(2021.2.23 LaCroix Christophe Henning)
聖職者の性的虐待が引き起こした世界的な教会の危機に対処するため、教皇フランシスコが全世界司教協議会会長会議を招集してから2年経った。その結果などを受けて、世界各国の司教協議会では様々な取り組みを進めているが、フランスの司教協議会もこのほど、その一環として、この問題に関する司教たち自身の責任について振り返るオンライン会合を実施した。彼らの課題の一つは、性的虐待を犯した者の個人としての罪と、教会を構成する者の共同責任の間の境界をどのように引くのか、だ。LaCroixが、フランスのイエズス会が発行する Étudesの副編集長で哲学者のNathalie Sarthou-Lajusに話を聞いた。
一問一答は以下の通り。
問:性的虐待の責任は、実行犯以外にも問えるでしょうか?
答*自己の行動に対して責任が生じる、というのが原則ですが、(すべきことを)しなかったことに対しても責任を問うことができます。責任が生じる核心にあるのは”関係”です。
問:今、司教たちは、性的虐待の被害者、さらに信徒たちに何を語ることができるでしょう?
答:責任とは「道徳的な負い目」です。司教たちには、被害者の痛み苦しみを認識し、償いをする義務を負っています。それは単なる個人的問題ではありません。司教たちは、その職務上、責任を負い、説明する責任を負わねばなりません。その責任の範囲はとても広い。法的責任にとどまらない、道徳的な責任があります。裁判官は私に、何に責任があるのか尋ねますが、道徳的な問題に責任があるのか。それには、引き起こされた苦しみを認識していることが必要となります。
「無過失責任」(私法上の概念で、損害の発生について故意・過失がなくても損害賠償の責任を負うことをいう)という考え方が出てきています。官僚型組織に関わる特定の状況では、原因のもつれと行為の相互関係が、個々人の責任の特定を困難にし、責任が問えなくなることがあります。
問:過去の世代に関しては「歴史的な過ちに対する悔い改め」があり、将来の世代に対しては「環境への責任」があります。集団、団体などは、どうやってそうした責任を認識できますか?
答:共同責任の難しさは、特定できる外見がなく、個人の責任を問うことができなくなる可能性があることです。ですから私は、個人でなく、人々のネットワーク全体の責任の共有という捉え方がいいと思います。罪に問われるのは、一連の人々の関わりの結果だからです。このことは、個人的責任を問わないことで作られた官僚的な制度の非道な組織に問題を提起します。
これまで、それぞれの人は罪を認めるか認めないか、あるいは、単に黙っているかしなければなりませんでした。否定を克服し、行為の深刻さを真に全体として認識する方向に進み、共同責任を果たす必要があります。
意識も集合的でなければなりません… 同時に全ての人が関与し、特定の人は関与しないような責任というものを考えるのは、とても難しい。道徳的責任は個人的なものです。ハンナ・アレントは、集団的責任のこの問題のある概念の例として、ナチのユダヤ人大量虐殺の責任を問われたアドルフ・アイヒマンの1961年のエルサレムでの裁判を挙げています。ナチスの兵士が個人的な責任を取ることを拒否することと、ドイツの若者たちが抱く過度の集団的罪悪感の両方が、個人的な責任の現実逃避をもたらすゆえに、道徳的に非難される、と語っています。
自分が本当に犯した悪に責任を感じるよりも、他人が犯した悪に責任を感じる方が簡単です。私たちの集団、私たちの国、私たちの宗教のメンバーの行為に対して、連帯をもとに責任を感じることができるのは事実です。でも、どこまで連帯の範囲を広げるべきなのか?私たちの祖先の過ちを償わねばならないのか?それは間接的に個人を巻き込むだけの責任です。