
(2024.10.5 バチカン放送)
シノドス参加のためローマを訪れている日本の司教協議会会長の菊地功・東京大司教が4日、大司教が総裁を務める国際カリタス本部で「今日の日本のカトリック教会」をテーマに講演した。
講演の冒頭で、菊地大司教は、東北のある小教区を司牧訪問した際に撮影した一枚の集合写真を映し出し、多くの外国出身の信者と、わずかな日本人の信者で構成されたこの共同体の写真を、今日の日本のカトリック教会を表す一例として示しつつ、各種のデータとともに「リアル」な日本の教会の姿を様々な角度から紹介した。
現代の日本のカトリック教会につながる教会の歴史を振り返り、1549年のフランシスコ・ザビエルの到来から始まった福音宣教、北から南まで日本全土を吹き荒れた迫害と殉教、その後、長く厳しいキリスト教の禁教とキリシタン潜伏の時代を経て、1862年に来日したプチジャン神父による信徒発見などを紹介。さらに、信徒発見以降の歩みを見つめる中で、宣教師たちが、隠れキリシタンたちを困難を伴いながら探し求め続けることから教育を通しての宣教に重点を移すことを決意した1890年を「日本の宣教における優先事項の転換点」と位置付け、教育分野への取り組みが、日本の各界にカトリックの人材を輩出することにつながった、と説明した。
そして、1873年の高札の撤廃でキリスト教禁制が廃止された翌年には、東京では築地教会と神田教会が設立されるなど再出発していく日本のカトリック教会の姿を映像で示したのに続いて日本のカトリック教会の諸教区の分布とその管轄を紹介。各教区が置かれた環境がそれぞれ異なることを示すために、首都圏を中心とした東京大司教区、地方の教区である新潟教区、元々カトリック信者が多い長崎大司教区の、信者数や、人口比、小教区数などの統計を比較した。
さらに、今日の日本の教会のリアルな姿を反映するものとして、菊地大司教は、かつて司教として司牧を託されていた新潟教区、また現在司牧している東京大司教区の小教区の例を語った。大司教は、新潟教区に属する秋田県のある小教区をかつて司牧訪問した際に、当時の主任司祭から「今日は大勢の信徒がいる」と聞いて聖堂に入ると10人くらいしかいなかった、というエピソードを回想。「このシノドス総会でも様々な大陸・地域の参加者たちが「小教区」という言葉を何度も口にしますが、各々の「小教区」の環境や条件は全く異なっており、地域の現実を尊重することが大切です」と話した。
また、特に地方においては神道や仏教の存在感が強く、カトリック系の学校や病院等が整っていても宣教が難しいのは、「キリスト教には献身が求められるから」とし、「たとえば、キリスト教は毎週日曜日にミサに行かねばなりませんが、神道や仏教では、神社や寺には行きたい時、必要な時に行く、という大きな違いがある。多くの日本人が宗教の必要を感じていなくても、日本人は本来、非常に宗教的な人々。しかし、こうしたコミットメントの要求が日本におけるキリスト教の広がりを難しくしている」と語った。
別の問題として、日本における人口の減少と、社会の高齢化、少子化を挙げ、これらの問題がカトリック教会にも影響を及ぼしている、と指摘。その一方で、日本には、中国人、韓国人、フィリピン人、ベトナム人、ブラジル人などの、定住者や、労働ビザで来日した人々など移民の存在があり、その中に多くいるカトリック信者たちが、日本のカトリック教会に活気を与えている、と述べ、その例として、地域のフィリピン人たちの共同体の努力で創立された新庄教会(新潟教区・山形県)を挙げた。
さらに、日本の司教たちのバチカン定期訪問(アド・リミナ)が今年4月に行われたが、参加した17人の司教のうち外国人が5人を占め、司教団も国際化していることを示している、とし、東京大司教区の小教区を核に形成された様々な外国人信者の共同体や言語別のコミュニティーを紹介しながら、「多様性における一致」が大きな課題となっていることを説明した。
そして、バチカン福音宣教省のタグレ副長官(初期宣教部門担当)が、海外にいるフィリピン人たちに会うたびに語る「あなたがたがここにいるのには、それぞれ理由があります。皆さんは神様に遣わされました。皆さんは宣教者です」という言葉を引用し、「これは日本のカトリック信者にも言えること」と述べた。
最後に、東日本大震災の被災地のベースでカリタス・ジャパンが根強く復興支援の活動を続ける中で、人々がカリタスのボランティアを「カリタスさん」と呼ぶようになった、とし、「人々が『カリタス(神の愛)』とはどういう意味かを問うことで、福音宣教の一つの形になっていくでしょう」と締めくくった。
(編集「カトリック・あい」)