改・第267代教皇にプレヴォスト枢機卿を選出―「レオ14世」、69歳、初の米国出身教皇に

新教皇レオ14世 2025年5月8日 バチカン・聖ペトロ大聖堂新教皇レオ14世 2025年5月8日 バチカン・聖ペトロ大聖堂 

   教皇選挙は現地時間8日午後行われた投票で、第267代ローマ教皇に、ロバート・フランシス・プレヴォスト枢機卿を選出した。教皇名はレオ14世。

 新教皇は69歳。初の米国出身の教皇で、男子修道会・聖アウグスティヌス修道会の元総長。ペルーのチクラヨ教区長などを経て、教皇フランシスコのもとでバチカン司教省長官を務め、2023年には枢機卿に任命されていた。

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 「レオ14世」という名前に関し、バチカンのマッテオ・ブルーニ報道官は「教会の社会教説を創始した聖レオ1世と、この教説を概説した教皇レオ13世による1891年の回勅『レルム・ノヴァールム』が新教皇の念頭明確に置かれている」と説明、社会教説がレオ14世の教皇職の中核をなすことを示唆した。

  ⇒『レルム・ノヴァールム』は日本語で「新しき事がらについて」を意味し、「資本と労働の権利と義務」という表題がつけられた。カトリック教会社会問題について取り組むことを指示した初の回勅(「カトリック・あい」)

 なお、新教皇は9日、システィーナ礼拝堂で彼を選出した枢機卿団と共にミサを捧げ、11日の復活節第4主日には、聖ペトロ大聖堂の中央バルコニーから初めての正午の祈りと説教を行う。そして、故教皇フランシスコと同様、12日月曜の特別謁見で、バチカン駐在の特派員たちと面談する予定だ。

(この項はCrux)

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 教皇選挙の2日目、5月8日18時10分ごろ、教皇選出を知らせる白煙が、システィーナ礼拝堂の煙突から上がり、朗報を心待ちにしていたバチカンの広場の信者たちから歓声と拍手がわき上がった。新教皇の登場を待つ人々の期待が高まる中、バチカンの大聖堂の中央バルコニーにプロトディアコノ、ドミニク・マンベルティ枢機卿が現れ、ラテン語の式文をおごそかに述べた。

 「Annuntio vobis gaudium magnum: habemus Papam!(皆さんに大きな喜びをお伝えします。私たちは教皇をいただきました)」

 続いて、ローマと世界に向けて、新しく教皇に選ばれた枢機卿の名前と教皇名が告げられた 新教皇に選出されたのは、ロバート・フランシス・プレヴォスト枢機卿、教皇名はレオ14世。

 この告知と共に、広場を揺るがす歓声がとどろき、教皇レオ14世が聖ペトロ大聖堂の中央バルコニーに立ち、最初の挨拶を述べ、ローマと世界に祝福をおくった。

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 新教皇レオ14世(ロバート・フランシス・プレヴォスト)は、教皇庁司教省前長官、1955年9月14日、米シカゴ生まれ、米国出身、聖アウグスティヌス修道会会員。1985年から1986年、および1988年から1998年までペルーで、小教区司祭、教区聖務職員、神学校の教員および管理者として奉仕した後、2001年から2013年までは聖アウグスティヌス修道会の総長を、2015年から2023年まではペルー・チクラーヨ教区の司教を務めた。2023年に枢機卿に任命され、同年に教皇フランシスコによりバチカンの司教省の長官に任命されると同時にラテンアメリカ委員会の委員長に就任していた。英語スペイン語イタリア語フランス語ポルトガル語を話し、ラテン語ドイツ語を読む事が出来るなど、語学に堪能。

2025年5月9日

・教皇選挙:8日朝の二回目の投票も”黒煙”次回投票は日本時間深夜に

(2025.5.8 Vatican News  )

 第267代教皇を選出する教皇選挙の2回目の投票が、8日朝行われたが、午前11時50分(日本時間午後6時50分)、「選出できず」を示す黒煙がシスティーナ礼拝堂の煙突から挙げられた。

 枢機卿たちが昼食のために休憩している昼の間も、聖ペトロ広場にいる約1万5000人の信者たちは期待に胸を膨らませながら煙突を見上げ続けている。次の投票は午後4時頃(日本時間午後11時頃)に再開される予定だ。

 広場にいた人々の中には、新婚旅行でローマに来てた米国人のカップルもいたが、「教皇フランシスコのミサに出ることを楽しみにしていたので、お亡くなりになってとても悲しい。でも、新教皇の選挙に立ち会えるのは一生に一度のこと。新教皇が、多くの問題を抱える世界の中で理性の代弁者となってくれることを期待したい」と語った。

 ボンベイ大司教区からローマに留学中のプラシャント・パドゥ神父も、「教会はこれまで、素晴らしい歴代教皇に恵まれてきました。新教皇には、彼らの最も素晴らしい美点を兼ね備えた方になった欲しい」と述べている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年5月8日

・教皇選挙、第一回投票結果は「黒煙」、第二回投票は日本時間8日夕に

(2025.5.7バチカン放送)

 第267代教皇を選ぶ教皇選挙の初日、7日午後9時頃、第1回目の投票結果を告げる煙がシスティーナ礼拝堂上の煙突から流れ、その色が黒であったことで、新教皇も未決定が人々に伝えられた。

 同日から始まった教皇選挙の結果を見ようと、バチカンの聖ペトロ広場には大勢の信者が詰めかけ、その数はおよそ4万5千人に達し、すでに暗くなった空に上がる黒煙を眺めた。

 投票は、2日目の8日以降は、午前と午後に各2回、新教皇決定まで毎日4回行われ、8日は午前9時15分(日本時間午後4時15分)から第二回目の投票、午後4時30分(同11時30分)から第三回目の投票が予定されている。

 システィーナ礼拝堂の煙突からの煙は、午前の投票後の正午頃(同午後7時頃)に、午後の投票後の午後7時頃(同翌日午前2時頃)に、1回ずつ上げられることになっている。ただし、新教皇が決まった場合は、煙突から白煙が早めに上がる、とされており、午前の投票では10時30分(同午後5時30分)の後、午後では5時30分(同翌日午前零時30分)の後に煙が上がるのは、教皇選出を告げる白煙のみとなる。

(「カトリック・あい」編集)

2025年5月8日

・コンクラーベ開始、有権枢機卿らシスティーナ礼拝堂に入る

(2025.5.7バチカン放送)

第267代ローマ教皇を選ぶコンクラーベが、2025年5月7日(水)、始まった。同日午後、有権枢機卿たちはシスティーナ礼拝堂に入場、宣誓を行った。この後、枢機卿らと、儀典長、黙想指導者を残し、全員が退出、礼拝堂の扉は閉ざされた。

 教皇フランシスコの逝去に伴い、その後継者となる第267代ローマ教皇を選ぶためのコンクラーベが、5月7日(水)、バチカンで開始された。

 午前、聖ペトロ大聖堂でとり行われた「ローマ教皇選挙のためのミサ」に続き、午後、133人の有権枢機卿たちは宿泊先のサンタ・マルタ館を出て、バチカン宮殿のパオリーナ礼拝堂に集った。

 パオリーナ礼拝堂で共に祈りを捧げた後、有権枢機卿たちは、諸聖人の連祷が響く中、行列を作りながら、宮殿内を横切り、システィーナ礼拝堂へと向かった。

 システィーナ礼拝堂に到着した枢機卿たちは、「ヴェニ・クレアトール・スピリトゥス」(創造主なる聖霊よ、来り給え)を歌い、聖霊の助けを願った。

 続いて、有権枢機卿たちは、一人ひとり福音書の上に手を置き、ラテン語による宣誓を行った。

 全員が宣誓を行った後、儀典長ディエゴ・ラヴェッリ大司教が「エクストラ・オムネス」と厳かに告げた。こうして、システィーナ礼拝堂内に、有権枢機卿らと、黙想指導を行う前教皇付説教師ラニエーロ・カンタラメッサ枢機卿、そして儀典長自身を残し、全員が退出。

 やがて儀典長の手によって、システィーナ礼拝堂の扉は固く閉ざされた。

 黙想終了と共に、儀典長とカンタラメッサ枢機卿も会場を後にし、枢機卿らによる第1回目の投票がいよいよ行われる。

2025年5月8日

・コンクラーベ初日:枢機卿ら集い「ローマ教皇選挙のためのミサ」

(2025.5.7バチカン放送)

コンクラーベ初日、「ローマ教皇選挙のためのミサ」が、バチカンの聖ペトロ大聖堂でとり行われた。

 2025年5月7日(水)、カトリック教会は、教皇フランシスコの逝去に伴う、新教皇選出のためのコンクラーベ初日を迎えた。

 同日午前、バチカンの聖ペトロ大聖堂でとり行われた「ローマ教皇選挙のためのミサ」(ミッサ・プロ・エリジェンド・ロマーノ・ポンテフィチェ)は、枢機卿団主席、ジョヴァンニ・バッティスタ・レ枢機卿を主司式者とし、220人の枢機卿との共同司式で捧げられた。

 このミサには、教会の歴史的な節目を共にしようと、5千人以上の信者たちが聖堂内に詰めかけ、枢機卿たちと心を合わせ、新教皇選出のために祈った。

 レ枢機卿はミサの説教で、「この困難で複雑な歴史の曲がり角にあって、わたしたちは教会と人類が必要とする教皇を選出するために、聖霊の助けを呼び、その光と力を祈り求めるためにここにいる」と話した。

 同枢機卿は、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15,12)というイエスの言葉を、イエスの新しい掟、愛のメッセージとして示しながら、ペトロの後継者の教会の一致と交わりを守り育てる使命を強調した。

 「ローマ教皇選挙のためのミサ」における、ジョヴァンニ・バッティスタ・レ枢機卿の説教は以下のとおり。

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 使徒言行録には、キリストが天に昇られた後、聖霊降臨を待つ間、皆がイエスの母マリアと共に心を合わせて熱心に祈っていたと記されています(参照 使徒言行録1,14)。

 これこそ、コンクラーベを数時間後に控えた今、使徒ペトロの墓の上に建てられたこの大聖堂で、祭壇の脇に置かれた聖母像のまなざしの下に、わたしたちが行っていることなのです。

 わたしたちは、神の民全体が、その信仰心と、教皇への愛、そして信頼に満ちた期待をもって、われわれと一致しているのを感じます。

 この困難で複雑な歴史の曲がり角にあって、わたしたちは教会と人類が必要とする教皇を選出するために、聖霊の助けを呼び、その光と力を祈り求めるためにここにいます。

 有権枢機卿たちが、人類と教会における最大の責任を帯びた行為と、たぐいまれな重要性を持選択に備える中、聖霊に向かって祈り求めることは、唯一持つべき正しい態度です。それは、あらゆる私的な考えを捨て去り、頭と心の中をイエス・キリストの神と、教会と人類の善だけで満たす、人間性にかなった態度です。

 先ほど朗読された福音は、イエスが最後の晩餐の夜に弟子たちに託した至高のメッセージ=遺言の核心にわたしたちを導きます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15,12)。「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉は、わたしたちの愛がどこまで到達すべきかを、より厳密に示しているかのようです。実際、イエスはこの後で明言します。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(同15,13)。

 これは、イエスが「新しい」掟と呼ばれる、愛のメッセージです。これが新しいのは、「自分がされたくないことを、他の人にもしてはならない」という旧約聖書の訓戒を前向きに、拡大するものだからです。

 イエスが啓示する愛には際限がありません。そして、それは、イエスのすべての弟子たちの思いと行いを特徴づけるものでなくてはなりません。イエスの弟子たちの態度において、パウロ6世が 「愛の文明 」と呼んだ、新しい文明の構築に貢献する真の愛を常に示すものでなくてはなりません。愛は、世界を変えることのできる唯一の力です。

 イエスは最後の晩餐の始めに、驚くべき態度をもって、この愛の模範を示してくださいました。使徒たちの足を洗ったイエスは、他者に仕えるために身を低くされました。ご自分を裏切ることになるユダさえ除外せず、誰をも差別せず、彼らの足を洗われたのです。

 イエスのこのメッセージは、ミサの第一朗読でわたしたちが耳を傾けた内容と結びついています。そこで預言者イザヤは、牧者に不可欠な素質は、完全な自己献身に至るまでの愛であることをわたしたちに思い起こさせています。

 それゆえに、このミサ聖祭の典礼文は、わたしたちを教会の一致、また人類の普遍的友愛の推進のために、兄弟愛と相互の助け合いへとわたしたちを招いています。ペトロの後継者の責務の中に、交わりを育てるというものがあります。そこは、すべてのキリスト者とキリストの交わり、教皇と司教たちの交わり、司教同士の交わりがあります。それは自己完結的な交わりではなく、教会が常に「交わりの家であり学び舎」であることを念頭に置いた、個人、人民、文化間へと広がる交わりです。

 さらに、キリストが使徒たちに残した足跡において、教会の一致を維持するようとの呼びかけは強いものです。教会の一致はキリストが望まれたものです。その一致とは、画一性を意味するものではなく、福音に完全に忠実であり続ける限り、多様性における堅固で深い交わりを意味するものです。

 すべての教皇は、ペトロとその使命を体現すると共に、キリストの地上の代理であり続けます。ペトロは岩であり、その上に教会は建てられています(参照 マタイ16,18)。

 新教皇を選ぶことは、単なる人の交代を意味しません。新教皇は常に、帰って来た使徒ペトロなのです。

 有権枢機卿は、システィーナ礼拝堂で投票を行います。使徒憲章「ウニヴェルシ・ドミニチ・グレジス」にあるように、同礼拝堂では「すべてが神の現存への意識を増すようにと競い合っています。いつか、その神の御前に一人ひとりが進み出て、裁きを仰がなければなりません」。

 教皇ヨハネ・パウロ2世は「詩:黙想ローマ三部作」の中で、投票によって大きな決断がなされる時、ミケランジェロの裁判官イエスの像が迫り来て、「偉大なる鍵」(ダンテ)を正しい手に委ねる責任の重大さを一人ひとりに思い起こさせる、と述べています。

 この100年間、まことに聖なる偉大な歴代の教皇たちをわたしたちに与えてくださった聖霊に、教会と人類のために、神の御旨に沿った、新しい教皇を恵んでくださるようにと祈りましょう。

 科学技術の偉大な発展を特徴としつつも、神を忘れがちな今日の社会で、すべての人の良心と、倫理的・霊的エネルギーを最もよく目覚めさせることのできる教皇を教会に与えてくださるよう神に祈りましょう。

 今日の世界は、人間的、精神的な基本価値を守るために、教会に多くを期待しています。これらの価値なしでは、人類の共存の向上はもとより、未来の世代に良いものをもたらすことはできません。

 聖霊が有権枢機卿の心を照らし、今日の時代が必要とする教皇を選出するために彼らを一致させてくださるよう、教会の母、至福なるおとめマリアの母としての執り成しを祈りましょう。

2025年5月8日

・コンクラーベ初日と2日目のプログラム

(2025.5.6バチカン放送)

バチカンで5月7日(水)より始まる教皇選挙について、初日と2日目の日程詳細がバチカンのブルーニ広報局長より発表された。

 教皇フランシスコの逝去に伴い、その後継者を選ぶコンクラーベ(教皇選挙)が、バチカンで5月7日(水)より開始される。

 コンクラーベ初日と2日目のプログラムが、5月6日(火)、報道関係者を対象としたブリーフィングの席で、バチカンのマッテオ・ブルーニ広報局長より発表された。

 これによれば、コンクラーベ開始日2025年5月7日(水)、午前10時、「ローマ教皇選挙のためのミサ(ミッサ・プロ・エリジェンド・ロマーノ・ポンティフィチェ)」が、枢機卿団主席、ジョヴァンニ・バッティスタ・レ枢機卿によって、聖ペトロ大聖堂でとり行われる。

 同日16時30分、枢機卿たちは、枢機卿団において自身が所属する名義上のオーダー順(枢機卿・司教・司祭・助祭の名義上のグループ順)に従い、「アビト・コラーレ」と呼ばれる服装で、諸聖人の連祷の中、行列を作りながらシスティーナ礼拝堂へと向かう。

 システィーナ礼拝堂では、「ヴェニ・クレアトール・スピリトゥス」が歌われ、続いて宣誓と、前教皇付説教師ラニエーロ・カンタラメッサ枢機卿による黙想が行われる。

 次いで、第1回目の投票が行われ、夕方、当コンクラーベにおける最初の煙が上がる。

 コンクラーベ2日目、5月8日(木)、枢機卿たちは午前8時前にバチカン宮殿に集い、パオリーナ礼拝堂でミサと朝の祈りを行う。

 続いて9時15分、システィーナ礼拝堂で昼の祈り(三時課)を唱えた後、投票が行われる。

 12時30分頃、サンタ・マルタ館で昼食。

 15時45分、再びバチカン宮殿へと向かい、16時30分、システィーナ礼拝堂に入り、投票。

 終わりに、夕の祈りが唱えられる(19時30分頃)。

 祈りはすべてラテン語で唱えられる。

 投票は、初日は1回、2日目以降は、午前と午後に各2回、一日計4回まで行われるが、煙は午前の2回目の投票後、12時頃に1回、午後の2回目の投票後、19時頃に1回ずつ上がる。

 教皇が午前か午後の1回目の投票で選ばれた場合は、白煙が早めに上がる。すなわち10時30分の後、あるいは17時30分の後に煙が上がるならば、それは教皇選出を知らせる白煙のみと言える。

2025年5月7日

・枢機卿団:コンクラーベ翌日に控え、最後の全体会議

(2025.5.6バチカン放送)

コンクラーベを翌日に控え、枢機卿団の最後の全体会議が、5月6日(火)午前、バチカンのシノドスホールで開かれた。

 枢機卿団により5月6日(火)に開かれた、コンクラーベ前の最後の全体会議(第12回全体会議)について、バチカンのマッテオ・ブルーニ広報局長は報道関係者へのブリーフィングで次のように伝えた。

 本日6日、枢機卿団の第12回目の全体会議が開かれた。同会議は、午前9時、共同の祈りと共に始まった。 

 同会議には173人の枢機卿が出席、そのうち有権枢機卿は130人であった。

 席上、26人が、多様なテーマ・趣旨の発言を行った。

 −教皇フランシスコの改革、特に、未成年者の虐待をめぐる法の制定、財政、教皇庁、シノドス的あり方、平和のための働きかけ、被造物の保護などにおける改革を継続する必要が示された。

 −新教皇に求められるものとして、一致をめぐるテーマが強調された。橋を築く者、司牧者、人類の師、善きサマリア人的教会の顔としての教皇像が挙げられた。

 −戦争、暴力、深い分極化の時代において、いつくしみと、シノダリティ、希望を感じさせる教皇の必要性に言及した。

 −教会法と教皇の権限、分裂の問題、教会における枢機卿のあり方、王であるキリストの祭日と貧しい人のための世界祈願日が近いこと、共に読むこと、コンチストーロ(枢機卿会議)の際に枢機卿団の会合を開く必要性などが話された。

 −宣教的行為としての洗礼と育成、紛争地と宗教の自由がない場所での殉教者の証しを記憶する必要、気候変動という緊急課題について意見が述べられた。

 −復活祭の日付、ニケア公会議、エキュメニカル対話もテーマとなった。

 今朝のこの会議で、「漁夫の指輪(漁師の指輪)」が無効にされた。

 いくつかの紛争状況において、紛争当事者らに永続的停戦と和平、公正で恒久の平和を呼びかける声明が読み上げられた。

 同会議は、12時半に終了した。

 他の全体会議は予定されていない。

2025年5月7日

(評論)7日の教皇選挙を前に、枢機卿たちは密室で何を話し合ってきたのか?(La Croix)

(2025.5.5  La Croix  Arnaud Bevilacqua)

 教皇フランシスコの死後、世界中からバチカンに集まった枢機卿たちは、1週間以上にわたって毎日、”密室”で会合を開き、カトリック教会が直面する課題について話し合い、次期指導者のプロフィールを形成してきた。

 朝と夜だ。それが枢機卿たちの会議の頻度であり、全体会議(コンクラーベに向けた準備会議)のペースを上げている。5月3日、彼らはこれらの会議の頻度を増やすことを決定した。その結果、5月5日には午前9時から午後零時30分まで、また午後5時から7時まで開かれることになった。

 この決定の背景には何があるのだろうか?何人かの枢機卿から、「お互いを知り、深く耳を傾けるのに、十分な時間がない」という懸念の声が上がった。133人の枢機卿選出者のうち、スペインのアントニオ・カニサレス枢機卿とケニアのジョン・ンジュ枢機卿の2人は健康上の問題で欠席する。多くの枢機卿は遠く離れた国から来ており、互いに初対面である。

 アルジェリアのジャン=ポール・ヴェスコ枢機卿は5月3日、パウロ6世ホールに入る前に記者団に対し、「共に祈るにはもっと時間が必要だったでしょうが、その時が来れば、私たちは準備ができており、主の意図する教皇を教会に与えることができると確信しています」と語った。

 教皇フランシスコの死後、これらの会議ではどのような重要なトピックが浮かび上がったのだろうか。それはおそらく、教会の喫緊の課題に対応するために次期教皇が備えていなければならない、と枢機卿たちが考えている資質を知る手がかりになるのだろうか。

 

 

*カトリック教会が直面する主要課題

 枢機卿たちは 「教会と現代世界との関係」、「福音化」、「福音を宣べ伝えることと日常生活の中で福音を実践することの間の一貫性の必要性 」について、かなりの時間を費やして議論してきた。他のキリスト教宗派や世界宗教との宗教間対話も議題となっている。

 「聖職者の性的虐待」という重大な問題は、明確かつ繰り返し取り上げられた。

 教会内部の問題としては、教会内の分極化、司祭や修道者の召命の減少、バチカンの財政難なども表面化している。教皇フランシスコが強調していたシノダリティ(共働性)については、しばしば彼に関するより広範な議論と結びついた、もうひとつの繰り返されるテーマである。

 5月3日、多くの枢機卿は、次の教皇が 「内向きにならず、世界に出て行き、絶望に満ちた社会に光をもたらす教会を導くことができる、預言者的な精神を持った教皇 」であってほしい、という希望を強調した。

*対話する世界の教会

 

 全体会議では毎回、14人から34人の枢機卿が発言し、世界の教会の多様性を反映した5分間の演説を行っている。La Croixの取材によると、マルセイユのジャン=マルク・アヴェリン枢機卿は土曜日の総会でイタリア語で演説した。「私の興味は、世界のさまざまな地域で教会が現在どのような立場にあるのかを理解することです」とある欧州の枢機卿は語った。別の枢機卿は、「私たちは多くの枢機卿を初めて知り、教会の普遍性を感じている 」と付け加えた。

 枢機卿たちは5月7日、教皇フランシスコの後継者を選出する、という厳粛な任務を帯びてコンクラーベに臨む。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。
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2025年5月6日

・次期教皇有力候補を吟味する ⑩マルコム・ランジス枢機卿

(2025.5.5  Crux editor  John L. Allen Jr.)

 ローマ発 – 多くの枢機卿が互いに知らない者同士であるコンクラーベでは、おそらく親しみやすさが重視されるだろう。ある人物がよく知られ、立場が確立されていればいるほど、他の枢機卿たちがその人物を有力な候補者とみなす確率が高くなる。

 その基準に照らしてみると、マルコム・ランジス枢機卿は、ただ単にその場に居合わせたというだけで、潜在的な候補者と見なされるだろう。彼は15年間、枢機卿であり、それ以前はバチカンの役人であり、12年前の教皇フランシスコを選出したコンクラーベの直前には教皇候補として注目されていた。

 アルバート・マルコム・ランジット・パタベンディゲ・ドンという正式名を持つ彼は、1947年、スリランカの小さな町ポルガハウェラで14人兄弟の長男として生まれた。2006年のインタビューの中で彼は、自分の召命は、自分の小教区で奉仕していた無原罪マリア修道会のフランス人宣教師の模範によってかき立てられた、と語っている。

 教皇庁立ウルバノ大学で神学の学士号を取得した後、1978年に権威ある教皇庁立聖書学院で「ヘブライ人への手紙」を中心とした論文で免許状を取得した。後に枢機卿となるカルロ・マリア・マルティーニとアルベルト・ヴァンホイ両師(いずれもイエズス会士)に師事。エルサレムのヘブライ大学でも博士号を取得した。

 1991年、ランジスは43歳の若さでコロンボの補助司教となった。1994年、若い司教であったランジスは、スリランカの神学者ティッサ・バラスリヤの神学的研究を非難する委員会を率い、彼が原罪とキリストの神性に疑問を呈し、女性が聖職に就くことを支持したことを非難した。そして、当時のヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿(後のベネディクト16世)と接触し、支持を得た。

 ランジスは1995年1月のヨハネ・パウロ二世のスリランカ訪問をコーディネートし、その9か月後にはラトナプラの初代司教に任命されたことから、その功績を推し量ることができる。

 また、ランジスは宗教間対話を推進してきた。(スリランカでは仏教が支配的な宗教だが、ヒンドゥー教徒やイスラム教徒も多く、キリスト教徒は人口2,000万人のおよそ7%を占めている)。

 2001年、バチカンの福音宣教省で働いた後、2004年、インドネシアと東ティモールの教皇大使として派遣され、スリランカ人として初めて教皇大使を務めた。バチカンの外交団出身でもないため、異例の人事だったが、福音宣教省の上司など一部の高位聖職者から「保守的すぎる」と見なされていたことから、「追放」されたのではないかとの見方もあった。だが、9か月後、新教皇となったべネディクト16世がバチカンに呼び戻し、典礼秘跡省のナンバー2に就けた。

 その後4年間、彼は典礼の進歩派にとって厄介者のような存在となった。彼は、ミサ中に手で聖体を受けることについて、「第二バチカン公会議(1962-65年)では想定されておらず、一部の国で違法に導入された後に広まった」と批判。2007年、ベネディクト16世が旧ラテン語ミサの広範な祭儀を許可した際、それを実施するために迅速に対応しなかった司教たちを公然と非難し、「教皇への不服従….さらには反逆」だ」と非難した。

 彼はバチカンでは、 「il piccolo Ratzinger(小さなラッツィンガー)」と呼ばれた。その理由は、彼の背の低さと、法王に選出される前と後のラッツィンガーの立場との親密さである。

 4年後、彼はバチカンを離れ、コロンボの大司教となった。これは、彼が「教会の伝統主義派に近すぎる」という理由で、”2度目の追放”になったという見方もあったが、「ベネディクト16世は、教区長として司牧の経験を積ませ、アジア全域で自分の指南役となることを意図し、正真正銘の昇進だ」と主張する者もいた。彼は時間を無駄にしなかった。着任して4か月後、コロンボ大司教区で新しい典礼規則を発布し、「聖体は、舌の上とひざまずいた姿勢で受けること」を信徒に義務づけ、信徒が説教することを禁じ、司祭がカトリックの礼拝に他宗教の習慣を持ち込むことを禁止した。

 それ以来、ランジスは教義や性道徳に関しては厳格な保守派の立場を明確にする一方、カトリックの社会教説の平和と正義の要素も受け入れている。

 「典礼への愛と貧しい人々への愛は、私の人生の羅針盤でした」と彼は語った。かつて、「自分は信奉者ではないが、経済グローバリゼーションの新自由主義モデルに抗議する”ノー・グローバル”運動の価値観の一部を共有している」と述べたことがある。

 2015年、彼は教皇フランシスコのスリランカ訪問を成功させたが、それはスリランカの深刻な経済危機と政治的不安定を背景にしたものだった。2019年の復活祭の日曜日に起きた一連のテロ攻撃で命を落とした約300人の生存者や遺族を含め、暴力や迫害の犠牲者のために強い声を上げてきた。2022年に深刻な財政・制度危機が発生する中、彼は当時のゴタバヤ・ラジャパクサ大統領に辞任と新たな選挙の実施を要求し、まさにそれが実現した。

 

 

*ランジスを教皇に推す理由は何か?

 

 最も基本的なことだが、彼は発展途上国全体のカトリックの理念を体現している。 貧困、気候変動、移民といった社会正義の問題には強く、その面で「進歩的」だ。だが、教義上の問題や性的道徳の問題には断固として「保守的」だ。その意味で、彼は、世界の3分の2を代表する人物と見なされるだろう。この 「3分の2 」は、最近では、世界のカトリック人口13億人のほぼ4分の3を占めている。

 彼はバチカンでの経験が豊富なので、全くの初心者のような”実地訓練”は必要ないだろう。次期教皇は、とりわけバチカンの悲惨な財政状況に対処できる、強力な総裁でなければならない、と誰もが考えていることを考えれば、これは真の財産だ。

 従来のハンディキャップのカテゴリーでは、彼は見事にパスしている。ひとつには、彼は10か国語に堪能だと言われており、明らかに世界的な機関を率いるための言語的な能力を備えている。77歳という年齢も、過去2人のローマ法王の平均年齢(選出時、それぞれ78歳と76歳)にぴったり当てはまる。

 

 

*不利な点は?

 

 最も基本的なことだが、彼のスタンスは、一部の選挙民の快適なレベルに対して「右に寄り過ぎている」と見なされる可能性がある。さらに、「古いラテン語のミサを復活させる可能性がある」ということは、教皇フランシスコの遺産を直接否定することになりかねない。

 また、彼がバチカンから2度も”追放”されたことを心配する者がいるかもしれない。実際の動機がどうであれ、その歴史は、多くの人々が多様な陣営をまとめ、教会内部の緊張を調停できる教皇を求めている時に、彼が”羽目を外した実績“があることを一部の枢機卿は否定的に受け取るかもしれない。

 最後に、ランジスの時代は過ぎ去っており、12年前に”一矢報いた人物”をであり、今再び教皇として検討することは、前進というより、むしろ後退を意味する、という感覚が一部には根強くあるのかもしれない。その評価がどのようなものであれ、2013年にアルゼンチンのホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿にも同じようなことが言われ、その結果どうなったかは周知の通りだ。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2025年5月6日

・教皇選挙目前、枢機卿団の第11回全体会議ー移民、シノドス、司牧者としての教皇のあり方など取り上げ

枢機卿団の第11回全体会議  2025年5月5日 バチカン・シノドスホール枢機卿団の第11回全体会議  2025年5月5日 バチカン・シノドスホール  (@Vatican Media)

 枢機卿団の第11回全体会議が5日午後、バチカンのシノドスホールで開かれた。バチカンのブルーニ広報局長による同日夜の報道関係者への説明は要旨次の通り。

 第11回目の枢機卿団の会議は、本日午後5時から祈りをもって始められた。およそ170人の枢機卿が出席し、そのうち有権枢機卿は132人。この会議で約20人が、次のようなテーマ・趣旨で発言を行い、午後7時に終了した。

 −教会内部、また社会における民族主義

 −移民現象・恵みとしての移民・移民の信仰を支える必要

 −戦争(枢機卿の出身地に関連したテーマとしても)

 −シノドスとシノドス性

 −一致をめぐる教会学

 −新教皇を支える枢機卿団の務めと責任

 −諸宗教界や様々な文化との対話と関係構築の点から見た司牧者としての教皇

 −分派の問題 

(「カトリック・あい」編集)

2025年5月6日

・マンベルティ枢機卿:力尽きるまで神の民に仕えた故教皇を追悼

マンベルティ枢機卿による「ノヴェンディアーリ」9日目(最終日)のミサ 2025年5月4日 バチカン・聖ペトロ大聖堂

マンベルティ枢機卿による「ノヴェンディアーリ」9日目(最終日)のミサ 2025年5月4日 バチカン・聖ペトロ大聖堂  (@VATICAN MEDIA )

(2025.5.4バチカン放送)

教皇フランシスコを悼む9日間の喪の期間、「ノヴェンディアーリ」最終日のミサが捧げられた。

 教皇フランシスコの葬儀から始まった9日間の喪の期間「ノヴェンディアーリ」は、5月4日(日)、最終日を迎えた。

 同日、枢機卿団のプロトディアコノ(※ 枢機卿団内で、名義上「助祭」のオーダーに属する枢機卿たちの間で、最も早く枢機卿の任命を受けた者をいう。教皇選挙においては、新教皇の選出を発表し、その名前を告げる役割を担う)、ドミニク・マンベルティ枢機卿によって、「ノヴェンディアーリ」9日目のミサ(最終回のミサ)が、枢機卿たちおよび教皇儀式の奉仕者たちと共に捧げられた。

 マンベルティ枢機卿は説教で、この日の福音朗読箇所、ヨハネ福音書中の、イエスがティベリアス湖畔で再び弟子たちにご自身を現された場面(21,1-19)を取り上げた。

 この箇所は、復活されたイエスと弟子たちとの出会いと、イエスからペトロへの使命の委託を語ったのち、「わたしに従いなさい」とイエスが命じる言葉で終わっている。

 マンベルティ枢機卿は、ペトロがイエスから受けた使命とは、愛そのものであり、それは教会とすべての人々に奉仕することであった、と強調。

 主の愛と恵みに支えられ、力尽きるまでその使命に忠実であり続けた教皇フランシスコの姿に、皆が深い感動をおぼえたと語った。

 人間よりも神に従う必要を力ある者たちに示し、福音の喜びと、いつくしみ深い御父、救い主なるキリストを、その教皇職と、司牧訪問、自らの態度や生き方を通して全人類に告げた教皇フランシスコを同枢機卿は回顧。

 復活祭の日、バチカンの大聖堂の祝福のロッジアで、教皇フランシスコの近くにいたマンベルティ枢機卿が見たものは、教皇の苦しみはもとより、神の民に最後の最後まで仕えることを望むその勇気と固い決意であったと振り返った。

 また、マンベルティ枢機卿は、ミサ中の第二朗読、ヨハネの黙示録(5,11-14)に、玉座に座っておられる方と小羊とに対する、天地を挙げての賛美と、ひれ伏した礼拝が描かれているように、礼拝とは教会のミッションと信者の信仰生活の本質的側面であると指摘。

 教皇フランシスコが、東方三博士の幼子イエスへの訪問等を観想しながら、仕えるために来られた王、人となられた神の神秘を前に、心を屈して跪き礼拝する必要を説き、祈りと礼拝の再発見へと人々を招いていたことを追想した。

 同枢機卿は、教皇フランシスコの礼拝へと向かう力は明らかなものであり、そのエネルギーに満ちた司牧生活と無数の謁見は、聖イグナチオの霊操に培われた祈りの時間から力を汲み取っていた、と話した。

 教皇フランシスコの活動のすべては、聖母の眼差しのもとに行われていた、と述べた同枢機卿は、ご自身が愛した聖母子画「サルス・ポプリ・ロマーニ」の近くに今は眠る教皇を、感謝と信頼の祈りと共に聖母に託した。

(編集「カトリック・あい」)

2025年5月5日

・次期教皇有力候補を吟味する ⑨ルイス・アントニオ・タグレ枢機卿

 

(2025.4.30  Crux editor)

 

 ローマ – 2012年に枢機卿としてシーンに登場したルイス・アントニオ・「チト」・タグレがいかに若かったかを示す一つの指標は、彼が2013年にローマ法王の座の候補者であったが、若すぎると見られていたことだろう。

 最後に選出された2人の教皇が78歳と76歳であったことを考えれば、このような反応も理解できるが、だからといって、おしゃべりな階級の広い範囲が、フィリピンの高位聖職者をタント・パパビレ、つまり非常に真面目な候補者と称賛するのを止めることはできない。

 しかし、逆説的だが、タグレがメディアや外部のコメンテーター、熱烈なファンから教皇職をもてはやされるたびに、彼は内部関係者に解雇され、彼にはオフィスとしての重厚さがない、バチカンでのキャリアにはばらつきがある、と否定されることになる。

 どう切り取っても、「アジアのフランシスコ」がカトリック教会の手綱を握るという見通しは興味深いものだ。

 1957年にマニラで生まれたタグレは、ケソン市の神学校に通い、その後、ワシントンのアメリカ・カトリック大学で博士課程を修了した。彼はまた、神父および教師として奉仕するためにフィリピンに戻る前にローマで学んだ。

 カトリック大学での彼の博士論文は、ジョセフ・コモンチャク神父の下で書かれ、第二バチカン公会議における司教の合議制の発展を好意的に扱った。さらに、タグレは、ジュゼッペ・アルベリーゴが設立したイタリアのボローニャを拠点とする「第二バチカン公会議の歴史」プロジェクトの編集委員を15年間務めたが、公会議の過度に進歩的な読み方として一部の保守派から批判された。

 タグレは2001年にイムス教区の司教に任命され、車を持たず、毎日バスで通勤することで有名になりました。これは、高い地位につきものの孤独と戦う方法である、と説明している。彼はまた、大聖堂の外に物乞いを招き、一緒に食事をすることでも知られていた。ある女性は、盲目で失業中のアルコール依存症の夫を探しに行ったとき、地元のバーで彼を追い詰めるかもしれないと思い、彼が司教と昼食をとっていることに気づいたと伝えられている。

 もう一つ、典型的な話がある。タグレがイムスに到着して間もなく、荒れ果てた地区にある小さな礼拝堂は、主に日雇い労働者で構成されたグループのために、午前4時頃に司祭がミサを捧げるのを待っていた。やがて、若い聖職者が安物の自転車で現れ、シンプルな服を着てミサを始める準備をした。驚いた会衆のメンバーは、それが新しい司教であることに気づき、もっと良い歓迎を準備していなかったことを謝罪した。タグレは「問題ありません」と言った。彼は前夜遅くに司祭が病気であるという知らせを受け、自分でミサをすることに決めたのだった。

 ほぼ同じ評判がタグレをマニラに引き継ぎ、そこで彼は政策問題に対する広範な中心的なアプローチでも知られるようになった。彼は、産児制限の推進を含むフィリピンのリプロダクティブヘルス法案に反対する強い立場を取った。しかし、彼の大きな社会的関心は、貧しい人々を守ることであり、彼はまた、環境問題にも筋を示した。

 タグレのカリスマ性と群衆を動かす能力に疑いの余地はない。彼はまた、非常に21世紀の高位聖職者で、膨大なソーシャルメディアのフォロワーを持つ一種の”枢機卿インフルエンサー”だ。アクティブなXアカウントとFacebookページを持っており、そこでは、とりわけ、彼が伝統的なフィリピンのダンスに合わせて体を揺らしたり回転したりしているのを見ることができる。

 最近、右派のライフサイト・ニュースは、タグレがジョン・レノンの名曲「イマジン」を歌っている古いビデオを掘り起こし、無神論者の賛歌と称する歌を歌ったと彼を非難した。(ちなみに、このクリップには、彼が「天国はないと想像してみて/やってみれば簡単だ/私たちの下に地獄はない/そして私たちの上には空しかない」というキーラインを歌っているところは実際には含まれていない。この反応は、そのようなシーンに魅了されたすべての人に対して、おそらくタグレの仲間の枢機卿たちの中にも含めて、そのシーンが不愉快だと感じる他の誰かがいることを示している。

 2019年12月、教皇フランシスコは、バチカンの事実上の宣教部門である福音宣教省の責任者にタグレを指名した。タグレと当時のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿は、2005年の聖体に関する司教会議で知り合いになり、明らかに教皇はカリスマ的なフィリピン人枢機卿を彼の”政権”に組み入れることを望んでいた。

 同じ頃、タグレはローマを拠点とする世界中のカトリック慈善団体の連合体である国際カリタス総裁に選出された。これら二つの役割を総合すると、彼は教皇の名において、発展途上国全体の教会の事実上の指導者となるように見えた。

 残念ながら、物事はそのようには、うまくいかなかった。多くのオブザーバーは、現在の福音宣教省での彼の活動は十分でないと見ており、彼が総裁だった国際カリタスでは、自身を含めた幹部が全員辞任に追い込まれた(原因はいまだに明らかにされていない)。

 

*タグレのプラス点は?

 まず第一に、宣教、つまり人々を信仰に引きつけることが、次の教皇の最優先事項でなければならない、と誰もが同意している時代に、タグレは、有力なコミュニケーターであり、伝道者だ。彼のシンプルで自然なスタイルと、群衆の前で演奏し、笑いと涙をほぼ同等にかき立てる才能と相まって、彼はすぐに世界の舞台でスターになるだろう。

 さらに、タグレは、123人の枢機卿選挙人を擁するこのコンクラーベで重要な力となるアジアを含む発展途上国全体のカトリック教会のダイナミズムに顔と声を当てることにもなる。世界の13億人のカトリック教徒のほぼ4分の3が西洋の外に住んでいる現在、少なくとも一部の枢機卿はアジアの教皇という考えに魅力を感じるかもしれない。

 タグレが中華系であるという事実は、バチカンと中国の関係という点では資産になるかもしれないが、反面、この地域における中国の覇権に少し警戒心を抱いている他のアジアの枢機卿たちにとっても懸念材料になるかもしれない。

 

*マイナス点は?

 率直に言って、教会には多くのオブザーバーがおり、その中には少なからぬ枢機卿も含まれており、彼らは個人的にはタグレは単に「プライムタイムの準備ができていない」と感じている。彼らは彼の公的な人格を表面的なものと見なしており、舞台裏では、彼がバチカンで真のリーダーシップという重労働をこなすことができることを証明するために、6年間を費やした、と彼らは言っている。

 これは、ほとんどの枢機卿が、次の教皇は、「バチカンが直面している深刻な金融危機に、積立金不足の年金債務やその他の赤字の形で対処できる強力な総督者でなければならない」と感じている時代には、特別な懸念です。タグレが国際カリタスを効果的に運営できなかったのだとしたら、バチカン全体を監督する彼にどんな希望があるのだろう、と疑問をもたれるかもしれない。

 さらに、より保守的な枢機卿たちは、おそらくタグレの神学や政治にも関心がなく、それは彼らが少し中道左派すぎると感じている。基本的に、このグループに対する告発は、タグレへの投票は実際には教皇フランシスコへの投票であり、アルゼンチンスペイン語のポルテーニョ方言ではなくタガログ語で表現されているだけだということになる。

 これらの懸念は、67歳にして彼が今後20年間、ペトロの座にいることを容易に想像できる、という見通しによって増幅されるかもしれない。

 だがタグレが実際に教皇権を真剣に狙っているかどうかは、まだわからない。しかし、単に見通しを熟考するなら、それ自体が、21年代初頭のカトリックの騒々しい世界的な多様性についての教育になる。

 

2025年5月4日

・次期教皇有力候補を吟味する ⑦ロバート・フランシス・プレボスト枢機卿

(2025.5.1  Crux editor)

 

 ローマ – 昔々、「米国人の教皇は考えられない」と言われていた。新世界からの蒸気船がローマに到着するのに非常に時間がかかったため、米国の枢機卿はしばしば投票に遅れて到着し、いずれにせよ、教皇選挙が始まる前の”政治的なソーセージ挽き”には決して参加しなかった。

 しかし、今日では、その論理は老朽化しているように感じられる。米国はもはや世界で唯一の超大国ではない。いずれにせよ、枢機卿団の内部の力学は変化した。地理上の問題は、投票の障害としてはほとんど消えている。

 枢機卿たちは、教皇候補者がどのパスポートを持っているかではなく、どのような精神的、政治的、個人的なプロフィールを体現しているかを気にするようになっているのだ。

 たまたま、今回は深刻な打撃を受けた米国人がいる。69歳のロバート・フランシス・プレボスト枢機卿は、過去2年間、教皇フランシスコの下でバチカンの超強力な司教省長官を務めてきた。そのため、彼は教皇に世界中の新しい司教を選ぶよう助言する責任を負っており、それは、カトリックのヒエラルキーで友人を作るための素晴らしい機会となった。

 仲間の高位聖職者たちがアウグスティヌス修道会の元総長である彼を知るようになると、彼らの多くは彼が好きになる—堅実な判断力と鋭い聞く能力のある穏健でバランスの取れた人物、そしてその胸を叩く必要のない人だ、と。

 1955年にシカゴでイタリア、フランス、スペインの系統を持つ家族に生まれたプレボストは、聖アウグスティヌス修道会が運営する小さな神学校に通った。そこからフィラデルフィアのビラノバ大学に入学し、1977年に数学の学士号を取得した。彼は同じ年にアウグスティヌス会に入会し、カトリック神学連合で勉強を始め、1982年に神学修士号を取得した。そして、ローマで、ドミニコ会が運営する聖トマス・アクィナス大学(通称「アンジェリクム」)で教会法の博士号を取得した。

 1985年、プレボストはペルーのアウグスティヌス宣教団に参加した。彼のリーダーシップの資質はすぐに認められ、1985年から1986年までチュルカナス準州のトップに任命された。彼は、アウグスティヌス会の管区の召命の司祭としてシカゴで数年間過ごした後、ペルーに戻り、次の10年間はトルヒーリョでアウグスティヌス会の神学校を運営しながら、教会法を教え、教区の神学校で研究の責任者を務めた。

 ”事務職”には古いルールがあり、それは能力はそれ自体が呪いであるというものだ。仕事量は、物事を成し遂げる才能が認められるのに正比例して拡大する傾向がある。したがって、プレボストは彼の本業に加えて、教区司祭、教区本部の役人、トルヒーヨの養成責任者、教区の法務官としての任務も担った。

 プレボストは1999年に再びシカゴに戻り、今度は管区の先任者として奉仕した。この時期に彼は聖職者の性的虐待スキャンダルに触れ、告発された神父が学校の近くの修道院に住むことを許可する決定に署名した。この動きは後に批評家から非難を浴びることになったが、それは米国の司教たちが2002年にそのようなケースの取り扱いに関する新しい基準を採用する前のことであり、彼の署名は基本的に、大司教区と告発された司祭の霊的助言者および安全計画の監督者との間で、すでに成立していた形式的なものだった。

 2001年、プレボストは、聖ペトロ広場のすぐ隣にあり、世界中から訪れる聖職者や司教に会うための主要な場所でもあるアウグスティヌス教皇庁教父研究所に本部を置く、世界的なアウグスティヌス修道会の総長に選出された。プレボストは総長職を2期務め、優れた指導者および管理者としての評判を得た後、2013年から2014年にかけて、修道会の育成責任者としてシカゴに短期間戻った。

 2014年11月、教皇フランシスコは、彼を、ペルーのチクラヨ教区の使徒的管理者に任命し、1年後には同教区の司教になった。歴史的にペルーの司教たちは、解放神学運動に近い左派とオプス・デイに近い右派に大きく分かれてきた。その不安定な組み合わせの中で、プレボストは穏健な影響力を持つと見なされるようになり、それは彼が会議の常任評議会に所属し、2018年から2023年まで副会長を務めた事実が証明している。

 2023年2月、教皇フランシスコはプレボストをバチカンの司教省長官に任命したが、これは教皇の信頼と好意の明確な表れであり、バチカン評論家によれば、故教皇はプレボストと”常に目を合わせていた”わけではないにもかかわらず、頼りにできる人物と見なしていた。

*プレボストのプラス点は

 基本的に、枢機卿たちが教皇候補にタイヤを蹴るたびに探す3つの資質がある—「宣教師」として信仰に肯定的な顔をすることができる人物、「政治家」としてドナルド・トランプ、ウラジーミル・プーチン、習近平とともに世界の舞台に立ち、自分自身を保持できる人物、そして「統治者」としてバチカンを支配し、その金融危機への対処を含め、”列車を時間通りに走らせる”ことのできる人物。

 プレボストがこの3つの条件をすべて満たしているという確固たる議論がある。キャリアの多くをペルーでの宣教師として過ごし、残りの一部を神学校や育成の仕事に費やし、信仰の火を灯し続けるために何が必要かを理解した。そのグローバルな経験は、国政の課題における資産となり、彼の生まれつきの控えめで落ち着いた性格は、外交の技術に役立つかもしれない。最後に、彼がさまざまな指導的地位(宗教的指導者、教区司教、バチカン長官)で成功を収めたことは、彼の統治能力の証拠を提供している。

 さらに、プレボストは、「生意気な米国人の傲慢さ」という古典的な類型には属さず、イタリアの新聞「ラ・レプッブリカ」と国営テレビ局RAIが最近報じたように、彼は「米国人の中で最も米国人でない」と思われている。

 基本的に、プレボストへの投票は、大まかに言えば、教皇フランシスコのアジェンダの本質の多くとの連続性への投票と見なされるだろうが、必ずしも、同じスタイルではなく、故教皇よりも実際的で、用心深く、慎重だ。 彼の仲間の枢機卿たちの多くが望ましいと思うかもしれないすべての資質を備えている。

 さらに、プレボストは多かれ少なかれ「適切な年齢」に属すると見なされている。彼は9月に70歳になるので、教皇職を安定性を保証するのに十分な長さ努める可能性が高いが、聖なる父の代わりに永遠の父のイメージを想起させるほど長くはならないだろう。

*マイナス点は

 まず第一に、プレボストは、カトリック教会で争点となっている問題の多くに関して、特に、女性助祭の叙階や同性婚の人々の祝福、ラテン語のミサなどの問題に対する立場という点では、最良に近いカドを使ってきた。一部の枢機卿にとっては、プレボストは「未知の世界への旅」をしすぎるかもしれない、特に、より明確な保証を求める保守的な有権者の間では、そう見られるかもしれない。

 さらに、プレボストは、聖職者による性的虐待の苦情を不適切に処理したとされるとして、虐待被害者たちのネットワーク(SNAP)から苦情が申し立てられた米国の枢機卿の一人だ。一つはシカゴの告発された司祭に関するもので、他の二人はペルーのチクラヨの司祭に関するもの。この話には説得力のある別の側面がある—複数の当事者が両方のケースでプレボストの行為を擁護しており、ペルーの被害者を最初に弁護した教会法弁護士は「斧を磨く恥ずべき元司祭」ともされ、また、チクラヨにいる間、プレボストは児童保護に成功した教区委員会の責任者だった、というものだ。だがそれでも、過失が示唆されるだけでも、一部の枢機卿たちを心配させるには十分かもしれない。

 基本的なレベルでは、プレボストが本当に世界の舞台で活躍し、鼓舞し、興奮させるカリスマ性を持っているかどうかについて懸念があるかもしれない。長年にわたる彼の仕事の多くが”舞台裏”であったことを考えると、彼は笑顔で世界を変える機会があまりなかった。もっとも、故教皇が、アルゼンチンのホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿として、ブエノスアイレスでは、世間の目には居心地の悪い、よそよそしい灰色の人物だ、という評判があったことを思い起すことも必要だろう。

 まとめて言えば、プレボストは、枢機卿たちが伝統的に求めてきた条件の大部分を満たしており、いくつかの論争中の問題に関する明確な実績がないだけでも、”負債”というよりは”資産2になるかもしれないということだ。2023年に彼がバチカンの司教省長官に昇格した際の次の賛辞は、彼の魅力をほぼ要約している—「プレボストは、枢機卿団に宣教師の心と長年の聖職者の経験をもたらし、それは学術教室から貧しいバリオ、行政の上層部に至るまでです」「彼は、聖霊が導くところならどこでも仕える準備ができているように、という福音の召し出しを体現しています」。

 それが、プレボストの仲間の教皇選挙権を持つ枢機卿たちの少なくとも3分の2が、教皇のプロフィールとして印象づけるかどうかは、数日後に判明する。

 

2025年5月4日

・次期教皇有力候補を吟味する ⑧マリオ・グレック枢機卿

(2025.5.3   Crux  editor)

 

ローマ – 1941年の名作ノワール映画で、カスパー・ガットマンという教養ある犯罪者が、荒っぽい刑事サム・スペードに「ガッド、サー、君はキャラクターだよ!次に何を言うか、何をするかはわからないけど、何か驚くべきことが起こるに違いない」

もちろん、このちょっとしたセリフはジョン・ヒューストンの名作「マルタの鷹」から来ているが、2025年のコンクラーベでマルタの偉大な候補、68歳のマリオ・グレック枢機卿についても言えるかもしれない。

2005年から2019年までマルタのゴゾ司教を務めていた間、グレックは一般的に保守派と見なされ、マルタ大司教区を率いるチャールズ・シクルナ大司教の右側に立ち、時には対立すると見なされていた。

しかし、その評判は、グレックが教皇フランシスコによって司教会議の事務局長に任命されると、ホットコーヒーの砂糖のように溶けていき、その役割で彼は、より「シノドス」な教会という故教皇のビジョンと、シノドスが関連づけるようになった進歩的な改革運動の擁護者となった。

したがって、グレックから何が得られるかはわからないが、それはしばしば驚くべきものだった。

1957年にゴゾ島で生まれた若いグレックは、カルメル会のシスターが運営する小学校に通い、その後、ゴゾの教区神学校に入学した。彼は1984年に司祭に叙階され、教皇庁ラテラノ大学でさらに学ぶためにローマに送り出され、とりわけイタリア語を学んだ。彼は後に「アンジェリクム」であるセントトーマス大学で教会法の博士号を取得し、主に結婚事件を扱うバチカンの主要な作業裁判所であるローマのロタで働いた。

司祭としてマルタに戻った期間の後、その多くが教会の法廷で働いて、グレックは2005年11月に教皇ベネディクト十六世によってゴゾの司教に指名された。彼は、世界のさまざまな地域のマルタのディアスポラコミュニティを訪問するなど、野心的な教区の使命を開始した。性的虐待から子供や脆弱な大人を保護するための教区委員会を含む、多くの委員会やその他のイニシアチブを作成した。また、マルタの司教の代表として、ヨーロッパ司教会議とイタリア司教会議の両方に出席した。

2010年4月、グレックは教皇ベネディクトを招き、1,950人を記念するマルタへの短い2日間の訪問を行った

2011年にマルタでの離婚の合法化をめぐる議論が勃発したとき、グレックは島の聖職者と協力して反対を表明し、有権者は「イエスに対して説明責任を持つ」と警告した。(離婚を認める国民投票は、投票の53パーセントで可決された。

彼はまた、マルタの移民と難民の危機の間、移民の率直な擁護者となり、「人種差別」の閉鎖政策を推進するマルタ社会の要素を非難した。ある時点で、彼は極右政党レガ党首のイタリアの政治家マッテオ・サルヴィーニが、選挙集会中に反移民の罵倒に関与しながらロザリオを振り回したことを批判した。

教皇フランシスコが2014-15年に野心的な「家族に関する司教会議」を招集したとき、グレッチはLGBTQ+カトリック教徒に対する歓迎的で肯定的な言葉で多くの観察者を驚かせた。当時、彼がマルタ大司教に指名されるかもしれないという噂があったが、地元のマルタのメディアは、ゴゾ島の彼の司祭の一部からの手紙が、物質的な商品への過度の執着と貧弱な政府、虐待事件を含む不平を訴え、彼のチャンスを断念したことを示唆した。

2017年、グレックとシクルナは、フランシスコのシノドス後の文書「アモリス・レティティア」の実施についてマルタにガイドラインを発行し、脚注で、教会の外で離婚して再婚するカトリック教徒による聖体拝領の受け入れに慎重な扉を開いた。タイマーでは、マルタのガイドラインが教皇よりもさらに進んでいると見る人もいたが、最終的にはバチカンの新聞であるオッセルヴァトーレ・ロマーノに掲載され、一種の公式の承認を示唆している。

グレックが2019年に司教会議の運営に指名されたとき、彼は世界のヒエラルキーの中で確固たる親フランシスコの人物と見なされていた。彼がシノダリティに関する2つのシノドスを運営したことで、その評判は確実に高まり、より耳を傾け、参加型で包括的な教会の理想を称賛する機会を何度も与えた。

2022年には、より保守的なカトリック司教のグループからの公開書簡も拒否し、進歩的なドイツの「シノドスの方法」を批判し、声明を「分極化」と呼び、ドイツ人が自分たちが何をしているのかを知っているという自信を表明した。

教皇としてのグレックはどうなるのか?

 まず第一に、これほど多くの枢機卿が互いに見知らぬ者であるコンクラーベでは、彼は知られている人物である。来週の水曜日にシスティーナ・チャペンに集結する予定の133人の枢機卿のうち、62人はシノダリティに関する2つのシノドスのうち少なくとも1つに参加しており、つまり、グレックが部屋の前に座って指揮を執るのを見るのに慣れているということだ。それ自体が、枢機卿たちが自分の深みから外れていると感じ、フォローする人を探しているかもしれない瞬間のセールスポイントかもしれない。

 さらに、グレックは教皇フランシスコのアジェンダとの連続性への投票と見なされるだろうが、彼の教会法の深い背景を考えると、おそらくわずかに法的精度と根拠がある。言い換えれば、フランシスコ支持派の有権者は、彼を故教皇の遺産を制度化できる人物と見なすかもしれない。

反対のケース?

 まず第一に、彼がゴゾ島のベネディクト時代からローマのフランシスコ時代に劇的に彼の調子を変えたという事実は、一部の有権者には風による信頼性の低いシフトの証拠と見なされるかもしれないが、他の人はそれを経験と状況に応じて変化し成長する立派な能力としてそれを設定する。確かに、より教義的な明快さの保証を求めている枢機卿たちは、おそらく疑問に思うだろう。

さらに、グレックへの投票は、教皇フランシスコがローマのジェメリ病院で二重肺炎と闘っていた間に発した3年間のシノドス・プロセスを継続するための投票である可能性が高い。それは、司教、司祭、助祭、修道者と平信徒がほぼ同数の壮大な「教会集会」で最高潮に達するように設計されている。

一部の保守的な批評家は、このプロセスが教会の階層的な性質を弱体化させると見ているが、より広くは、多くの高位聖職者の間には、彼らの多くが不定形で混乱していると感じたテーマに関するさらに別の一連の会議を確認することを切望していないかもしれない、ある程度の「シノドス疲れ」がある。

次の教皇は、いまだにカトリックを悩ませている金融スキャンダルと性的虐待スキャンダルの両方に取り組むことができる有能な知事でなければならないという一般的なコンセンサスがあることを考えると、グレックのゴゾ時代からの政府スタイルに関する懸念も、おそらく彼の立候補には役立たないだろう。

それでも、グレックは長年にわたる適応と驚きの提供を通じて、驚くべき能力を発揮していることが証明されている。来週の水曜日から、彼が春にもうひとつのサプライズを持っているかどうかが分かる。

2025年5月4日

・次期教皇有力候補を吟味する ⑥アンダース・アルボレリウス枢機卿

(2025.5.2  Crux editor Jhon.L.Allen Jr.)

 

2016年のギャラップ世論調査では、スウェーデン人の約20%が無神論者、55%が無宗教であると答えている一方で、2015年の政府公式調査では、スウェーデン人の10人に1人だけが日常生活で宗教が重要だと考えていることがわかった。

しかし、その敵対的な土地でさえも、今日のカトリックは成長しており、飛躍的ではないにせよ、少なくとも着実なペースで成長し、毎年推定2000人から3000人の信者を追加している。公式の数字では、カトリック教徒のコミュニティの総数は13万人とされているが、多くの移民カトリック教徒が登録していないため、実際の数ははるかに多いことを誰もが知っている。この増加の一部は新しくスウェーデンにやってきた人たちによるものだが、ネイティブのスウェーデン人の驚くべき数の改宗によっても推進されている。

ある意味では、今日のスウェーデンの教会は、スウェーデンの改宗者とポーランド人、フランス人のコスモポリタンな混合であり、イラクからのカルデア・カトリック教徒の大規模な集団を含むアフリカ、アジア、中東からの最近の移民によって膨れ上がった、ミニチュアの世界的な教会全体である。

この直感に反するカトリックのリバイバルを主宰するのは75歳のアンデルス・アルボレリウス枢機卿で、彼自身もカトリックに改宗し、ますます世俗化する世界への理想的な宣教師と、多くの人々から見られている

1949年にスイスのソレンゴで生まれたアルボレリウスは、名目上はルター派の家庭で育ったが、この家庭では特に信仰が活発ではなかった。しかし、若きアルボレリウス自身は鋭い宗教的感覚を持ち、祈りと瞑想の生活に引き寄せられて、20歳のときにマルメ市でカトリックに改宗した

その段階では、アルボレリウスが神父の職に引き寄せられるのは自然なことで、リジューの聖テレーズの自伝を読んだ後、彼は跣足のカルメル会に参加することを決意した。彼は最終的にローマの教皇庁テレジア学院で学び、イタリア語を学びながら、スウェーデンのルンド大学で現代言語(英語、スペイン語、フランス語)の学位を取得した。

アルボレリウスは1979年9月に司祭に叙階され、その後まもなくスウェーデン南部のノラビーにあるカルメル会修道院に住み着き、その後10年間そこで生活することになった。

その間、アルボレリウスは有能な司祭、思想家としての評判を獲得し、バチカンの注目を集めるようになった。1998年、教皇ヨハネ・パウロ2世は彼をストックホルム司教に任命し、プロテスタント宗教改革の時代以来、国内で最初の民族的にスウェーデンのカトリック司教となり、スカンジナビア出身の司教としては2人目となった。

当初からアルボレリウスは、スウェーデンの規模が小さく、歴史的にルター派教会が支配的な立場にあるにもかかわらず、自分の監視下にあるカトリックは文化的な傍観者ではいられないと決断した。彼は、プロライフ運動の推進に積極的に取り組み、またスウェーデンで増え続ける移民や難民を擁護するために率直な発言をするようになった。また、宗教的なテーマで多くの著書を執筆する一方で、教会における青年組織や運動の推進にも積極的な役割を果たした。

2005年から2015年までの10年間、アルボレリウスはスカンジナビア司教協議会の会長を務めた。2016年10月、彼は教皇フランシスコのスウェーデン訪問を主催し、その中心は宗教改革500周年記念のカトリックとルーテルの合同記念式典であった。

16世紀初頭、スウェーデンではカトリック教徒が迫害され、死刑にさえされ、最近では1951年にはカトリック教徒が医師、教師、看護師になることを禁じられた。アルボレリウス自身が住んでいたようなカトリックの修道院や修道院は、1970年代まで禁止されていた。

その旅を機に教皇フランシスコは、2017年にアルボレリウスを枢機卿に任命し、スウェーデン出身の史上初の枢機卿にした。この昇進によってアルボレリウスは母国での基準点としてさらに重要になった。2022年6月には、国民生活への貢献に対してスウェーデン国王からメダルが授与された

アルボレリウスはイデオロギー的な方向性という点では、はっきりさせるのが難しいことで知られている。彼は性道徳に関しては臆することなく伝統的である。とりわけ、彼は2007年にスウェーデンで聖パウロ6世の回勅「Humanae Vitae」の出版を監督し、翌年の同書の40周年を前にその「自然への畏敬」を「性と生殖」の分野でも称賛している。彼は、女性の叙階、任意の聖職者の独身制、そしてドイツの自由度の高い「シノダル・ウェイ」に反対を表明している。

しかし、アルボレリウスは、エキュメニズムや(イスラム教を含む)宗教間対話、移民問題、気候変動、フランシスコ法王の教会における意思決定のより「共に」なスタイルの教皇の呼びかけ、そして故教皇が古いラテン語のミサを祝うことを制限したことなどについて、従来はより進歩的であると見られていた見解も持っていた。

個人的なレベルでは、アルボレリウスを嫌う人を見つけることはほとんど不可能。彼はオープンで、寛大で、愛想がよく、本物の対話をし、他人に強い関心を持つ人物であり、真の精神的な深みを持つ人物と見られている。どちらかといえば、アルボレリウスが優しすぎるのではないかという疑問を提起する者もおり、彼の対立を避ける傾向が、時折、彼自身の教区の統治に対する弱く不安定なアプローチを生み出したことを示唆している。

アルボレリウスの場合?

教皇の基本的な職務要件の一つがカトリック教会の福音書記長になることであるなら、アルボレリウスは間違いなくその条件に合致する。彼は、信仰の火が消える危険が最も強いと思われるヨーロッパの最も世俗的な地域への宣教師として、特に才能があると見られている。今日の教会のダイナミズムは先進国全体で広がっているが、ヨーロッパを単純に帳消しにする準備ができている人はおらず、アルボレリウスは旧大陸における教会の運命を復活させるユニークな能力を持つと見られるかもしれない。

さらに、いくつかの問題に対する保守的な立場と、他の問題に対する進歩的な立場の彼の興味深い組み合わせは、彼を教皇フランシスコとの継続を求める人々と、より大きな教義の安定性と明快さを求める人々との間の理想的な妥協候補にする可能性がある。それぞれがアルボレリウスに対して望むものの少なくとも一部を得ることができ、新しい教皇は少なくとも彼らの懸念に耳を傾け、それを真剣に受け止めてくれる人物であるという保証を得ることができる。

コンクラーベのハンディキャップの従来のロジックの観点から、アルボレリウスはいくつかの通常のボックスにチェックを入れます。

彼は確かに、従来は望ましいと考えられていた言語の使いこなし能力を持っており、75歳にして、望ましい年齢プロファイルのスイートスポットにいる(最後の2人の教皇、ベネディクト16世とフランシスコは、それぞれ78歳と76歳で選出された)。彼は海外での奉仕という点では、国際的な経験はあまりないが、長年にわたって広く旅をしてきた。いずれにせよ、彼が主宰する多民族・多言語の教会であるスウェーデンでは、彼が主宰する多民族・多言語の教会に世界から人が集まってきている。

反対のケース?

優柔不断で、時には弱い行政官としてのアルボレリウスの評判は、特にほとんどの枢機卿が教皇フランシスコの下で始まったバチカン改革を終わらせる(あるいは、見方によってはそれを修正する)ためには、舵を切るための強力な手が必要だと信じているときには、何の役にも立たない。

さらに、アルボレリウスが教皇フランシスコの遺産と連続性と断絶を融合させる方法は、彼のチャンスを助けるよりも傷つける可能性があり、事実上、彼を国のない男、つまりどの陣営にも強力な支持基盤がないままにする可能性がある。

さらに、アルボレリウス自身は、コンクラーベの選挙計算の面で役立つであろう仲間の枢機卿間の関係の広範なネットワークをまだ発展させていないことを認めており、最近、彼が個人的に知っているのは仲間の選挙人のうち約20人か30人だけであり、3分の2の閾値を超えるために必要な89票とはかけ離れていると述べた。

Our Sunday Visitorとの最近のインタビューで、アルボレリウスは次期教皇のプロフィールを提供した。

「それが、このような時代に人々が本当に必要としているものです。罪、憎しみ、暴力から解放され、和解とより深い出会いをもたらすのを助けてくれる人を見つけることです」と彼は言った。

彼の兄弟の枢機卿たちがその評価に同意するかどうかは、時が経てばわかるでしょう…そして、彼らがアルボレリウス自身をそれを行う男と見なすかどうか。

2025年5月4日