・(評論改)「性的虐待被害者のための祈りと償いの日」に何もしない司教団?

 聖職者による性的虐待の”絶滅”を悲願とする教皇フランシスコが提唱して始まった「性的虐待被害者のための祈りと償いの日」は、日本では四旬節の第三金曜日、3月5日だ。

 だが、5日になっても、日本の司教団は、中央協議会のホームページの「子供と女性の権利擁護のためのデスク」のページに、祈りなどの動画と、5年前に司教団が出した「性的虐待被害者のための祈りと償いの日」設定にあたってのメッセージを再録したのみだった。同ページの「イベント」をクリックすると、出て来たのは、一見、今年の行事のように見えるが、詳細を確かめると、なんと2018年の行事。愕然とした。

 3年も前の「予定」が消さずに放置されている、という無神経さ、関心のなさ。これが今の日本の教会の少なくないリーダーたちの「心のなさ」を象徴しているように思えてならない。

 司教協議会会長の高見大司教は、当日5日になっても、この日について、ご自分の長崎教区のホームページにすら何の言及もなかった。

 東京教区の菊地大司教は、5日に誠実なメッセージを出され、7日には祈りと償いのミサをされるが、それ以外の教区はどうなっているのだろうか。

*聖職者による性的虐待防止は、「取るに足らない問題」ではない

  教皇は、この問題で一昨年2月に全世界司教協議会会長会議を招集、「聖職者による性的虐待防止は、決して取るに足らない問題ではなく、教会の使命の不可欠な部分でなければならない」との認識を、全世界の司教の代表に共有させ、真剣な取り組みを約束させたはずだった。

 会議を受けて、教皇は同年5月に自発教令Vos estis lux mundiを発出。司教や修道会の上長が聖職者や修道者の性的虐待について上部機関への報告を怠ったり、隠ぺいしたりした場合の、教会法の規範に従った措置を明確にするとともに、世界の各司教協議会に対して「聖職者による性的虐待・隠ぺい防止の新規範」の策定・実施を求めた。また、同年12月、聖職者による性的虐待の関する事案を「秘密」にする教皇特権を廃止した。

 「会議に参加した各国の司教協議会の会長たちは『自分たちの国はそのような問題はない』と考えていたのが、実際にそうではなかったことに気づき、この問題に真剣に取り組むことを約束してくれた。そうした認識は、高位聖職者だけでなく、司祭や一般信徒にもいえることだ」とバチカンの未成年者保護委員会のハンス・ゾルナー神父(グレゴリアン大学未成年者保護センター長)はVaticanNewsに語っている。

*日本の司教団としての取り組みに真剣さがうかがえない

 だが、本当にそうだろうか。この会議には、日本からも司教協議会会長の高見・長崎大司教も参加し、会議後に「世界で起きているさまざまな性的虐待に教会は本来立ち向かっていかなければいけない。世論を高め、専門的な知識を結集して、改善に取り組みたい」とも語っていたが、それから二年経った今も、一般信徒の目に見えるような進展があったようには見えない。

 教皇が自発教令で世界に司教協議会に求めた「聖職者による性的虐待・隠ぺい防止の新規範」は、米国など主要国の司教協議会では、昨年までに新規範の決定、新たな具体的取り組みが始まっている。

 日本の場合は、公表されている司教協議会報2021年1月号によれば、昨年11月の常任司教委員会で「本常任司教委員会の諸意見に基づいて修正した『未成年者と弱い立場におかれている成人の保護のためのガイドライン』(案)を 12 月の臨時司教総会で全司教に提示し、このガイドライン作成に至った経緯と内容について周知を図る。その後、諸意見をもとにガイドラインを整え、2021 年 2 月の司教総会で確定できるよう準備を行う」ことで合意した、となっていた。

 会報2月号では、「 『子どもと女性の権利擁護のためのデスク』事務局会議が 昨年 12 月 4 日に開かれ、同月 10 日の臨時司教総会勉強会のテーマ「聖職者による未成年者への性虐待に対応するためのガイドライン」の提出資料の確認を行った。なお、ガイドライン案についての経緯と内容について事務局が説明することになった」とあったが、同月10日に開かれた臨時司教総会に関する会報の記述には、この件については何も書かれていない。

 ガイドラインを確定するとされていた定期司教総会は2月15日から5日間開かれたが、2月26日現在、中央協議会ホームページには、総会の結果ほもちろん、開催されたこと自体、報じられていない。司教団の名で発表されるメッセージなどは、すべての司教の賛同が必要で、年に三回の総会の機会にしか決議されないというが、3月5日の「性的虐待被害者のための祈りと償いの日」まで、あと一週間という26日になっても、何も発表されないということは、司教団として何の進展もない、ということなのだろうか。

*聖職者による性的虐待アンケート結果発表から一年で何が

 「性的虐待被害者のための祈りと償いの日」の司教団の軽視は今に始まったことではない。一昨年の着手からとりまとめに一年近くもかかった「聖職者による未成年者への性虐待の対応に関するアンケート」の結果は、当然、昨年のこの日、3月13日までに発表されると見た教会関係者も少なくなかったが、実際に中央協議会ホームページに掲載されたのは約一か月後の4月7日。

 しかも、その内容は、「昨年2月末日の時点で全16教区ならびに全40の男子修道会・宣教会、55の女子修道会・宣教会から回答を得た結果、『聖職者より性虐待を受けた』とされる訴えは16件が報告され、内訳は1950年代1件(女子)1960年代5件(女子1件、男子3件、不明1件)1970年代1件(男子)1990年代3件(女子2件、男子1件)2000年代3件(女子1件、男子1件、不明1件)2010年代2件(女子1件、男子1件)で、残り1件は被害があったが詳細は不明」「加害聖職者は、教区司祭(日本人)7名、修道会・宣教会司祭8名(外国籍7名、日本人1名)、他一名は不明(外国籍)。加害を認めた件数が4件、否認した件数が5件、不明が7件」。加害聖職者の措置(事件発覚時)は、職務停止は2件に過ぎず、退会も1件のみ。異動で済ませたものが8件(国内外含)、ほか5件は不明、という、はっきり言えば、極めて甘い、いい加減と思われる、取りまとめ結果だった。

 「本調査によって訴えがあがってこなかった教区・修道会・宣教会においても、『被害がない』という短絡的な捉え方をするべきではない。被害者が安心して声を上げられる環境かどうかを見直し、教会全体として、性虐待・性暴力根絶に向けた、たゆまぬ努力が必要である」としていたが、具体的にどのような工程表を作り、形だけでない内実を伴った取り組みをしようとしているのか、各教区に何を期待するのか、全く明らかにされていなかった。

 それは、一年後の今に至っても変わらない。各教区には、この問題での相談窓口は設けられているが、このような対応では、心に痛手を受けた信徒がアクセスをするだろうか。まして、以下に述べるような長崎教区のようなことがあれば、なおさらのことだ。

*長崎大司教区の対応は…”心”が欠けている

 そもそも、日本の司教協議会の会長であり、2019年2月の全世界司教協議会会長会議にも日本代表として出席した高見大司教が管轄する長崎大司教区で、女性信徒が司祭からわいせつ行為を受け、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症したという問題が未だに解決されないどころが、女性への心無い対応がさらに問題を深刻化させている。

 この問題は、教皇フランシスコが訪日された一昨年11月直前に、通信社の報道で明らかになり、「長崎大司教区は問題の神父について、聖職を停止したが、教区の信徒たちに処分を公表せず、不在の理由も『病気療養中』とだけ説明しいる」と報じられていた。

 昨年8月になって、大司教区は賠償金を支払うことで女性と合意したと言われていたが、その後の大司教区内の会議で、髙見大司教が「(女性を)『被害者』と言えば加害が成立したとの誤解を招くので『被害を受けたと思っている人』など別の表現が望ましい」と発言したとする議事録が神父らに配布され、それを知った女性は「被害を前提に示談したにもかかわらず、被害がなかったかのような表現にショックを受け、症状が悪化した」として、大司教区に損害賠償を求める裁判を起こした。

 長崎地裁で1月26日に第一回口頭弁論が行われたが、地元の長崎新聞が報じた女性側の代理人の話によると、大司教区側は、答弁書で「髙見大司教の発言は、報道機関の記者が発言したことを紹介したにすぎない」と反論、請求の棄却を求め、真っ向から対決する姿勢を見せているという。

 高見大司教は、一昨年の世界司教協議会会長会議から、帰国2か月後の2019年4月に東京で開かれた「施設内虐待を許さない会」主催の「カトリック神父の子どもへの性虐待! 日本でも」と題する集会に参加し、その席で、有力月刊誌「文芸春秋」昨年3月号の調査報道記事「カトリック神父『小児性的虐待』を実名告発する “バチカンの悪夢”が日本でもあった!」で実名を明らかにしていた性的虐待被害者の男性に面前で謝罪していた。だが、この問題についても、その後、何ら具体的な対応をしておらず、それに怒りを感じた男性が中心になって、昨年6月に「カトリック神父による性虐待を許さない会」を発足させる原因を作った。

 聖職者による未成年を中心とした性的虐待は欧米の教会を中心に深刻な問題を投げかけ続けている。膨大な件数の告発を受けている米国の教会では、損害賠償額が日本円にして数百億円以上に上っていると言われ、賠償金が払いきれずに財政破綻する教区も出ている。そうした状態に比べれば、日本は微々たるもの、大したことはない、という心理が働いているのかもしれない。

 だが、性的虐待で相手を心身共に傷つけることは、件数で判断できるものではない。性的虐待を働いた司祭はもとより、それを報道されるまで認めようとせず、厳正な対処を怠った上位の聖職者、二重の精神的被害を受けたとする女性の損害賠償請求訴訟に、棄却請求で応じる教区の態度には、首をかしげざるを得ない。

 「性虐待被害者のための祈りと償いの日」設定にあたって、日本の司教団が日本のカトリック信徒宛てに、2016年12月に出した声明では、「すべてのキリスト者とともに、傷ついた被害者の方々の悲しみと苦しみを理解し、彼らの癒しと回復のために、慈しみ深い神に祈り、また、全世界の教会がこの困難な状況を乗り越えるために、神からの恵みと力づけを祈りましょう。私たち日本の司教は、聖職者、修道者、信徒のみなさんとともに、日本においてこのようなことが起こらないよう、重ねて自らを正し、教会の刷新に励んでいきたいと思います」と決意表明をしていた。

 だが、その後、現在に至る以上のような動きを振り返れば、まったく説得力に欠けることは明らかだ。

*祈りだけでなく行動、”不都合な真実”を避ける教会文化を変える努力が必要

 その司教団の代表である司教協議会会長の高見・長崎大司教は2021年の”年頭教書”と題する大司教区の信徒宛てメッセージのタイトルを「『すべてのいのちを守る教会』を目指して」とし、「一昨年、わたしたちは、教皇様のご訪問に励まされて新たな一歩を踏み出そうとしました。しかし、新型コロナウイルス感染拡大の影響で、不安や心配の中、ミサや教会行事などへの参加は制約され、カトリックセンターの宿泊事業は閉鎖に追い込まれ、大浦天主堂の拝観者数は激減するなどしました」とし、冒頭からコロナによる打撃について列挙したものの、それへの対応努力については言及がなく、司祭の性的虐待問題には一言も触れていない。

 この問題と並行して昨年表面化した教区司祭による総額2億5000万円の無断の投資、貸し付けで、教区の会計規模としては莫大な額の損失を発生させている問題についても、当初は「監督者として責任を痛感する…可能な限り修復に努める」と責任を認めていたにもかかわらず、このメッセージでは「教区会計上の重大な問題などにも皆が心を痛めました」とまるで他人事のような表現だ。

  さらに言えば、最大の問題にされているコロナ禍への対応でさえも、日本の教会のトップとしての役割をこの一年果たしてこられたとは、残念ながら言い難い。これでは、すべてのいのちを守る教会」というタイトルも、説得力の持ちようがないだろう。

 バチカンの未成年者保護委員会のハンス・ゾルナー神父は先のVatican Newsとの会見で、聖職者による未成年者などへの性的虐待を根絶するためには「祈りだけでなく、行動。行動だけでなく、教会そのものの”文化”を変える努力も必要」と強調している。

 日本の教会とそのリーダーに求められているのは口先の謝罪や祈りではなく、心の底からの祈り、そのうえでの行動。そして、”権威”を背景に”不都合な真実”を避けて通ろうとする、教会の”文化”を変える努力ではなかろうか。

 

(「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2021年2月27日