
(2022.8.6 カトリック・あい)
教皇フランシスコが提唱される来年10月の世界代表司教会議に向けた世界の全信徒参加の”シノドスの道”。日本では極めて低調なままだが、特定の宗教に積極的に参加している人が全人口の5パーセントのチェコでは、小教区、小グループレベルから多くの信徒が参加して、歩みが進んでいる。
以下は、Vatican News が伝える、現地の幼きイエス会のシスター、クララ・マリナコーワの報告。
(2022.8.4 Vatican News Klára Maliňáková, IJS)
*特定の宗教礼拝に参加する人が全人口の5%の国で、”シノドスの道”が小教区レベルから
チェコ共和国では、非常に世俗化が進んでおり、人口の4分の3がどの宗教にも属しておらず、1100万人の全人口にのうち、定期的に特定の宗教礼拝に参加している人は約5%にすぎません。
それにもかかわらず、”シノドスの道”の歩みでは、素晴らしい驚きが起きています。教皇が提唱されて当初は、信者や司祭の中に参加に懐疑的な声もありましたが、今では2312の小教区や有志のグループが参加し、互いに耳を傾けながら共に歩み、聖霊の導きを識別することを学んでいます。
各グループで話し合ったテーマは、皆が語りやすいものではありませんでしたが、私は、これまでの経緯を振り返り、希望を感じています。何人かの参加者は、自分にとっての最終的な”公式”の成果はそれほど重要ではない、と語っていますが、彼らの小さなグループ、小教区、あるは他の形の共同体の歩みの中で、活力を得、共同責任を認識することができました。
すべての教区の取組結果を全国レベルでまとめるには、まだしばらく時間がかかりますが、成果の一端は557のグループが参加した規模の大きいブルノ教区に見ることができます。
*教会は”シノドス(共働制)”が遅れ、透明性、開放性に欠けている
私たちの最初の発見は、参加者がたちが「遅れている」と評価したカトリック教会における“共働制”の現実です。
ほとんどのグループで参加者たちは「教会が透明性と開放性に欠けている」と感じ、多くの人にとってもっと理解しやすく、人間的で、外部の声を受け入れ、社会が必要としていることに気を配れるようにしたい、という希望を表明しています。
また、3分の1のグループが、司祭と信徒の間の意思疎通の重要性を強調しました。彼らは、「司祭に期待するのは、神学的な知識だけでなく、何よりも、ふだんからの親密さ、開放性、相手の声に耳を傾ける姿勢、そして皆と力を合わせて働く能力だ」と述べています。自分たち信徒が信頼され、教会の意思決定に関与し、それぞれが与えられた能力を使いたいと思っています。
興味深いのは、司祭が参加した集まりでは、信仰の継承し、ルールを変えない、などの話題がより頻繁に語られましたが、司祭がいない場では、教会改革や、司祭の独身主義、女性の聖職者叙階の是非などが取り上げられたことです。
また、”共働性”を小教区で実感しているいう声は、教区レベルの10倍、世界の教会レベルの4倍あり、「私たちの小教区がそうであるように、教会全体もそうあってもらいたい」としています。
*今の教会は”閉じた泡”の中にいる、兄弟姉妹愛、思いやり、尊敬と寛容を持とう
全体のグループの4割が、兄弟姉妹愛の重要性、互いへの思いやり、尊敬と寛容の重要性を指摘しています。彼らは、社会の片隅に追いやられた人たちを喜んで受け入れる教会になることが必要であるとし、今の教会はお互い同士や外界との十分な接触をせず、「閉じた泡の中に住んでいる」という認識を共有しました。このような声は、すべてのタイプのグループに均等に出てきています。
このような問題が提起されるのには、”シノドスの道”の提唱そのものから影響を受けている可能性がありますが、このような強い声がだて来るのは、こうした問題が多くの人の心に強く共鳴したことも示しています。このような声は、現代に見られるいくつかの特徴を反映しており、一部の科学者のように、「孤独な世紀」と”呼ぶことさえ可能かもしれません?
*”孤独の蔓延”は”時代のしるし”-自己中心の「私」から、教会的な「私たち」へ
チェコ共和国を含む東欧諸国は、欧州の中で、孤独からくる疾病の率が最も高い。しかし、現代世界では、社会の片隅にいる人たちだけでなく、活発に社会で働いている人たちの間にも、孤独感が高まっている、ということが研究によって示されています。この「孤独の蔓延」は、私たちが耳を傾けるべき”時代のしるし”であり、創造的な答えを探求することが求められているのではないでしょうか?
教会と同じように、多くの組織、そして国全体が、この問題に取り組む実践的な措置をすでに講じています。それでも、私たちにはさらに深い探求が求められています。「自己中心的な方法で理解される『私』から、『教会的な私たち』への移行」は、国際神学委員会が「教会の人生と使命における共働制」(No.107)で示唆しているように、発想の転換は容易ではありません。
この「教会的な私たち」の呼びかけは、これまでよりも共に祈り、聖なるミサを真のキリスト教共同体の祝いとし、霊的生活と神との関係を深めたいと願うグループの4分の1以上によって表現された「霊的な願望」と重なっています。
したがって、それは人間のレベルだけで満たすことができるものではなく、私たちを共同体として造られた神、神ご自身の姿と、一緒になろう、という呼びかけでもあります。
冷たく自己中心的な「私」ではなく、聖なる三位一体、「私たち」の燃えるような神秘である神、との交わりを経験したい、という願望。これは、人間の深い孤独の体験に関して、私たちに何を教えてくれるでしょうか?
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)