〈2026.7.26 Crux Chief Editor Charles Collins)

先週のルプニクの裁判を巡るニュースは、教会法上の刑事訴訟手続きの不透明さを改めて浮き彫りにした。
バチカンは、不名誉な元イエズス会士で、かつては著名な芸術家だった人物が、秘密裏に行われた教会裁判で無罪判決を受けたという噂を否定せざるを得なくなったのだ。
マルコ・ルプニク神父は、どういうわけか今もなお聖職者としての地位を保っているようで、現在も故郷のスロベニアの教区で奉仕しており、教会法における刑事訴訟の秘密主義の問題を浮き彫りにしているだけではない。成人、特に女性に対する虐待が適切に対処されていない現状を如実に示している。
*ルプニク事件の概要
ルプニク神父はこれまで複数の教会当局によって何度も調査を受けており、その都度、30年間にわたり数十人の女性に対して行われた神父の恐ろしい犯罪の証拠が明らかになり、確認されてきた。
このスロベニア人司祭は、自身の「創作過程」を利用して、被害者を精神的、心理的、そして性的に操った疑いも持たれている。
イエズス会は現在、彼が有罪であると信じており、その旨を表明している。バチカンの調査官は、聖職者の性的虐待問題を担当する教理省のためにこの件を調査し、2022年にルプニクに対する訴訟の可能性を認めたものの、犯罪そのものの時効は成立している、と判断した。
メディアによる執拗な監視、教皇の側近からの公私にわたる圧力、そしてルプニク神父が司祭としての活動を続けることが許されるというニュースに対する世界的な激しい怒りを受け、フランシスコ教皇は時効を免除し、事件の再調査を命じた。それから、3年近く経つ。
バチカンがルプニクに対する裁判を行うための裁判官団を任命した、と発表するまでに、ほぼ丸2年が経過したが、教会当局は裁判官が誰であるか、あるいは、彼がどのような具体的な罪に問われているかさえ、いまだに明らかにしていない。
司祭が重大な容疑に直面していたにもかかわらず、フランシスコ教皇は在位中に居住していたマルタ館の私室に、彼の作品を展示し続けた。
ルプニク事件では、上記のような大まかな流れ以外にも多くの出来事があったが、これらは実に陰惨で、その複雑さは迷宮のようで、細部に至るまで恐ろしい、実に不気味な物語の簡潔な要約だ。
*バチカンが学んだ(あるいは学ばなかった)教訓
しかし、重要な意味で、ルプニク事件は二つの関連する点に集約される。
まず、この事業を取り巻く秘密主義は、被害者たちに大きな損害を与えた。彼らはあまりにも長い間待たされた挙句、ほとんど正義が実現されなかった。また、教会にも損害を与えた。信者たちは憤慨し、指導者たちは道徳的な信頼を失った。
第二に、この事件に関して我々が知ったことは、教会の指導者たちが、児童への性的虐待がもたらしている危機の暗黒の数十年間を通して用いてきたのと同じやり方を、今もなお続けていることを示している。
その”手口”には、セラピー、聖職者による工作、そして賄賂が含まれる。さらに、見て見ぬふり、被害者非難と脅迫、矮小化、ごまかし、そして完全な否認までも含まれる。これら全ては、不正行為を隠蔽し、その話が新聞に載らないようにするための策略だ。
カトリック教会が、2002年にボストン・グローブ紙が掲載した「スポットライト」シリーズで報じられた聖職者による児童虐待疑惑の影響に直面してから、ほぼ四半世紀が経つ。(ボストン・グローブ紙は2014年にCruxを設立し、2016年に複数の株主によって運営されることになった。)
この事件に対する信者たちの憤りを受け、米国カトリック司教協議会は2002年後半に、聖職者による児童虐待問題に対処するための「ダラス憲章」を策定した。米国司教協議会は今年春の総会でこの憲章を見直し、改訂した。この文書は、世界中の若者に対する性的虐待問題への対処における基準として、今もなお用いられている。
だがこの憲章は、あまり健全とは言えない形で運用された例もある。聖職者たちは、「憲章違反ではない」というフレーズを様々な形で用い、虐待事件を関係当局に報告しなかった言い訳として、また、問題を起こした聖職者を他の場所、時には他の管轄区域にひっそりと異動させることを正当化するために利用してきた。
加害者が、憲章の条文に違反していない場合、多くの司教は、何かをする義務をほとんど感じないケースがあまりにも多い。
これは憶測ではない。Crux Nowの編集長は今年初め、テキサス州の裁判所で陪審員が重罪の性的暴行で有罪と判断し、終身刑が言い渡されたナイジェリア人司祭の事件を取材していた際、米国の主要な大司教区から、そのようなことを直接耳にした。
テキサス州法では、聖職者、医療スタッフ、カウンセラーが、その立場を利用して他者に性行為への参加を促した場合、重罪となる。問題の司祭、ナイジェリアのウヨ教区のアンソニー・オディオン神父は、まさにそうした行為で告発され、裁判にかけられ、有罪判決を受けた。現在、教会の指導者たちは、具体的な教会法規に依拠することなく意思決定を行わなければならないが、テキサス州の事例のように、民事法や刑事法が適用される可能性はある。
聖職者が売春婦と関係を持ったり、教区民と不倫関係を持ったり、聖職者としての誓いを破ったりする事例は数多く存在する。これは決して目新しいことではなく、ある意味では人間の本性であり、ごくありふれたことなのだ。司教たちは、すべての罪が犯罪であるわけではなく、判断の誤りを性的暴行と同一視すべきではないと、すぐに指摘するだろう(それは間違いではない)。
私たちが人生の大半を過ごす広大なグレーゾーンでさえ、より濃い色合いとより薄い色合いが存在することを許容している。だが、司祭が教区民と不倫関係になった場合、どのような結果になるのだろうか?教区民が既婚者の場合はどうだろうか?司祭がその教区民のカウンセリングを担当していた場合はどうだろうか? 司祭が当局の売春摘発作戦に巻き込まれたらどうなるのか?彼が複数回逮捕されていたら、どうか?
ポルノ画像の所持、不倫、その他多くの信者がメロドラマの中だけで取り上げられることを願うような事柄についても、同様の疑問が投げかけられる可能性がある。