(2023.9.14 Crux Editor John L. Allen Jr.)
The pontifical secret or pontifical secrecy or papal secrecy is the code of confidentiality that, in accordance with the Latin canon law of the Catholic Church as modified in 1983, applies in matters that require greater than ordinary confidentiality:[1]教皇の秘密は、
(Credit: Vatican News.)
ローマ – カトリックの有力メディアLa Croix のLoup Besmond de Sennevilleローマ特派員が13日付けで報じたように、教皇フランシスコは明らかに、10月4日に始まる世界代表司教会議(シノドス)通常総会において、これまでの総会のように参加者の発言や投票を秘密にするにとどまらず、会議で議論されたすべての問題について「pontifical secrecy (教皇機密)」*の義務を参加者を含む関係者に課すことを検討しているようだ。
*教会法の1983年修正で導入された、通常よりも高い機密性を必要とする事項に適用される機密保持の規則
その目的は、総会での議論が率直かつ誠実になされることにあり、関係の条項は、教皇が検討している会議の運営規則草案に含まれているという。それが正しいとすれば、会議を運営する人々の懸念は確かに理解できます。物議を醸すような発言、大胆な発言が総会でなされ、それがそのまま世界中に知られれば、今の世の中では、たちまちソーシャルメディア上での進歩派と保守派のイデオロギー的な論争を招くことになる。そうしたことが頻繁に起これば、意見対立の当事者は後に引けなくなり、互いが歩み寄って合意することが難しくなる可能性が高い。
その一方で、「教皇機密」順守義務を課すことが、そうしたリスクを打ち消すことになるのか、それとも事態を悪化させるのかを問うのは、当然のことだ。
まず、「透明性の問題」がある。教会改革を目指す 教皇フランシスコが就任してまず手を付けた”浄化キャンペーン”の要石の一つは透明性の保証だった。例えば、2015年のシノドスに先立つ世界の枢機卿を集めた会議で、教皇はバチカン当局に対し、過去のスキャンダルの疑惑を克服する唯一の方法として、「絶対的な透明性」を公約することを求めた。教皇が「教皇秘密」の義務を、シノドス参加者、関係者に課したうえで、最高の成果を得るよう企図したシノドスを開くのは、その公約と全く矛盾しているように見えるだろう。
別の言い方をすれば、分裂を防ぐために、最初から論争を巻き起こす危険を冒す—”村”を救うために”村”を破壊することになりかねない。 より現実的な見方として、教皇による「秘密主義の押し付け」はうまくいかないと、いう意見がある。
今から20年以上前、私が初めてローマに来たとき、シノドス総会では、教皇に提出される一連の提案について、それぞれが会議参加者の投票にかけられ、提案の内容と投票結果は「教皇秘密」として扱われ、司教や他の参加者には漏洩しないよう厳重な措置が取られた。だが、イタリアの諸々のメディアは、時計仕掛けのように、投票の直後、あるいは数時間後に投票結果とともに提案の全文を公表してきた。それは今に至るまでほとんど変わっていない。
例えば、青少年に関する2018年のシノドス総会では、「教皇秘密」が総会の会議中に表明された意見に適用されたとされるが、毎日のメディアの報道は、前日の会議中に出された意見についての詳細でぎっしりと詰まっていた。 ベンジャミン・フランクリンの「秘密は三人でも守れるが、それはそのうちの二人が死んだ場合に限る」という言葉は、今でも立派に通用する。しかも、シノドスの総会は、参加者3人で行われる会議ではない。投票権を持つ議員だけでなく、彼らを補佐する人、スタッフ、通訳、その他何らかの理由で議場にいる人たちも含めると 400 人以上が参加する。 これほど大勢の人々をほぼ1か月、議場に集め、そこでの発言や行動に蓋をし続けられる、というの幻想にすぎない。それが可能だと思い込むのは、危険だ。
「教皇機密」に期待される効果は、会議の物語が、最も極端な声-推進すべき議題と研ぎ澄ますべき斧を持る人々、ルールブックに何が書かれていようと、何が起きているかについて話す人-によって支配されるのを保証することだ。
秘密保持義務を最も真剣に受け止める可能性が高い人々は、会議の精神に入り込み、建設的な役割を果たそうと努力する穏健派だ。そういう人たちが、”猿ぐつわ”をかませられたら、残る発言者は、シノドス主催者が最も恐れている”イデオロギー闘争”を進める傾向を持つ者たちだけになってしまいかねない。
闘争的な声は必ずしも公の場で大声で発言されるわけではない。タイミングを見計らっての情報漏洩や第三者を通じての発言、新聞のコラム欄、ラジオやテレビ、ソーシャルメディアなどへの投書、投稿などを使って、種類の批判や嘲笑で埋めることで、十分に目的を達成できる。
このような力関係では、シノドスの広報担当者は最初から守勢に立たされ、両手を後ろ手に縛られた状態で有害な言説に対抗しようと奮闘するのを余儀なくされるだろう。公式には、反対の情報を提供することができないからだ。
肝心なのは、教皇が信仰と道徳の問題に関していかに無謬であっても、シノドス総会での議論やその結果などを表に出さないようにすることは、教皇の権限ではない、ということだ。
唯一の現実的な選択は、これらの情報開示が教皇の意志で行われるか、それとも他の誰かの意志で行われれるのか、であり、教皇がいずれを決断するか、すぐに分かるだろう。