(2022.9.14 La Croix Justin Stanwix | Australia)
*synodalityは聖霊の導きのもとに、神の民に率直な声に耳を傾け、共に歩むことのはずだが…
(注:司祭や信徒たちの)率直な言葉に広く耳を傾け、受け入れ、書面にまとめられない限り、(世界の教区から”シノドスの道”の報告を受け取る)バチカンは”神の民”の声を知るのに苦労することだろう。
これまでのところ、synodality(共働性)には疑問の余地のない特徴がある。それは、積極的に耳を傾け、神の民が共に歩み、聖霊をミサ聖祭を中心とした霊的交わりと福音宣教の源とする、そのような教会のあり方だ。そして、ここで重要なのは、教会のミサ聖祭が神の愛から派生し、信徒たちの間に霊的交わりをもたらす、ということである。
識別力のある沈黙が、言語の場のために破られた時、その交わりは率直に表現する資格を与えられる。
*司祭や信徒の率直な声が”消毒”されてバチカンに報告される世界的な傾向が見られる
だが、Jon RosebankとPenelope Middelboeの”シノドスの道”の歩みに関する実証分析「The synodal process: it’s time to make a stand」によると、(注:教区などが)バチカンの事務局に提出しようとしている”歩み”の要約で(注:司祭や信徒たちから出された)言葉と提言を”消毒”してしまうという憂慮すべき傾向が、世界的に見られるという。
そして、「世界中の信徒たちの霊感による着想が、司教たちが敷き詰めた絨毯の下に押し込められてしまう前に、踏みとどまる必要があるかどうか」と、問いかけている。そして、そのように押し込められることによって、「様々な物事の本質が隠され、時には抹消されてしまう」と警告する。
著者たちは、「とらえどころのない意見を合成する複雑な作業、不確実な、あるいは議論のある複雑なデータや立ち位置を要約する作業の難しさ」について話しているのではない。「要約の過程で、言語を”消毒”したり、積極的な提言を”抹消”したりするための怪しげな記述」について述べているのだ。
*あらゆる人が勇気をもって率直に語り、受け入れられなければsynodalな教会の歩みにならない
あらゆるレベルの人々が勇気をもって、率直に語り、率直に書き、率直な言葉が取り上げられ、それが、受け入れられ、率直な話し方で取りまとめられない限り、synodal(共働的)な教会が旅をすることはできない。
率直に話したり、書いたりする自由は、”free hit(自由に球を打つことのできる)”の機会を与えられるものではなく、不条理な、あるいは無関係な命題をあおったり、主題に適うものよりも大きなスペースや目立つことを要求したりする機会を与えられるものでもない。
率直な発言が必要とするのは、受ける側の思考の調整、アプローチの変更、変更の要求に対する忍耐強い対応、望ましくないかもしれない主張、特に現状を乱すような主張の受容だ。
このような受ける側の対応の変更は、必然的に求められるものだ。それは、課題管理の放棄を含み、一体性を図るために項目から除外することをせず、取りまとめの対象をバランスのとれた形で広げ、資料についての明確な説明を提供する。要求や回答を平凡な言葉に埋め込む余地を与えない。
*十分に中身のある、公正な報告が教区からバチカンに届けられる必要
はっきり言えるのは、意見や神学的立場の違いは、言語を歪めたり、事実を調整したり、論争を省略したりする理由には決してならない、ということ。要するに、十分な中身のある、公正な報告が教区からバチカンになされる必要があるのだ。(このような議論の場に)たまたま居合わせた人、あるいはその辺にいる普通の人でさえも、そのような率直さとオープンな姿勢が問題にされているのを知ったら、驚くかもしれない。だが、それが本当の問題であることを彼らに知らせる義務が私たちにはある。
公正な報告をすることは、ある意味でシノドスの道”についての教皇フランシスコの霊感による着想の一部をなすものであり、斬新なアイデアではない。フランシスコは、2013年に教皇に 就任された1年目の終わりに、非常に重要で歴史的な意味を持つと見なされるコメントを出された。アルゼンチンの日刊紙「La Nation」とのインタビューで「私は2001年のシノドスの報告者でした。そのシノドスで何を議論すべきか、何を議論すべきでないか、を教えてくれた枢機卿がいましたが、そのようなこと(議論のより分け)は今は起こらないでしょう。私たちは皆、取り扱いに慎重を要するか、緊張をもたらすと考えられるような話題があることを理解していますから」と語られたのだ。
私たちの”共通の家”のケアを受け入れることは、今では許され、当世風でさえある。だが、同性愛と同性愛者同士の結婚、離婚したカップルへの対応、司祭の独身の選択制、女性の助祭についてはどうだろう。そして、誰が主の祭壇に立つことができるのか?あるいは、適切な説明と透明な手続きによって、あらゆるレベルの教会の統治は誰がするのか?このようなことは、神秘の謎に包まれたままだ。
*教皇は、世界の司教たちに自由で率直な意見交換がされるよう繰り返し勧めておられる
教皇フランシスコは、世界の司教たちに、慎重な扱いを要する問題についても、自由で率直な意見交換が行われるよう、繰り返し勧めてこられた。そのような勧めを最初になさったのは、2014年の家庭をテーマとする世界代表司教会議の席上であり、先月下旬の枢機卿会議に至るまで、繰り返されている。
過去7年間、教皇ご自身は、バチカンの高位聖職者たち、世界の枢機卿や司教、司祭たち、そして正午の祈りや一般謁見などに参加する信徒たちに対して、そして司牧書簡などを通して、世界の信徒たちに、臆することなく、率直に話されてきた。誰もが率直に声を上げることができるように、という教皇の世界の司祭、信徒に対する招きが、「承認された科目」に限られているように見られるのは悲劇だ。
私たち皆が、自由に話したり書いたりしないことを不本意だと感じている理由を特定することは難しいが、バチカンが”シノドスの道”における議題、議論、そして主題を許容される範囲内に制御するために、膨大な時間を費やしていることを、私たちは知っている。
*司教協議会も、バチカンの”制御”に積極的に応じているーバチカンへの“直訴”は一つの手
それは今も続き、司教たちの全国協議会も、最近の記事で報じられているように、それに積極的に応じており、私たちの”シノドスの道”の歩みは、ひどく妨げられている。そのことは、男女の一般信徒が「立ち上がるために」何ができるのか、という疑問を提起する。
(”シノドスの旅”の終着点とされる)2023年10月の集まりは、全世界代表司教会議、つまり司教たちの集まりで、そのことを覚えておく必要がある。 そこで行われるsynodal (共働的)議論の資料として出される文書類が、世界の信徒たちが率直に提起した事柄を”浄化”し、添削し、”不合格”にした内容となるなら、なんと恥ずべきことだろう。
私たちの率直な声を、悪評をものともせず、直接、バチカンに伝えることは、その声に耳を傾けてもらうのを確実にする手段の一つになるかも知れない。
* Justin Stanwix氏は、オーストラリア・ウロンゴン教区のミルトンにある「海の星の聖マリア教会」で助祭を務めている。
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