(2024.8.23 Crux Managing Editor Charles Collins)
聖職者による性的虐待が最近またニュースになっている。過去20年以上にわたって、性的虐待とその隠蔽に関する嫌悪すべき話は、英語圏やその他の国々でニュースの定番となってきたが、最近の一連の報道は、「教会が、本当に問題の根本に取り組もうとしているのか」という疑問を提起している。
今月初め、オーストラリアの西オーストラリア州議会・調査委員会は、宗教関係施設での児童虐待の被害者が受けることのできる支援に関する最終報告書を発表し、「カトリック教会やその他の宗教団体は、被害者に対してなすべきことよりも、自らの組織的および経済的”幸福”を優先してきた」と批判した。
隣のニュージーランドでは先月、養護施設における虐待に関する王立調査委員会が、「養護施設における児童や弱い立場の成人への虐待に関する報告書」でカトリック教会を厳しく非難した。
また先月には、アイルランドの新聞やテレビが、2017年に亡くなったイーモン・ケイシー司教が1990年代に性的不正行為で告発され、さらに亡くなる直前に3件の性的虐待の告発を受けていた、と報じている。
北アイルランドでは、ダウン・アンド・コナー教区長のアラン・マクガッキアン司教が、1980年代にジェームズ・マーティン・ドナギー神父から青年時代に性的虐待を受けたパディ・マカファーティ神父に謝罪した。ドナギー神父は、 2012年に未成年者に対する性的虐待で有罪判決を受け、10年の刑に服した。
マクガッキアン司教は、マカフェティ神父が受けた虐待の報告は「教区の児童性的虐待に焦点が当てられる中で、まともに取り上げられなかった。マカフェティ神父が2003年に詳細に文書で報告したドナギー神父の行為は、ことは明らかに犯罪的だった」と遅ればせながら反省の弁を述べた。
英語圏でのこれらの報道は、イタリアで教皇フランシスコを取り巻く”性的虐待危機”が続く中でなされた。
約30人の成人女性に性的虐待をしたとして告発されている元イエズス会士のマルコ・ルプニク神父は、現在も司祭であり続けており、その作品はバチカンのウェブサイトに今も掲載されている。
これは、バチカン広報省のパオロ・ルッフィーニ長官が6月に明言したことと関係している。長官は米ジョージア州アトランタで約150人のジャーナリストやメディア関係者に、ルプニク問題についてこう語った―「私たちは未成年者への虐待について話しているのではありません。私たちは知らない話について話しているのです、ルプニクの話を判断するのは私ではありません」。
ごく最近のこと、教皇フランシスコの住まいを飾るルプニクの作品とされる画像が浮上した。それだけではない。昨年、教皇はシチリア島ピアッツァ・アルメリーナのロザリオ・ジザーナ司教を「良い」と評した。この司教は、未成年者に対する重い性的暴行で訴えられたジュゼッペ・ルゴロ神父をかばったとして告発されていた。そして、ルゴロは今年初めに有罪判決を受けている。
ルゴロに性的暴行をされた被害者は、2020年に教皇に宛てた手紙の中で、「ジサーナ司教は、すべてを知っていたにもかかわらず、処罰を逃れさせるためにルゴロを異動させた」と訴えたが、バチカンが何の措置も取らなかったため、イタリアの司法当局に訴えた。
教皇フランシスコは、昨年の声明で、ルゴロは「迫害され、中傷されたが、常に毅然とした態度で、公正な人だった」と弁護したが、このような対応は、虐待を隠蔽したと非難されていたチリのオソルノのフアン・バロス司教を2018年に教皇が擁護したのと似ている。教皇は中南米訪問中にこう述べていた―「(バロス司教が)虐待を隠蔽したという証拠は1つもありません。すべて中傷です。(隠蔽したというのは)本当ですか?」。
教皇のバロス司教擁護の発言は、世界中で非難を巻き起こし、教皇自身が指名したバチカン未成年者保護委員会の委員長、ボストンのショーン・オマリー枢機卿からも非難された。そして、教皇は、調査官をチリに派遣し、虐待の被害者に謝罪し、善処すると約束した。
これは6年前のことだが、それ以来、現在に至るまでに起きた事件(ここで概説したものだけでなく、他の多くの事件も)によって、「教皇が本当に教訓を学んだのか」、バチカン・ウオッチャーたちは疑問を膨らませ。被害者や支援者たちはますます怒りと不安を募らせている。
なぜバチカンは、20年以上前に故ヨハネ・パウロ2世教皇のもとで、聖職者による性的虐待が表面化し、教会に危機が起き始めてから、真剣に対応策を学ぼうとしなかったのか?
2002年に聖職者による児童虐待を米有力日刊紙Boston Globeがスクープし、虐待行為と高位聖職者による隠ぺいが白日にさらされた後、教会関係者は問題に対処するためのガイドラインを発表し始めた。ガイドラインは国によって異なり、必ずしも厳密に守られてきたわけではない。それには、「教会の評判を守りたい」という願望から、「知らない人よりも知っている人を信じる」という人間の本性に典型的な傾向まで、さまざまな共通の理由がある。