(2026.8.24 Global Catholic David Timbs)
聖職者主義をピオ10世から今日の性的虐待危機まで辿ると、オーストラリアの司教たちは、フランスやペルーの司教たちと同様に、公の場でひざまずき、許しを請い、「二度と繰り返さない」と誓うよう求められているように思われる。
*今に続く聖職者主義、教皇フランシスコは「教会を蝕む最大の歪みの一つ」と強く批判
「……教会は本質的に不平等な社会、すなわち、司牧者と信徒という二つのカテゴリーの人々からなる社会である。司牧者は教会の階層の様々な段階において一定の地位を占め、信徒は多数派である。これらのカテゴリーは非常に明確に区別されているため、教会の目的を推進し、そのすべての構成員をその目的に導くために必要な権利と権威は、司牧者のみに与えられている。信徒の唯一の義務は、導かれることを受け入れ、従順な羊のように牧師に従うことである。」 —ピオ10世教皇の回勅『Vehementer Nos(我々に激しい苦悩をもたらす)』(1906年)。
ピオ10世が1906年に書いたこの回勅は、主にフランスのカトリック司教団と聖職者に向けて書かれたもので、欧州で蔓延する世俗主義がもたらす有害な影響に対処することを目的としていた。
回勅は、教会を”無垢な犠牲者”として描くイメージと、”教会の長女”であるフランスによる拒絶に対する憤りを織り交ぜている。教皇は、「教会の神聖な制度と階層構造は、国家によって作られた社会組織よりも優れている」と強調した。
現在聖人となっているフランスの司祭、ジャン・ヴィアネ(1786 – 1859)、通称「アルスの司祭」は、著書『小教理問答』の中で、「神の次に、司祭がすべてである」と記している。おそらく、カトリック信徒を含む他のすべての人々は、「自分の立場をわきまえ」、静かにその立場に留まることが期待されていたのだろう。
英国の影響力のある貴族出身でカトリックに改宗した聖職者、ジョージ・タルボット司教(1816 – 1886)は、ウェストミンスター大司教ヘンリー・エドワード・マニング(1808 – 1892)との会話の中で、同様のエリート主義を声高に主張した。
「一般信徒の役割とは何でしょうか?狩猟、射撃、娯楽でしょうか?これらのことは理解しているかもしれませんが、教会の事柄に干渉する権利は全くありません。そして、このニューマンの件は純粋に教会の問題です。ニューマン博士はイングランドで最も危険な人物であり、陛下に対して一般信徒を利用するでしょう」
ジョン・ヘンリー・ニューマン(1801 – 1890=19世紀の英国の神学者で枢機卿。2019年10月に聖人、2025年11月、教会博士と認定)は、タルボットと同様、「ハイ・チャーチ」派の英国国教会から改宗した人物だった。ニューマンは、「教会のアイデンティティと使命をバランスよく理解するためには、信徒を、聖職者の不可欠なパートナーとして扱うべきだ」と主張したため、タルボットのような聖職者から嘲笑の的となった。
ニューマンが直面したのは、英国における階級制度の教会版とも言えるものだった。神によって定められた地位に固執するエリート主義者たちは、聖職とその特有の隠語を、人々を分断し、距離を置き、神秘化するための道具として利用し、人々をそれぞれの立場に留め置こうとした。今日では、これは聖職者主義と呼ばれている。それは今もなお信徒を幼稚化させ、「聖職者依存」の状態に閉じ込め、結果として彼らの洗礼の尊厳を損なっている。
フランシスコ教皇は、聖職者主義を「災い」「有害な病」「教会の歪み」と表現し、「(聖職者主義は)教会の可視性と秘跡性が、選ばれた少数の者だけでなく、神の民すべてに属することを忘れている。これは教会を蝕む最大の歪みの一つである」と述べた。聖職者主義は福音に反するものであり、教会の普遍的な使命を阻害する。
そして、この聖職者主義が、聖職者による児童を含む性的虐待という惨事とその後の隠蔽工作に大きく寄与したという見解が、現在では広く受け入れられている。
*教会の最悪の危機は、教会内部の腐敗によってもたらされた
ノルウェーのトロンハイム司教エリック・バルデンは先日、教皇レオのバチカン宮殿での2026年の四旬節黙想会で説教をした。ヴァルデン司教は、カトリック教会が”大規模な組織的失敗”という問題に直面していることを認めようとしない司教たちを批判した。「少数の腐ったリンゴ」について語っていたのではない。彼はこう語った。
「教会にこれほど悲劇的な損害を与え、私たちの証しをこれほど損なったものは、教会内部で発生した腐敗以外にない。教会の最悪の危機は、世俗の反対勢力によってではなく、教会内部の腐敗によってもたらされたのだ」
その関連で言えば、今こそ、豪州のカトリック司教たちが正義と涙を示す時だ。彼らが自らの劇的な悔恨、嘆き、そして回心という公の場での行動を通して、使命に立ち返ったことを示す時なのだ。
*『被害者への配慮』という根本的な精神を示す代わりに、『自らの安全と利益』を最優先に考えていた
豪州のロング・ヴァン・グエン司教は、性的虐待スキャンダルによって司牧上の義務を果たせなかった教会指導者たちによって神の民にもたらされた損害を深く認識している。
「教会が、『被害者への配慮』という根本的な精神を示す代わりに、『自らの安全と利益』を最優先に考えていたことが明らかになりました。これは、『加害者とその共犯者だけでなく、教会全体が、福音を組織的に裏切った』という、恥ずべきことです」
多くの司教は、州や国の政治家が自分たちの声をほとんど無視していると常に不満を漏らしてきた。彼らは、2016年にマーク・コールリッジ大司教が述べた次の言葉から、冷静な結論を導き出すべきだった。
「キリスト教世界は終わったという事実を受け入れなければならないと思う。ここで言うキリスト教とは、大衆的で市民的なキリスト教のことだ。それは終わった。では、私たちはその事実にどう対処すべきか?…私たちはかつてのような権力をこの国で持っていないのだ」
司教たちにとってさらに不吉な現実を突きつけるのは、聖職者による児童性的虐待スキャンダルの余波と、司教による隠蔽の歴史の結果、もはや彼らを真剣に受け止めるカトリック教徒はほとんどいないだろうということだ。