(2024.10.5 La Croix Anne Soupa)
世界代表司教会議(シノドス)通常総会第2会期が始まって早々、この会合で、女性の役割について具体的な議論することが拒否されたことが分かった時、フランスの神学者でエッセイストのアンヌ・スーパ女史は深い失望を表明、聖職者による女性の「侮蔑」、さらには女性の「悪魔化」の長年の歴史の一部となった、と批判し、次のようにLa Croix に語った。
*女性を「聖職者階級」から排除する教皇の姿勢に疑問
「女性の役割」を今会合の具体的な議論から除外することは教皇フランシスコの決定であり、「聖職者階級」から女性を排除することを再確認するものです。
教皇が女性を「聖職者化」したくないことはよく知られており、代わりに、男女を問わず信徒が洗礼によって教会の使命に参加することを認める司祭職に頼ることを好まれる。しかし、なぜこの屈辱的な決定と女性のための前向きな措置とのバランスを取らなかったのでしょうか。
教皇の心の中で、そしておそらく同性愛に関するバチカン教理省の宣言「 Fiducia Supplicans」 をめぐる論争*に巻き込まれる中で「女性は重要ではない」と思っている、という印象を与えます。
相反する圧力に直面して、教皇は慎重に舵を取ることで満足しているようです。左に1ストローク、右に1ストローク、そして教会はこの問題で漂流しています。しかし、これらの微妙な戦略の背後には、人類の半分がいるのです。彼らはどのように見なされているのでしょうか?
*教会に女性を”統合”するとが、なぜそれほど難しいことなのか
二つ目の驚きは、女性の教会への”統合”を進めることが、なぜそれほど難しいのか、ということです。”世俗的”な組織が、変化の流れに抵抗するのは驚くべきことではありません。gender corporatism(例えば女性の貢献を過小評価するような集団的概念)と特権の維持は強い力をもっています。
しかし、教会は”世俗的”な組織ではありません。友愛と姉妹愛を体現する存在であるべきです。イエスは、女性を従属的かつ目に見えない存在に追いやったことはありません。女性に男性と同じように自由であってほしい、と願われたのです。イエスの教会は「人間性の専門家」であり、私たちは「愛する姉妹たちよ、教会の扉はあなたたちに大きく開かれています。一緒に王国を築きましょう!」という呼びかけを聞かされるべきです。
*イエスの言葉に反し、教会は1000年以上も女性を男性より劣った存在と見做してきた
しかし、現実の教会は、そうではありません。1000年以上もの間、聖職者は、女性を怖がり、女性を遠ざけ、「貞潔の誓いを脅かす存在」と見なし、悪者にしてきました。そして、男性だけの聖職者は、神の「男らしさ」を誇張してきました。これは欠陥のある根深い概念であり、女性がキリストを代表することは、考えにくくなっています。時が経つにつれ、男性と女性が反対側に分かれ、性別の役割が固まっていきました。
そして、これを正当化するために、ローマは「違い」という概念を強調し、女性に妻や母になるという「使命」を与え、聖職から排除してきました。今や教会は、イエスの精神とはまったく無縁の「存在論的不平等」を確立しています。明らかに、福音の教えよりも”世俗的”な共同体の概念に固執しています。女性を「男性よりも劣っている」と見なすことで、教会はカトリックの女性信者たちを”西洋世界の最後の植民地”にしているのでしょうか。このリスクに直面して、教導職がこの”アパルトヘイト”を終わらせようと急いでいないのは驚くべきことではありませんか。
*なぜ女性たちは現在の状況を容認しているのか?自尊心がないのか?
3 つ目の驚きは、私たち女性自身の問題です。なぜ私たち女性は、このような状況を容認しているのでしょうか? 私たちは自尊心をあまり持たず、自分自身をあまり尊重していないのでしょうか? 神の目に私たちは価値がないのでしょうか?人権、解放のモデルとなるべき組織の中で、私たちは永遠に脇役に追いやられることをいとわないのでしょうか?16 世紀のフランスの政治理論家エティエンヌ・ラ・ボエシが私たちに思い起させるように、私たちは自発的な奴隷状態に加担しているのでしょうか?
一部の司祭が今でも修道女たちにささやきます。「身をかがめることで謙虚さが得られる」-この言葉を信じてはいけません。「服従することで、主イエスの苦しみを静かに分かち合うのです」-いいえ、この偽りの謙虚さは怠惰にすぎず、美徳に偽装した恐怖に過ぎません。創造主から与えられた才能を無視することは、聖書にたとえ話として出てくる「才能を投資しなかったとして、主人に叱責された不誠実な管理人」の態度に似ています。
私たちの才能は創造主の賜物であり、私たち自身のものではありません。管理人は自分自身を軽視することで、主人に対する敬意も示しました。「私はあなたが厳しい主人だと知っています」ー私たちは神に、このように語っていますか?自尊心は、何よりもまず、神の創造行為に対する感謝から生まれます。「私は素晴らしく造られています」と詩篇作者は言います。それを尊重するためにあらゆることをしないわけにはいきません。
*イエスのメッセージに忠実でありたいなら、「女性」は全信者にとって緊急の課題だ
女性に対する教会の”父権主義的”な姿勢は、穏やかで、一部の人にとっては慰めに見えるかもしれません。対立から距離を置き、二次的な役割を受け入れることで緊張を解消することを望む… しかし、これは自尊心を持つことにはまったく役立ちません。確かに、女性の尊厳は認められているが、それは天国でのみ。確かに、褒め言葉はあふれ、時には過剰なほどだが、実際的な意味合いはない。確かに、責任は与えられるが、それは司牧職の核心からはほど遠い…。私たちは騙されやすいのでしょうか?
では、私たちは何を望んでいるのでしょう? 家父長制の保守主義の静かな魅力か、それとも福音の自由か? 教会がイエスのメッセージに忠実でありたいなら、女性問題は、すべてのカトリック教徒にとって緊急の課題なのです。