎するもの(コリントの信徒への手紙1・12章4-5節参照)である。それは、野心やねたみ、支配欲や管理欲を抱くことなく、「自分を無にして僕の形をとり、人間と同じ者になられた」(フィリピの信徒への手紙2章7節)キリスト・イエスと同じ心情を養うことだ。私たちは、教会の日常生活が、多様性の中での一致と調和によって示されるとき、その実りを認識する。本物の霊性の道を一人で進むことはできない。私たちは、個人として、また共同体として、養成と霊的指導を含む伴走と支援を必要とする。

44. キリスト教共同体の刷新は、恵みの優位性を認識することによってのみ可能となる。もし個人と共同体の霊的な深みが欠けているなら、シノダリティ(共働性)は組織的な便宜に矮小化される。私たちは、個人的な霊的体験の成果を共同体のプロセスに反映させるだけでなく、相互愛という新しい戒めを実践することが、神との出会いの場であり形であることを、より深く体験するよう求められているのだ。この意味において、シノドスの視点は、伝統の豊かな霊的遺産を活用しつつ、その形式を刷新することに貢献する。すなわち、参加に開かれた祈り、共に生きる識別、分かち合いから生まれ、奉仕として放射される宣教的エネルギーなのである。

 

45. 聖霊による会話は、その限界はあるにせよ、「霊が諸教会に告げること」(ヨハネの黙示録2章7節)に耳を傾け、識別することを可能にする実り豊かな手段である。その実践は、喜び、驚き、感謝を引き起こし、個人、グループ、そして教会を変える刷新の道として経験されてきた。「会話」という言葉は、単なる対話以上のものを表現している。それは、思考と感情を調和的に織り交ぜ、共有された生命世界を生み出すものだ。だからこそ、会話においては回心が重要であると言えるのである。それは、異なる民族や文化に見られる人類学的なデータであり、共同体にとって重要な問題を議論し決定するために連帯して集まる、という実践によって結ばれている。恵みはこの人間的経験を成就に導く。「聖霊のうちに 」会話をするということは、聖霊がそのまぎれもない声を聞かせることのできる福音的な雰囲気の中で、信仰の光の中で分かち合い、神の御心を求める経験を生きること、を意味する。

 

46. シノドスの道のどの段階においても、教会内、特にあまりにも多くの虐待スキャンダルの余波の中で、また社会内における癒し、和解、信頼の再構築の必要性が鳴り響いていた。教会は、キリストにおいて、洗礼を通して、私たちが互いに委ねられているという事実を、その生活と行動の中心に据えるよう求められている。この深い現実を認識することは、私たちが過ちを認識し、信頼を回復することを可能にする神聖な義務となる。この道を歩むことは、正義の行為であり、私たちの世界における神の民の宣教的コミットメントであり、私たちが天から招かなければならない賜物である。この道を歩み続けたいという願いは、シノダリティ(共働性)の刷新の実りである。

 

 

社会的預言としてのシノダリティ(共働性)

 

47. 謙虚さをもって実践されるシノダル(共働的)な様式は、教会を、今日の世界における預言的な声とすることができる。「シノダル(共働的)な教会は、『諸国民の間に掲げられる旗』(イザヤ書11章12節参照)のようなものです」(教皇フランシスコの世界代表司教会議発足50周年記念講話=2015年10月17日)。

 私たちは、不平等の拡大、伝統的な統治モデルへの幻滅の増大、民主主義の機能への幻滅、独裁的・独裁的傾向の増大、人々と被造物の脆弱性を無視した市場モデルの支配、対話ではなく力によって紛争を解決しようとする誘惑に特徴づけられる時代に生きている。シノダリティの真の実践は、キリスト者が支配的な考え方に対して批判的な預言ができる文化を発展させることを可能にし、その結果、現代社会が直面する多くの課題に対する答えの探求と共通善の建設に際立った貢献を提供する。

 

48. シノドス流の人間関係の生き方は、具体的な共同体の中で歓迎され、認められていると感じたいという人間のニーズに応える社会的証しである。それは、教会でさえもしばしば吸収してきた、人々の孤立化と文化的個人主義への挑戦であり、共通善のための相互配慮、相互依存、共同責任へと私たちを導くものである。同様に、人々を息苦しくさせ、自らの発展の主体であることを許さない、誇張された社会的共同体主義への挑戦でもある。すべての人々、特に貧しい人々の声に耳を傾けようとする姿勢は、権力の集中が貧しい人々、社会から疎外された人々、マイノリティ、そして私たちの共通の家である地球を切り離す世界とは対照的である。シノダリティとインテグラル・エコロジーは、ともに人間関係の観点を持ち、絆を大切にする必要性を主張している。だからこそ、現代世界における教会の使命を生きる方法において、両者は対応し合い、補完し合うのである。

 

 

第2部   船の上で、共に

人間関係の転換

 「シモン・ペテロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それにほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペテロが『私は漁に出る』と言うと、彼らは、『私たちも一緒に行こう』と言った」(ヨハネ福音書21章2-3節)。

49. ティベリアス湖は、すべてが始まった場所である。ペテロ、アンデレ、ヤコブとヨハネは、イエスの後を追うために舟と網を離れた。復活祭の後、彼らはその湖から再び出発した。夜、岸辺で彼らがやり取りする声が響く。「私たちも一緒に行く」。私たちはペトロの後継者の招きを聞き、それを受け入れた。私たちは共に祈り、考え、奮闘し、対話した。しかし何よりも私たちは、教会の活力を支え、その構造を活気づけるのは人間関係だ、ということを経験した。宣教的、シノダル(共働的)教会は、人間関係を刷新する必要がある。

 

新しい関係

50. 主との関係、男女の関係、家族の関係、共同体の関係、すべてのキリスト者の関係、社会集団の関係、宗教の関係、被造物との関係など、あるいは夫婦関係や出自、性を理由に、排除されたり批判されたりする苦しみを分かち合う人も後を絶たなかった。共同体の人間関係の福音的な質は、神の民が歴史の中で果たすべき証しにとって決定的である。

 このことによって、あなたがたが私の弟子であることが、すべての人に分かる。恵みによって刷新された人間関係と、イエスの教えに従って最も小さい者に提供されるもてなしは、弟子の共同体における聖霊の働きの最も雄弁なしるしである。それゆえ、シノダル(共働的)教会であるためには、真の関係性の転換が必要なのである。

 人間関係を大切にすることは、組織の効果を高めるための戦略や道具ではなく、父なる神がイエスにおいて、また聖霊においてご自身を現された方法であることを、私たちは福音から改めて学ばねばならない。私たちの人間関係が、たとえもろいものであっても、キリストの恵み、御父の愛、聖霊の交わりを輝かせるとき、私たちは、三位一体なる神への信仰を、人生を賭けて告白するのである。

 

51. イエスの振る舞いを自分のものとすることを学び、私たちに求められる回心のために、私たちが注目しなければならないのは、福音書である。福音書は、「イエスを、聖地の道を歩いてイエスのもとにやってくる人々に絶えず耳を傾けている姿として、私たちに見せている」(DTC 11項)。

 男であろうと女であろうと、ユダヤ人であろうと異教徒であろうと、律法学者であろうと公人であろうと、正しい人であろうと罪人であろうと、乞食であろうと盲人であろうと、らい病人であろうと病人であろうと、イエスは耳を傾けることを止めず、対話に入ることなく、誰も追い出されることはなかった。

 イエスは、一人一人の歴史と自由のあるところに会いに来られることによって、御父の御顔を現されたのである。出会った人々のニーズと信仰に耳を傾けることから、彼らの生活を新たにする言葉と身振りが生まれ、回復された関係への道が開かれた。イエスは「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口のきけない人を話せるようにしてくださる」(マルコ福音書7章37節)メシアである。イエスは、弟子である私たちにも同じように振る舞うことを求め、聖霊の恵みによって、私たちの心をイエスの模範とし、そうする能力を与えてくださる。私たちが兄弟姉妹に耳を傾けるとき、私たちは、イエス・キリストにある神が一人ひとりに会いに来られるのに参加するのである。

52. 人間関係における転換の必要性は、明確に男女間の関係に関わる。関係のダイナミズムは、被造物としての私たちの条件に刻まれている。性差は人間の関係性の基礎である。「神は人を自身のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された」(創世記1章27節)。神のご計画では、このもともとの違いが男女間の不平等を意味することはない。新しい創造においては、この違いは洗礼の尊厳に照らして再解釈される。

 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。キリスト者として私たちは、神の賜物であり命の源であるこの違いを、それが表現されるさまざまな方法と文脈において歓迎し、尊重するよう求められている。男女間の平等な尊厳と互恵性を尊重する関係を生きようとするとき、私たちは福音の証人となる。今シノドス総会期間中、あらゆる地域と大陸の女性たち(信徒も奉献者も)が苦痛と苦しみを繰り返し表明したことは、私たちがしばしばこのことを怠っていることを明らかにしている。

 

複数の文脈で

53. 主イエスにおける人間関係の刷新への呼びかけは、主イエスの弟子たちが生活し、教会の使命を遂行する複数の文脈の中で共鳴する。これらの文脈はそれぞれ、文化の多元性と結びついて、考慮に入れなけれ ばならない特別な豊かさを持っている。しかし、そのどれもが、方法は違っても、時に福音の論理とは相反する歪んだ関係論理の痕跡を残している。歴史を通して、関係性の閉塞は罪の構造(SRS36参照)として定着し、人々の考え方や行動に影響を与えてきた。特に、関係性の閉塞や恐れは、関係性の転換への道を歩み出すために、私たちが直面し、通過する必要のあるものを生み出している。

54. 戦争や武力紛争に始まり、「正義の平和が武力によって達成される」という幻想に至るまで、私たちの世界を苦しめている悪は、この力学に根ざしている。同様に致命的なのは、被造物のすべてを、人間でさえも、利益のために意のままに搾取できる、という信念である。

 男女間の不平等、人種差別、カーストの分断、障害者に対する差別、あらゆるマイノリティの権利の侵害、移民を歓迎しようとしない姿勢など、キリスト教社会でさえも人々を分断し、他の人々が享受している可能性に比べてある人々の可能性を制限している多種多様な障壁の結果が、これである。

 私たちの姉妹であり母である地球との関係(LS1参照)さえも、民族全体、そしておそらく全人類はともかく、特に最も貧しい地域の無数の共同体の生活を危険にさらす亀裂の兆しを見せている。最も根本的で劇的な閉鎖は、人間の生命そのものに対するものであり、子宮から生まれた子どもたちや高齢者を切り捨てることにつながっている。

 

55. 私たちの世界を苦しめている非常に多くの悪が、教会にも現れている。虐待の危機は、その多様で悲劇的な現れにおいて、被害者と生存者、そしてその地域社会に、計り知れない、そしてしばしば長く続く苦しみをもたらしている。教会は、聖職者や教会に任命された人による性的、霊的、経済的、組織的、権力的、良心的虐待の被害者や生存者の声に、特別な配慮と感受性をもって耳を傾けなければならない。

 傾聴は、癒し、悔い改め、正義と和解に向かう旅の基本的な要素である。世界的な信頼の危機を経験し、人々が不信と疑惑のうちに生きることを奨励している時代にあって、教会は自らの欠点を認め、謙虚に赦しを請い、被害者を気遣い、予防の手段を提供し、主に対する相互の信頼を回復するために努力しなければならない。

 

56. 排除と疎外に苦しむ人々の声に耳を傾けることは、生けるお方である主がこれらの傷ついた関係を癒してくださるように、その重荷を引き受けることが教会の使命の一部であるという教会の自覚を強める。このようにしてのみ、教会は 「キリストにおけるいわば秘跡、すなわち、神との親密な交わりと全人類一致のしるし、道具である」(LG 1項)ことができるのである。

 同時に、世界に対して開かれた態度によって、私たちは、地球のあらゆる場所、あらゆる文化、あらゆる人間集団において、聖霊が福音の種を蒔かれたのを発見することができる。その種は、健全な人間関係を生き、相互の信頼と赦しを培い、多様性への恐れを克服し、歓迎する共同体に生命を与え、人々と地球を大切にする経済を促進し、紛争の後に和解する能力において実を結ぶ。

 歴史は私たちに、宗教の名において動機づけられた紛争の遺産を手渡し、宗教そのものの信頼性を損なっている。苦しみの源は、「キリスト教共同体の分裂」という不祥事であり、同じ洗礼を受けた兄弟姉妹の間の敵意である。シノドスの旅に伴うエキュメニカルな勢いの新たな経験は、関係的転換の兆候のひとつであり、希望を開くものである。

 

 

宣教のためのカリスマ、召命、ミニストリー

57. キリスト者は、個人的に、あるいは関連した形で、福音を証しし、宣べ伝えるという観点から、聖霊が授ける賜物を実らせるように召されている。「恵みの賜物には色々ありますが、それをお与えになるのは同じ聖霊です。務めにはいろいろありますが、仕えるのは同じ主です。働きには色々ありますが、すべての人の中で働いてすべてをなさるのは同じ神です。一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の駅となるためです」(コリントの信徒への手紙1・12章4-7節)。

 キリスト教共同体では、洗礼を受けたすべての人が、それぞれの召命と人生の状態に応じて、分かち合うべき賜物を豊かに与えられている。さまざまな教会的召命は、実際には、聖性と宣教への一つの洗礼的召命の複数の明確な表現なのである。聖霊の自由に由来する多様なカリスマは、キリストの教会体の一致(LG 32 参照)と、異なる場所と文化における宣教(LG 12 参照)を目指している。これらの賜物は、それを受け、行使する者の独占的な所有物ではなく、また、自分自身や集団のためにそれを主張する理由にもなり得ない。彼らは、召命の適切な司牧を通して、また、キリスト教共同体の生活にも、多面的な社会の発展にも貢献するよう召されているのである。

58. 洗礼を受けた人はそれぞれ、自分の生活と仕事の文脈における宣教の要請に、自分自身の 傾向と能力に基づいて応え、それによって、自分の賜物を授ける聖霊の自由を現す。この聖霊のダイナミズムのおかげで、神の民は、自分たちが生きている現実に耳を傾けることによって、自分たちの使命を果たすための新たな領域と新たな方法を発見することができるのだ。家庭やその他の生活において、職場や専門職において、市民的・政治的・社会的・生態学的コミットメントにおいて、福音に触発された文化の発展において、デジタル環境の文化の福音化において、さまざまな能力において、この世の道を旅し、自身の生活環境の中で福音を宣べ伝えるキリスト者は、聖霊の賜物によって支えられている。

59. 彼らは教会に、放っておかれるのではなく、遣わされ、支えられていると感じるよう求める。彼らは、御言葉と聖体のパンによって、また共同体の友愛の絆によって養われることを求める。それは、福音の力による教会の行動であり、私的な選択ではない。最後に、共同体が、証しによって福音に引き寄せられた人々に寄り添うことを求める。宣教的なシノドス教会では、司牧者のリーダーシップの下、共同体は自分たちが送り出した人々を送り出し、支えることができる。それゆえ、共同体は、自分たちの内部で行われる活動や組織的な必要性だけに焦点を当てることなく、社会の中で、家庭生活や職場生活の中で、信徒が行う宣教に奉仕することを第一に考えるようになる。

 

60. 洗礼によって、男女は神の民の中で等しい尊厳を享受している。しかし、女性は、そのカリスマ、召命、教会生活の様々な領域における地位が十分に認められ、共通の使命への奉仕が損なわれることに、障害を見出し続けている。

 聖書は、救いの歴史において多くの女性が顕著な役割を果たしたことを証明している。一人の女性、マグダラのマリアは、復活の最初の告知を託された。聖霊降臨の日、神の母マリアは、主に従った他の多くの女性たちと共に、上座の間に同席した。聖書の関連箇所を典礼用日課で見つけることは重要である。教会史におけるいくつかの重要な節目は、聖霊に動かされた女性の本質的な貢献を裏付けている。

 女性は教会に通う人の大多数を占め、しばしば家庭において信仰の最初の証人となる。小さなキリスト教共同体や小教区の生活で活躍し、学校や病院、保護施設を運営し、和解や人間の尊厳と社会正義の促進のためのイニシアチブをとっている。女性は神学研究に貢献し、教会関連機関、教区事務局、ローマ教皇庁で責任ある地位に就いている。権威ある立場や地域社会のリーダーとして活躍している女性もいる。

 本総会は、女性の役割に関して現行法にすでに規定されているすべての機会を、特にそれが果たされていない場所において、完全に実施することを求める。教会において女性が指導的役割を担ってはならない理由はない。女性が司祭聖職に就くことの問題は、未解決のままだ。この点に関しては、さらなる識別が必要である。総会はまた、説教、教え、カテケージス、教会の公式文書の起草において使用される言葉やイメージにもっと注意を払い、女性の聖人、神学者、神秘家の貢献により多くのスペースを与えることを求める。

 

61. キリスト教共同体の中では、子どもたちに特別な注意が払われなければならない。子どもたちは、成長という冒険に伴走する必要があるだけでなく、信者の共同体に多くのものを与えることができる。使徒たちが「誰が一番偉いか」を論じ合っていた時、イエスは、子どもを彼らの真ん中に置き、御国に入る基準として提示された(マルコ9章33-37節参照)。

 教会は、価値ある宣教の可能性の担い手である子どもたちの貢献なしには、会堂的であり得ない。子どもたちの声は共同体にとって必要なものであり、私たちはその声に耳を傾け、社会のすべての人、特に政治的・教育的責任を担う人たちが耳を傾けるようにせねばならない。戦争、貧困、ネグレクト(育児放棄)、虐待、人身売買によって多くの子どもたちが受けている苦しみは、糾弾の勇気と連帯のコミットメントを必要とする不祥事である。

62. 若者たちもまた、教会のシノダル(共働的)刷新に貢献できる。彼らは特に友愛と分かち合いの価値観に敏感であり、一方で父権主義的、権威主義的な態度を拒否反応を示す。教会に対する彼らの態度は、時には批判として現れることもあるが、多くの場合、社会的不正義と闘い、共通の家を大切にすることを約束した、人々を喜んで受け入れる共同体への個人的なコミットメントという肯定的な形をとる。2018年に若者たちに捧げられたシノドスで若者たちが提唱した「日常生活の中で共に歩む」という要請は、まさにシノダル教会の地平に対応している。特に、彼らの貢献のおかげで生まれた 「識別を視野に入れた同伴の経験 」という提案には、成人教育者と分かち合う友愛的生活、最も必要としている人々のために共に生きる、という使徒的コミットメント、祈りと秘跡生活に根ざした霊性の提供(世界代表司教会議(シノドス)第15回通常総会最終文書『青少年、信仰と職業的識別』161項参照)が含まれる。

63. 洗礼を受けたすべての人の宣教への共同責任を促進するにあたって、私たちは、福音化の積極的な主体として召命され、派遣されていると感じている障害者の使徒的能力を認める。私たちは、彼らがもたらす計り知れない、豊かな人間性から生まれる貢献を大切にしたいと思う。私たちは、彼らの苦しみ、疎外、差別の経験を認め、時にはキリスト教共同体の中でさえ、父権的な憐れみの態度によって苦しめられていることを認める。彼らの教会生活と福音宣教への参加を奨励するために、教会内に「障害者観察所」を設立することを提案する。

 

64. 教会が豊かになる召命の中で、夫婦の召命は際立っている。第二バチカン公会議は、「キリスト信者の夫婦は、結婚生活という身分と序列において、神の民の中で自分たち固有の賜物を持っている」(LG 11項)と教えている。結婚の秘跡は、家庭の生活、教会の教化、社会におけるコミットメントに同時に関わる特別な使命を課している。特に近年、家庭は家庭司牧の受け手であるだけでなく、主体であるという意識が高まっている。だからこそ、子どもや若者の教育に献身する教会機関の助けを借りながら、家族が集い、ネットワークを築く必要があるのだ。今一度、今シノドス総会は、伝統と、結婚と性倫理に関する教会の教令に忠実であることの選択として、孤独な状態を生きる人々への親近感と支援を表明する。

65. 何世紀にもわたって、霊的な賜物もまた奉献生活の様々な表現を生み出してきた。最も古い時代から、教会は、福音的勧告の道を歩むキリストに従うことを選び、観想とさまざまな形の奉仕の両方において神への奉仕のために自らを奉献した男女の生活における聖霊の働きを認めてきた。奉献生活は、その預言的な声で教会と社会に挑戦するよう召されている。その世俗的な経験の中で、修道者たちは、個人の賜物と共通の使命とを調和させることを学びながら、集団生活と共同体の識別のための試行錯誤の実践を成熟させてきた。

 修道会、使徒的生活共同体、世俗的な組織、そして協会、運動、新共同体は、教会における共同体の成長に特別な貢献をしている。今日、多くの奉献生活の共同体は、教会と世界にとって預言となる異文化間の実験室です。同時に、シノダリティ(共働性)は、地域教会の司牧者、奉献生活担当者、教会共同体担当者に対し、共通のミッションに奉仕する賜物の交換に命を与えるために、関係を強化するよう招き、時には挑戦する。

66. 福音宣教は洗礼を受けたすべての人を巻き込む。男女信徒の第一の任務は、福音の精神を世の現実に浸透させ、変容させるこ とだ(LG 31、33項; AA 5-7参照)。教皇フランシスコの刺激(2021年1月10日付使徒的書簡『Spiritus Domini』参照)に支えられたシノドスの道の歩みは、現地の教会が福音宣教の必要性に、創造力と勇気をもって対応するよう促し、カリスマ(神の賜))の中から宣教の形態をとることが適切なものを見分け、適切な基準、手段、手続きを備えるよう促している。

 すべてのカリスマが聖職として構成されなければならないわけではなく、洗礼を受けたすべての人が聖職者にならなければならないわけでもなく、すべての聖職が制定されなければならないわけでもない。あるカリスマが聖職として構成されるためには、共同体が真の司牧上の必要性を確認することが必要であり、そのためには、新しい聖職を創設することの妥当性について、司牧者が共同体とともに行う識別が必要である。

 このプロセスの結果として、権限のある権威が決定を下す。宣教的なシノダル(共働的)教会では、典礼の領域だけでなく、より多くの形態の信徒による奉仕、すなわち、叙階の秘跡を必要としない奉仕の推進が求められている。このような宣教は、制定することもできるし、制定しないこともできる。また、人々がますます容易にあちこちに移動する時代に、どのように信徒 の務めを委ね、その行使のための時間や地域を特定するかについても、考察が行われ るべきである。

 

67. 多くの教会的奉仕の中で、今シノドス総会は、神学がその多様な表現の中で提供する信仰理解と識別への貢献を認識した。神学者は、神の民が啓示によって啓発された現実の理解を深め、宣教のための適切な対応と適切な言葉を開発するのを助ける。シノダル(共働的)で宣教的な教会において、神学のカリスマは具体的な奉仕を行うよう要請される。信仰深い人々の信仰体験や真理の観想、そして司牧者たちの説教とともに、神学は福音をより深く浸透させるために貢献する。

 さらに、「他のキリスト教の召命と同様、神学者の務めは、個人的なものであると同時に、共同体的、合議体的なものでもある」(CTI, no.75)。「それゆえ、教会的合議制は、神学者たちが合議制の形で神学を行うことを約束し、神学者たち自身の間で、多様で多様な事例や貢献に耳を傾け、対話し、識別し、統合する能力を促進する」(同書)。このような観点から、司牧者と神学研究に従事する人々との対話を、適切な制度的形態を通して促進することが急務である。今シノドス総会は、神学を扱う諸機関に対し、地域教会におけるシノダリティ(共働性)とそれに伴う養成の意味を明らかにし、深めることを目的とした研究を継続するよう要請する。

 

 

調和に奉仕する聖職

 

68. 教会のすべての職務と同様に、司教職、司祭職、助祭職は、福音を宣べ伝え、教会共同体を築き上げるために奉仕するものである。第二バチカン公会議は、神の任命による聖職が、「種々の聖職位階において、古代から、司教、司祭、助祭と呼ばれる人々によって、さまざまな順序で行使されている」(LG 28項)ことを想起した。この文脈において、第二バチカン公会議は、司教職の秘跡性を確認し(LG 21項参照)、司祭職の共同体的現実を回復し(LG 28項参照)、ラテン教会における助祭職を聖職位階の固有の永続的な段階として再興する道を開いた(LG 29項参照)。

 

司教の務め:聖霊の賜物を一致して構成すること

69.司教の任務は、地域教会を司式することであり、地域教会内の一致の目に見える 原則として、またすべての教会との交わりの絆として、地域教会を司式することである。司教の聖別によって、叙階の秘跡の完全なものが授与される(LG 21項)という公 会議の言明は、キリストとの秘跡的関係の網の目の中で、また、良い羊飼い であるキリストの名によって仕えるように召されている、司教に委ねられた神の民 の一部(CD 11項)との秘跡的関係の網の中で、司教のアイデンティティを 理解することを可能にしている。

 司教に叙階された者は、自分一人で果たさなければならない特権や任務を負わされるのではない。むしろ、司教は、聖霊が個人や共同体に注ぐ賜物を認識し、識別し、一致させて、司祭や助祭と秘跡的な結びつきの中で働きながら、司祭や助祭と共に地域教会における聖職奉仕の共同責任を負う、という恵みと任務を受ける。そうすることによって、教会の交わりへの関心という文脈の中で、ご自身の使命に最もふさわしく具体的なことが達成されるのだ。

 

70. 司教の任務は、御言葉の宣教、聖体祭儀の司式、その他の秘跡の司式を通して行われる、共同体の中で、共同体とともに、共同体のための奉仕である(LG20項参照)。これが、今シノドス総会が、司教の選出において、神の民がより大きな発言力を持つことを望む理由である。

 今シノドス総会はまた、司教の叙階式は、しばしば行われているように、出身教区ではなく、司牧者として任命される教区で行われるべきであり、主献堂者は、可能な限りメトロポリタンを含む教会管区の司教の中から選ばれるべきであることを勧告する。こうすることで、司教になる者は、自分が任命された教会と契りを結び、その教会の前で公然と自分の務めを引き受けるのである。

 特に司牧訪問の際、司教が信徒とともに時間を過ごし、自分の識別のために信徒の話に耳を傾けることも同様に重要である。そうすることで、信徒は、教会を神の家族として経験することができるのだ。司教と地域教会との構成的な関係は、教皇代理やローマ教皇庁に所属する司教など、位階制の司教の場合、今日では十分に明確にはなっていない。この問題については今後も考察を続けることが適切であろう。

 

71. 司教はまた、その宣教において伴走し、支援される必要がある。メトロポリタン教区司教は、近隣教区の司教間の友愛を促進する役割を果たすことができる。シノドスの道の歩みの中で、司教に地域の状況においても、継続的な養成の道を提供する必要性が出てきた。補助司教の役割を明確にし、司教が委任できる任務を拡大する必要性が想起された。神の民に奉仕する新しいあり方における名誉司教の経験も大切にされるべきである。

 司教もまた、他の人々と同じように、誘惑にさらされ、助けを必要とする、もろい兄弟であることを忘れずに、信徒が司教に対して過剰で非現実的な期待を抱かないように助けることが重要だ。司教に対する理想化されたビジョンは、司教のデリケートな職務を促進しない。その職務は、真の意味でシノダル(共働的)な教会において、神の民全体が宣教に参加することによって支えられるのである。

 

 

 

司教とともに:司祭と助祭

72. シノダル(共働的)な教会では、司祭は人々に寄り添い、すべての人を歓迎し、耳を傾け、シノダリティ(共働性)に自らを開くという態度で奉仕するよう求められている。司祭たちは 「司教と共に一つの司祭団を構成」(LG 28項)し、特に一致の奉仕に注意を払いつつ、カリスマを識別し、地域教会を伴走し導くことにおいて、司教と協力する。彼らは司祭としての友愛を生き、司牧的奉仕において共に歩むよう召されている。

 奉献生活修道会や使徒的生活修道会の会員である司祭もまた司祭団の一部であり、そのカリスマの独自性によって司祭団を豊かにする。彼らは、独身であるか既婚であるかにかかわらず、東方教会の聖職者、司祭が不足している地域へ派遣される司祭、そして他国から来た司祭と同様に、地元の聖職者が教会全体の視野に開かれるのを助ける一方、教区の司祭は、彼らの同胞が、その伝統と霊的な豊かさを持つ具体的な教区の歴史の一部となるのを助ける。このようにして、宣教を見据えた真の賜物の交換が司祭職においても行われるのだ。司祭職もまた、特に司牧の初期段階において、また、弱さやもろさの瞬間において、同伴され、支えられる必要がある。

 

73. 神と教会の秘義に仕える者(LG 41項 参照)である助祭は 「司祭職のためではなく、聖職のため」(LG 29項)に叙階される。助祭は、宣教と典礼の中で、慈善の奉仕の中でそれを実践し、宣べ伝えら れる福音と愛のうちに生きる生活との関係を、助祭のいるあらゆる社会 的・教会的状況の中で示し、すべての人、特に最も貧しい人に対する奉仕 の意識とスタイルを教会全体に広める。伝統、典礼の祈り、司牧の実践が示すように、助祭の機能は多岐にわたる。

 宣教的で憐れみ深いシノダル(共働的)教会の枠組みの中で、特に最も貧しい人々に対するすべての人々の関心を呼び覚まし、持続させるために、それぞれの地方教会の必要性に応じて、それらは特定されなければならない。なぜなら、第二バチカン公会議によって、ラテン教会で、助祭職は、聖職位階の固有の永続的な段階として再興(LG 29項参照)されたが、まだ、世界のすべての地域では受け入れられていないからだ。

 公会議の教えは、現在進行中の多くの経験の検討にもとづいて、さらに深められる必要があるが、この教えはすでに、現地の教会に対して、より寛大な方法で常設助祭職を促進することを遅らせてはならない、という確かな動機を与えている。この奉仕職は、すべての人の僕となられた主イエスに倣って僕となる教会の成熟において貴重な要素であることを認めているのだ。この詳細な研究はまた、司祭となる者の助祭叙階の意義をよりよく理解することにもつながるだろう。

 

 

シノドス教会内の叙階された聖職者間の協力

74.  今シノドス総会中に、司教、司祭、助祭の喜び、献身、奉仕に対する感謝が何度か表明 された。また、司牧者がその奉仕の中で遭遇する困難も聞かれ、主に孤独感や孤立感、またあらゆる必要を満たす要求に圧倒されること、などが挙げられた。

 今総会での経験は、司教、司祭、助祭が、神の民の他のメンバーとの協力も必要とする聖職の遂行において、共同責任を再認識する助けとなるだろう。任務と責任の配分をより明確にし、何が叙階された聖職にふさわしく、何が他者に委ねられるか、また委ねなければならないか、について、より勇気をもって見極めることは、それぞれの聖職位階において、霊的により健全で、司牧的に、よりダイナミックな方法で聖職が行使されることを促すだろう。

 このような視点は、より明確なシノダル(共働的)なスタイルを特徴とする意思決定プロセスにも影響を及ぼさないことはないだろう。それはまた、自分自身の利益のために権力を行使し、神の民に奉仕する教会の権威を歪めることとして理解される「聖職者主義」を克服する助けにもなろう。それは特に、教会の聖職者による性的、経済的、良心的、権力的な濫用に表れている。司祭自身によって、また信徒によって助長される「聖職者主義」は、教会体に分裂を生じさせ、私たちが今日、糾弾している多くの悪を助長し、永続させる(フランシスコ『神の民への手紙』2018年8月20日)。

 

 

宣教のために共に

 

75. 共同体と宣教の必要性に応えて、教会はその歴史を通して、聖職者とは異なる特定の務めを生み出してきた。これらの奉仕職は、カリスマが共同体とそれを導く責任者によって公に認められ、安定した形で宣教の奉仕に置かれるときにとる形である。特にキリスト教共同体に奉仕することを目的としたものもある。

 特に重要なのは、司教が生涯に一度、候補者の適切な識別と養成の後、特定の儀式によって授与する聖職である。聖職の授与は、その人を形作り、教会の生活と宣教に参加する方法を定義する秘跡である。ラテン教会では、朗読者と侍者の奉仕職(2021年1月10日付使徒的書簡『聖霊の宣教』参照)とカテキスタの奉仕職(2021年5月10日付使徒的書簡『聖霊の宣教』参照)がこれにあたる。その行使の条件と方法は、正当な権威からの命令によって定められなければならない。候補者が満たさなければならない個人的条件を定め、これらの職務に就くための養成日程を作成するのは司教協議会の判断による。

76. これらと並んで、儀式的に制定されたものではないが、権限のある権威の委任によって安定的に行使される務めがある。たとえば、小さな教会共同体を調整する務め、共同体の祈りを指導する務め、慈善活動を組織する務めなどであり、地域共同体の特性に応じて実に多様なものがある。

 アフリカの多くの地域で、司祭のいない共同体を常に担当してきたカテキスタがその例である。たとえ定められた儀式がなくても、共同体の前に委任状を出すことによって、その委託を公にし、その効果的な認知を促すことが適切である。また、聖体拝領、司祭を待つ間の主日礼拝の司式、特定の秘跡の管理など、特別な務めがある。ラテン教会と東方正教会はすでに、場合によっては、信徒である男性または女性も洗礼の特別奉仕者になることができると定めている。ラテン教会では、司教は(聖座の許可を得て)、男性または女性の信徒に結婚の介助を委任することができる。

 各地域の状況に応じた必要性に基づいて、信徒によるこのような活動の機会を拡大し、安定させる可能性を検討すべきである。最後に、自発的な奉仕があるが、これはそれ以上の条件や明確な承認を必要としない。これらの奉仕は、すべての信徒が様々な形で、その賜物とカリスマを通して宣教に参加していることを示すものである。

 

77. 信徒は、男女を問わず、共働と差別化された共同責任の精神をもって、現代の司牧的ニーズに応える奉仕と聖職のさらなる形態を探求し、参加する機会をより多く提供されるべきである。特に、シノドスのプロセスからいくつかの具体的なニーズが浮かび上がってきた:

a)教会的な識別のプロセスや、意思決定プロセス(草案作成と意思決定)のすべての段階において、信徒がより広く参加すること。

b) 既存の規定に沿って、神学校、研究所、神学部を含む教区や教会機関において、信徒がより広く責任ある立場につくこと、

c) 奉献された男女の生活とカリスマ、および教会で責任を負う立場にある彼らの雇用に対する、より大きな認識と支援。

d) 典礼手続きにおいて裁判員として奉仕する資格のある信徒男女の数を増やすこと。

e) 教会とその機関の職員として働く人々の尊厳と権利の尊重を効果的に認めること。

 

78. これまでのシノドスの道の歩みは、傾聴が教会生活のあらゆる側面、とりわけ秘跡の管理、特に和解、カテケージス、養成、司牧的共働において不可欠な要素だ、という認識を新たにした。このような枠組みの中で、今シノドス総会は、傾聴と同伴の聖職を設けるという提案に注目した。

 そのような聖職は、共同体における傾聴と同伴の重要性を強調する預言的な方法であるとして、賛成する総会参加者もいた。また、傾聴と同伴は洗礼を受けたすべての人の仕事であり、特別な聖職は必要ない、と述べる参加者もいた。さらに他の人々は、例えば、この可能性のある聖職と、霊的伴走、司牧カウンセリング、和解の秘跡の祝別との関係について、さらなる研究の必要性を強調した。

 また、傾聴と同伴の聖職の可能性は、特に、教会共同体の周縁にいる人々、教会共同体から離れた後に戻ってきた人々、真理を探求し、主と出会うために助けられることを望む人々を歓迎することを目的とすべきである、という提案も出てきた。したがって、この点に関しては、さらなる識別の必要性が残されている。この必要性を最も感じている地域においては、試行を促進し、識別するための可能なモデルを開発することができるだろう。

 

 

 

第3部  網を張る

 

 イエスが「子たちよ、何かおかずになるものは捕れたか」と言われると、彼らは「捕れません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ」。そこで網を打ってみると、魚があまりの多くて、もはや網を引き上げることができなかった。(ヨハネ福音書21章5-6節)

79. 魚が捕れず、舟を岸に戻す時が来た。その時、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば、捕れるはずだ」と、弟子たちだけではできなかっただろうことをするように誘い、彼らの目や心では知覚できなかった可能性を指し示す、権威ある声が響く。シノドスの道の歩みで、私たちはこの「声」に耳を傾け、「声」が私たちに語りかけていることを受け入れようとした。祈りと友愛に満ちた対話の中で、私たちは、「教会的な識別」「意思決定プロセスへの配慮」「決定された結果の説明責任と評価」の三つをしっかりと果たすことが、宣教の道を示す御言葉に応える実践であることを認識した。

 

80. これら3つの実践は密接に絡み合っている。「意思決定のプロセス」には、「教会的な識別」が必要であり、そのためには、「透明性と説明責任が支える信頼の風土」の中で耳を傾ける必要がある。意思決定者は神の民を信頼し、その声に耳を傾けることができなければならない。

 この統合的なビジョンは、これらの実践のそれぞれが他の実践に依存し、それを支え、教会がその使命を果たす能力に役立つことを強調している。教会的な識別に基づく意思決定プロセスに関与し、透明性、説明責任、評価の文化を前提とするためには、技術的なものだけでなく、神学的、聖書的、霊的な基盤を探求できる十分な人材養成が必要だ。洗礼を受けたすべての人は、証し、宣教、聖性、奉仕において、共同責任を強調する、このような養成を必要としている。この養成は、責任ある立場にある人々や、教会的な識別の奉仕に携わる人々にとって、特別な形で行われる。

 

 

宣教のための教会的識別力

81. 教会の宣教を支え、方向づけることのできる関係を促進するためには、 エルサレムの使徒的共同体が最初のシノドスの結果を「聖霊と私たちにとっ て良いと思われたから」(使徒言行録15章28節)という言葉で封印することを許され た福音的知恵を行使することが優先的に要求される。ミッションの観点から神の民が行う識別こそ、私たちが “教会的 “と認定できるものなのです。 御父がイエスの名によってお遣わしになり、すべてのことを教えてくださる御霊は(ヨハネ福音書14章26節参照)、信者をつねに「すべての真理に」(同16章13節)導いてくださる。

 主の継続的な臨在と働きによって、”使徒たちからもたらされた伝統は教会の中で進展する”(DV 8)。 キリストの光を呼び起こすことによって、神の民は、キリストの預言的機能を共有し(LG 12参照)、”私たちの時代の他の人々とともに参加する出来事、要求、願望の中に、何が神の臨在や意向の真のしるしであるかを見分けようとする”(GS 11)。 このような識別は、主が教会に与えてくださるすべての知恵の賜物を活用するものであり、洗礼を受けたすべての人に聖霊によって伝達された感覚(sensus fidei)に根ざしたものです。 宣教シノドス教会の生活は、この精神に基づいて理解され、方向転換され なければならない。

82. 教会的識別は組織的な技術ではなく、信仰に生きる霊的実践である。 それは内的自由、謙遜、祈り、相互信頼、新しさへの開放、神のみ旨への委ねを必要とする。 一人一人が良心に従って発言し、他の良心の共有に耳を傾けることで、「御霊が諸教会に語っておられること」(黙示録2章7節)を共に認識しようとするのです。 教会的な識別は、すべての関係者の貢献を想定したものであり、交わり、宣教、参加が共に行われるシノダリティの条件であると同時に、特権的な表現でもある。 熟慮は、すべての人の意見を聞けば聞くほど豊かになる。 だからこそ、キリスト教共同体や社会の周縁にいる人々の参 加に特に配慮しながら、識別のプロセスへの幅広い参加を促進することが 不可欠なのだ。

83. 神の言葉に耳を傾けることは、すべての教会的識別の出発点であり、基準であ る。 聖書は、神がご自分の民に語りかけ、イエスにおいてすべての啓示の全容を私たちに与え(DV 2項 参照)、私たちが神の声を聞くことができる場所を示していることを証ししている。 なぜなら、「教会で聖書が読まれるとき、キリストご自身が語られる」(SC 7項)からだ。

 神は、教会の生きた伝統、教会の教権、聖書に関する個人的・共同的黙想、そして民衆の信心実践を通して語られる。 神は貧しい人々の叫びと人類史の出来事を通して、ご自身を現し続けておられる。 被造物は、その存在そのものが創造主の行為に言及し、生命を与える聖霊の臨在に満たされている。

 最後に、神は各人の個人的な良心においても語られる。良心は「人間の最も秘められた中心であり、聖所であって、そこで人間は独り神と共にあり、神の声が人間の内奥で響く」(GS 16項)。 教会的な識別は、神が語りかけ、その民に会うために来てくださる場 所のいずれをもおろそかにしないように、良心の継続的なケアと形成、そして忠誠の感覚の成熟を必要とする。

84. 教会的識別の段階は、場所や伝統によって様々な方法で表現することができる。 また、今シノドス総会の経験に基づき、欠けてはならない。いくつかの重要な要素を特定することができる:

a)識別の対象が明確に提示され、それを理解するための適切な情報と手段が提供されること。

b)祈り、神の言葉に耳を傾け、そのテーマについて考察する準備のための適切な時間が与えられること。

c)個人的、集団的な自分の利益に関して自由であり、共通善の探求に献身する内的な気質。

d)各人の言葉に注意深く、敬意をもって耳を傾けること。

e)最も「心を熱くさせる」(ルカ福音書24章32項参照)ものによって現れる、可能な限り広範な合意の探求。

e)対立を隠したり、最低レベルでの妥協を求めたりすることなく、可能な限り広範な合意を模索すること。

f)プロセスを主導する者が、到達した合意を定式化し、参加者全員に提示すること。 この見極めに基づき、適切な決定が成熟し、たとえ自分の意見が受け入れられなかったとしても、全員の支持を約束する。

85. 識別は常に具体的な文脈の中で行われ、その複雑さと特殊性はできる限り知らなければならない。 識別が効果的に “教会的 “であるためには、部分的あるいは原理主義的 なアプローチを避けつつ、聖書本文を解釈し、理解するのに役立つような、聖 書本文の適切な解釈、さまざまな権威の程度に応じた教父、伝統、および 大司教の教えについての知識、さまざまな神学の貢献、人間科学、歴史学、社会科学、および政治学の貢献など、必要な手段を利用することが必要だ。

86. 教会においては、識別へのアプローチや確立された方法論は実に多様である。 この多様性は豊かさであり、異なる文脈に適切に適応することで、多様なアプローチは実り豊かなものとなる。 共通の使命のためには、それぞれの特殊性を分散させることなく、またアイデンティティを固定化させることなく、友好的な対話を行うことが重要である。 地域教会においては、小さな教会共同体や小教区から始め て、特に責任ある立場にある人々の間に、宣教のための教会的な識別の文化を広め、育てるような研修の機会を提供することが不可欠だ。 同様に重要なことは、同伴役や進行役の訓練である。彼らの貢献は、しばしば識別のプロセスを遂行するうえで極めて重要だ。

意思決定プロセスの明確化

87. 共同体全体が、その構成員の自由で豊かな多様性の中で、宣教のために祈り、耳を傾け、分析し、対話し、識別し、意思決定に助言するために招集される」(CTI, n.68)。意思決定プロセスへの神の民全体の可能な限り広範な参加を促進することは、シノダル(共働的)な教会を促進する最も効果的な方法である。

 実際に、シノダリティ(共働性)が教会を修飾する生存様式と活動様式を定義しているのが 事実であるとすれば、それは同時に、シノダリティ(共働性)の様々な構造と制度の行使を 通して、識別し、合意に達し、決定するという、教会の使命を果たす上で 不可欠な実践を示しているのである。

88. 主によって召集され、派遣された弟子たちの共同体は、画一的で無定形な主体ではない。それは、多くの多様な成員を持つ主の体であり、神の国が全人類家族における主の降臨の奉仕において 「種と始まり 」として起こる歴史的共同体的主体なのである(LG 5 参照)。すでに教父たちは、「司教なしには何もない」(アンティオキアの聖イグナチオ『トラレジア人への手紙』2.2)、「司祭たちの助言なしには何もない」(カルタゴの聖キプリアン『手紙』14.4)。この 「nihil sine 」の論理が崩れるところでは、教会の存立基盤は不明瞭になり、その使命は阻害される。

89. この教会論的な枠組みの中で、差別化された共同責任に基づいて参加を促進することが約束されている。共同体の各メンバーは尊重されねばならず、意思決定の共有を視野に入れながら、その能力と賜物を大切にせねばならない。地域社会の規模に応じて、多かれ少なかれ明確な制度的仲介が必要である。既存の法律では、さまざまなレベルの参加型組織についてすでに規定されているが、これについては後述する。

90. その運営を容易にするために、意思決定プロセスの明確化について検討することが適切であると思われる。後者には通常、「共同討議、協議及び協力を通じた」(CTI69号)起草段階または指示段階が含まれ、これは所轄庁の責任であるその後の意思決定に情報を与え、これを支援する。この2つの段階の間には競争も対立もないが、この2つの段階が明 確になることによって、下された決定が、神が教会に望まれるものに対する全 員の従順の実りであることを保証することに貢献する。このため、聖霊に開かれた、相互信頼の雰囲気の中で、可能な限り全会一致のコンセンサスを求めて、集会とそれを主宰する者との間で相互性を効果的にする手続きを推進することが必要である。このプロセスには、決定事項の実施とその評価の段階も含まれねばならない。

 

91. 現行の法律では、当局が決定を下す前に協議する義務がすでに規定されている場合がある。司牧当局は、協議に参加した人々の意見に耳を傾ける義務があり、その結果、もはや彼らの意見に耳を傾けなかったかのように行動することはできない。従って、司牧権者は、協議が一致した場合、その協議の成果から、一般的で適切に表明されなければならない理由なしに離れることはない(CIC、can. 127, § 2, 2°;CCEO、can. 934, § 2, 3°参照)。正義に従って活動するあらゆる共同体と同様に、教会においても、 権威の行使は恣意的な意志の押し付けによって成り立つのではない。権威が行使される様々な方法において、それは常に交わりとキリストの真理の受容に奉仕するものであり、その中で、また、そのような真理に向かって、聖霊は様々な時と文脈の中で私たちを導いてくださるのだ(ヨハネ福音書14章16節参照)。

 

92. シノダル(共働的)な教会においては、司教の決定の管轄権、司教協議会の決定の管轄権、ローマの司教の決定の管轄権は、一致に関する奉仕と適法な多様性の尊重に関する奉仕において、キリストによって確立された教会の位階的構造に根ざしているものであるため不可分のものである(LG13参照)。しかし、それは無条件のものではない。特に参加の機構・仕組みによって行われるものであれば、正しい識別の結果として協議の過程に現れる方向性を無視することはできない。

 したがって、諮問(相談)と決議(の権限)とを対立させることは不適切である。教会では、決議(解決)はすべての人の助けによって行われるのであるが、その際、司牧的な権威者がその職責によって決定することなしに行われることは、決してない。

 このような理由から、「単に参考・諮問的 」な投票(tantum consultivum)について繰り返し述べられている『教会法典』の形式は、生じ得る曖昧さを排除するために再検討されなければならない。したがって、「参考・諮問的投票」と「決議的投票」との区別の両方を明確にし、様々な機能において意思決定のプロセスに参加する人々の責任に光を当てるために、公会議的な規範の改訂をするのは時宜を得たものと思われる。  

93. 秩序ある行動への配慮と、参加者による責任の明確な引き受けは、ここで想定されている方法で意思決定プロセスを実りあるものにするための極めて重要な要素である:

a)特に当局に課されるのは、協議および審議の対象ならびに意思決定の責任者を明確に定め ること、特定の専門知識または問題への関与を理由に、協議の対象となる人々を特定するこ と、すべての参加者が関連情報に効果的にアクセスし、理性的に意見を述べることができる ようにすることである;

b) 個人として、あるいは合議体のメンバーとして、協議の場で意見を表明する者は、良心の呵責のもとに、誠実かつ正直な意見を表明すること、受領した情報の秘密を尊重すること、受領した意見と異なる決定を当局が下す場合に、その審議においてどのように考慮したかを説明できるように、意見の要点を明らかにした上で、明確な意見表明を行うこと;

c) 主管官庁が、協議のプロセスを尊重し、その理由を明確に表明した上で、決定を下した場合、洗礼者を結びつける交わりの絆により、すべての人は、それが自分の見解と一致しない場合であっても、評価段階にも誠実に参加する義務を損なうことなく、それを尊重し、実行する義務を負う。法律で定められた方法で、より高い権威に訴えることは常に可能である。

 

94. シノダル(共働的)な 意思決定プロセスを正しく毅然と実施することは、参加型の視点に立った神の民の進歩に寄与し、特に正教会法で規定された制度的な仲介、特に参加型機関を通じて貢献する。短期的に具体的な変化がなければ、シノダル(共働的)な教会のビジョンは信用されず、このことは、シノドスの旅路から力と希望を引き出した神の民のメンバーを疎外することになるだろう。これらの変化を実施する適切な方法を見つけるのは、地域の教会次第である。

 

透明性、説明責任、評価

 

95. 意思決定はプロセスの終わりではない。福音主義的基準に触発された透明性の精神に基づき、説明責任と評価の実践を伴い、それに従わなければならない。共同体に対する自らの宣教の説明責任は、使徒教会に遡る最も古い伝統に属する。使徒言行録11章はその一例を示している。異教徒であったコルネリウスに洗礼を授けたペトロがエルサレムに戻ると、「割礼を受けている者たちは、彼を非難して、『あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした』と言った」(使徒言行録11章2-3節)。ペテロは自分の行動の理由を説明し、反論する。

96. 特に透明性に関しては、真実、忠誠心、明確さ、正直さ、誠実さ、一貫性、不透明さ、偽善、曖昧さの拒絶、下心の不在といった一連の用語と関連付けることによって、その意味を明らかにする必要性が浮上した。「心の清い人」(マタイ福音書5章8節参照)、「鳩のように素朴であれ」(同10章16節)という福音的な戒め、そして使徒パウロの言葉、「私たちは恥ずべき偽りを拒み、神の言葉を狡猾に振る舞ったり、偽ったりせず、神の目にかなうように、公然と真理を宣べ伝え、あらゆる人の良心の前に自らを示しています」(コリントの信徒への手紙2・4章2節)に言及した。従って、管理運営上の手続きや要件ではなく、聖書に根ざした基本的な姿勢に言及しているのである。

 福音主義的な正しい意味での透明性は、プライバシーや守秘義務の尊重、市民権力による不当な主張に対する個人の保護、その尊厳と権利をも損なうものではない。しかし、これらすべてが、福音に反する行為を正当化したり、悪に対する行為を回避したり隠蔽したりする口実となることは決してない。いずれにせよ、告解の秘密に関する限り、「秘跡の封印は不可欠であり、いかなる人間権力もそれを管轄することはできず、また、それを主張することもできない」(教皇フランシスコ)。

97. 以上に述べたような意味での透明性の態度は、人間関係に気を配るシノドス教会が欠かすことのできない信頼と信用を守るものである。信頼が侵害されたとき、被害を被るのは、最も弱く、最も脆弱な人々である。教会が信頼を享受している場合、透明性、説明責任、評価の実践は、その信頼を強固なものにする助けとなり、教会の信頼性を再構築しなければならない場合には、さらに重要な要素となる。このことは、未成年者や弱い立場の人々の保護(セーフガード)において特に重要である。

98. いずれにしても、これらの実践は、教会がその使命に忠実であることを保証するのに役立つ。そのような実践の欠如は、「聖職者主義」の帰結の一つであると同時に、「聖職者主義」を助長するものでもある。それは、教会において 権威を持つ者は、あたかも神の民の中で孤立している、あるいは他の民より上位にあ るかのように、「自己の行動や決定に対して責任を負わない」という暗黙の前提に基づい ている。透明性と説明責任が求められるのは、性的虐待や金銭的虐待、その他の虐待に関してだけではない。それはまた、司牧者のライフスタイル、司牧計画、福音化の方法、そして教会が人間の尊厳を尊重する方法、例えば教会内の労働条件などにも関係する。

 

99. シノダル(共働的)教会が歓迎される教会であるためには、すべてのレベルにおいて説明責任が標準的な慣行とならねばならない。権威ある立場にある者は、この点において、より大きな責任を負っており、神と神の民に対して説明責任を果たすよう求められている。上司に対する説明責任の慣行は何世紀にもわたって守られてきたが、権威が共同体に果たすように求められる説明責任も慣行とされねばならない。奉献生活の経験の中で確立された制度や手続きは、この点で、説明責任を果たす根源となりうる。

100. あらゆる種類の聖職者としての責任を果たす方法を定期的に評価する仕組みと形式も、同 様に必要であると思われる。評価は、個人を判断するものではない。聖職者としての責任を担う者の行動において、肯定的な側面と改善の可能性がある領域を強調することを可能にし、教会が経験から学び、行動計画を再調整し、宣教に関連する決定の結果に注意を向けながら、聖霊の声に注意を払い続けることを助けるものだ。

 

101. 統制の基準や仕組みに関して、すでに公認の規範の中で規定されていることを守ることに加えて、市民的な規制の枠組み、社会からの正当な期待、そして、この問題における能力の効果的な利用可能性から出発して、さまざまな文脈にふさわしい、説明責任と評価の効果的な形式と手順を会堂的な方法で構築することは、現地教会、そして、とりわけ、そのグループの責任である。

 この作業では、参加型評価の方法論を支持し、説明責任と評価のプロセスに精通している人々、特に信徒のスキルを高め、地域の市民社会にすでに存在する良い実践を見極め、教会の文脈に適応させることが必要である。説明責任と評価のプロセスが地方レベルでどのように実施されているかは、アド・リミナ訪問の際に提出される報告書の一部であるべきである。

 

102. 特に、異なる文脈に適した形で、少なくとも以下を確保する必要があると思われる。

a) 経済問題評議会の効果的な機能

b) 司牧と経済計画における神の民、特により有能なメンバーの効果的な関与;

c) 教会とその機関の資産と財源の管理を透明化するために、可能な限り外部監査人により認証された年次財務諸表を作成し、公表すること(現地の状況にふさわしく、効果的にアクセスできるようにする);

d)セーフガード(未成年者及び社会的弱者の保護)及び信徒が権威ある地位に就くこと及び意思決定プロセスへの参加を促進することの分野で行われた取り組みの説明を含む、宣教の実績に関する年次報告書の作成及び公表。

e) 教会内のすべての職務と役職の業績を定期的に評価する手続き。

 これは、官僚的な努力それ自体が目的ではなく、「文化を変える」という観点から、強力な教育ツールであることを証明するコミュニケーション的な努力であり、また、あまりにも頻繁に隠されたままになっている教会とその機関の多くの貴重な取り組みに、より大きな可視性を与えることを可能にするものであることを、認識する必要がある。

 

 

シノダリティと参加型組織

103. 意思決定プロセスへの、洗礼を受けた者の参加、および説明責任と評価の実践は、制度的な仲介、とりわけ地方教会レベルではすでに教会法が規定している参加機関を通して行われる。ラテン教会では以下のような機関がある: 教区シノドス(CIC, can. 466参照)、長老評議会(CIC, can. 500, §2参照)、教区司牧評議会(CIC, can. 514, §1参照)、教区評議会(CIC, can. 536参照)、教区・教区経済評議会(CIC, can. 493 and 537参照)。

 東方カトリック教会では、次のようなものがある: 教区総会(CCEO, 235 ff.参照)、教区経済評議会(CCEO, 262 ff.参照)、長老評議会(CCEO, 264 can.参照)、教区司牧評議会(CCEO, 272 ff.参照)、教区評議会(CCEO, 295 can.参照)である。構成員は、さまざまな方法(カリスマ、奉仕、経験、能力など)で、それぞれの責任に応じた教会的役割に基づいて、これらに参加する。これらの各組織は、福音の文化的宣教、それぞれの環境における共同体の宣教、共同体を構成する洗礼を受けた者の証しのために必要な識別に参加する。また、確立された形式における意思決定プロセスに参加し、説明責任と評価の領域を構成する。参加団体は、シノドス指針を迅速に実施し、迅速な方法で目に見える変化をもたらすために、最も有望な活動領域の一つである。

 

104. シノダル(共働的)教会は、これらの参加機関の存在、効率性、実効性、そして単に名目的でない活力、また正典の規定や合法的な慣習に従って機能すること、そしてそれらを規定する法令や規則を尊重することに基づいている。このような理由から、参加機関は、シノダル(共働的)取り組みのすべての段階において必要とされるように、義務的なものとされるべきであり、また、単に形式的にではなく、さまざまな地域の状況に適した形で、その役割を十分に果たすことができるようにされるべきである。

 

105. さらに、シノダル(共働的作業方法の採用から始めて、これらの機関の機能に介入することが適切であると思われる「霊における会話」は、適切な修正を加えた上で、参考となりうる。メンバーの任命方法には特に注意を払わねばならない。選挙が想定されていない場合、共同体や地域教会の現実をできるだけ表現するようなシノダル(共働的)な協議を実施し、当局はその結果に基づいて、上記の諮問(相談)と決議の間の調整を尊重しながら、任命の手続きを進めるべきである。また、教区や小教区の司牧評議会のメンバーにも、長老評議会のメンバーと同様に、議題として提案する権限を与えるべきである。

106. 女性、若者、貧困や社会から疎外された状況にある人々の参加を促進するために、参加型組織の構成に同等の注意を払うべきである。さらに、これらの組織には、共同体内の生活や奉仕の組織化に携わる人々だけでなく、使徒的で宣教的な気質を認められ、通常の生活や社会の動きの中で信仰を証しすることに献身する洗礼を受けた人々が含まれることが不可欠である。そうすることで、教会的な識別は、より開放的で、現実を分析する能力があり、視点が多様であることから恩恵を受ける。異なる文脈の必要性に基づいて、世界代表司教会議(シノドス)の総会で行われるような他の教会やキリスト教共同体の代表者、あるいはその地域に存在する他の宗教の代表者の参加を想定することが適切かもしれない。各地域の教会とそのグループは、それぞれの状況に適した参加機関の構成基準をより簡単に示すことができる

107. 今シノドス総会は特に、草の根の共同体、小教区、地域のレベルから教区に至るまで司牧評議会のネットワークを作るなど、すでに行われている改革の経験と良い実践に注意を払った。また、協議と傾聴のモデルとして、教会の協議会をあらゆるレベルで定期的に開催し、カトリック教会内での協議を制限するのではなく、他の教会やキリスト教共同体の貢献にも耳を傾け、その地域の諸宗教に配慮することを求めている。

108. 教区シノドスおよび教区総会は、司教が特に現地教会の活動と宣教に関連する選択の問題がある場合、耳を傾け、祈り、識別する場として、司教に委ねられた神の民の部分について定期的に協議する機関として、より高く評価されることを提案する。司教は司教協議会に対して、様々な部門における司牧活動、司牧計画の実施状況、教会全体の協議会プロセスの受け入れ状況、セーフガードの 領域における取り組み、財政と一時財の管理について説明する。それゆえ、教区シノドスおよび教区総会が、過度に頻繁でない定期的な間隔で開催されることを規定することによって、各現地教会の宣教的、シノダル(共働的)な性格をよりよく反映させるために、この問題に関する正典の規定を強化することが求められている。

 

 

第4部  豊漁

 

結びの改心

 「そこで、シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。そレほど多く捕れたのに、網は破れていなかった」(ヨハネ福音書21章8、11節)。

109. 復活の主の御言葉によって投げられた網は、豊漁を可能にした。皆が協力して網を引き、ペトロは特別な役割を担っている。福音書では、漁は共に行う行為であり、一人一人に決められた任務があり、それぞれ異なるが、他の人の任務と共働して行う。このように、シノダル(共働的)な教会とは、交わりの中で一つになる絆と、あらゆる人々とあらゆる文化の多様性を受け入れる空間からできているのだ。教会が根ざし、巡礼する場の経験が変わってきている今、互いに、そしてローマ司教と交わりながら、司教の務めに支えられ、賜物の交換と私たちを結びつける絆の織り成しを、新しい形で培っていくことが必要なのだ。

 

「場」の概念が変わり、人の移動も増加

110. 福音宣教は、男女の心に信仰を目覚めさせることによって、特定の「場」に教会を成立させる。教会は、具体的な領域、すなわち、救い主である神との出会いの共有体験が形成される空間と時間に根ざしていなければならない。教会の地域的次元は、特定の文化的・歴史的文脈に根ざした信仰の豊かな表現の多様性を保持し、教会の交わりは、一つの教会の中での信徒の交わりを明示する。このようにシノダル(共働的)回心は、キリスト・イエスとその教会とのそれぞれの人の個人的な関係に根ざした私たちのすべての関係が共鳴する最初の 「場 」である心の空間を拡大するよう、それぞれの人を招く。これこそが、シノダリティ(共働性)の鍵である、所属の絆と教会的な「場」の改革の源であり、条件なのだ。司牧的活動は、すでに歩みを共にしている人々の関係を育むことに限定されるものではな く、すべての人と人との出会いを育むものでなければならない。

 

111. 根を張ることの経験は、「場」の概念を変えつつある現代の深い社会文化的な変化と折り合いをつける必要がある。「場」という概念は、現代において、もはや純粋に地理的・空間的な用語で理解されるものではなく、人間関係のネットワークへの帰属や、領土的なルーツがかつてないほどダイナミックで柔軟な文化であることを想起させる。

 今日、人類は歴史上初めて、世界人口の大半が都市に居住している。そして、多くの場合、大都市は歴史もアイデンティティもない人間の集合体であり、その中で人々は島のように暮らしている。伝統的な領土の結びつきは意味を変え、小教区や教区の境界は、かつてよりも明確でなくなっている。

 教会はこのような状況の中で、共同体としての活動を再建し、匿名的な現実に顔を与え、友愛の関係を紡ぎながら生きるように求められている。そのためには、適切な構造を最大限に活用することに加え、司牧ケアの新しい形を模索し、ケアの具体的な道筋を明らかにする、宣教的な創造性が求められる。しかし、一方で、発展から取り残された地域は、疎外され、排除された場所と同様に、周縁部として実際に存在しており、無視されてはならず、特別な司牧的配慮が必要であることに変わりはない。

 

112. 現代はまた、さまざまな理由による人の移動の増加によって特徴づけられている。難民や移民は、宗教的な慣習も含めて、しばしば活発な共同体を形成し、彼らが定住する場所を多文化的なものにしている。彼らの中には、特にデジタルメディアのおかげで、出身国との密接なつながりを維持し、新しい国でつながりを築くことに困難を経験する者もいれば、根無し草のままである者もいる。先の住民もまた、移民、難民の受け入れに苦労している。彼らは皆、地理的、文化的、言語的な出自の多様性との出会いによって引き起こされる衝撃を経験し、異文化間の共同体社会を構築するよう求められる。

 移民、難民の増加が教会の生活に与える影響も見逃すことはできない。この意味で象徴的なのは、ディアスポラ(民族離散)による信者の増加が影響を与えている、いくつかの東方カトリック教会の状況である。異なる精神的・文化的ルーツを尊重しつつ、出身教会とのつながりを維持し、新たなつながりを生み出すことができるよう、新たなアプローチが求められている。

 

113. デジタル文化の影響は、特に若者の間で顕著であるが、空間と時間の認識をも大きく変え、信仰を含む日々の活動、コミュニケーション、対人関係に影響を与えている。ネットがもたらす可能性は、人間関係、絆、国境を再構成する。今日、かつてないほど人と人がつながっているが、孤独や疎外感を経験することも多い。さらに、ソーシャルメディアは、人々を操り、イデオロギーを広め、攻撃的な偏向を生み出す経済的・政治的利害関係者によって利用される可能性がある。

 このような現実は、私たちに、何の準備もなく、デジタル環境が宣教と宣教のための預言的な場となるように、資源を捧げることを要求している。地域の教会は、デジタル環境で宣教に携わる人々を激励し、支援し、伴走すべきである。キリスト教のデジタル共同体やグループ、特に若者たちは、どのように帰属の絆を作り、出会いと対話を促進し、仲間づくりを提供し、シノダル(共働的)な教会のあり方を発展させていったらいいのか、を考えることも求められている。つながりのネットワークは、教会のシノダル(共働的)な次元をよりよく生きるための新たな機会を提供する。

 

114. このような社会的、文化的な発展は、教会に、その 「地域的 」次元の意味を再考し、その使命によりよく奉仕するために、その組織形態を問い直すことを求めている。具体的な地理的・文化的文脈に根ざすことの価値を認めつつも、「場 」を「人間の経験が形づくる歴史的現実」として理解することが不可欠である。教会が、その秘跡性(LG 1 参照)を表現し、その使命を遂行するよう求められているのは、そこに築かれた関係の網の目においてなのだ。

 

115. 「場」と「空間」の関係は、「家 」としての教会についての考察も示唆している。教会を「何としても守るべき、閉ざされた、近づきがたい空間」と理解しなければ、「家 」のイメージは、「歓迎、歓待、包摂」の可能性を呼び起こす。神の創造されたそのものが「共通の家」であり、そこでは人間という家族の成員が、他のすべての被造物と共に暮らしている。聖霊に支えられた私たちのコミットメントは、教会が、「すべての神の息子と娘のための歓迎の家」、「出会いと救いの秘跡」、「交わりの学校」として認識されるようにすることだ。教会はまた、キリストと共に旅する神の民であり、その中で誰もが希望の巡礼者となるよう召されている。伝統的な巡礼の習慣は、そのしるしである。民衆の信心は、宣教的、シノダル(共働的)な教会の「場」の一つなのだ。

(1項~115項「カトリック・あい」南條俊二試訳)

 

116. 洗礼を受けた者のキリストにおける交わりを最も完全に現す基本的な領域は、教区または東方教会区(“eparchy”)として理解される(世界の様々な地域で活動する)現地教会である。ここでは、現地教会が、その司教が主宰する聖体祭儀に集う。それぞれの現地教会は、他の現地教会との関係を保ちつつ、独自の内部組織を持つ。

 

117. 歴史が私たちに伝えてきた現地教会の主要な形態の一つは、小教区だ。 聖体祭儀に集う小教区共同体は、人間関係、歓迎、識別、宣教の特権的な場だが、 ”領域”の概念と生き方の変化が、小教区共同体の構成を再考することを求めている。

 これまでの小教区共同体の特徴は、 世代、職業、出身地、社会階層、生活環境の異なる人々が集う非選択的な共同体だった。だが今や、 宣教の新たな要請に応えるために、人々の移動と、彼らの生活が展開される “実存的領域 “を考慮した、従来はなかった形態の司牧活動に開かれることが求められている。 キリスト教入信を特別な方法で推進し、伴奏と養成を提供することによって、司牧は、人生のさまざまな段階において、また、世界における使命の遂行において、人々を支えることができるだろう。

 こうして、教区は自己中心的ではなく、使命志向的であり、職業や社会的、文化的、政治的活動において、さまざまな形で信仰を生き、証しする多くの人々の献身を支援するよう求められていることが明らかになる。 世界の多くの地域では、小さなキリスト教共同体や草の根的な教会共同体が、近接性と互恵性の緊密な関係を育む基盤となっており、シノダリティ(共働性)を具体的に生きる機会を提供している。

 

118. 我々は、修道会、使徒的生活会、あるいは協会、運動や新たな形の共同体が、しばしば国内的あるいは国際的に、現地に根付き、異なる場所や環境にある活動を結びつける力を持つことを知っている。彼らの活動は、多くの個人や非公式団体の活動とともに、病院、刑務所、老人ホーム、移民、未成年者、社会から取り残された人、暴力の被害者など、非常に多様な状況にある人々に福音をもたらすことが多い。病院、刑務所、高齢者施設、移住者、未成年者、社会から疎外された人々、暴力の被害者のための保護センター、若者や家族が集う教育や訓練の場、学校や大学、共に生きる新たな形を考え、構築する文化の創生や、政治、総合的人間形成の場、などである。 私たちはまた、修道院、すなわち、召命と識別の場、教会全体に関わり、その歩みを導く “向こう側 “の預言の場に、感謝の念をもって目を向ける。

 私たちはまた、修道院、すなわち、召命と識別の場、教会全体に関わり、その歩みを導く 「向こう側 」の預言の場にも感謝の念をもって目を向ける。この多様性を活性化し、一致の絆に配慮するのは、教区または教区司教の特別な責任である。諸教会や諸集団は、地域教会と相乗的に行動し、シノダリティ(共働性)のダイナミズムに参加するよう求められている。

 

119.  現地の教会と普遍的な教会との間にある “中間的な “場所、例えば、教会管区や国レベル、あるいは大陸レベルの教会の集まりを大切にすることは、今日のそれぞれのレベルでの教会の存在感を高めることにつながる。 人々の盛んな移動、相互関連性の高まりは、教会と教会の境界を流動的にし、しばしば “広大な社会文化的領域 “の中で考え、行動するこを求めている。そのような領域では、いかなる形の 「誤った特殊主義 」も排除され、キリスト教的生活は「それぞれの文化の気風と性格に合ったもの」(AG 22)となる。

 

賜物の交換

120. 私たちがイエスの弟子として、多様なカリスマと奉仕をもって共に歩み、同時に教会間の賜物の交換に従事することは、神の御国に向けた人類の旅に同行し、維持し、方向づける聖霊によって息を吹き込まれた、キリストにおける神の愛と慈しみの効果的なしるしである。この賜物の交換は、教会生活のあらゆる側面に関わっている。教会は、「良い限りの人々の富、資源、習慣、そして、それらを取り上げることで、それを浄化し、強化し、引き上げる」(LG 13)こと を取り上げ、奨励することによって、その使命を果たしている。 それは、キリストにおいて、地上のすべての民族から神の民として確立されており、また、地元教会、単一のカトリック教会内の「自律的」(ラテン語”sui iuris”)」教会、およびそれらの集団の交わりの中で動的に構造化されているからである。

 「あなたがたは、それぞれ賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を用いて互いに仕えなさい」(ペトロの手紙①4章10節)という使徒ペトロの勧告は、間違いなく、それぞれの現地の教会に適用できる。ラテン・カトリック教会と東方カトリック教会との関係は、そのような贈り物の交換の典型的で鼓舞的な例である。この関係は、変化し、差し迫った歴史的な状況ゆえに、注意深く生き返らせ、再考する必要がある。

 アマゾン川、コンゴ川の流域、地中海など、国境を越えた、異文化間の地理的な広大な地域での贈り物の交換と共通善の探求は、新しさと希望の例として浮上している。この交流には、世界的に関連性の高い社会問題への取り組みも含まれる。

 

121. 教会は、現地教会のレベルでも、またカトリックの統一によっても、出会いの文化、社会正義、社会から取り残された人々の包摂、人々の間の交わり、そして私たちの共通の故郷である地球への配慮を預言し、広め、促進する関係のネットワークになることを目指している。これを具体的に実現するためには、各教会が、多様性を尊重し、健全な相互主義を促進しつつ、家父長主義や従属関係なしに、連帯の精神で自らの資源を共有することが必要である。これには、必要に応じて、記憶の傷を癒し、和解の道を歩むことの決意が含まれる。

 異なる地域に属する地元教会間での賜物の交換と資源の共有は、教会の一致を促し、関係するキリスト教共同体間の絆を生み出す。聖職者不足に悩む教会を支援する司祭が、機能的な解決策となるだけでなく、派遣元と受け入れ先の教会の成長のための資源となるような条件を定める必要がある。同様に、経済援助が福祉主義に陥ることなく、福音的連帯を促進し、透明で信頼できる方法で管理されるようにすることが重要だ。

 

122.  賜物の交換は、すべての教会とキリスト教共同体の間の完全かつ目に見える一致に向けた旅路において、極めて重要な意味を持つものである。さらに、それはキリスト教の使命の信頼性と影響力の両方を促進する(ヨハネ福音書17章21節参照)、キリストへの信仰と愛における一致の効果的なしるしとなる。

 聖ヨハネ・パウロ二世は、「対話は単なる意見交換ではない。ある意味で、それは常に『賜物の交換』なのだ」(UUS 28項)、という表現をエキュメニカル(全キリスト教会一致)な対話に適用した。多様な文化的背景、歴史的状況、社会的課題の中で、神の御言葉と聖霊の声に耳を傾けながら、様々なキリスト教の伝統によって唯一の福音を具現化しようとするこれまでの、そして現在も続く努力は、聖性、慈善、霊性、神学、社会的・文化的連帯において、豊かな実を結んできた。

 これらの貴重な富を、偏見を持たずに、寛大さと誠意、主への感謝、そして互いへの寛容をもって、自分たちの独占的所有物と思い込まずに互いに贈り合うことで、大切にすべき時が来ている。他のキリスト教諸教会と共同体の聖人や信仰の証人たちの模範は、彼らの記念、特に殉教者の記念を私たちの典礼暦に組み込むことを含め、私たちが受けることのできる賜物でもある。

 

123. 教皇フランシスコと、アル=アズハルのグランド・イマーム(最高指導者)のアフマド・アル・タイーブ師は、2019年2月4日にアブダビ(アラブ首長国連邦)で署名された『世界平和と共存のための人類の兄弟愛をめぐる文書』の中で、「対話の文化を道とし、相互協力を行動規範とし、相互理解を方法と基準とすること」を採択する決意を表明した。

 これは、今日の世界における神の民の旅路に沿った、無為な願望や任意的なものではない。シノダル(共働的)教会は、どこに居ようとも、他の宗教の信者や他の信仰を持つ人々と共に、この道を歩むことを約束する。福音の喜びを惜しみなく分かち合い、それぞれの賜物を感謝して受け取る。この協力を通じて、私たちは、兄弟姉妹として、「相互的活動と助け合い」(GS 40参照)の精神の下で、公正、連帯、平和及び宗教間対話を共に構築することを目指す。地域によっては、宗教の違いに関係なく、近隣の小さな共同体で人々が集うところもある。このような共同体は、生活、行動、祈りという3重対話に適した環境を提供している。

一致の絆:司教協議会と教会集会

124.  教会間の関係の指針となる原則は、賜物の共有を通じた交わりの観点である。これは、教会全体の一致を形成する絆への配慮と、それぞれの現地教会の背景の特殊性、そしてその歴史と伝統の認識と評価を組み合わせたものである。シノダル(共働的)形式では、各地の教会が異なるペースで進むことを可能にする。ペースの違いは、正当な多様性の表現として、また、賜物を共有し、相互に豊かにする機会として評価することができる。この共通の視野には、私たちが使命を帯びたシノダル(共働的)教会となることを可能にする具体的な実践を見極め、特定し、促進することが必要である。

125. 司教協議会は、教会間の交わりを促進し、司牧生活のニーズにより効果的に応えるために、司教の合議制を表明し、実施する。司教協議会は、諸教会間の絆を築き、経験と優れた実践を共有し、キリスト教生活と信仰の表現を様々な文化に適応させるための基本的な手段である。また、神の民全体の掛かり合いを得て、シノダリティの発展においても重要な役割を果たす。

 

(116~125項・ガブリエル・タン試訳)

 

126. シノドスの道の歩みにおいて、2023年の初めに開かれた7つの大陸レベルの司教協議会連盟の会議(Continental Ecclesial Assemblies)は重要な新機軸であり、「キリスト信者の生活の全領域にわたる、より深い適応」(AG 22)における 「おのおのの広範な社会的・文化的領域 」(同)の価値に関する公会議の教えを実施する効果的な方法として、評価されるべきものだ。司教協議会の神学的・典礼的な地位は、大陸レベルの司教協議会連盟の地位と同様に、シノダル(共働的)教会のさらなる発展のためにその可能性を活用できるようにするために、より明確にされる必要がある。この経験の継続を奨励し、支援するのは、特に大陸の司教協議会連盟の議長たちである。

 

127.教会集会(地域集会、全国集会、大陸集会)において、神の民(司教団を含む)の多様性を表現し、代表する構成員は、司教団が、司教団に委ねられた務めによって拘束される決定を下すことができるようにするための識別に参加する。この経験は、シノダリティ(共働性)が、教会の宣教に関する意思決定のプロセスにおいて、すべての人(聖なる神の民)の関与と少数の人(司教団)の働きを具体的に明確にすることを可能にすることを示している。他のキリスト者、他宗教の代表者、公的機関、市民社会組織、社会全体との傾聴と対話の場を、文脈の多様性に適応した形で、識別に含めることを提案する。

128. 特殊な社会的・政治的状況のために、司教協議会の中には、大陸レベルの会議や国を超えた教会組織に参加することが困難なところもある。聖座は、これらの司教協議会が他の司教協議会と賜物の交換を視野に入れた関係を結ぶ機会を与えられるように、国家との対話と相互信頼を促進することによって、これらの司教協議会を支援する責任がある。

 

129. 健全な 「脱中央集権化」(EG 16)と効果的な信仰の文化化(特定の社会の中で社会の一員として、個人がその社会の文化を学び、実践すること)を達成するためには、司教協議会の役割を認識するだけでなく、定期的な祝典が教会の歴史の大部分において義務であり、ラテン語の法体系において有効な法規によって規定されている(CIC 439-446参照)、地方評議会および全体評議会の制度を再評価することも必要である。 定期的に召集されるべきである。 聖座による特別公会議の結論の承認(recognitio)のための手続きは、正確な期限を示すか、あるいは、純粋に司牧的あるいは懲戒的な事柄(信仰、道徳、秘跡の規律に関する事柄に直接関係しない)の場合には、暗黙の同意に相当する法的推定を行うことによって、適時の公表を促すように改革されるべきである。

 

 

ローマ司教の職務

 

130. シノドスの道の歩みはまた、シノダリティ(共働性)に照らして、ローマ司教がその聖職を行使する方法を再検討するのに役立った。実際、シノダリティは、個々の教会と全教会の共同体的(「すべての」)、合議体的(「いくつかの」)、個人的(「一つの」)な側面を交響的な仕方で明確にするものである。この視点に立てば、教皇職は、神の民全体を含む共同体としての側面や、司教職の合議体としての側面と同様に、シノダリティ(共働性)の力強さに内在している。(CTI, n.64参照)。

 

(126∼130項「カトリック・あい」南條俊二試訳)

131. したがって、私たちは、公会議が「教会の交わりの中には、独自の伝統を享受する合法的な個別教会があり、教皇職の優位性はそのまま残り、普遍的な愛の交わりを統括し、正当な相違点を受け入れながら、一致を損なわないだけでなく、さらに促進するように配慮する」(LG 13)、と断言した理由を理解することができる。教皇は、教会の一致の土台(基盤)であり(LG23)、シノダリティ(共働性)の保証人です。彼は、シノダル(共働的)な教会を招集し、統括し、そしてその結果を確認する。ペトロの後継者として、彼は信仰と道徳の遺産を保護し、共働的なプロセスが一致と証言に向けられていることを確認する、という独自の役割を担っている。教皇と共に司教団は全教会を司牧し(LG 22-23 参照)、すべての現地教会においてシノダリティ(共働性)を促進する、というかけがえのない役割を担っている。

132.多様性における一致を保証するものとして、ローマ司教は、東方カトリック教会のアイデンティティ(独自性)を、その数世紀にわたる神学的、教会法的、典礼的、霊的、司牧的伝統が尊重しつつ、確実にする。これらの諸教会は、司教会議には、総主教庁および大主教庁の司教評議会 (CCEO c. 102. ss., 152)、管区評議会 (CCEO can. 137)、聖職者評議会 (CCEO cc. 155, § 1, 164 ss.)、そして最終的には、異なる諸教会の総主教会議(CCEO can. 322) という、独自のシノダル(共働的)な形の審議会組織を備えている。ローマ司教(教皇)と完全な交わりを持つ諸教会は、東方教会としてのアイデンティティと自治権を保持する。共働性(シノドス)の枠組みにおいて、過去の傷を癒し、交わりを深めるために、共に歴史を振り返ることは適切である。これは、東方カトリック教会とローマ教皇庁との関係の調整を考慮することを意味する。これらの関係は、贈り物の交換、協力、相互の豊かさによって特徴づけられねばならない。。

133. この関係をさらに深めるために、今シノドス総会は、教皇が議長を務める、東方カトリック教会の総大主教、大主教、首都大主教の評議会を設立することを提案する。これはシノダリティ(共働性)の表現であり、交わりを促進する手段となります。この評議会はまた、典礼、神学、教会法、および霊的な遺産を共有する手段としても機能する。多くの東方カトリック教会の信者がラテン典礼の地域に移住すると、彼らのアイデンティティが損なわれる恐れがある。これに対処するには、ラテン教会と東方カトリック教会の協力を可能な限り強化するための手段と規範を発展させる必要がある。

 今シノドス総会は、独自の典礼を行なう司祭が不足している東方教会の信者へのより良い司牧的ケアを確保し、適切な自治権をもって、東方教会の司教の司教会議への参加を保証するために、ラテン教会の司教と東方教会の司教の間で誠実な対話と兄弟的な協力がなされることを勧める。最後に、今シノドス総会は、教皇が東方カトリック教会の強化と再繁栄を促進するために特別(臨時)のシノドス総会を召集することを提案する。

「福音を宣教せよ」

134. 教皇職の遂行に関する共働的な考察は、教皇フランシスコと多くの司教協議会が望んでいる「健全な分権化」(EG 16)の観点から行われねばならない。使徒憲章「Praedicate Evangelium(福音を宣教せよ)」によれば、この分権化とは、「教師および司牧者として本来の任務を遂行するにあたり、司教が問題に熟知していて、かつ、教会の教義、規律、交わりの一致を損なう問題を解決する権限を司教に委ね、教会という固有の交わりの神秘の結実と表現である共同責任の精神をもって常に行動する」ことを意味する(PE II, 2)。

 この方向への前進を続けるには、教皇に向けられるべき問題と、各教会または教会のグループの司教に向けられる問題を特定することを任務とする、神学および教会法の研究を開始する必要がある。これは、教皇の自発教令Competentias quasdam decernere」(『教会法典』と『東方教会法典』のいくつかの条文の改訂)」に沿って行われるべきである。この文書は、「教会の交わりの原動力」(前文)に基づいて、「普遍教会の規律の統一と現地教会および教会機関の執行権を保護することを目的とした法典の規定に関する特定の権限領域」に割り当てている。教会法上の規範も、教会内で関連する責任と権限を持つ人々によってシノドス様式に基づいて策定され、教会の識別の果実として成熟させられるべきである。

135. 使徒憲章『Praedicate Evangelium(福音を宣教せよ)』は、ローマ教皇庁の奉仕をシノダル(共働的)、宣教的な意味で位置づけている。同憲章は、教皇庁が「教皇と司教の間に位置づけられるのではなく、それぞれの本質にふさわしいやり方で両者に奉仕する」と強調している(PE I. 8)。実施にあたっては、各部局間の協力をさらに大きく促進し、各部局が現地教会の声に耳を傾けるよう促すことを奨励すべきである。重要な規範文書を公表する前に、各部局は、現地の司教協議会および東方教会の対応する機関と協議を開始するよう求められる。以上のような透明性と説明責任の原理に従って、教皇庁の活動を評価する形が考えられる。そのような評価は、シノダル(共働的)、宣教的な観点から、教皇庁の代表者にも拡大することができる。

 アド・リミナ(司教団のバチカン定期訪問)は、現地教会の司教とローマ司教、およびバチカンの最も親密な協力者との関係の頂点に位置する。多くの司教は、これらの訪問の実施方法が見直され、より自由な交流と相互の傾聴の機会となることが希望される。

 枢機卿団のメンバーの出身地や文化の多様性を考慮しつつ、お互いをよりよく知り、交わりの絆を育むことは、教会のために重要である。シノダリティ(共働性)は、教皇職における枢機卿たちの協力、そして、通常と臨時の枢機卿会議における合議的な識別を促す必要がある。

 

(以上、131~135項・田中典子試訳)

 

136. 世界代表司教会議(シノドス)は、シノダリティ(共働性)と合議性の実践が期待される最も明らかな場所のひとつとなっている。シノドスは、全世界の教会に配慮する教皇を支えるために集められた司教代表たちの会議として、聖パウロ6世によって設けられた。今日、シノドスは、(注:教皇フランシスコが出された)使徒憲章「Episcopalis Communio」によって、段階的なシノドスの道の歩みへと変容し、神の民、司教団、教皇の間にきわめて重要な関係を育てている。聖なる神の民全体と、教区ごとの神の民を任された司教たち、教皇が、それぞれの役割に応じて、シノドスの道の歩みに全面的に参加している。

 この参加は、教皇を中心にしたシノドス総会の変化に富んだ構成において明らかである。そして、このことは教会の普遍性を反映している。とりわけ教皇フランシスコが説明されたように、今シノドス総会の参加者の構成は「偶発的な事実以上のものであり、教会の伝統や第2バチカン公会議の教えとも一致する司教の役務を果たす方法」を示している(今シノドス総会・第2会期の第1回全体会合での発題 )。                                                                                           シノドスは、その司教的性格を保ちつつも、神の民の他のメンバーの参加によって構成と関係の幅を広げ、それゆえシノダル(共働的)であるこ とを自覚する教会において、司教的権威の行使が求められる(同上)ことを見 てきたし、今後も見るであろう。シノドスのアイデンティティを深める上で、すべての人(聖なる神の民)の関与、ある人たち(司教団)の務め、ある人(ペトロの後継者)の司式との間の明確な関係が、シノドスのプロセスと集会において現れ、具体的に実現されることが不可欠だ。

137. シノドス2021-2024の最も重要な成果の一つは、エキュメニカルな熱意が激しかったことだ。「・・・新たな状況に目を向ける優位性の行使の形式」(UUS95)を見つける必要性は、宣教するシノダル(共働的)教会にとってもキリスト教の一致にとっても基本的な課題である。キリスト教一致推進省の最新の出版物「ローマ司教: エキュメニカルな対話および回勅『キリスト教の一致』への応答おける優位性とシノダリティ(共働性)」は、さらなる研究の道を切り開くものであり、今シノドス総会はこれを歓迎する。

 この出版物が示しているのは、キリスト教の一致を促進することが、教皇の務めの本質的側面であり、エキュメニカルな旅がその深い理解を育んできた、ということである。第1バチカン公会議の教義上の定義の再読、またはそれに関する公式解説、教皇の様々な責任の間のさらに明確な区別、教会内および世界との関係におけるシノダリティ(共働性)の促進、交わりの教会論に基づく一致モデルの探求に関して、この文書に書かれた具体的な提案は、エキュメニカルな旅への有望な前途を示している。教皇のキリスト教一致促進の務めを「関係する人すべてが認める愛の奉仕」(UUS95)として果たすことについて、この文書が他のキリスト教徒と共に、さらに深く考える土台となれることが望ましい、と今シノドス総会は判断する。

 

138. 今シノドス総会では、他教会からの兄弟姉妹の代表たちの参加やキリスト教の交わりの豊かさによって、私たちは、洋の東西に関わらずエキュメニカルな仲間たちの共働的実践にもっと注意を払うようになった。シノダリティ(共働性)の理解と教会の一致を深めるためには、エキュメニカルな対話が欠かせない。エキュメニカルな対話によって、私たちは、福音宣教のエキュメニカル・シノドスの祭儀がそうであるように、共通の差し迫った課題についての協議と識別の形式を含むエキュメニカルでシノダル(共働的)な実践を進めるように促される。

 エキュメニカルな対話はまた、私たちが何者で、何をして、何を教えるのか、相互の説明責任を求めもする。これを可能にするのは、対話が、交わり、参加、宣教のダイナミズムを私たちに提供し、神の民としての私たちのアイデンティティに息吹を与える一つの洗礼のもとで一致することだ。

 

139. 2025年の聖年には、すべてのキリスト教を一つにする信仰のシンボルが考案されたニカイア公会議の記念日も祝う。この催しの1700周年記念の準備と合同記念式典は、私たちのキリストへの信仰を共に深め、告白し、あらゆる伝統のキリスト教の間でシノダリティ(共働性)の形式を実践する良い機会となるに違いない。それはまた、幸運にも2025年に起こるように、私たちが主の復活を同じ日に祝えるよう、共通の復活祭の日付に向けた大胆な一歩を踏み出す良い機会でもある。このことは、全世界の命であり、救いでもあるキリストの告知に、より大きな宣教の力を与えることになる。

 

 

 

第5部 – 私もあなたがたを送る

 宣教する弟子の民の養成

 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」。 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ福音書20章21-22節)

140.復活の夕方、イエスは弟子たちに、「主の平和」という救いの賜物を与え、ご自分の宣教を共に行う者とした。イエスの平和とは、満ち溢れた命、つまり神、兄弟姉妹、創造との調和を表している。イエスの宣教とは、例外なくすべての人に父の慈悲と愛を示し、「神の統治」を告げ知らせることである。「立ち上がった者」という言葉に伴う振る舞いは、神が初めに何をされたのか、を思い起させる。今、「階上の部屋」では、聖霊の息吹で、新しい創造が始まる。宣教する弟子の民が生まれる。

141. 聖なる神の民には、まず第一に、神の息子・娘たちのイエスキリストに従う自由の中で、祈りのうちに熟考し、貧しい者たちのうちに認められ、福音の喜びを証言してシノダリティ(共働性)の実践のうちに成長できるように、適切な養成が求められる。シノダリティ(共働性)が暗示するのは、心の底からの召命的・宣教的目覚め、新たなやり方の、生き生きとした教会の関係性の源泉、そして参加に関する新たな活力である。またこれは、教会的識別の実践と継続的評価の採用も意味している。これらのことは、焦点を絞った養成過程を経なければ実現できない。シノダリティ(共働性)の養成と教会のシノダルな(共働的)様式によって、洗礼で受け取る賜物はすべての人のために役立てるべきであり、隠したり使わずにおくことはできない、ということを、人々は気づくようになるだろう。

 

142. 宣教する弟子たちの養成は、キリスト教への入信で始まり、それに根差している。それぞれの人の信仰の旅では、両親、家族、代父母、カテキスタと教育者、典礼指導者と慈善奉仕を行う人、助祭、司祭、司教自身など、主との教会の交わりにおける関係性を育てるのに役立ってきた多くの人々、グループ、小さな共同体との出会いがある。これらの人々の多くが、私たちに影響を与えきた。時に、不運にも入信の旅が中途で終わると、教会共同体との繋がりが薄れ、養成はなおざりになる。しかし、宣教する主の弟子になるというのは、決して容易なことではない。継続的な対話や、「キリストの満ちあふれる成熟した年齢に達するまで」(エフェソの信徒への手紙4章13節)愛において成長すること、生き生きとした喜びあふれる信仰の証しを求めて聖霊の賜物に開かれていること、が必要になる。

 だからこそ、主日のミサがキリスト者にとってどれほど効果的かを再認識することが重要なのだ。「私たちの養成の完全さは、キリストへの一致であり… 精神上の抽象的な過程ではなく、私たちがキリストになるのを可能にするものなのだ」(DD41)。多くの信者にとって、主日のミサが、教会との接点だ。説教と皆の「積極的な参加」(SC14)について、確実に可能な限り最高の形で主日を祝うようにすることが、シノダリティ(共働性)の決め手となる。ミサにおいて私たちは、主からいただいた恵みとして、シノダリティ(共働性)が教会の中で生き生きしてくるのを体験する。これは、私たち自身の努力の結果としてもたらされるシノダリティ(共働性)に優る。一人の司式者と数人の侍者たちのお陰で、皆が言葉とパンの食卓に参加できる。交わり、宣教、参加 – シノダリティ(共働性)の3つの”隅の親石” – の賜物が、あらゆるミサで実現し、新しくなる。

 

143. シノドスの道の歩みで、最も強くすべての状況から生まれた要望の一つは、キリスト教共同体が提供する養成を「完全で継続的なものにしてほしい」ということだ。養成の目的は、神学の知識を習得するばかりでなく、寛容さと出会い、分かち合いと協力、考察と識別の能力を、同じように高めることでもある。養成は、その結果として人間のあらゆる側面(知性、情緒、対人関係、精神)において、適切に伴われる具体的な経験が含まれねばならない。

 シノドスの道の歩みを通して、男性と女性、一般信徒、奉献生活者、叙階された聖職者、聖職志願者が共に参加し、知識と相互尊重において、そして協力する能力において、共に成長できるような、共通の養成の必要性への著しいこだわりも出された。そのためには、言葉で伝えたことを自らの人生で実際にやってみせることのできる有能で適格な教育者の存在が必要になる。そうしてのみ、養成は、真に創造的で変化をもたらすものになる。的を絞った養成、成人学習、学習法と教授法、個人および共同体の同伴を提供することについて教育者の訓練ができる貢献についても、私たちは見落とすべきでない。それゆえ、私たちは、養成者の養成に投資する必要がある。

 

144. 宣教する弟子たちを養成するための場や資源が、教会にはすでにたくさんある。家族、小さな共同体、小教区、教会集会、神学校、教団、学術機関や、周縁化された人たちに奉仕し、共に働く場や、宣教やボランティア活動、などである。このようなすべての領域において、共同体は、しばしば異なる世代の人々を結びつける出会いの中で、弟子としての教育や証しにおける同伴の能力を発揮する。この出会いは、世代の異なる人々を引き合わせる。民衆の信心もまた、神の民全体に道を教える教会の貴重な宝である。 教会では、誰もが単に養成を受けるだけの存在ではなく、積極的な主体であり、他者に与えるべき何かを持っている。

 

145. シノダリティ(共働性)から新たな刺激を受けることのできる養成の実践の中で、要理教育には特に注意がはらわれるべきであり、入信の旅の一部として、宣教のために人々を絶え間なく派遣するようにすべきである。宣教する弟子たちの共同体は、「カトリック教会のカテキズム」への言及を怠ることなく、憐れみのしるしの中で要理教育を実践し、一人一人の体験にそれを近づけ、実存的な周辺にまでそれを持ち込む方法を知るだろう。そのような要理教育は、現代に生きる男女との 「対話の実験室 」(教皇庁新福音化推進評議会『カテケージス要理』 54参照)となり、彼らの探求の道を照らすことができるのだ。多くの教会では、カテキスタは伴奏と養成のための基本的な資源である。他の教会では、彼らの奉仕は共同体によってより高く評価され、支援されねばならない。人の移動が大規模になっている現状を考慮すると、要理教育によって、移住者の出身国と受け入れ国の教会間の相互理解を促進することが重要である。

 

(136項~145項・新井忍氏・試訳)

 

146.特に司牧的な環境と資源に加えて、キリスト教共同体には学校、召命者養成の大学、総合大学など養成の場が他にも多くある。人々が社会や政治に関与することに向けて養成される場所や、スポーツ、音楽、芸術の分野での養成の場なども同様だ。異なった実践や伝統を作る文化的な文脈の多様性にもかかわらず、カトリック精神を持った養成センターは、宣教に向けて動き出している教会の前線で徐々に存在感を現わしている。

 シノダリティ(共働性)の実践の息吹を受けて、それらは友好的で参加型の関係に向けた肥沃な文脈となることができる。それらは生命を証しする文脈となる。そこでは、技術と組織を一般信徒が率先して担っており、また家族の貢献が優先される。特にカトリックの学校と総合大学は、信仰と文化間の対話において、また価値についての道徳教育を提供することにおいて、重要な役割を担っている。それらは、十全な生命の像であるキリストに向けた養成を提供している。

 このように、個人主義や競争によって駆り立てられている支配的なモデルに代わるモデルを生み出して、預言的な役割を果たすことができるのだ。ある文脈では、それらは子供と青年が教会と接触できる唯一の場所となっている。文化間と宗教間の対話の息吹を受けるとき、彼らの教育的な関与は、他の宗教的伝統からは人間開発の一つの形として評価されている。

146.受洗者全員がシノダル(共働的)な養成を共有することが、個人的な奉仕職や召命に必要な特定の養成を理解し実践するための土台となる。そうなるためには、受洗者全員のシノダルな養成が、奉仕(派遣)の観点から、種々異なった共同責任への参加と教育の形で、様々な召命間の賜物の交換として実践されねばならない。

 シノドスの道の歩みから強く出てきたこの要望は、考え方の大きな変化と、養成の文脈と過程に新たに取り組むことを要求することもある。そのことは、先入観と党派的な見解を克服して、信仰における兄弟姉妹との出会いによって豊かになろう、という心の準備を意味する。養成のエキュメニカルな次元は、精神におけるこの変化を加速させるに違いない。

148.これまでのシノドスの道の歩みを通して広く表明されている要望は、叙階による奉仕職の志願者の識別と養成が、シノダル(共働的)方法でなされるべきだ、というものだ。その中に重要な存在として女性を置き、共同体の日常生活を志願者も共にし、そして教会においてすべての人と共働できるように養成し、教会としての識別の仕方も、すべての人との共働でなされるようにすべきである。

 このためには養成者の準備にかなりのエネルギーを注がねばならないだろう。今シノドス総会は、全体会議で、総会で出された要望を盛り込むために『司祭制度の根本規則Ratio Fundamentalis Institutionis Sacerdotalis』の改訂を求めている。それらは、シノダリティ(共働性)に向けての養成のため、詳細なガイドラインとなるべきだ。それによって、志願者はすべての人に(ad gentes)派遣される情熱を呼び起こす必要があり、司教の養成も、人々に与えられる聖霊の賜物を一つに束ねる務めをより良く果せるために、与えられた権威をシノダル(共働的)な仕方で行使できるために、必要である。養成のシノダルな方法は、叙階の奉仕職に向けた過程のすべての面におけるエキュメニカルな次元の存在を含む。

149.これまでのシノドスの道の歩みは、神の民のシノダリティ(共働性)に向けた養成の特殊な領域に、繰り返し注意を向けてきた。その中の第一のものは、学習過程、集中化、自己と世界の知覚、そして人間相互間の関係構築における「デジタル環境の衝撃」に関係している。

 デジタル文化は、現代文化とそれにつれて発生する宣教の領域において、教会の証しの重要な面を構成する。このためには、キリスト教のメッセージが、その内容が思想的に歪められずに、信頼できる方法でネット上に存在できることが必要だ。

 デジタルな手段は私たちの生活を向上させる大きな可能性を持っているが、同時にまた、いじめ、誤報、性的搾取、中毒等によって、痛みや危害をもたらす可能性もある。教会の教育関連施設は、子供や大人が安全にインターネットを使えるための十分なスキルを持てるように援助せねばならない。

150.そして第二に、教会関係の文脈で保護の文化を促進すること、年少者や傷つきやすい成人のため、共同体がもっと安全な場所になるようにすることが極めて重要だ。

 教会組織に虐待を防止し、不適切な行為に対して時宜にかなった対処ができるための規則や法的措置を備える活動がすでに始まっているが、こうした取り組みを続ける必要がある。それは、年少の人々や傷つきやすい成人と接触を保って働く人々が適切に養成され、的確に行動し、困難の中にあり助けを必要とする人々にしばしば見られる「沈黙」の信号に気付くことができるようになるためだ。

 被害者たちには、歓迎し、支援することが重要だが、慎重になされる必要がある。このような働きには、確かな人間性が要求され、資格を持った人々の助けを受けて実行されねばならない。私たちは、被害者たちの苦しみに心を動かされ、近くにいるようにせねばならない。具体的な手段によって彼らを高め、助け、今とは異なる良い未来を準備できるようにすることだ。

 世界中で、教会は予防と保護の文化を促進し、共同体を年少者や傷つきやすい成人のための安全な場所にすることが、ぜひ必要だ。虐待を防止するための手段は取られているが、そのような場で働いている人々のために、特別で継続的な養成と訓練の機会を提供し、この取り組みを促進せねばならない。

 年少者や傷つきやすい成人を保護している取り組みを、常に監視し、適切になされているか評価する必要がある。被害者とその家族は、慎重に迎えられ、支援されねばならない。

151. 「教会の社会教説」の主題である平和と正義へのコミットメント、「共通の家」のケア、文化間・宗教間対話も、神の民の間で、より広く普及させねばならない。 生命と人格の権利の擁護、社会の公正な秩序、労働の尊厳、公正で連帯に基づく経済、統合的エコロジーへのコミットメントは、教会が歴史の中で生き、受肉するよう召されている福音宣教の一部である。

 

 

 結論

すべての人のための祝宴

「(弟子たちが)陸に上がってみると、炭火が起こしてあった。その上に魚が載せてあり、パンもあった… イエスが「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちは、誰も、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であると分かっていたからである。イエスは来て、パンを取り、弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた」(ヨハネ福音書21章9節、12∼13節)

152.魚の奇跡的な収穫は祝宴で終わります。復活した方は、弟子たちに、網を投げて、陸に引き上げるように、と言われた。しかし、祝宴を用意し、食べるように招いたのは彼だった。どイエスが空腹の群衆のためにパンと魚を増やした時のように、そこにはご自分と弟子たちのためのパンと魚があったが、それ以上に、弟子たちには、「イエスがおられる」という驚きと歓喜があり、それがあまりにも明白で輝かしいので、誰も「どなたですか」と問いかける必要がない。

 弟子たちは、一度はイエスを捨て、共にいたことを否認したのに、復活された主は、食事に、新たな交わりに彼らを招き、未来に開かれた、主の永遠の憐れみの印を刻印される。彼らは、自分たちを「イエスが死者の中から復活された後、食事を共にされた私たち」と言う。(使徒言行録10章41節)

153.この祝宴によって、復活の主は、預言者イザヤの預言を成就される。その言葉が今シノドス総会の働きに霊感を与えた。すなわち、山で主が用意された有り余るほどの豪華な食事とぶどう酒の祝宴、すべての人のために用意された宴会と交わり(イザヤ書25章6~8節参照)。復活の後、主が弟子たちのために用意された祝宴は、終末論的な祝宴がすでに始まっている印である。それは天においてのみ完成を見る、とは言え、恵みと憐れみの祝宴は、すでにすべての人のために用意されているのだ。

 教会はこの素晴らしい知らせを、変化する世界にもたらす使命を負っている。教会は、主の体と血によるエウカリスチアで養われる一方で、最も貧しい人、最後の人、排除された人、愛を知らず希望のない人々、神を信じず既成の宗教を認めない人々、を忘れることはできない。教会は、彼らを祈っている主の元に連れてきて、そして、聖霊がもたらす創造性と大胆さをもって、彼らと出会うために外に出かける。

 教会のシノダリティ(共働性)は、こうして社会の預言となり、政治的、経済的な分野に新たな道をもたらす。世界との賜物の交換において、親交と平和を信じる人々と共働しながらだ。

 

154.これまでのシノドスの道の歩みを再び生きてみて、主からいただき、宣べ伝える救いは、本来的に「関係的」なものであることに気づく。私たちはそれを生き、そして共にそれを証しするのだ。

 世界の歴史は、残念ながら、戦争、権力闘争、数知れない不正と虐待で刻印されている。しかし、聖霊が、すべての人の心の中に、真の「関係性」と絆への願いを置いたことを、私たちは知っている。創造それ自体が、生命の一致と分かち合い、多様性と種々に相互連関する形態を語っている。あらゆるものが、調和から出て、調和に向かっている。悪によって荒廃していてもだ。

 シノダリティ(共働性)の究極的な意味は、「父と子と聖霊なる神に呼ばれている教会は、神ご自身を世界に与えるために、神ご自身を注ぎ出す愛の調和を証しすること」だ。私たちは、シノダル(共働的)な方法、私たちの召命、カリスマ、奉仕職をより合わせてシノダルな方法で歩むことで、救いの交わりを生きることができる。福音の喜びをもたらすため、すべての人と出会うために、外に出て行くことで、救いの交わりを生きることができる。神と共に、人類全体と創造全体と共にだ。私たちが分かち合いを通して、神がすべての人に提供する命の祝宴を体験し始めるのは、その時なのだ。

155.私たちは今シノドス総会第二会期の結果を、オディギトリア(道を示す人)という素晴らしい称号を持つ乙女マリアに委ねる。上の階で弟子たちの新しく出来た共同体が、聖霊降臨の素晴らしさに出会うことを助けた教会の母、マリアが、私たちを、共に歩む弟子であり、宣教者となるように、そしてシノダル(共働的)な教会となるように、教えてくださいますように。

 

(146項から155項まで「西方の一司祭」試訳)

  完

 

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2024年11月9日