
なお、教皇は26日の総会全体会議での最終講話の中で、「今シノドス総会後に使徒的勧告を出さないことを選択しました…最終文書は、すぐにすべての人に公開されます」と言われた。
その理由などについて教皇は「この文書にはすでに、特定の大陸と状況における教会の使命の指針となり得る非常に具体的な指示が含まれている。文書で示された共通の経験が、神の民に奉仕する具体的な行動を促すことを確信しています」と説明されている。
*序文―復活した方の傷は今も血を流し続けている…
最終文書は序文 (1-12項) で、今シノドス総会の本質を「復活祭の夜に弟子たちが上階の部屋で復活した方と出会った新たな経験」とし、続けて、「復活した方を黙想し、私たちは主の傷の跡を見た (…) それは私たち自身の過ちによっても、多くの兄弟姉妹の体の中で今も血を流し続けている。主を見つめることは、歴史の悲劇から私たちを遠ざけるものではない。むしろ、それは私たちの周りの人々の苦しみに私たちの目を開き、私たちの中に染み込む。戦争で恐怖に襲われた子供たちの顔、泣く母親、多くの若者の打ち砕かれた夢、恐ろしい旅に直面する難民、気候変動と社会的不正の犠牲者だ」 (2項)。
そして、シノドス総会は、今も続いている多くの戦争を想起し、教皇フランシスコの「暴力、憎悪、復讐の論理を非難し、平和を繰り返し訴える姿勢」に賛同する (2項)としている。
さらに、シノダル(共働的)な手法は、明らかにエキュメニカルなものであり、「キリスト教徒の完全で目に見える一致」を目指している (4項)。そして、「(第二バチカン)公会議の真のさらなる受容を構成し、それによってそのインスピレーションを深め、今日の世界に対するその預言的力を再び活性化する」(5項)。
また最終文書は、「私たちは、疲労、変化への抵抗、そして福音に耳を傾け、識別の実践よりも自分たちの考えを優先させようとする誘惑に直面してきたことを否定できません」(6項)とし、取りまとめが用意でなかったことも認めている。
*第1部―シノダリティ(共働性)の核心
最終文書の最初の部分(13-48項)は、「神の民としての教会、一致の秘跡」(15-20項)と「神の民の秘跡のルーツ」(21-27項)についての共通の考察から始まっている。
「近年の経験」を通じて、「シノダリティ(共働性)」と「シノダル(共働的)」という用語の意味が、「よりよく理解され、それらが表すものがより生き生きと実践されるようになった。それらは、人々により近く、より関係のある教会、つまり神の家であり家族である教会への願いと、これまで以上に深く結びついている」「簡潔に言えば、シノダリティ(共働性)とは、教会がより参加的かつ宣教的になり、キリストの光を放ちながらあらゆる人々とともに歩むことができるようにするための、霊的な刷新と構造改革の道である」(28項)。
「教会の一致は画一性を意味するものではないこと」を認識し、「文脈、文化、多様性、そしてそれらの関係性を理解することが、宣教的なシノダル(共働的)教会として成長するための鍵だ」(40項)。そして、他の宗教的伝統との関係を復活させ、教会は「彼らとともにより良い世界を築く」(41項)よう努める。
*第2部-人間関係の転換
最終文書の第2部 (49-77項) は、「関係を育む能力を高める教会への要請- 主との関係、男女の関係、家族、地域社会、社会集団や宗教、地球そのものとの関係」(50項) の認識から始まっている。
同時に、今シノドス総会は、一部の人々が「結婚状況、アイデンティティ、または性的指向のせいで疎外されたり、批判されたりしている」という苦痛を経験し続けていることを認識し、「シノダル(共働的)な教会であるために、私たちは各人の優先順位を変える真の人間関係の転換に心を開く必要があり、人間関係に注意を払うことは単なる戦略や組織の有効性を高めるための手段ではないことを、福音からもう一度学ばなければならない。人間関係と絆は、父なる神がイエスと聖霊においてご自身を明らかにされた手段なのだ」(同上)としている。
さらに、「シノダル(共働的)プロセスにおいて、あらゆる地域や大陸の多くの女性、一般信徒、聖職者らが広く表明した痛みと苦しみ」を認め、「この理想に沿えないことがいかに多いかを明らかにしている」(52項)。特に、「主イエスにおける新たな関係への呼びかけは、弟子たちが生きるさまざまな状況で栄え」、さらに「多様な文化」と結びついているが、「多様な文化的背景を持つ人々の交流は、福音にそぐわない歪んだ関係につながることもある」(53項)ことも認めている。
そして、「私たちの世界を悩ませている悪は…こうした力学に根ざしている」と文書は断言し、「最も過激で劇的な拒絶は、人間の生命そのものに対する拒絶である。これは、まだ生まれていない子どもや高齢者の拒絶につながる」(54項)と指摘している。
*宣教のための聖職
「カリスマ、召命、宣教のための聖職」(57-67項)は、この文書の中心にあり、特に一般信徒の男性と女性の参加拡大に焦点を当てています。叙階された聖職は「調和に奉仕する」(68項)ものであり、司教の聖職は「聖霊の賜物を識別し、一致させる」(69-71項)ことを目指す。
司教の聖職に関する議論の中で、最終文書は「今日の名目上の司教の場合、司教と地方教会との間の構成的関係は、例えば教皇の代表者とローマ教皇庁で奉仕する者の場合のように、十分に明確には現れていない」(70項)と認めている。
そして、司祭と助祭は、司教とともに、「シノダル(共働的)教会で叙階された聖職者間の協力」(74項)のために奉仕する。したがって、「シノダリティ(共働性)の霊性」の経験は重要だ。それは、「個人レベルと共同体レベルの両方で霊的な深みが欠けている場合、シノダリティ(共働性)は組織的な便宜に陥る」からだ (44項)、と警告する 。
それゆえ、「謙虚に実践すれば、シノダル(共働的)なスタイルは、教会が今日の世界において預言的な声となることを可能にする」と述べている。
*第3部―プロセスの転換
最終文書は第 3 部 (79-108項) で、今シノドス総会は「祈りと対話において、教会の識別、意思決定プロセスへの配慮、説明責任への取り組み、および決定の評価は、宣教の道を示す御言葉に応答するための実践であると認識した」と述べている (79項)。
特に、「これら 3 つの実践は密接に絡み合っている。意思決定プロセスには教会の識別が必要であり、そのためには透明性と説明責任に支えられた信頼の雰囲気の中で耳を傾ける必要がある。信頼は相互的でなければならない。意思決定者は神の民を信頼し、耳を傾けることができねばならない。そして、神の民は権威を持つ人々を信頼できねばならない」(80項)。
実際、「宣教のための教会の識別」は「組織的な手法ではなく、むしろ生きた信仰に根ざした霊的実践であり」、「決して個人またはグループの観点を述べたり、異なる個人の意見をまとめたりするものではない」(82項)。
「意思決定プロセスの構造」(87-94項)、「透明性、説明責任、評価」(95-102項)、「シノドス性と参加機関」(103-108)は、今シノドス総会の経験から生まれた、この文書に含まれる提案の核心だ。
*第4部―絆の転換
最終文書の第 4 部 (109-139項) の本質は、最初の段落に表現されている。
「教会が根を下ろし巡礼している場所で大きな変化が起きているこの時代に、私たちは贈り物の交換と私たちを結びつける絆のネットワークの新しい形を育む必要がある。この中で、私たちは司教たち同士、そしてローマ司教との交わりの中で司教たちの奉仕によって支えられている」(109項)。
「しっかりと根を下ろしながらも巡礼者」(110-119項) という表現は、「教会は、特定の地域、救いの神との出会いの共有体験が起こる空間と時間における、その根から切り離して理解することはできない」(110項) ことを思い起こさせる。
最終文書のこの部分は、「人口移動」(112項) と「デジタル文化の普及」(113項) という現象にも十分な配慮をしている。この観点から、「イエスの弟子として、さまざまなカリスマと奉仕活動を持ちながら、教会間で賜物の交換に携わる私たちが共に歩むことは、キリストにおける神の愛と慈悲の効果的なしるしである」(120項)。
「教会間の関係の指針となる原則は、賜物の共有による交わりの観点である」(124項)。この出発点から、文書は「一致の絆:司教協議会と教会会議」(124-129項)を詳しく説明しています。
「ローマ司教の奉仕」(130-139項)に関するシノダル(共働的)な考察は特に重要だ。一層の緊密な協力と傾聴の促進に言及し、今シノドス総会はバチカンの各部局に対し、「重要な規範文書」を公表する場合は、その前に、「司教協議会および東方教会の同様の組織との協議を開始する」よう強く勧めている(135項)。
*第5部―宣教的弟子の民の形成
最終文書は第 5 部(140-151項)の冒頭で、「神の聖なる民は、福音の喜びを証しし、シノドスの実践において成長するために、適切な養成を必要としている。まず第一に、イエス・キリストに従う神の息子と娘の自由において、祈りの中で黙想され、貧しい人々に認められることである」(141項)と断言している。
「シノダル(共働的)プロセスで、あらゆる状況から最も強く浮かび上がった要求の 1 つは、キリスト教共同体が提供する養成が一体的で継続的なものであることである」(143項)。この点でも、私たちは「異なる召命の間で賜物を交換すること(交わり)、遂行すべき奉仕の観点(宣教)、そして差別化された共同責任における関与と教育のスタイル(参加)」(147項)が緊急に必要だ、と考える、と主張。
そして、もう一つの非常に重要な分野は、「すべての教会の文脈において保護の文化を促進し、コミュニティを未成年者や弱い立場の人々にとってより安全な場所にすること」(150項)としている。
最後に、「平和と正義への取り組み、共通の家への配慮、異文化間および異宗教間の対話など、教会の社会教義のテーマも、神の民の間でより広く共有されなければなりません」(151項)と締めくくっている。