◎教皇連続講話「第二バチカン公会議を学び直す」①「公会議の教えは今も教会を導く星、諸文書を再読しよう」

2026年7月6日

◎教皇連続講話「第二バチカン公会議を学び直す」⑲『典礼憲章』4「聖体の神秘こそが、『主の歩みそのもの』を歩むことを可能にする

(2026.6.24  Vatican News   Deborah Castellano Lubov)

    教皇レオ14世は24日、水曜恒例一般謁見で、スペイン訪問などで中断していた連続講話「第二バチカン公会議を学び直す」を再開され、4回目となる『典礼憲章』の考察で、「聖体の神秘こそが、私たちに、『主の歩みそのもの』を歩むことを可能にするもの」と強調された。「信仰をもってこの神の命の泉から汲み取り、私たちが祝うこの神秘によって変容させていきましょう!」

 今回の講話で教皇は、典礼憲章に示された聖体の祝典を取り上げ、この「聖なる神秘」が同憲章第2章で、「愛の秘跡、一致のしるし、愛の絆、『キリストを受け入れ、魂が恵みに満たされ、将来の栄光の保証が与えられる過越の晩餐』」と記述されています」と指摘。また、「一般信徒はミサにおいて『受動的な傍観者』ではなく、イエス・キリストと結ばれて自らを捧げるよう奨励」されている点を強調された。

 教皇は「私たちが聖体祭儀に参加するとき、神の御言葉に耳を傾け、主ご自身が御父に御自身を捧げられる主の食卓で養われるよう招かれています」とされ、この観点から、「聖体祭儀が神との結合および相互の結合への道である限り、キリスト者の霊的犠牲の形態をとります… ミサ典礼に与ることで、信徒たちは、自らを捧げ、日々、キリストを通して、神との一致、そして互いとの一致の中で、自らを捧げ尽くしていくことを学ぶのです」と説かれた。

 また、教皇は、ミサにおいて「御言葉の典礼と聖体の典礼は互いに密接に結びついており、一つの礼拝行為を成している」こ都に注意を向けられ、「聖体は、私たちをキリストに組み込むことによって、自己の無償の奉献によって特徴づけられる主イエスの生き方そのものを、私たちに受け入れるよう教えてくれます」と語られ、さらに、「この賜物は、私たちを一致へと導き、私たちの世界、共同体、家族、そして心を蝕む分裂の力に対する強力な解毒剤となります」と語られた。

 講話の最後に、教皇は、「すべての信徒が、この豊かな神の命の源から滋養を求める中で、私たちが祝う神秘によって自らを変容させていくことができますように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

*講話の公式英語訳と日本語試訳全文は以下の通り

 LEO XIV GENERAL AUDIENCE Saint Peter’s Square Wednesday, 24 June 2026

Catechesis. The Documents of the Second Vatican Council. III. Constitution Sacrosanctum Concilium. 4. The Mystery of the Eucharist

 私たちは、第2バチカン公会議の文書、とりわけ典礼に関する憲章『サクロサンクトゥム・コンシリウム』SC)についての教理解説を続けていく。

 聖アウグスティヌスが、新たに洗礼を受けた人々にキリストの体の神秘を説明しようとしたとき、彼は私たちが先ほど聞いた聖パウロの箇所を取り上げた。「今や、あなたがたはキリストの体であり、一人ひとりがその一部である」 (コリントの信徒への手紙一 12:27)。そしてこう付け加えている。「あなたがたが受け取るのは、あなたがた自身の神秘である。あなたがたが何者であるかに応えて、『アーメン』と答えるのだ。その答えは、あなたがたの署名のようなものだ。『キリストの体』と告げられれば、あなたは『アーメン』と答える。それゆえ、キリストの体の肢体となりなさい。そうして、あなたの『アーメン』が真実なものとなるように。[…] あなたが見ているものとなり、あなたが何者であるかを受け入れなさい」 (説教 272:PL 38, 1247)。

 『典礼憲章』は、イエスの最後の晩餐を想起した直後に、このアウグスティヌスの言葉を用いて聖体について述べている。キリスト者にとって、主の食卓に与ることは、「神の言葉によって教えられ、……養われ、……神に感謝をささげる」ことを意味する(参照:SC, 48)。私たちが御言葉と聖体において主を受け入れることによって、私たちは受け取ったものとなるのだ。私たちは、父の右に座しておられる復活のキリストを頭とする体となり(コロサイ1:18参照)、キリストは天に私たちのための場所を用意してくださる(ヨハネ14:3参照)。このように、聖体は来るべき御国の秘跡である。それは、天の故郷へと私たちを導く旅路の糧であり、「神がすべてにおいてすべてとなる」(1コリント15:28)という祝福されたその日が来るまでの間、私たちを支えてくれるものである。

 典礼の集いは、「司祭の手を通してだけでなく、司祭と共に」(SC, 48)この犠牲を捧げる。この観点から、聖体は、神との、また互いとの一致への道として、キリスト者の霊的犠牲の形態である(ヘブ13:16、ローマ12:1参照)。聖体に参加することで、キリスト者は「自らをささげることを学ぶ。仲介者であるキリストを通して、日々、神との、また互いとの、ますます完全な一致へと導かれていくべきである」(同上)。このように、聖体は私たちをキリストに組み込むことによって、自らを無償で捧げることに特徴づけられた主イエスの生き方そのものを、私たちに受け入れるよう教えてくれる。この賜物は、私たちを一致の力へと引き込み、私たちの世界、共同体、家族、そして心を蝕む分裂の力に対する強力な解毒剤となる(SC, 47参照)。

 親愛なる兄弟姉妹、私たちが聖体祭儀に参加するとき、私たちは神の御言葉に耳を傾け、主が御自身を父に捧げられる主の食卓で養われるよう招かれている。ミサのこの二つの部分、すなわち「御言葉の典礼」と「聖体の典礼」は、「互いに密接に結びついており、一つの礼拝行為を成している」(SC, 56)。

 神の言葉に関して言えば、単に聖書に関する知的な知識を得るだけでなく、神がすべての人に対して、そして同時に一人ひとりに対して語られる「生きた、力ある」(ヘブ4:12)御言葉を受け取ることが重要であることを忘れてはならない。この御言葉は、聖体のパンとともに私たちを養い、支え、罪による腐敗からキリストにおける新しい命へと導いてくれる。「聖体は、私たちが聖書を理解する道を開く。それと同様に、聖書もまた、聖体の神秘を照らし、説明してくれるのである」(ベネディクト16世、『Verbum Domini』、55)。

 第二バチカン公会議は、聖書の宝がより豊かに開かれるよう求めた。それは、神の言葉の食卓から、信徒たちにさらに豊かな食事が提供されるためである(参照:SC、51)。典礼改革は、この要請を『聖書日課集』という宝へと具現化した。これは、典礼の祝典におけるすべての聖書朗読をまとめた書物である。この豊かさは、生きた伝統の最も純粋な源泉から引き出されたものであり、伝統への忠実さと、正当な進歩への開放性を兼ね備えている(参照:SC、23)。

 『典礼憲章』の第2章の冒頭には、教会の教父たちから私たちに至るまで続く、伝統という大河への言及が織り込まれている。そこから引用する。「最後の晩餐において、裏切られたその夜、私たちの救い主は、ご自身の体と血による聖体祭儀を制定された。主は、再臨の時まで、十字架の犠牲を世紀を超えて永続させ、また、愛する花嫁である教会に、ご自身の死と復活の記念、すなわち愛の秘跡、一致のしるし、愛の絆、キリストを食し、心が恵みに満たされ、将来の栄光の保証が与えられる過越の宴を託すために、これを行われたのである。」(SC、47)。

 愛する兄弟姉妹、信仰をもってこの神の命の泉から汲み取り、私たちが祝うこの神秘によって自らを変容させていこう。

Dear brothers and sisters,

We will continue our catechesis on the documents of the Second Vatican Council, particularly the Constitution Sacrosanctum Concilium (SC) on the Liturgy.

When Saint Augustine wanted to explain the mystery of the Body of Christ to those who were newly baptized, he took up the passage from Saint Paul that we have just heard: “Now you are Christ’s body, and individually parts of it.” (1 Cor 12:27). He adds: “It is your own mystery that you receive. To what you are, you respond: Amen, and your response is like your signature. You are told, ‘The Body of Christ,’ and you reply, ‘Amen.’ Be therefore members of the Body of Christ, so that your Amen may be true. […] Be what you see, and receive what you are” (Sermon 272: PL 38, 1247).

Immediately after recalling Jesus’ Last Supper, the Constitution on the Liturgy speaks of the Eucharist in these Augustinian terms. For Christians, taking part at the Lord’s table means being “instructed by God’s word and … nourished … [giving] thanks to God” (cf. SC, 48). It is by receiving Him in His Word and in the Eucharist that we become what we receive. We become the Body whose Head is the risen Christ, seated at the right hand of the Father (cf. Col 1:18), who prepares a place for us in heaven (cf. Jn 14:3). Thus, the Eucharist is the sacrament of the Kingdom that is to come. It is the Bread for the journey that leads us to our heavenly homeland, until that blessed day when “God will be all in all” (1 Cor 15:28).

The liturgical assembly offers the Sacrifice “not only through the hands of the priest, but also with him” (SC, 48). From this perspective, the Eucharist is the form of the spiritual sacrifice of Christians (cf. Heb 13:16; Rom 12:1), as the path to union with God and with one another. By participating in it, they learn “to offer themselves; through Christ the Mediator, they should be drawn day by day into ever more perfect union with God and with each other” (ibid.). Thus, by incorporating us into Christ, the Eucharist teaches us to adopt the very style of life of the Lord Jesus, which was marked by the free gift of Himself. This gift draws us into the dynamic of unity, offering a powerful antidote to the forces of division that undermine our world, our communities, our families, and our hearts (cf. SC, 47).

Dear brothers and sisters, when we participate in the Eucharist, we are invited to listen to the Word of God and to be nourished at the Lord’s table, where He offers Himself to the Father. These two parts of the Mass, the Liturgy of the Word and the Liturgy of the Eucharist, “are so closely connected with each other that they form but one single act of worship” (SC, 56).

With regard to the Word of God, it is important to remember that it is not merely a matter of acquiring intellectual knowledge of the Scriptures, but of receiving the Word that is “living and effective” (Heb 4:12), spoken by God to everyone and at the same time to each individual. This Word nourishes and sustains us together with the Eucharistic Bread and leads us from the decay of sin to new life in Christ. “The Eucharist opens us to an understanding of Scripture, just as Scripture for its part illumines and explains the mystery of the Eucharist.” (Benedict XVI, Verbum Domini, 55).

The Second Vatican Council called for the treasures of the Bible to be opened more abundantly, so that a richer fare from the table of God’s Word might be provided for the faithful (cf. SC, 51). The liturgical reform translated this request into the treasure that is the Lectionary, the book that gathers all the biblical readings for liturgical celebrations. This richness has been drawn from the purest source of the living Tradition, which combines fidelity with tradition; with openness to legitimate progress (cf. SC, 23).

The beginning of Chapter II of the Constitution on the Liturgy is woven with references to the great river of Tradition, that continues from the Fathers of the Church down to us. I will quote from it: “At the Last Supper, on the night when He was betrayed, our Saviour instituted the eucharistic sacrifice of His Body and Blood. He did this in order to perpetuate the sacrifice of the Cross throughout the centuries until He should come again, and so to entrust to His beloved spouse, the Church, a memorial of His death and resurrection: a sacrament of love, a sign of unity, a bond of charity, a paschal banquet in which Christ is eaten, the mind is filled with grace, and a pledge of future glory is given to us.” (SC, 47).

Dear brothers and sisters, let us draw with faith from this source of divine life and allow ourselves to be transformed by the mystery we celebrate.

 

2026年7月6日

◎教皇連続講話「出会い、たとえ話、癒しに満ちたもの」①「真のコミュニケーションは癒し。他者を傷つけない」

(2025.7.30  Vatcian News)

 

2025年7月31日

◎教皇レオ14世の聖年連続講話「イエス・キリスト―私たちの希望」⑥イエスのもとへ行こう!主は私たちを癒してくださる」

(2025.6.25  Vatican News   Deborah Castellano Lubov)

 教皇レオ14世は25日の水曜恒例一般謁見で、「イエス・キリスト、私たちの希望」の連続講話を続けられ、今回は、マルコ福音書に記された「イエスへの信仰を持つことの癒しの力」を明らかにする二つの奇跡について考察された。

 最初の奇跡は、社会から汚れた存在として敬遠される病気で苦しんでいた女性が、イエスには自分を癒す力があると信じ、群衆の中でイエスに触れようと手を伸ばし、その信仰のゆえにイエスは彼女を癒されこと。イエスは彼女に、「安心して行きなさい」と言われた。

 そして二つ目の奇跡は、「娘が死んだ」という知らせを受け、心を痛める父親の願いに応え、イエスは少女を死からよみがえらせたこと。イエスは、父親に 「恐れるな、ただ信仰を持ちなさい 」と言われ、彼の家に行き、皆が泣き叫んでいるのを見て、「その子は死んでいるのではなく、眠っているのだ 」と言われた。

 教皇は、「この2つのエピソードは、私たちが信頼と信仰をもって主に向かうとき、主の能力を超えるものは他にないことを明らかにしています」とされ、「イエスの行為は、主があらゆる病を癒すだけでなく、死からも目覚めさせることを示しています… 永遠の生命である神にとって、肉体の死は眠りのようなもの。真の死とは、魂の死であり、私たちはこれを恐れなければなりません」と説かれた。

 また教皇は、イエスが少女を生き返らせた後、彼女の両親に「何か食べ物を与えるように」と言われたことを取り上げ、「これは、イエスが私たちの人間性と親密であることのもう一つの具体的なしるしです… このことは私たちに深い意味での理解を可能にし、私たち自身に問いかけさせるもの。もし私たち自身が福音によって養われていないなら、どうすればよいのでしょうか」と問いかけられた。

 そして、教皇はそれぞれの奇跡を振り返り、悲惨な状況を解決するために、神への信仰を邪魔するものを許容されなかったことを強調。「時として、私たちはそれに気づきませんが、密かに、そして実際に、恵みが私たちに届き、私たちの人生を内側からゆっくりと変えていくのです 」と語られた。さらに、「おそらく今日も、多くの人々がイエスの力を心から信じることなく、表面的な方法でイエスに近づいているでしょう。私たちは教会の”表面”を歩いているが、心は別のところにあるのかもしれません」と信者たちに注意を促された。

 教皇は講話の締めくくりとして、この福音書の二つの記述は、「イエスにとって、癒すことができないほど大きな傷や苦しみは何もないこと、そして私たちはイエスのもとに行くことで、イエスから新しくされることを示しています」と強調された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2025年6月25日

◎教皇レオ14世連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」⑤「癒されたい」という望みを声に出してみよう

(2025.6.18 バチカン放送)

 教皇レオ14世は18日、水曜恒例一般謁見で「イエス・キリスト、私たちの希望」の連続講話を続けられ、今回はヨハネ福音書の「ベトサダの池で病人を癒す」(5章1₋9節)を取り上げられた。

 連続講話⑤の要旨は次の通り。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 人々を癒されるイエスの観想を続けましょう。今日は特に私たちが身動きできない行き止まりの道に迷い込んだ状況を考えてください。私たちには、しばしば「希望を持ち続けること」が無駄に思われることがあります。諦めが生じ、もう闘うこともしたくなくなります。

 こうした状況が、福音書の中で、体の麻痺した人の癒しを通して語られています。今日は、ヨハネ福音書の5章にある、病気で動けない人をイエスがいやすエピソードを取り上げたいと思います。

 イエスはユダヤ人の祭りのためにエルサレムに行かれました。すぐに神殿に向かわれず、ある門の傍らで足を止められました。それはおそらく、犠牲として捧げられる羊を洗う場所だったと思われます。この門の近くには、多くの病人が横たわっていました。羊との違いは、彼らが不浄とみなされ、神殿から締め出されていたことでした。

 イエスは自ら、こうした人々の苦しみの中に赴かれます。彼らは、自分たちの運命を変えるような奇跡に期待していました。実際、門のそばには池があり、その水は「癒しの力を持ったもの、人を治せるもの」と考えられていました。たまに水が動く時、それに最初に浸かった者は癒されると、当時は信じられていました。

 こうしたことが、ある種の「貧乏人の争い」とも言える状況を生んでいました。病気の人々が池に入るために、困難のうちに自らを引きずる悲しい光景が想像されます。この池は「ベトザタ」と呼ばれていました。それは「慈しみの家」という意味です。これは、「病者や貧しい人々が集い、主が癒しと希望を与えるために来られる場所」という教会のイメージかもしれません。

 イエスは、38年も病気で動けなくなっている人に問いかけます。彼はすっかり諦めていました。水が動く時、池の中に決して、入ることができなかったからです。私たちの場合も、自分を動けなくするのは「失望」であることが多い。がっかりすると、無気力に陥りがちです。

 イエスはこの病人に、無用に思われかねない問いをします。「良くなりたいか」。でも、それは必要な問いでした。なぜなら、何年も動けないでいると、「治りたい」という意志さえも失ってしまうことがあるからです。私たちも、時として、病気の状態のままでいることを好み、自分の世話を他者に押し付けることがあります。人生をどうすべきかを決めないでいることの、言い訳にしたりすることもあるのです。

 この人も、イエスの問いに対して、まわりくどい答え方をします。そこには彼の人生観が表れています。まず、「水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません」と言います。自分のせいではなく、面倒を見てくれない他者のせいだ、というのです。自分が責任を負わないための言い訳です。しかし、彼を助けてくれる者が誰もいなかったのは本当でしょうか。ここに聖アウグスティヌスの啓発的な答えがあります—「そう、彼が癒されるには、人が必要だった。しかし、それは神だったかもしれない… ともかく、必要だった人が来た。そうであるなら、まぜ、まだ癒しを先延ばしするのか」。

 この人は、さらに、「私が(池に)行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです」と付け加えます。ここに彼の運命論的な人生観が表れています。私たちも、「何かが起きるのは、自分が不運だからだ」とか、「運命が味方してくれなかったからだ」と考えます。この人は意気消沈しています。「人生の闘いに敗れた」と感じているのです。

 イエスは、この人に、「自分の人生が自分の手中にあること」を発見するよう助けます。彼に、慢性的な状況から、起き上がり、床を担ぐようにと、促します。その床を、置きっぱなしにしたり、捨てたりすることはできません。それは彼のこれまでの病、彼の生きざまを表わすものだからです。

 その時まで、彼は、行く手を過去にふさがれ、死人のように横たわることを余儀なくされていました。今、彼は床をかつぎ、どこでも望みのところに持っていくことができます。自分の人生をどうするか、自分で決めることができるのです。それは、「歩むこと」、「どの道を行くか責任をもって選ぶこと」です。それができるようになったのは、イエスのおかげです。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、自分の人生がどこで行き詰まったのかを理解する恵みを主に願いましょう。癒されたい、という望みを声に出してみましょう。そして、身動きできないと感じ、出口を見出せないでいる全ての人のために祈りましょう。真の「慈しみの家」である、キリストの聖心の中に再び住めるようにと、祈り求めましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年6月19日

◎教皇レオ14世連続講話「イエス・キリスト―私たちの希望」④「主は必ず、私たちの叫びを聴かれ、立ち止まってくださる」

教皇レオ14世 2025年6月11日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場教皇レオ14世 2025年6月11日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場  (@Vatican Media)

(2025.6.11 バチカン放送)

 教皇レオ14世は11日の水曜恒例一般謁見で、教皇フランシスコから引き継がれた連続講話「イエス・キリスト―私たちの希望」を続けられ、今回はマルコ福音書に書かれた「盲人バルティマイを癒す」(10章40₋52節)を取り上げ、イエスの生涯の本質的な側面の一つ、「癒し」に注目された。

 講話の要旨は次の通り。

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 今回は、イエスの生涯のもう一つの本質的な側面、すなわち「癒し」に目を向けたいと思います。そして、キリストの聖心の前に、皆さんの最も痛みを伴う部分、もろい部分、人生の行き詰まり、膠着した部分を差し出すようにお勧めします。「私たちの叫びに耳を傾け、癒してください」と主に信頼をもって願いましょう。

 今日の考察に登場する人物は、私たちが困難な状況から抜け出せないでいる時でさえも、「決して希望を失ってはならない」と教えてくれます。その人物、バルティマイは、イエスがエリコで出会った目の不自由な、物乞いをしている人です。その出会いの場所は象徴的—海面より低い町エリコです。イエスはご自身の死を通して、私たち一人ひとりを象徴する存在である「深淵に落ちたアダム」を迎えに行かれましたが、それを象徴しているようです。

 バルティマイは、「ティマイの子」という意味です。その名は彼が持つ一つの関係を表わしているものの、彼はあまりにも孤独でした。この名前は、「名誉の子」あるいは「賛美の子」といった意味でもありますが、彼が実際に置かれた状況とは正反対のものでした。ユダヤ教の文化において、名前は非常に大切ですが、バルティマイは「自分が本来あるべき姿を生きること」ができずにいたのです。

 イエスに付いて歩く大勢の群衆とは反対に、バルティマイは止まっています。道端に座っていました。彼を立ち上がらせ、歩ませるには、誰かの助けが必要でした。バルティマイは、「自分に備わった、そして自身の一部である素質に訴えること」を教えてくれます。彼は物乞いですが、恥も外聞もなく、叫び続けました。私たちも、本当に心から何かを求めようとした時、人から叱られようが、軽蔑されようが、無視されようが、何が何でもそれを得ようとするのではありませんか。それが本当に欲しいなら、叫び続けなくてはなりません。

 マルコ福音書に書かれた「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」(マルコ福音書10章47節)というバルティマイの叫びは、東方の伝統の中で非常によく知られた祈りになりました。私たちもまた、その祈りを唱えましょう―「主、イエス・キリスト、神の子よ、罪人なる私を憐れんでください」と。

 バルティマイは目が不自由でした。それにもかかわらず、彼の目は、他の人々よりしっかりと見えていました。イエスを認めることができました。バルティマイの叫びを前に、イエスは立ち止まり、彼を呼んで来るようにと言われました。神がお聴きにならない叫びはありません。たとえ、自分たちの叫びが神に向けられている、という自覚がない時もです( 出エジプト記2章23節参照)。

 目の不自由な人の叫びを聞いたイエスがすぐに彼のところに行かなかったのは、不思議に思われるかもしれません。しかし、それはバルティマイの人生を再びよみがえらせる方法だったのです。イエスはバルティマイに立ち上がるように促し、彼が歩み出せることを信頼しておられました。そして、バルティマイは立ち直りました。死の淵から再び立ち上がることができたのです。しかし、そのためには、彼は非常に象徴的ともいえる行為をしなければならなかった。つまり、上着を脱ぎ捨てねばなりませんでした。

 物乞いにの彼にとって、上着はすべてでした。それは安心を与えるもの、家であり、自分の身を守るものでした。律法は、物乞いの上着を守り、「質にとる場合は、日没までに返すように」とまで定めていました( 出エジプト記22章25節参照)。”上着”は、私たちにとって、「見せかけの安心」を与えるもの、自分を守るために着たのに、歩く邪魔になったりすることがあります。バルティマイは、イエスのところへ行き、癒されるために、自分の弱さ、をすべてさらけ出さねばなりませんでした。それが、癒しの歩みにおける欠かせない過程なのです。

 イエスのバルティマイに対する問い—「何をしてほしいのか」も不思議に思われるかもしれません。でも、私たちも、必ずしも、病いを癒してほしい、と願うとは限りません。責任を持たされないように、そのままでいることを好むこともあるのです。

 バルティマイの答えは、普通、「また見えるようになることです」と訳さされますが、原語では「anablepein」です。この動詞には、「再び見る」という意味のほかに、「眼差しを上げる」という意味もありあます。バルティマイの場合も、「再び見える」ようになるだけでなく、「自分の尊厳」も取り戻したかったのです。「眼差しを上げる」には、頭を上げなくてはなりません。人は時に、行き詰まることがありますが、それは人生で味わった屈辱から、自分の価値を取り戻すことだけを願うためです。

 バルティマイを、私たち一人ひとりを救うのは、信仰です。イエスが私たちを癒してくださるのは、私たちが自由になるためです。イエスは、バルティマイに「自分に従うように」ではなく、「行きなさい(再び歩き出しなさい)」と言われます。福音記者マルコは、そう言われたバルティマイは「なお道を進まれるイエスに従った」と記しています。彼は「道」であるお方に自由に従ったのです。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、信頼を持って、イエスの御前に、私たちの、そして私たちの愛する人々の病いを差し出しましょう。道を見失い、行き詰った人々の痛みを、イエスの御前に運びましょう。彼らのためにも叫びましょう。主は必ず、私たちの叫びを聴かれ、立ち止まってくださるでしょう。

(編集「カトリック・あい」)

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◎教皇レオ14世連続講話「イエス・キリスト-私たちの希望」③人生に意味と希望を求めるなら、神はそれを与えてくださる

Pope Leo XIV at General AudiencePope Leo XIV at General Audience  (@Vatican Media)

(編集「カトリック・あい」)

2025年6月4日

◎レオ14世の教皇連続講話「イエス・キリスト、私たちの希望」②「自分自身が傷ついた者だ認識したときにのみ、他者への思いやりを持てる」

Pope Leo XIV makes his way through St. Peter's Square, greeting the crowds of pilgrimsPope Leo XIV makes his way through St. Peter’s Square, greeting the crowds of pilgrims  (@Vatican Media)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年5月28日

◎「神の愛は、決して計算ずくではない」-教皇レオ14世、初の水曜恒例の一般謁見で、故教皇の連続講話「キリスト、私たちの希望」を引き継ぐ

Pope Leo XIV holds his first General Audience in St. Peter's SquarePope Leo XIV holds his first General Audience in St. Peter’s Square  (@Vatican Media)

 

2025年5月21日

◎教皇フランシスコ聖年連続講話⑬ 「いなくなった息子」のたとえ話ー家の「扉」はいつも私たちに開かれている

(2025.4.16 バチカン放送)

 教皇フランシスコが16日の一水曜恒例般謁見のために準備された聖年連続講話「キリスト、私たちの希望」が同日、バチカン広報局から発表された。

 今回は、「イエスの生涯・たとえ話」として、ルカ福音書15章の「いなくなった息子」のたとえ話(15章1₋3節、11₋32節)を取り上げられた。その要旨は次の通り。

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 福音書の何人かの登場人物とイエスとの出会いを観想した後、今回からは、いくつかの「たとえ話」について考えたいと思います。ご存知のように、これらのたとえは、日常の現実からイメージや状況を取り上げて語られた物語です。これらのたとえ話は、私たちの生き方に触れ、私たちに刺激を与えます。そして、その物語の中で自分はどこにいるのか、自分の立場をはっきりさせるように求めます。

 今回は、誰もが幼い頃から覚えている、最も有名なたとえ話、「いなくなった息子」のたとえ話(父親と二人の息子のたとえ話)を取り上げましょう。この話の中に、私たちはイエスの福音の中心、すなわち神のいつくしみを見出すことができます。

 福音記者ルカは、イエスがこのたとえ話をされたのは、「イエスが罪人たちと食事を一緒にしている」と不平を言ったファリサイ派の人々や律法学者たちのためだった、と書いています。ですから、このたとえ話は、「自分が道に迷っているにもかかわらず、その自覚がないまま、他者を裁く人々」に向けられていると言えるかもしれません。

 福音は、私たちに希望のメッセージをもたらすことを望んでいます。私たちがどこで、どのような形で迷っても、神は常に私たちを探しに来てくださる、と伝えているからです。

 道に迷った私たちは、「草を食むために道を外した、あるいは疲れて、遅れてしまった羊」、あるいは、「地面に落ちて見つからない、あるいは誰かにどこかに置かれたまま忘れられた硬貨」のようなもの、それとも、このたとえ話に登場する父親の二人の息子たちのようなものかもしれません。下の息子は、「要求だらけのように思われた関係に縛られるのに疲れた」という意味で、一方、兄は「内心のプライドと恨みのために、家にいるだけでは満足できなかった」という意味で、それぞれ道に迷ったからです。

 愛は常に努力を要するものです。相手と向き合いたいなら、常に何かを犠牲にせねばなりません。しかし、このたとえ話に登場する下の息子は、幼児期や少年期によくあるように、自分のことだけを考えていました。実際、私たちの周りにはこうした大人がたくさんいます。彼らはそのエゴイズムゆえに、一つの関係を維持することができません。「自分自身を見つけるのだ」と思い込み、実際には自分を見失ってしまう。そうなるのは、私たちは誰かのために生きる時に、真に生きる存在だからです。

 この下の息子は、私たちと同じように、愛情に飢え、愛されることを望んでいます。しかし、愛とは貴重な賜物であり、大切に扱う必要があります。だが、彼はその愛を浪費し、自分を売り渡し、大切にしなかった。飢饉が起き、誰からも顧みられなくなって、やっとそれに気づきます。このような場合に、私たち、愛情に飢え、最初に現れた「主人」について行ってしまう危険があります。

 こうした経験は、私たちの中に「奴隷としての関係しか築けないのだ」という誤った思い込みを生み、あたかも罪をつぐなう必要があるかのように、あるいは真の愛など存在しないかのように、感じてしまうのです。そして、たとえ話にあるように、下の息子は奈落に落ちた時、愛情のかけらを拾い集めるために、父の家に帰ろうと考えます。

 私たちを本当に大切に思ってくれる人だけが、愛に対するこうした誤った見方から解き放ってくれるのです。神との関係の中で、まさにこのような経験をします。偉大な画家レンブラントは、有名な作品の中で、放蕩息子の帰還を素晴らしい表現の仕方で描いています。私たちの胸を打つのは特に二つの点。まず、この若者は悔い改めた者のように頭を剃られていますが、まるで子どもの頭のようにも見えます。彼は「新たに生まれつつある」からです。もう一つは、父親の「手」です。一つは男性的な、もう一つは女性的なその手は、ゆるしの抱擁における力と優しさを表現しています。

 しかし、イエスがこのたとえ話をされた相手を象徴しているのは、長男の方です。彼はいつも父親と一緒に家にいたにもかかわらず、その心は父から離れていました。家を出たかったのかも知れません。だが、彼は恐れや義務感から、その関係の中に留まっていました。そして、自分の意に反してそれに適応しようとすると、心に怒りが生じ、その怒りは遅かれ早かれ爆発することになるのです。

 逆説的ですが、最後に「家」の外にいる可能性のあるのは、長男の方。なぜなら、彼は父の喜びを分かち合おうとしないからです。

 父親は外にいる長男にも会いに出て行きます。そして、彼を叱ったり、義務を思い出させることはしません。ただ長男に自分の愛を感じて欲しかったのです。父親は彼に家に入るようにと勧め、扉を開けておく。この「扉」は私たちのためにもいつも開かれています。これこそが「希望」を持つ理由です。私たちが希望を持てるのは、御父が私たちを待っていたくださり、遠くから見守り、扉をいつも開けておいてくださることを知っているからです。

 この素晴らしいたとえ話の、自分はどこにいるのかを自問しましょう。そして、「家に帰る道」を見つけられるように、父なる神に恵みを祈り求めましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2025年4月17日