
昨今、教会内で誰もが一致して同意できる事柄は多くないが、もし一つだけ広範な合意があるとするなら、それは「教会司法制度が、教会活動で最も緊急に改革を必要としている分野の一つである」という点だ– これは、専門家、あらゆる階級の聖職者、そして教会内の幅広い意見を持つ知識ある信徒たちが共有する見解である。
昨年5月の教皇選挙を控えて、あらゆる立場のベテラン教会ウォッチャーもまた、「誰が新教皇になろうとも、教会の司法制度の改革が新たな教皇にとって大きな課題となること」を認識していた。
枢機卿たちが、司法経験を持ち、世界的な修道会の長を2期務めた、訓練を受けた教会法学者であるアウグスチヌス会のロバート・フランシス・プレヴォスト枢機卿を教皇に選出した時、教会司法の現状への懸念が何らかの形で彼らの選択に影響を与えたことが明らかになった。
だが、教会司法制度の改革は途方もない大事業である。レオ14世は、教皇就任間もなくCruxのエリーゼ・アン・アレンが行った独占インタビュー(教皇就任後初だった)の中で、この事実を率直に認めた。
これから数週間にわたり、『Crux Now』は、教会における正義の問題、改革の可能性と限界、改革が可能な条件、そして教会司法改革に向けた新たな実践的提案のいくつかについて検証する一連の記事を掲載する予定だ。
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「法は存在する」と教皇は語った。「民法や教会法について語ることはできるが、法はすべての人々の権利を守るために存在するのだ」。教皇は、目標は「可能な限り、すべての人の権利を尊重する信頼できる司法制度を確立すること」であり、「それには時間がかかる」と語った。
教皇は、聖職者による虐待という限定的な問題、および(特に被害者たちの間で、だが決して彼らに限ったことではない)虐待や隠蔽を対象とした教会の法が実行されておらず、被害者たちは依然として手続きについてほとんど知らされていないという根強い感覚に関する質問に答えた。「多くの被害者が口にすることの一つは、『なぜ、こうした手続きに、こんなに時間がかかるのか』ということ。私たちはイタリアに住んでいるし、私はペルーや米国でも暮らしたことがあるが、裁判所にかかる多くの手続きは何年も何年もかかるものであり、それは事実だ」。
教会裁判所の弁護士の資格を持ち、裁判官も務めた経験のある教皇は、「推定無罪は守られねばならず、被告には、あらゆる公正な社会が守る義務を求める権利がある」と指摘。「被害者が被告を告発し、その告発がおそらく正しいとしても、推定無罪が否定されるわけではない。被告となった司祭たちも保護されなければならないし、被疑者も保護されなければならない。彼らの権利は尊重されなければならないのだ」と述べた。
だが、「そう言うことさえ、時に被害者にとっては、さらなる苦痛の原因となる。だから、私たちは、そこで、ある種の板挟み状態になる」と認めた。
ヨハネ・パウロ2世時代の改革を皮切りに、教会は調査の促進と法的手続きの効率化を図ってきた。フランシスコ教皇の在位中の代表的な改革法である『ヴォエスティス・ルクス・ムンディ』は、少なくとも紙面上では、大きな前進があった。
しかし、『ヴォエスティス』の実施は、一貫性も透明性も欠いていた。適用される場合も、適用されない場合も、説明はほとんどなく、選択的に適用された。
一方、教会法に基づく刑事裁判は依然として長期化し、不透明なままである。教会そのものと同様、司法改革の課題は、それ自体を単独で考えたとしても、極めて複雑である。とはいえ、それはより大きな問題の一部に過ぎない――重要な部分ではあるが――。すなわち、教会統治構造の指針となり、階層的な指導者文化を形作る理念としての「法の支配」の回復である。
教会における法の支配
この複雑に絡み合った問題群への理解を深めるため、Crux Nowはジョルジオ・ジョヴァネッリ神父に話を聞いた。同神父は刑法専門家であり、ローマの教皇ラテラノ大学で刑事訴訟法を教えた経験を持ち、現在は同大学で一般規範を教えている。
ジョヴァネッリ神父はナポリでも刑事訴訟法を教えた経験がある。現在は、イタリア・マルケ州にある出身教区であるファノ=フォッソムブローネ=カーリ=ペルゴラ教区で司法代理を務めるほか、様々な総教区庁で多様な役職を兼任し、教理省では婚姻問題担当委員も務めている。
司牧と法務の両方の役割を常に担い、現在は出身教区の大聖堂教会の主任司祭を務めるこの司祭兼教授は、Crux Nowに対し、物事の良し悪し、良い面と悪い面について詳しく語った。「社会において法は必要だ。教会においても法は必要である。なぜなら、法は行動を規律し、共同生活を秩序づけるからです。法が必要なのは、人間関係には人同士の対立もつきものだからでもあります」。
そして、「法は、何が善であるか――時には何が善でないか――を私たちに思い出させるだけでなく、人生で必然的に生じる対立を解決し、いわば相違を調和させることを可能にしてくれる。 あまりにも多くの人々が、法は牧会的配慮と何らかの形で対立するものだと信じていますが、真実は、『法が真の司牧生活にとって不可欠な条件である』ということです。教会の法――私たちはそれを教会法と呼ぶ――は、教会の使命に奉仕するものです。そして、正しく理解された法は、人間の本質的な関係性から生じ、人間の本性に関する真理を表現することで、人間関係の可能性を広げるものです」と語った。
神父は続けて、「法は人間の幸福、人間の繁栄に奉仕するものだと私は考えたい。特に教会法はそうです。『法の支配』――イタリア語ではprincipio di legalità、文字通り『合法性の原則』と呼ぶ――は、君主の権力を制限することを目的として現代に現れた概念です。この概念は、明確な法体系を想定している。そして、すべての市民に対して法の公平な適用を保証するために、立法、行政、司法といった様々な機能や権限の区別を想定しているのです」と述べた。
また、「厳密にカノニカルな起源を持つ概念ではないものの、法の支配は、様々な根本的な制度的要請を包含しています。教会は、独自の形態と独自のやり方を通じて、自らの法体系の中にこれを組み込んできた。ほとんどの世俗政府においては、立法、行政、司法という三権の有効な分離が存在しますが、教会においては、統治権は管区司教、そして特別な意味においてローマ教皇に帰属する。これは極めて重要な点です。これにより、教会内における『権威』の真の意味を把握することができるからです」と指摘。
ただし、「それは、権力を持つ者の恣意的な意志に基づく専制的な権力ではないのだが、残念ながら、そのような退廃が時折生じることはある。でも、それは決して教会の意図するところではない」とし、「教会の法体系においては、法の支配が少なくとも理念的には最も重視されている。立法権、行政権、司法権は、一つの同一の統治権に属する三つの機能。権威者は『固有の通常権』を有するゆえに、これらの各機能を行使することはできるが、権威者がそのような機能の行使を他の個人と分担することが望ましく、強く推奨される」と述べた。
そして、「例えば、司教総代理や司教代理、あるいは司法代理の役割を考えてみてほしい。ただし、立法権は司教が直接行使しなければならないこと――あるいは、より上位のレベルでは教皇が行使しなければならないことを念頭に置くことが必要です」と語った。
教会における正義
何世紀にもわたり、教会は司法行政の先導者であった。過去数年の見出しをざっと目を通すだけでも十分に証明されるように、近年では教会が後れを取っていると言っても過言ではない。
ここ数十年、特に近年における悪評(その多くは当然のものだが)にもかかわらず、教会には高度に発達した法制度と司法機構が存在する。それは、正義とは何かという核心的な概念だけでなく、司法手続きの具体的な技法をも、西洋文明および人類の共通の遺産の一部として保存し、伝承してきたものである。
「今日、教会には非常に有能で献身的な教会法学者が大勢いる」とジョヴァネッリ神父は述べた。「概して言えば、世界中の司教たちは、正義を適切に執行することを望んでいる。しかし、正義を執行することは容易な任務ではない。それには特別な技能が必要。教会法学者は法律の専門家だ。そして教会の法体系は複雑で精緻であり、教会生活のあらゆる領域に及んでいる。教会には、財産法から婚姻法、典礼に至るまで、また通常の規律から重大な犯罪に至るまで、あらゆるものを統治する法がある」と語った。
「世俗の世界では、離婚専門の弁護士に複雑な刑事事件を任せることはないし、主に不動産売買の決済を扱う弁護士に複雑な知的財産権の案件を任せることもない。しかし、教会では、これと類似した、あるいは類推されるようなことが、あまりにも頻繁に起きている。この問題を解決するのは困難だ。その主な理由は、一見した解決策が莫大な費用を要するからです。それが、『Giuristi per la pastorale』を設立した理由の一つです。世界中の教区裁判所の組織内で既に活動している教会法学者に対し、教会における刑事法の実務について研修を行うためです」と神父は説明した。
「Giuristi per la pastorale」は2020年に発足し、大学教授、ローマ教皇裁判所(ローマ・ロタ)の弁護士、教会裁判官、そして教会法や世俗の法廷で活動する民事・刑事弁護士らを集めた。この組織は、世界中の教区の教会法学者や職員を育成し、助言を行うために設立された。その目的は、行政問題から婚姻問題、財産問題、さらには刑事事件に至るまで、法的問題に直面した際、信徒から司教に至るまで誰もが抱くであろう混乱や戸惑いを和らげることにあった。
そして、神父は、「今日、教会は世俗の制度からだけでなく、自らの歴史的な知恵の宝庫からも多くを学ぶ必要がある。異なる法制度を知ることは非常に重要です。なぜなら、私たちは教会法制度を改善するよう求められているからだ。それは完全に自己言及的なものであってはなりません。私たちは他の法制度から学ぶことができる。それは、教会における教会法の実践を深化させる絶好の機会となります。教会は他の制度を研究することや、そこから借用することさえ恐れるべきではない」と述べた。
さらに「法学の守護者かつ発展者としての教会の歴史的役割に言及し、正義そのものが公共の善であり、世俗の領域における正義と比較しても、教会内部において本質的に異なるものではない」と指摘した。
正義:公共財
正義が公共財であると言うことは、正義がいかなる社会にとっても不可欠な特性であることを意味する。正義は社会におけるすべての人に「属する」ものであり、つまり、すべての構成員が正義の確立、維持、および執行に関与しているということだ。
教会は一つの社会である。従来の表現によれば、教会は自らをsocietas perfecta――文字通り「完全な社会」――と捉えていた。ただし、これは教会に欠点がなく、過ちを犯すことがないという主張ではない、と述べておくことが重要だ。それは単に、教会がその本質において、構成員の生活を人間の繁栄、すなわち究極的には神との永遠の幸福の達成へと導くために必要なあらゆる力を備えている、という考えを伝えるに過ぎなかった。
今日、教会は自らをCommunio、より正確にはCommunio hierarchica、すなわち階層的な交わりとして語ることを好む。これは、神の摂理の下で歴史の中を巡礼する教会の全構成員の統一性を強調するものであり、すべての洗礼を受けた者の尊厳と共同体性を前提とした、神から与えられた階層的構成を備えている。いかなる組織化された社会においても、正義を執行するために特別に訓練され任命された個人が存在する。
教会は、統治権が主に司教たち、そして特別な形で教皇に存するという点で特異である。それでもなお、教会には立法、執行、裁判を行う権限がある。
緊張関係にある権力:権威の統一と司法の独立
『教会の社会教説綱要』第8章には、「立法権、行政権、司法権の間の適切な関係を定義するにあたり、現代国家の憲法は、法の領域において司法権に必要な独立性を保障している」と記されている。『綱要』は、2000年3月31日にイタリア全国裁判官協会に向けた講話での聖ヨハネ・パウロ二世教皇の次のような言葉を引用している。
「現代の民主国家において、司法権は、立法権および行政権と肩を並べ、独自の自律的かつ憲法によって保護された機能を有しています。これら三権の均衡のとれた関係。各権力がそれぞれの固有の権限と責任に従って機能し、いずれかが他を凌駕することがないよう、民主主義の生活が適切に機能することを保証するのです」。
この説明は、その名にふさわしいあらゆる健全な政治体制に当てはまる。近代民主主義の時代に発展してきた法制度は、特定の社会文化的文脈や歴史的瞬間において現れる自然正義の要請に対する、それ以上のものもそれ以下のものもない応答に他ならない。「法文化、法の支配による国家、その名にふさわしい民主主義」とは、聖ヨハネ・パウロ二世教皇もイタリアの裁判官たちへの講話で述べたように、「それゆえ、それらの特徴は、法制度の効果的な構築だけでなく、とりわけ、公益の要請や、神が人間の心に刻み込まれた普遍的な道徳的原則との関係によって規定される」のである。
カトリック教会は民主主義ではない――そのことを神に感謝すべきだろう――が、教会は独自の法文化を持ち、その起源を遥か古代にまで遡る法学の歴史を有する政治共同体である。教会は法学の研究を促進し、法学における偉大な成果の主要な推進力となってきた。教会は法文化の主要な守護者であるが、その健全性は常に、その文化が公益の要請にどう応えるかによって測られる。
司法の執行を担う者には、究極的には神に対する義務があるが、その義務ゆえに、彼らがその信頼された職務を行使する対象である人々を軽視してはならない。教会において、司教と教皇は信仰において神の民を統治し、彼らは第一に神の民のために正義を行う。同時に、独立した司法機関は、現代のいかなる社会においても――それが世俗であれ教会であれ――自然法上の正義の要件、少なくとも実務上の必要条件であるように思われる。
「教会裁判官は」とジョヴァネッリ神父は言う。「本来裁判官たる司教から委任された代理的司法権を行使するにせよ、その職務の安定性によって必要な独立性を享受すべきです。その任命は、ad actum(単一の特定の行為に限る)と限定されたり、短期間に制限されたりしてはならない。むしろ、それは安定したものでなければならない。職務の終了は、法律で定められた年齢制限に達した場合にのみ規定されるべきです。『ad tempus』(任期付き)の任命規定――ましてやそれが更新可能なものであるならば――が、上位の権威に対する裁判官の独立性をいかに損なう可能性があるかは、容易に想像に難くありません。
ジョヴァネッリ神父は、再任への期待や裁判官自身が抱くその他の利害関係をその例として挙げた。「『ad tempus』の任命は、特定の裁判に関して裁判官が事前に選任されるという、法文明の原則とも矛盾し得る。この原則により、『ad hoc』かつ『ex post』の裁判官の創設は明示的に禁止されているのです」。
ここで言及すべきは、多くの世俗法域、特に米国において、裁判官が定期的な一般選挙によって選出されている点だ。これは普遍的に評価されている慣行ではなく、法律専門家や有識者からしばしば嘆かれるものである。多くの法律専門家や有識者は、裁判官が「良き行いの間」——つまり本質的には恣意的に解任されることはなく、弾劾と刑事有罪判決を経て初めて罷免される——あるいは少なくとも長期の任期を務めることが理想であると主張している。
神父は、 「言い換えれば、ad tempus(任期制)の裁判官は、『法律によって予め定められた自然裁判官』という原則と相容れない可能性がある」とジョバネッリは続けた。「この原則は、他の原則(例えば、合法性の原則や、手続が合理的な期間内に行われるべきという要件など)と共に、いわゆる『適正手続』というより広範な原則を構成するものである。当然ながら、この原則は教会法上の刑事手続にも適用されます」と指摘。
そして、「これは、法律で定められた任期を務め、再任の対象となる裁判官が、自然法の基本的要件を完全に満たしていないと言っているわけではない。世界には多くの民事司法管轄区があります。特に米国では、裁判官が定期的に選出されている。また、たとえ選挙で選ばれていなくとも、彼らは指名され、しばしば、指名した権力とは別の権力による審査と承認のプロセスを経なければならない。」とし、「教会内でも、同様の、あるいは類似した仕組みを構築することは可能でしょうか。この問題について私は立場を表明しませんが、はっきりさせておきたいのは、原則としてそれが不可能である理由はない、ということです」と述べた。 だが、「実務上の問題は、また別の話だ。刑事手続き、とりわけ最も重大な犯罪行為の告発を伴うものほど、その重要性が極めて高い分野は他にない。教会法における刑事手続きの仕組みは、民事管轄におけるそれとは大きく異なります。これには多くの正当な理由がある。世界において巡礼の途にある階層的な共同体としての教会の特有の歴史や、階層的な共同体という特徴を持つ社会における正義の特異な要件などが含まれます」。
「しかし、正義とは別物です。それはあらゆる共同体にとって――共同体自身、その構成員、そして広い世界に対して――当然の義務であり、公共の善です。恵みは自然を完成させる。だが、 恵みは自然を置き換えたり、取って代わったりするものではない」とも神父は語った。
ここで、大きな実践的な疑問が生じる。「絶対的な権力を持つ一人の人物の下で、いかにして司法の独立を確保するのか?」ほ
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)