・2024年キリスト教一致祈祷週間は1月18日から25日に。東京教区は21日にカテドラルで

(2023.12.6 カトリック・あい)

  バチカン・キリスト教一致推進省と世界教会協議会による2024年のキリスト教一致祈祷週間が1月18日から25日にかけて、全世界で行われる。今回のテーマは、「あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ福音書10章27節)だ。

 カトリック中央協議会によると、今年のキリスト教一致祈祷集会のための資料は、バチカン・キリスト教一致推進省と世界教会協議会が共同で任命した国際チームが決定したが、資料の起草は、キリスト教一致推進省から、ブルキナファソのエキュメニカル・チームに託され、エキュメニカルな召命を受けた同国のカトリック共同体であるシュマン・ヌフ協同体がまとめた。また、祈りと黙想の草稿作成には、カトリックのワガドゥグー大司教区、プロテスタント諸教会、エキュメニカルな各団体の代表者が協力した。

 ブルキナファソの政治的・社会的状況は不安定だが、そうした状況の中でキリスト教一致祈祷週間の小冊子を準備することは、キリストの愛がすべてのキリスト者を結び付け、その分裂よりも強いものであることを認識する助けとなった、という。

 日本でも、世界に広がる教会と心を合わせてキリスト者の一致を祈るため、カトリック中央協議会と日本キリスト教協議会が共同で翻訳した資料を小冊子『キリスト教一致祈祷週間』として発行し、ポスターとともに配布する。小冊子には①2004年のテーマの解説②エキュメニカル礼拝式文③八日間の聖書の黙想と祈り④作成担当国のエキュメニズムの現状-が書かれており、キリスト教一致祈祷週間の期間だけでなく、一致を求める個人の祈りや共同の祈りのために年間を通して用いることができるよう配慮されている、という。

 なお、小冊子は2024年キリスト教一致祈祷週間小冊子ダウンロード(PDF2.24MB)からダウンロードできるが、印刷物の希望者は、希望送付先の氏名・団体名・所在地・電話番号・FAX 番号・メールアドレス・希望部数を明記の上、PDFのFAX申込書で申し込む。小冊子およびポスターはともに無料だが、送料のみ受取人払い。

 問い合わせなどは、「カトリック中央協議会エキュメニズム部門」(Tel 03-5632-4445、Fax 03-5632-4465)または「日本キリスト教協議会」(Tel 03-6302-1919、Fax 03-6302-1920)へ。

 (2024.1.12)

    なお、東京教区では、日本キリスト教協議会(NCC)とカトリック東京大司教区の共催で「キリスト教一致祈祷週間 東京集会」が行われているが、今年は数年ぶりに対面で、以下の予定で行われる。

日時:2024年1月21日(日) 14:00〜15:30
場所:カトリック東京カテドラル聖マリア大聖堂 地下聖堂
司式:アンドレア・レンボ司教(カトリック東京大司教区補佐司教)
説教:金性済師(日本キリスト教協議会総幹事)

2023年12月6日

・「ウクライナで起きているのは、『自由への戦い』だ」ウクライナのカトリック大学副学長がVatican Newsと会見

Myroslav Marynovych, vice-rector of the Ukrainian Catholic University of LvivMyroslav Marynovych, vice-rector of the Ukrainian Catholic University of Lviv 

 

*現在の戦いは、旧ソ連時代の戦いを本質的に変わらない

 

問: あなたは強制収容所で数年間を過ごしました。 今日、あなたの国ウクライナは、ロシアに侵略されました。 歴史は繰り返す、あるいは少なくとも停滞していると思いますか?

答:はい、それは何度も繰り返されており、私たちウクライナ人は、ロシアから発せられる歴史的な暴力の波の類似性に、ただただ驚いています。 唯一の違いは、現在の出来事はすべてオンラインで情報が拡散し、スマートフォンで全世界が見ることができるということです。

問:今日のウクライナの戦いの意味は、ソ連時代のウクライナの戦いと同じですか?

答:多少のニュアンスは変わりますが、本当の意味は変わりません。 例えば、今日、ウラジーミル・プーチン大統領は、私たちを軍事的に戦わなければならない状況に置きました。 反体制派としての私の闘いの間、ソビエトの全体主義に対する私たちの手段は人権の擁護でした。 人権は、スターリンの独裁によって生み出された「恐怖」という当時のソ連の主たる接着剤を克服するのに役立ちました。

*今起きているのは「軍事紛争」ではない、「光と闇」「善と悪」の戦いだ

問:今日、この軍事紛争は正義だと思いますか、それとも領土獲得のための単なる軍事紛争を超えたものだと思いますか?

答:キリスト教的な意味では、間違いなく、それは純粋な「軍事紛争」を超えています。 軍事的動機だけであれば簡単です。 ウクライナ人は最初からこの戦争を「光と闇」「善と悪」の戦いとして認識しています。 同じレトリックがロシアでも使われていることを私は知っています。 しかし、私はまだ、世界が「真実」と「偽り」、「善」と「悪」を区別する能力を完全に失っていないことを信じたいと思っています。 ウクライナとの戦争は国際秩序と国際平和の原則を損なった。 プーチン大統領は意図的な嘘を広め、人々が真実と欺瞞を区別する能力を失う一因となっています。 これは単なる二国間の紛争ではなく、「プーチン大統領が人類文明全体に提起した挑戦」なのです。

問: ソーシャルネットワーク、インターネットなど、新たなコミュニケーション、情報ツールの有無は、紛争に対する世界の認識に以前よりも影響を与えていると思いますか?

答:そう思います。以前は、村全体、ウクライナの民間人がロシア軍によって破壊されたことを、誰も知らなかった。 「ロシアは帝国であり、強力な国だ」というニュースが西側諸国に届いたとしても、これらすべてが当時の「世界の標準」として認識されていました。 それが今は、ありがたいことに、それは「文明の道徳的基盤の侵害」として認識されています。 この違いは私個人にとって非常に重要です。ソーシャルメディアは出来事の正しいバージョンを広めるだけでなく、人類にとってこれらすべての犯罪を認識させることが非常に重要であることも理解しています。

 

*ロシアが取るべき唯一の道は「脱プーチン」、ロシア国民自身が「帝国の犯罪」を認めること

: ロシアが最終的には過去の悪魔の囚われの身ではなく、ウクライナや西側諸国一般ともっと穏やかな関係を持ち、西側を脅威と認識しないようにするために、何ができるでしょうか?

答:この質問に、ロシアの反体制派、ウラジーミル・ボレホフの言葉を引用して答えましょう。彼は1978年に、「ロシアの立場を変える唯一の方法は、ロシア帝国を解体し、ロシア国民が全く異なる概念を持つ国民国家を創設するのを助けることだ」と宣言しました。もう一人のロシア人、ユーリ・アファナシエフ氏は残念ながら亡くなりましたが、2000年代に「ロシアのパラダイムは変わらなければならない」と宣言しています。 そうしなければロシアは変わらない。 「ロシア帝国」が今日のままであれば、帝国主義の本能は(一時、消えたように見えても)必ず戻ってくるでしょう。

 もう一つの非常に重要な点は、「犯罪の責任者は裁かれなければならない」ということです。 これまでロシアには犯罪者を裁く伝統がありませんでした。犯罪が、常に「国家の崇高な目標と要請」で説明されてきたからです。 もし世界が今日、犯罪者を裁くことなくロシアと和平を結ぶとしたら、それは残念なことです。 将来犯罪を繰り返す直接的な道となるでしょう。

問: 今日のウクライナとロシアの間の公正な平和に必要なのは何でしょうか?

答:第一に、恐ろしい大量虐殺の犯罪の責任者を裁くことです。 そして、ロシア社会の「脱プーチン」と、ロシア国民自身によるロシア帝国の犯罪の認識です。 そのうえで、ウクライナ国民が被った損失に対する物質的および精神的補償。 そしておそらく最も重要なことは、「ロシア国民の道徳的悔い改め」です。それがなければ、平和が戻っても、またロシア人の間に復讐感情が生まれ、新たな戦争につながってしまうでしょう。

 

*ロシア正教会の考えが「異端で反正教会」という神学者の見解を支持する必要がある

問: この戦争は、非常に親しい関係にあるはずのキリスト教徒の間の戦争です。 それにもかかわらず、すべての教会は平和に貢献できるでしょうか? どうやって?

答:これは非常に重要な問い掛けです。私たちウクライナ人にとって課題となる非常に重要な点を明確にしたい。 私たちにとって、「信教の自由」は民主主義の偉大な成果であり、社会全体に受け入れられています。 私は世界中のキリスト教徒、特に正教会のキリスト教徒に訴えたいのですが、ロシア正教会の考え方を「異端で反正教会である」と非難する正教会の神学者グループの見解を支持する必要があります。

問: 東方典礼カトリック教会は、東洋と西洋の間の架け橋となるのに最も適していますか?

答:ウクライナの東方典礼カトリック教会のトップであったルボミル・フサール枢機卿が「キリスト教の東洋と西洋の架け橋」という定義を容易には受け入れないという、いささか皮肉な見解を示したことを、私は覚えています。 「人々が橋を渡る時に、橋を踏み荒らします。私は、自分たちが踏み荒らされたくありません」という言い方で。

 彼には、「仲介者」、つまり、私たちの教会が2つのグループ間の仲介者、という言葉を使う傾向がありました。 私たちは両方のグループの論理を理解しているので、仲介者としての役割を果たすことができます。 しかし、実際に効果のある仲介者になるためには、両当事者の合意を得る必要がありますが、まだそうなってはいません。

 

*大学は、すべての人の利益を考える、平和で公正な世界構築のパートナーになりたい

問: あなたが副学長を務めるこのウクライナ・カトリック大学は、真実、平和、正義を求めるこの闘いを象徴するものなのでしょうか?

答:この大学は、「カトリック」という言葉が告白的な性格を示していますが、全世界に開かれ、全世界との対話に参加したいと願い、そのような象徴になりたいと考えています。 対話は真実を前提とします。 対話は真実に基づいてのみ、成り立ちます。 私は「いかなる犠牲を払ってでも」という「対話」を信じません。それは「真実を犠牲にして」という意味だからです。 また、ウクライナ・カトリック大学は、すべての参加者の利益を考慮した、平和で公正な世界の構築におけるパートナーになりたい、と考えています。 これらすべての点で、私たちの立場がプーチン大統領の立場、つまり「(自由で民主主義の考えと)真っ向から対立する価値観に基づいた新たな世界秩序を構築したい」と願う現代ロシアの立場とは、絶対に相容れないことを示しているのです。

問: この大学はウクライナ社会の進化をどのように示し、象徴していますか?

答:2000 年代に大学が設立されたとき、私たちはすぐに、「信仰」と「理性」という 2 つの原則に基づいて教育プロセスを構築する、と宣言しました。 これまでは一般に「大学は専門知識のみを提供すべきであり、精神教育は大学の責任ではない」と考えられていたため、このような原則による教育は、当時のウクライナ社会にとって課題でもありました。今日、多くの教育機関は価値観の重要性を強調しており、私たちの経験は正しいと認められています。

 また、私たちはウクライナの教育の大部分が腐敗している状況から出発しました。 私たちは課題に直面しました。名前に「カトリック」という言葉が入っている以上、ほんのわずかな腐敗の兆候も許すことはできません。 私たちは、資金を集めて「汚職を一切許さない大学モデル」を立ち上げました。 繰り返しになりますが、これはウクライナ社会にとっての課題でした。 私たちのパートナーの多くは、「あなたがたは、生き残れないだろう」と言いました。 しかし私たちは生き残り、今ではウクライナ教育の変化の最前線に立っています。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2023年12月6日

(評論)26日まで聖書週間ーまったく盛り上がらない「全国運動」、発刊5周年の「聖書協会共同訳」をどうするのか

 

 日本のカトリック教会の「聖書週間」が今年も11月19日から26日にかけて行われる。だが、「行われる」といっても、カトリック中央協議会のホームページを見る限り、シンポジウムなどの「行事」はいっさい予定されていない。わずかに、4ページのリーフレットとポスターの注文を同協議会事務局で受け付けているだけのようだ。

  *聖書週間関連の行事として、カトリック教会、司教団の催しはないが、日本聖書協会主催のセミナー「聖書協会共同訳-原語と日本語の調和をめざして」が11月25日午後1時半から、東京・渋谷区南平台町の日本基督教団・聖ヶ丘教会で開かれる(問い合わせ申し込み=日本聖書協会広報部03‐3567‐1988、Email:info2@bible.or.jp)

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 カトリック中央協議会のホームページによると、聖書週間は「聖書に親しみ、聖書をより正しく理解するための全国的な運動」として日本の司教協議会が総会で、1977年11月の第3日曜日からの1週間を『聖書週間』とすることが決定、実施されていることになっている。だが、司教協議会がその実施母体として発足させた聖書委員会は「諸委員会の機構改革にともない、1998年2月に解消」され、引き継いだ常任委員会で「リーフレットとポスターの制作が継続されている」という説明が、中央協議会のホームページにあるのみだ。

 4ページのリフレットとポスターだけ、「全国的な運動」がまったく盛り上がらない中で、小教区も信徒たちも、どのように対応したらいいか、分からない、というのが正直なところではないだろうか。

  私たちの信仰の基本にある聖書について、日本の司教団がどれほど真剣に考えているのか、疑問を抱くのは、「聖書週間」ばかりではない。

 カトリックとプロテスタントの高位聖職者や聖書学や宗教学、日本語などの専門家が結集し、10年近くかけて制作した「聖書 聖書協会・共同訳」が2018年12月に刊行されて、この12月で5周年を迎える。だが、司教協議会では、2010年2月の臨時総会で「聖書の新しい共同訳事業」を承認したにもかかわらず、それが完成し、刊行された直後の2019年1月の常任委員会で「『聖書 聖書協会・共同訳』のカトリック教会の典礼での使用については数年先に検討する」ことを決定。その理由も、「数年先」の根拠も一般信徒には説明のないまま、事実上、使用を棚上げしてしまった。今、「数年先」を迎えているのにさっぱり、音沙汰がない。

 「聖書 聖書協会・共同訳」の刊行事業は、「『新共同訳』が刊行されて20年が過ぎた現在、聖書の新しい訳が検討されるべき時期が来ている。過去数十年間に生じた聖書学、翻訳学のどの進展、底本の改訂、日本語や日本社会の変化、また『新共同訳』見直しへの要請が、新しい翻訳を求めている」との認識から始まった。

 日本聖書協会(現在の理事長は石田学・日本キリスト教協議会教育部理事長、副理事長は菊地功・日本カトリック司教協議会会長)が国内のカトリック、プロテスタントの32教派、1団体から推薦された議員21人による「共同訳事業推進計画諮問会議」(カトリックからは司教協議会の推薦で岩本純一、下窄英知の2名)からを設け、2008年から2009年10月まで4回の会合で「翻訳方針前文」をまとめ、理事評議員会で翻訳事業の開始を決定。

 そして、カトリック司教協議会も2010年2月の臨時総会で「聖書の新しい共同訳事業を日本カトリック司教協議会として承認する」との決議をしたことで、正式にカトリック、プロテスタントが協力して翻訳事業が開始されることになった、という経緯がある。

 翻訳事業には、翻訳委員148人、翻訳者62人(翻訳委員プロテスタント107人、カトリック41人、翻訳者プロテスタント37人、カトリック25人)が参加。
翻訳者にはカトリックから川中仁・上智大学神学部長、雨宮慧・上智大学神学部名誉教授、浦野洋司・カトリック神学院東京キャンパス非常勤講師、柊暁生・南山大学人文学部教授・聖書学者、高橋由美子上智大学外国語学部教授=当時=、編集委員には、カトリックから宮越利光・カトリック司教協議会典礼委員会秘書など。

 さらに、 検討委員には高見三明・長崎大司教、和田幹男・カトリック神学院聖書学講師=当時=。加えて 外部モニター(20人)には、梅村昌弘・横浜司教、岡田武夫(前東京大司教)、幸田和生・前東京補佐司教=肩書当時=などが入っていた。

 聖書の翻訳事業は、カトリック、プロテスタントの信仰一致の取り組みの重要な柱であるはずだ。その取り組みを司教協議会として総会で承認し、カトリック側から高位聖職者も、トップクラスの専門家も大勢参加して出来上がった知恵と努力と祈りの結晶である「聖書 聖書協会共同訳」を、司教協議会として、いまだに棚上げしたまま、事実上放置しているのは理解できない。しかも、その理由について、いまだに何の説明もないのは困ったものである。

 「聖書委員会」が廃止された司教協議会のどの部署が担当するのか分からないが、司教協議会として、カトリック教会への「聖書 聖書協会共同訳」の導入について、明確な判断をする必要がある。

(「カトリック・あい」代表・南條俊二)

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*「聖書 聖書協会共同訳」は、カトリックを含むキリスト教系の書店、あるいは日本聖書協会に直接申し込めば入手できる。

 日本キリスト教団出版局から、「ここが変わった『聖書協会共同訳』新約編、同旧約編」が出版されており、これまで出された新共同訳や新改訳と比べて、どのように日本語の表現が新しくなったのか、それがどのような意味を持っているのか、など具体例と共に紹介し、分かりやすく説明している。

*聖書週間へ、「カトリック・あい」がお勧めする本のいくつか

・「An Introduction to The New Testament」(Raymonod E.Brown  Yale University Press New Have and London)

=レイモンド・E・ブラウン師は1959年から71年まで米ボルチモアの聖マリア神学校の聖書学教授。1973年に教皇庁聖書委員会の委員に指名。世界有数の新約聖書学者で古代史家。新約聖書を学ぶための第一級の入門書がついに登場!聖書研究グループ、大学生、神学生、司祭に強くお勧めする」 (ジョセフ・A.フィッツマイヤー米ジョージタウン大学教授)

・「聖書についての101の質問と答え」(レイモンド・E. ブラウン著 女子パウロ刊)

・「イエスの自己理解、弟子たちのイエス理解―新約聖書キリスト論入門」 (レイモンド・E. ブラウン著、 現代カトリック思想叢書、サンパウロ刊)

・「森司教の主日の福音説教集-みことばの調べ」(森一弘著、サンパウロ刊)

・「教皇フランシスコの(主日の福音書の説教を中心とした)講話集1‐8(ペトロ文庫=カトリック中央協議会)

・「イエスのたとえ話の再発見」(J.エレミアス著、南條俊二訳、新教出版社刊)

=イエスは民衆や敵対者にたとえ話を通して福音を語った。だが、初代教会の寓喩的解釈などによってイエスの本来の意図からはずれて伝承された。20世紀を代表する聖書学者である著者は、卓越した語学力、分析力、パレスチナの文化風土に関する深い知識を基に、たとえ話に込められたイエスの本来の意図に迫る。

2023年11月17日

・国境なき医師団日本、日本政府に10万人の署名提出ーイスラエル・パレスチナでの「無差別攻撃の即時停止」「医療の保護」「人道性の回復」に尽力要請

(2023. 11.9 国境なき医師団日本ニュース)

署名を堀井外務副大臣に提出した Ⓒ MSF 国境なき医師団(MSF)日本は11月8日、イスラエル・パレスチナでの「無差別攻撃の即時停止」、「医療の保護」、「人道性の回復」の3点を求めるオンライン署名10万307筆を外務省に提出しました。MSF日本がSNSなどで呼びかけ、約2週間で10万人の思いが集まった署名です。

 10月7日から続くイスラエルとパレスチナでの衝突の激化により、多くの市民が犠牲となり、患者や医療従事者、および医療施設が繰り返し攻撃にさらされています。MSF日本は事態の早期鎮静化およびガザ地区の人道状況の改善の必要性を広く訴え、日本政府に届けるため、10月24日から11月7日の間、「無差別攻撃の即時停止」、「医療の保護」、「人道性の回復」を求めるオンライン署名を呼びかけました。集まった署名を11月8日、日本政府に提出しました。

 日本政府は今年、G7の議長国であり、国連安全保障理事会で非常任理事国を務めています。MSF日本は今回のオンライン署名で、イスラエル・パレスチナ・ガザ地区での衝突、人道状況の悪化に対し、日本政府が引き続き尽力されることを、強く希望するメッセージを打ち出しました。

 外務省を訪問したMSF日本事務局長の村田慎二郎は、こうした点を堀井巌・外務副大臣に改めて伝え、署名を手渡しました。堀井副大臣は「ガザ地区の状況は深刻化の一途をたどっており、一般市民が被害に遭っていることに大変心を痛めている」と述べ、11月2日から5日まで実施された上川外務大臣のイスラエル、パレスチナ及びヨルダン訪問や、11月7日から8日にかけて東京で開催されたG7外相会合について言及された上で、「日本政府として引き続き、刻一刻と動く現地情勢を踏まえ、関係国・国際機関等との間で意思疎通を行い、事態の早期沈静化や、人道状況の改善等に向けた外交努力を、粘り強く積極的に続けていく」と語られました。
事務局長の村田は、ガザでは燃料や物資の枯渇から医療体制がほぼ崩壊しており、また病院や救急車が爆撃の被害に遭うなど、医療への攻撃も起きている状況を説明した上で、今回の署名について「期間を2週間のみに設定したのは、一刻も早い状況改善につなげていきたいという思いがあったからです」と説明しました。続けて、「この短期間に10万人以上のご賛同を得ることができたのは、日本でも多くの人が現在の状況に心を痛めており、状況改善を望んでいることにほかなりません。一刻も早いガザの人道状況改善のため、日本政府に引き続き、国際社会に働きかけていただきたい」と、改めて要請しました。

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2023年11月5日 — 国境なき医師団(MSF)の海外派遣スタッフ22人全員が11月1日、パレスチナ・ガザ地区からラファ検問所経由でエジプト国境を無事通過しました。 また今回、重傷患者がガザを離れることが許可されましたが、まだ2万人以上の負傷者が取り残されています。 MSFは新たな海外派遣スタッフのチームを編成し、状況が整い次第ガザ地区に送る準備を整えています。

 約300人に上るMSFのパレスチナ人スタッフとその家族を含む、約200万人が閉じ込められている砲撃下のガザ地区。医療施設や医療従事者の最も基本的な保護が保証されていない中、MSFのパレスチナ人スタッフの多くは、病院やガザ地区全域で救命医療を提供し続けています。

 10月30日にはMSFが支援するガザ地区のトルコ・パレスチナ友好病院が攻撃を受け、建物の3階に深刻な被害を受けました。

 同病院はガザ地区で唯一のがん治療病院ですが、燃料不足と攻撃の被害で診療を停止しています。 数十人のがん患者の命が深刻な危険にさらされています。イスラエル当局は、病院に電力を供給するために不可欠な燃料のガザへの持ち込みを、阻止し続けています。

 皆さまのおかげで、すでに7万7000件を超えるご署名をいただいています。ご賛同、拡散にご協力いただき、本当にありがとうございます。 現地で苦しんでいる一般市民や、人びとに寄り添い治療にあたっている医療スタッフの力となるように、集めた署名を日本政府に提出し、これほどまでに多くの皆さまが声を上げていることを伝えてまいります。

 11月6日正午の締め切りまで、より多くの皆さまにご協力いただけますよう、SNS等でこの署名ページを拡散いただけますと幸いです。FacebookやX(旧:Twitter)、メールやLINEでもシェアすることができます。

■ 国境なき医師団は今もスタッフが医療援助活動を続けています。最新の活動はこちらをご覧ください https://www.msf.or.jp/news/palestine.html 皆さまの沢山の温かいメッセージ、ご協力に、心より御礼申し上げます。

国境なき医師団日本 スタッフ一同

(「カトリック・あい」は「国境なき医師団」の活動を支援しています)

2023年11月5日

・「教皇のLaudate Deumを通じた気候変動対策強化の呼び掛けに応じ、具体的な進展を目指す」COP28議長が教皇と会見

Pope Francis shakes hands with Dr. Sultan Ahmed Al Jaber, President-designate of COP28Pope Francis shakes hands with Dr. Sultan Ahmed Al Jaber, President-designate of COP28  (Vatican Media)

(2023.10.11 Vatican News   Andrea Tornielli)

  使徒的勧告「ラウダーテ・デウム」の発表から1週間経った11日、教皇フランシスコが11月に開かれる 国連気候変動枠組条約第28回締約国会議(COP28)の議長に予定されているスルタン・アル・ジャベル博士と会見された。アラブ首長国連邦産業・先端技術大臣の博士は、会見後、Vatican News のインタビューに応じ、COP28への抱負や使徒的勧告の意義などについて語った。

 インタビューでのやり取りは次の通り。

 

 

*「ドバイCOP28が目指すものは、気候変動危機に対する実行可能な解決策の提供」

 

Q:11月にドバイで開かれるCOP28の目的を簡単に説明していただけますか。

A: 私たちはただ 1 つの北極星に導かれ、手の届く範囲に摂氏 1.5 度を保とうとします。 最初の Global Stocktake(温室効果ガスの排出量削減に関する国際的な枠組み「パリ協定」の長期目標達成に向け、世界の国々の実施状況を国際的に評価する仕組み)で、私たちが軌道からどれだけ離れているかが、すでに明らかにされています。 私たちは2030 年までに、 220億トンの排出量を削減しなければなりません。毎日のニュースで目にしているように、気候変動は私たちに様々な影響を及ぼしており、変化に対応せねばなりません。そして、気候変動に対処するには、人と地球を、気候の中心に置く必要があり、削減のプロセスに欠かすことができないのです。

 私たちはCOP28議長国として、「公正かつ秩序あるエネルギー移行の迅速な推進」「気候変動資金の解決」「人々、自然、生命、生計に焦点の当てる」、そして「完全な包括性を持ってすべてを支える」という4つの柱を掲げる行動計画を策定しています。 気候変動がもたらす危機に対する実行可能な解決策を提供するために、世界が団結し、協力して行動する時が来ています。

 

*「教皇の使徒的勧告Laudate Deumを通じた気候変動対策強化の緊急の呼び掛けを歓迎する」

Q:  教皇フランシスコは先に、使徒的勧告「Laudate Deum:気候危機の影響を抑えることが手遅れになる前に、警鐘を鳴らす」を発表されました。この文書をどのように評価されますか?

A: 私たちは、気候変動対策の強化を求める教皇の緊急の呼びかけを歓迎します。 「COP28によって、エネルギー転換の決定的な加速が可能になるだろう」という教皇の期待を共有します。 COP28は「行動のCOP」となる必要があります。 私たち議長国は、締約国を団結させ、包括性を確保し、明確な約束と行動を推進し、世界中の人々にとって野心的な気候変動対策を実現するために、全力を尽くすことに全力で取り組んでいます。 教皇との会見で、人類の進歩を促進するための気候変動対策に対して積極的で揺るぎない姿勢を示された教皇に、議長国であるアラブ首長国連邦(UAE)の感謝の意をお伝えしました。

 世界の平均気温の上昇を工業発達以前に比べて摂氏1.5度に抑えるためには、2030年までに年間排出量を43%削減する必要があります。私たちは、現在使用しているエネルギーを包括的に脱炭素化しながら、石炭を含む化石燃料を一切使用しないエネルギーシステムを早急に構築しなければなりません。 誰一人取り残されない、特に今日エネルギーにアクセスできない8億の人々が取り残されない、迅速、公平、公正かつ公平なエネルギー移行が求められています。新しいエネルギーシステムを構築する前に、現在のエネルギーシステムの電源を抜くのは無責任です。発生源に関係なく排出量に焦点を当てる必要があり、近い将来、多くの燃料がエネルギーミックスに含まれることを認識する必要があります。 私たちはその混合のバランスを再調整し、現在使用されているエネルギーの排出量を削減せねばなりません。

 排出を、”進歩”ではなく、”抑制”しましょう。 今回の会議の焦点は、野心的な交渉結果とともに現実世界の針を動かす具体的な進展が可能になるかどうか、になるでしょう。 そのため、私は、石油・ガス会社に対し、2030年までにメタンの排出と燃焼をゼロにし、(注:温暖化ガスの年間排出量を)2050年までに実質ゼロとすることを目指して調整するよう求めました。石油・ガス会社だけでなく、すべてのこれに関わる産業が移行を加速し、排出をゼロにする必要があります。 そして政府には、水素や炭素回収を含む関連技術の開発をさらに強力に勧め、商業化を推進する賢明な政策を立て、実行するする必要があります。

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*「教皇が指摘された「約束が守られない」COPの軌道を修正する」

2023年10月12日

・使徒的勧告「LAUDATE DEUM」=「カトリック・あい」日本語全文試訳、バチカン公式英語訳全文も

  すべての善意の人たちに向けた気候変動危機に関する教皇フランシスコの使徒的勧告

               「LAUDATE DEUM(神をほめたたえよ)」 (「カトリック・あい」)試訳

  

1. 「神のすべての被造物のため、神を賛美せよ」— これは、アッシジの聖フランシスコが自身の生涯、賛歌、そして行動すべてを通して伝えようとしたメッセージでした。 このようにして、イエスは聖書の詩篇の招きを受け入れ、御父の被造物に対するイエスの感受性を表現されたのです。

 「(野の花は)働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(マタイ福音書 6章28-29節)。 「5羽の雀は2アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神の前で忘れられてはいない」(ルカ福音書 12章6節)。 私たちと共に歩むすべての存在に対する、イエスのこの優しさに、どうして感嘆せずにいられるでしょうか。(注:以下、聖書の引用の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

 

2. 私が回勅「Laudato si」を発表してから 8 年が経ちました。当時、私は、苦しむ地球の兄弟姉妹である皆さん全員と、私たちの「共通の家」を大切に扱うことに関する心からの懸念を分かち合いたい、と思っていました。 しかし、時間の経過とともに、私たちの対応が十分ではなかった、ことに気付き、私たちの住んでいる世界が崩壊するか否かの限界点に近づいているかもしれない、と懸念するようになっています。そのような懸念に加えて、気候変動の影響が多くの人々の生活や家族に、時を追って大きな影響を与えであろうことは疑いの余地がありません。 私たちは医療や雇用、資源の確保、住環境、強制移住などの面でその影響を感じるようになるでしょう。

 

3. これは地球規模の社会問題であり、人間の生命の尊厳と密接に関係する問題です。 米国の司教たちは、単に生態学的なアプローチを超えた、気候変動に対する私たちの懸念の社会的意味を非常によく表現しています-「私たちのお互いへの配慮と地球への配慮は、密接に結びついている」と。

  気候変動は、社会と国際社会が直面している主要課題の 1 つです。 気候変動の影響は、国内でも世界中でも、最も弱い立場にある人々が受けています [1] 。アマゾン地域シノドスの会議に集まった司教たちは、一言で言えば、「自然に対する攻撃は人々の命に影響を与える」と言いました [2]。 そして、これはもはや二次的な問題やイデオロギー的な問題ではなく、私たち全員に害を及ぼす”ドラマ”だということを率直に表現するために、アフリカの司教たちは、気候変動が「構造的罪の悲劇的で顕著な例」を明示している、と述べています [3]。

4. この 8 年間に得た考察と情報によって、私たちは、少し前に述べることのできたことを、はっきりと説明し、完全なものにすることができます。そのようなわけで、そして、状況が以前よりもさらに切迫しているために、以下のような文書を皆さんと共有したいと思ったのです。

 

第1章  世界的な気候変動危機

5. この問題を否定し、隠蔽し、ごまかし、あるいは相対化しようとするあらゆる試みにもかかわらず、気候変動の兆候は存在し、ますます明らかになっています。 近年、私たちが目撃している異常気象、頻繁に起きる異常な暑さ、干ばつ、そして、地球の一部での抗議の叫びは、「すべての人に影響を与え、静かに進む病気の明白な表われのほんの一部に過ぎない」という事実を、誰も無視することはできません。

 確かに、具体的な大災害のすべてが地球規模の気候変動に起因すると考えられるわけではありません。 それにもかかわらず、人類によって引き起こされる特定の気候変動が、ますます頻繁に、激しさを増している極端な現象の可能性を著しく高めていることを、検証することはできます。

 そうした検証によって、地球の気温が 0.5 度上昇するたびに、ある地域では大雨や洪水がより激しく、頻繁に発生し、他の地域では深刻な干ばつが起き、別の地域は極度の熱波に襲われ、また別の地域では大雪の被害を受けるようになることが分かるようになっています [4] 。

 これまで熱波が年に数回発生する可能性がある地域で、地球の気温が 1.5 ℃上昇し、あるいは、それに近づくなら、どうなるでしょうか?  熱波がさらに頻繁に発生し、その激しさはさらに強まるでしょう。 気温が 2 度を超えた場合、グリーンランドと南極の大部分 [5] の氷床が完全に溶け、すべての人にとって非常に深刻な結果が生じるのです。

抵抗と混乱

 

6. だが、このような事実を嘲笑する人たちがいます。 彼らは、「地球にはこれまでも寒冷化と温暖化の時期があったし、これからも起こる」という知識や確実な科学的データを元にそうしているのだと言いますが、関連する別のデータに言及することを忘れています。

 私たちが現在経験しているのは、地球温暖化の異常な加速であり、それを検証するのに数世紀や数千年ではなく、わずか1世代しかかからないほど速い、ということです。 海面上昇と氷河の融解は、ある人が生きているうちに容易に認識できるものであり、おそらく今から数年後には、これらの事実のために多くの人々が住まいを移さねばならなくなるでしょう。

7. 地球温暖化について語る人々を揶揄するために、「極寒の時期が断続的に定期的に発生しているではないか」と指摘する人々もいます。 しかし、彼らは、この異常な症状やその他の異常な症状が、「地球温暖化を引き起こしている『地球規模の不均衡』という同じ原因をもつ、様々な現象の別の表れに他ならない」ということに、言及し損ねています。干ばつと洪水、干上がった湖、海底地震や洪水によって押し流された地域社会の共同体は、結局のところ同じ原因で被害に遭っているのです。 同じように、地球規模の現象について語る場合、これを局地的な要因で大半を説明できる散発的な出来事と混同することはできません。

8. 情報の欠如は、長い期間(少なくとも数十年)におよぶ大規模な気候予測と、長くても数週間をカバーできる天気予報との間の混乱を引き起こします。 私たちが気候変動について語るとき、それは数十年にわたって続く世界的な現象、そして地域的な変動が継続的に起こることを指します。

 

9. 現実を単純化し、「貧しい人々には子供がたくさんいる」という理由で責任を押し付けたり、発展途上の国の女性たちを切り捨てたりすることで、問題を解決しようとする人さえいます。 いつものように、すべては貧しい人々のせいであるように考えるのです。 しかし現実には、地球の総人口に占める割合がわずかな裕福な人々が、50パーセント以上を占める最も貧しい人々を汚染しており、豊かな国の一人当たりの排出量が、貧しい国のそれよりはるかに多いのです [6]。 世界で最も貧しい人々の半数以上が暮らすアフリカが、世界の排出量のごく一部を占めているに過ぎない、ということをどうして忘れることができるでしょうか?

 

10. 化石燃料の使用を減らし、クリーンなエネルギー源に代えていくことで気候変動を抑制する取り組みは、「雇用の減少をもたらす」という話もよく聞かれます。 今起きていることは、気候変動のさまざまな影響によって何百万人もの職を失っている、ということです。海面上昇、干ばつ、その他、地球に打撃を与える現象によって、多くの人々が(注:住まいを奪われるなど)”漂流”しています。

 それに対して、適切に管理された再生可能エネルギーへの移行と、気候変動による被害に適応する取り組みが進むことで、さまざまな分野で無数の雇用を生み出すことが可能です。 ですから、政治や経済の指導者たちが、この問題に取り組むように求められているのです。

(以上、南條俊二試訳=聖書の引用は「聖書協会・共同訳」を使用)

人為的な要因

11. 気候変動の原因が人為的なものであることを否定することは、もはや不可能です。その理由を説明してみましょう。地球温暖化の原因となる大気中の温室効果ガスの濃度は、19世紀まで体積は300ppm以下と安定していました。しかし、19世紀中頃から、産業の発展に伴い、排出量が増加し始めました。1958年からマウナロア観測所が二酸化炭素を測定し続けて報告したように、この50年間で、その増加は著しく加速しています。私が「Laudato Si」を執筆している間にも、二酸化炭素濃度は歴史的な高水準とな400ppmを記録し、2023年6月には423ppmに達しました。[7]1850年以降の純排出量の42%以上が1990年以降に生産されたものであります。[8]

(訳者注)

  • 気候変動と人為的→気象庁の解説により
  • 二酸化炭素と体積について→JCCCAページの解説により

12. 同時に、我々は気温がこの50年間で、過去2,000年間のどの時期よりも、未曾有の上昇速度で続いていることを確認しました。この10年は0.15℃の温暖化傾向で、過去150年間の2倍であった。[9]1850年以降、地球の気温は1.1℃上昇し、両極への影響はさらに大きくなっている。このままでは、わずか10年で、世界の平均気温の上昇の限度として勧告されている1.5度を超える可能性があります。この上昇は、地表だけで起きているのではなく、数キロメートル高い大気圏や海洋の表面、さらには数百メートル深い海底でも起きています。こうして海の酸性化が進み、酸素濃度が低下しています。氷河は減少し、積雪量も減り、海面は常に上昇し続けます。 [10]

(訳者注)

・両極→環境省により、南極も北極も影響を受けているため

  • 世界の平均気温の上昇の限度として勧告されている1.5度を超える可能性があります
  • →パリ協定の1.5度目標のこと

13.このような地球規模の気象現象と、特に20世紀半ば以降に加速している温室効果ガス排出量の増加との相関関係を覆い隠すことはできません。気候を専門とする科学者の大多数はこの相関関係を支持し、その証拠を否定しようとする科学者はごく一部にすぎません。しかし、残念なことに、気候危機は経済大国にとっては関心がなく、彼らの関心ごとは最小限のコストと短期間で最大限の利益を上げることになっています。

(訳者注)

  • コストは費用、経費全般をさすので、この場合はカタカナになると思います。

14.私はカトリック教会内でさえ、このような明らかな無関心や理性に欠ける意見に遭遇することがあるため、私は当然の如く、これらのことを明確に説明する義務があると感じています。しかし、こうした危惧すべき変化への異常な速さの背景には、過去2世紀にわたる人間の自然への無節操な干渉に伴う大規模な発展という紛れもない事実があることを、もはや疑うことはできません。火山噴火など、一般的に温暖化を引き起こす原因となる自然的要素は、ここ数十年の変化の速度と割合を説明するには不十分です。地表温度の平均値の変化は温室効果ガスの増加以外には説明することはできません。

(訳者注)

  • the enormous novelties→gli enormi sviluppi connessi→大規模な発展
  • 自然的要素→環境省による環境白書から

損害と危険性

15. こうした気候危機のいくつかの兆候には、世界的な海洋温度の上昇、海洋の酸性化、酸素の減少など、少なくとも数百年間はすでに取り返しのつかないものもあります。海洋水には温度の変動に対する慣性があり、その温度と塩分濃度を正常化するには数世紀を要します。これは、この世界の他の生き物が途中で私たちの仲間ではなくなり、私たちの犠牲者になったことを示す多くの兆候のうちの1つです。

(訳者注)

  • 本文を英訳、イタリア語訳の両方を照らして試みましたが、内容の根拠がいまいち分からずで、「この世界の他の生き物が」〜あたりからが特に具体性が無いので気にはなりますが、教皇の解釈だということで良いのかなとも思います。

16. 大陸における氷床の減少についても同様のことが言えます。両極の氷床の融解は何百年も元に戻らないでしょう。異常気象に関しては、その原因となった現象とは無関係に、長期にわたって影響を及ぼし続けているものがあります。したがって、私たちが引き起こした深刻な被害を食い止めることはできません。これ以上の悲惨な被害を防ぐ時間はほとんど無いのです。

(訳者注)

  • As for the climate, there are factors that have persisted for long periods of time, independent of the events that may have triggered them.直訳「気候に関しては、長期にわたって持続している要因がある、その引き金となった出来事とは無関係に」なのですが、氷床の融解について、影響を及ぼしている気象、もしくは気候について、日本語の場合は「気候に関して」もしくは「気象に関して」のみ書いてしまうと、何が起きているのかを明確に書かれてないので後半との整合性がわからなくなります。環境省では異常気象もしくは気象現象と使っていましたので今までのテーマに沿って「異常気象」としました。次に、長期間にわたって影響を及ぼしているについて、何がそうなのか、具体性がありません。triggered、「その引き金となった出来事」というのは、氷解の融解を出来事とする日本語は適していないと判断し、「現象」が妥当だと思いました。引き金というと一瞬、pontで行われたイメージがあるので、「原因」としました。英訳のtriggeredとは使い方が「少し」違うかなと思いました。但し、教皇の感情を込めたい場合は「引き金」が妥当かもしれません。

17.ある種の「世界の終末的」な分析は、合理的とは言い難く、根拠が不十分であるように見えるかもしれません。だからといって、私たちが(様々な異常気象について)転換点に近づいているという現実的な可能性を無視してはなりません。ほんのわずかな変化が、慣性の大きさによって、予期せぬ大きなことが起きて、すでに取り返しのつかないことになっていくのです。そうなると、雪だるま式に事態が連鎖していくことになります。このような場合、一度始まった流れを止めるには、どんな手を打ったとしても手遅れになってしまいます。後戻りはできません。現在の状況から、このようなことがすべて起こると断言することはできませんが、しかし、氷床の減少や、海流の変化、熱帯雨林の伐採、ロシアの永久凍土の融解など、気候にとって「敏感」になる現象がすでに起きていることを考慮すれば、その可能性があり続けることは確かです。[12]

(訳者注)

Apocalypseについて「世界の終末的」もしくは「黙示録的」、どちらでも構いません。may will「多分」と少し弱めなので「見えるかもしれません」にしました。

raggiungere un punto di svolta è realeについてなのですが、英訳だけだと前の黙示録の例えがあるので後戻りできない「臨界点」と訳するのが適切かと思いましたが、二度似ている言葉を繰り返すなど疑問がありましたので、イタリア語を基準にすると「転換」(分岐点)となっていました。後半の氷の減少の件と整合性をとるために、転換点とし、前述基準で「転換点」を超えるという意味にしました。(転換点を超えるという言葉は日本経済新聞を参照しました)この文章のすぐに後戻りできないとあるので、2回繰り返すより、「世界の終末」(黙示録的)の分析は不確か(言い過ぎかもしれない)けれども、海面上昇が転換点を迎えることによって、後戻りできないとしました。ただし、転換点だけだと何の転換点なのかわからないので括弧で総称して「様々な異常気象」としました。後半は一つの現象だけを出していないので、様々な異常気象、にしました。括弧を入れるか外すかは検討してください。イタリア語や英語は後半に意味がくるので良いのですが、日本語だとそうはいかないので括弧にしてでも入れる必要があるのかどうかです。英訳基準に臨界点に戻すことも可能です。
factors of inertiaについて。慣性の要因、慣性の原因というのが日本語は言わないので、factorsというのがよりイメージとして「結果」に近づくように翻訳するべきかと思いました。地球環境センターの研究のサイトで、もう一つ、海面上昇で注意すべき点として「慣性が大きい」ことが挙げられます。すなわち、気温上昇をあるところで抑え、気候を安定化させたとしても、海面水位は過去の温暖化の影響を受けるため、すぐには上昇を止めません」とあったので、フランシスコ教皇が言いたいのはこの内容を指していると思います。転換点を迎えてしまえば海面上昇で気をつけるべき点は「慣性が大きい」ことから、急には止まらないということです。ですので、それに合わせて、「慣性の大きさ」としました。

sensitiveについてはイタリア語のsensibilizzano(三人称複数:直説法現在)を元に翻訳。英訳にはweがありましたので、私たちが気候に敏感になる、とも思いましたが、イタリア語には「we」に該当する単語が見つからなかったので、気候が(三人称複数)としました。仮に私たちが気候に「敏感」になればプラスに転換される話がきますが、気づかない人が多いという話が前述にあるのと、最終的にマイナスな事例が出ているので、気候が「敏感」(“sensitize”になっているので特殊な使い方とは)になる、で正解かと思います。

18.その結果、進歩の驚異を称えることができるような、より広い視点が緊急に必要とされます。それは、進歩の驚異を称えるだけでなく、100年前にはおそらく想像もできなかったような他の影響にも真剣に注意を払うことができるようなものである。私たちに求められているのは、この世を去った後、残す遺産に対する確かな責任以外の何ものでもありません。

19.最後になりますが、Covid-19の大流行は、人間の生命と他の生物、そして自然環境との密接な関係を浮かび上がらせました。しかし、特別な意味で、世界の一部で起こったことが地球全体に影響を及ぼすことが確認されました。このことは、私が何度も繰り返している2つの信念を再確認させてくれました。 「すべてはつながっている」ということと「誰も一人だけでは救われない」ということです。

 

第2章 拡大する技術至上主義の捉え方

20.「Laudato Si」の中で、私は現在の環境破壊の過程の根底にある技術主義的な捉え方について簡単に説明しました。それは、「人間生活の活動を理解するための方法が、私たちを取り巻く世界にとって深刻な損害をもたらすほど歪んでしまった」というものです[13] 。その深層には、「あたかも現実や善や真実が、技術力や経済力から当然のように生み出されるかのように」考えることにあります。その論理的帰結として、「経済学者、金融業者、科学技術者にとって非常に魅力的であることが証明され、無限あるいは無限の成長という考えを受け入れる」ことができるようになるのです。

(以上、11項から20項まで=Chris Kyogetu試訳)

21.近年、私たちは、この診断が正しいと確認することができるようになっていると同時に、この「技術官僚”的思考」が、さらに新たに進化しているのを目撃しています。AI(人工知能)や最新の技術革新は、「人間の能力や可能性は技術のおかげで無限に拡大される、限界を持たない人間」という考え方で始まっています。このように、技術官僚的思考は恐ろしいほど自己増殖するのです。

22. 間違いなく、リチウム、シリコンやその他多くの技術に必要とされる天然資源は無尽蔵ではありません。しかし、より大きな問題は、人間の力を考えられ得るありとあらゆるものを超えて増大させる、その前では非人間的現実など利用できる単なる資源にすぎないという、こびりついた考えが根底にある思想体系です。存在するものはすべて、「私たちが感謝し、敬意を払い、大切に思うべき賜物」ではなくなり、「人間の考えや能力の気まぐれな思い付きの奴隷」となり、餌食となってしまうのです。

23.技術によって拡大された能力が、それを使う知識と経済的資源を持った人々に、人類全体、世界全体を支配する驚くほどの力を与えている。それなのに、その能力が、特に現在、どのように使われているか考える時、賢く使われることを保証するものが何もない… いったい、これらの力すべては誰の手にあるのか、最終的にはそれはどうなるのか。そのことを、はっきり理解すると、戦慄を覚えます。ほんのわずかな人間がその力を持つことは、非常に危険です[16]。

 

力の使い方の再考

24. 力が増大すればなんでも人間にとって進歩となるわけではありません。住民を滅ぼしたり、原子爆弾を落として民族集団を全滅させたりするために使われる「驚くべき」技術のことを考える必要があるのです。進歩を賞賛するあまり、その結果の恐ろしさに盲目になったときが歴史上ありました。しかし、その危険は今も常にあるのです。なぜなら、「私たちの巨大な技術の発展に、人間の責任感や価値観や良心の発展が伴っていないからです。私たちは自分たちのどこまでも増大し続ける力を目の前にして、どうやってそれを制御したらよいか分からず無防備に立ち尽くしているのです。

 表面的な規制の仕組みはありますが、真に制限を設け、明晰な自己制御を教えられる健全な倫理、文化や精神性を持っていると主張することはできないのです」[17]。 生命を破壊し尽くすほどの力を手にしながら、「技術官僚的思考」という考え方は、私たちを盲目させ、現代の人間の極めて重大な問題に目を閉ざさせているのはおかしなことです。

 25.「技術官僚的思考」に反して、「私たちを取り巻く世界は、搾取や、とどまることのない消費、際限ない野望の対象ではありません」。また、自然は、そこで私たちが、自分たちの生活や計画を発展させる舞台背景にすぎないと主張することは出来ません。なぜなら、「自然は、私たちもその一部であり、そこに含まれ、絶え間なく相互に影響し合っているからです」 [18]。ですから、「私たちは、世界を外部からみるのではなく、内部から見る」 [19]のです。

26.これで、人類は、環境を破壊することしかできない”外部”の存在だという発想を消し去ることができるのです。人類は自然の一部であると認識されねばなりません。人間の生命や知性や自由は、私たちの惑星(地球)を豊かにし、その内部の働き、そしてその均衡を保つ自然の要素なのです。

27. こういうわけで、先住民の文化や、地球上のあらゆる地域で何世紀もわたって見られたように、健全な生態系もまた人類と環境の相互作用の結果です。人類の社会集団がしばしば環境を「創り出し」[20]それを破壊したり、危険にさらしたりすることなく、何か別の形に変えてきたのです。

 今日の大きな問題は、「技術官僚的思考」が、その健全で調和のとれた関係を破壊していることです。いかなる場合においても、この非常に有害で破壊的な「技術官僚的思考」を克服するために絶対必要なことは、人間の存在を否定することにあるのではなく、「自然のシステム」と社会のシステムとの相互の関わり合いを含んでいるのです[21]。

28. 私たちは、とりわけ、人間の持つ力、その意味とその制限を考え直す必要があります。この数十年で私たちの持つ力がとんでもない勢いで増大したからです。「目を見張るほどの、驚くべき技術発展を遂げると同時に多くの生き物の営みと、自分たち自身の生存を危機にさらす非常に危険な存在になったことに気づいていません」。「実際に、最後の時代になるほど進んだ時代」というソロヴィオフの皮肉なコメントを今日こそ繰り返す価値があります[22]。私たちの創り出している力と進歩が、私たちに刃向かってきていることを認めることが遅きに失しないために、私たちには明晰さと誠実さがに必要なのです[23]。

倫理的な駆動力

29.「現実の権力の倫理の低下は、市場開拓と偽情報によって覆い隠されています。それらを通して世論に影響を与えるための大きな資金力を持っているものの手の中で、それは便利なメカニズムとなっています」。これらの手段の助けを借りて、環境を大きく変えたり高度なレベルの汚染を引き起こすプロジェクトに取り組む計画がなされるときはいつでも、その地域の住民に、そのプロジェクトがもたらす地域の発展や、経済的成長の可能性や、子供たちにとって重要な、雇用や昇進の可能性について話し、その地域の住民に希望を抱かせます。

 しかし、実際にはこれらの人々の将来に本当の利益があるとは思えません。なぜなら、そのプロジェクトが、、土地を明け渡さねばならなくなったり、生活の質が落ちたり、生命のない不毛の、住
むに適さない風景がひろがったり、地域の人々の楽しみや将来への希望が無くなる結果になるだろうことは、はっきり言われないからです。その上、地球全体に及ぼされる被害に、ゆくゆくは、他の多くに人々も巻き込まれるのです。

30 ある場所で、核の処分場と引き換えに金銭を受け取ったときの一瞬の興奮を考えるだけでも十分です。その金で買えた家は、(そんなことをしなければ、ならなかった?)病気のせいで墓場になっているかもしれない。私はこれを、溢れる出る想像力で言っているのではなく、すでに見たことに基づいて言っているのです。これは極端な例と言えるかもしれませんが、これらの場合「ささいな」被害であるなど言っている余地はありません。

 なぜなら、今日私たちがいる状況に追い込んだのは、まさにこれらの何とか耐えられると考えられるレベルの被害の蓄積だからです。

(21項から30項まで=岡山康子)

31.このような状況は、物理学や生物学だけではなく、経済学や、私たちがどのようにその状況を考えるかにも関係があります。「合理性、発展性、また錯覚を起こさせる約束」という上手に偽装された、最小のコストで最大限の利益を得るという精神構造は、私たちの”共通の家(地球)”を心から思いやったり、社会から切り離された貧しい人々や助けを必要としている人々を助けたい、と常に関心を持ったりすることを不可能にします。

 近年、貧しい人々が、さまざまな偽預言者の約束に驚愕し、引き寄せられ、彼らのために構築されているのではない世界で欺瞞の餌食に時折なっている、ということに私たちは気づきました。

32.「能力主義」という概念についても間違った見解がされるようになってきています。それは、大きな将来性と優位性を生まれつき持つ人たちの支配のもとに、あらゆるものが服従すべき”当然の”人間の力として「能力主義」がみなされるようになっている、ということです。懸命に働くことの価値への健全なアプローチ、人が生来与えられている能力を育てること、そして問題解決のために新たな課題に挑戦するという賞賛すべき精神の一方で、人が真の平等な機会を得ようと努力をしないなら、「能力主義」に合った強い力をもつ少数の人々の特権を一層、強固にするための”目隠し”になってしまいます。

 このように相反する論理のなかで、そうした人々が「自分の能力と努力で手に入れた経済的な資源によって、安全に守られているのだ」と考えるなら、どうして彼らは、私たちの家である地球に与えられた損害を気にかけるでしょうか?

33.一部の人々による行動によって起きた損害の報いを受ける子供たちのことを、良心に照らして考えると、このような問いが必然的に生まれます-「私の人生の意味は何なのか?この地球での私の時間の意味は何なのか?私のすべての仕事と努力の究極的な意味は何なのか?」。

 

 

 

第3章 国際政治の脆弱さ

34.「私たちの日々の中で、逆戻りの兆候がいろいろ見られるようです・・・新しい世代は過去の世代の闘いと達成したものを受け入れなければなりませんが、一方で自分達の目標をさらに高く設定しなければなりません。これが私たちの歩むべき道なのです。愛とともに正義と連帯は今回で最後、ということではありません。日々これらのことは実現されなければならないのです[24]。しっかりと前進し続けるために、私は「国家間で多国間的な合意に至るように優先権が付与されるべきである」[25]と強調します。

35.多国間主義と、過度な権力をもつ限られた個人やエリートに集中している世界的な権限を、混同すべきではない。私たちが、法によって規制された世界規模の権限の形態の可能性について語るとき、一個人の権限について考える必要はありません」[26]。私たちは、「地球規模の共通善、飢餓、貧困の根絶、及び基本的人権を確実に守るのを保証するための権限を持ち、さらに実行力のある世界的な組織」が何よりも大切であると訴えているのです[27]。

 重要なのは、そうした世界的な組織が、ある重要な目標の実現に「備えられる」ように事実上の権限を付与されねばならない、ということです。そうすれば、変化する政治状況やある少数の人々の利益に依存せずに、安定した効力を持つ多国間主義を実現することができるでしょう。

36.世界的な危機が有益な変化をもたらす機会となる可能性があるときに、愚かにもこの機会を活かさないなら、後悔し続けることになります[28]。2007年から2008年の金融危機と新型コロナ大感染の危機がそうでした。「これらの危機後、世界中に実際に展開された戦略は、事実上、利己主義をいっそう強め、人々が力を合わせる動きは後退し、常に無傷のまま逃げる手立てをもつ権力者たちの自由を助長してしまったのです」[29]。

多国間協調主義の再構築

37.新しい世界の情勢を考えると、古い多国間主義をそのまま維持するよりも、今、挑戦すべきは、それを新しく作り直すことのように思われます。「市民社会に存在する多くの団体や組織が、国際的な共同体の欠陥、複雑な状況の調整不足、基本的人権に対する配慮不足を補完してくれている」[30]ということを、皆さんが理解するようにお願いしたのです。対人地雷の使用、生産、製造に反対するオタワ・プロセス(注:カナダ政府が1996年10月にオタワで開いた国際会議に端を発する国際的取り組み。このプロセスを通じて作成された対人地雷禁止条約が1999年3月1日に発効した)は、組織的な市民社会が国連ではできない有効な力学を生み出すことができた一つの成功例を示しています。そのようにして補完性の原理が世界的および地域的な関係でも応用されているのです。

38.中間段階として、グローバル化の進展によって、諸民族間の統合的、自発的な文化交流、より広範囲にわたる知識とプロセスの交流が進むことが望まれます。そうすることで、単に権力をもつエリートたちが決定したものではなくなり、結果として「下から」の多国間主義が誘発されるのです。世界中の活動家が互いに助け、支援し合う、という「下から」の要望は、結果として権力のもとである権限をもつ者たちに圧力をかけることになります。気候変動がもたらす危機に対しても、このようになることが望まれます。

 このような理由から、私は繰り返し訴えます-「市民が、政治的な権力―国家、州、市町村―をコントロールしなければ、環境への損害を抑制することはできないだろう」[31]と。

39.近代後の文化は、脆弱な、権力をもたない人々に、新しい感性をもたらしました。これは、私が回勅「Fratelli Tutti(兄弟の皆さん)」で申し上げた、いかなる状況をも超えて、人間の優位性と、彼あるいは彼女の尊厳を守るべきだ、という主張とつながっています。ある地域的あるいは、たまたまそこに存在する利益よりも、倫理が勝る、という前提で、人類の現実的な緒問題を解決するために多国間主義を奨励し、多くの人の前で人間の尊厳を大切にすることを保証する、という別のやり方もあります。

40.それは政治に取って代わるということではなく、新興勢力がますます関わりをもち、具体的な問題解決を通して、重要な結果を得ることができるのだ、ということを認識することです。新型コロナの世界的大感染の時にも、いくつかこのような例がみられました。問題に対する答えは、どこの国からでももたらされ、当然のプロセスとして、たとえわずかではあっても、多国間主義を示す結果となるのです。

(31から40項=田中典子試訳)

41. 旧式の外交も危機的ではありますが、その重要性と必要性は今もあります。世界の新たな状況に対応できる多国間外交モデルを作り出せないでいる中で、旧式の外交を作り直すことができれば、数世紀にわたる経験を捨て去ることなく、解決策の一部となるに違いありません。

42. 私たちの世界は、あまりにも多極化し、複雑化しており、協力を効果的に進めるために、これまでとは違った枠組みが必要です。勢力の均衡だけを考えるのでなく、新たな問題に対応し、環境、公衆衛生、文化、社会的課題に対して地球規模のメカニズムで対応する必要についても考えねばなりません。特に、最も基本的な人間の権利、社会的権利、私たちの”共通の家”への敬意を強固にする必要があります。それは、地球的防護策を提供できるような包括的で効果的なルールを確立するかどうかの問題です。

43. これらすべての前提は、意思決定と決定の合法化のための新たな手順を開発することにあります。数十年も前に採用された手順では不十分で、効果的とも思われないからです。この枠組みで必要とされるのは、対話、協議、仲裁、紛争解決と監督のための場、そして最終的に求められるのは、様々な状況が表現され、包含されるようにするための、地球的な文脈における一種の進展した「民主化」です。すべての人が持つ権利を大事にせず、強い者たちの権利を守るだけの制度を支持することは、もはや、私たちにとって役に立ちません。

第4章 気候変動に関する一連の国際会議:進展と失敗

44. 数十年も前から、190を超える国々の代表者たちが定期的に会合を開き、気候変動問題に取り組んできました。気候変動に関する国際連合枠組条約(UNFCCC)が、1992年のリオ・デ・ジャネイロ国連会議で採択され、1994年に発効に必要な批准国数に達して発効しました。これらの国々は、最高決定機関である締約国会議(COP)に毎年参加しています。コペンハーゲンのCOP15(2009年)のように失敗に終わったものもありましたが、京都でのCOP3 (1997年)のように重要な前進を可能にした会議もあります。重大な意義を持つ京都議定書では、温室効果ガスの合計排出量を、先進国全体として1990年を基準に5%削減する目標を定めました。しかし、目標達成の最終期限の2012年までには達成できませんでした。

 45. すべての批准国が、今起きている気候変動の影響を減らすための計画を実施することを約束し、開発途上国の対策の費用を補う資金援助についても定められた議定書は、2005年に施行されています。

46. その後、気候変動によって引き起こされる損失と損害に関する仕組みを作ることが提案されました。これは、より豊かな国々に主な責任があるとし、より脆弱な国々において気候変動がもたらす損失と損害の補償を求めるものです。ただ、脆弱国の「適応」に資金を提供するのではなく、既に生じている損害を補償するという内容にとどまっており、この問題については、様々な会議で重要な議論が行われました。

 47. パリのCOP21 (2015年)には、もうひとつ重要なことがありました。先進国、新興国、開発途上国、すべての参加国に温室効果ガスの排出削減を義務付ける協定が作られたのです。以前に定めた目標達成に失敗した経験を踏まえた、新棚出発、と考えることができます。協定は2016年11月4日に発効しました。拘束力をもつ協定ですが、条項のすべてに厳密な意味での履行義務があるわけではなく、その一部には十分な裁量の余地が残されています。さらに、義務不履行に対する制裁規定はなく、その遵守を確実にするための効果的なツールも不足しており、開発途上国には一定の柔軟性も認められています。

 48. このパリ協定は、世界の平均温度上昇を、産業革命以前と比べて2℃未満に抑え、さらに1.5℃未満にまで抑える努力をする、という野心的な目標を掲げています。具体的なモニタリングの手順を整理統合し、様々な国々の目標を比較するための一般的な基準を促進する作業が、現在も進行中ですが、そのために、実際の達成状況をより客観的(定量的)に評価することが難しくなっています。

 49. COP21に続いて開かれたいくつかの会議は成果が乏しく、マドリッドのCOP25 (2019年)には成果がなく、グラスゴーのCOP26 (2021年)では、そうした状況を覆すことが期待されましたが、新型コロナの世界的大感染の影響で中断していたパリ協定の見直しを再開するにとどまりました。実際の効果をほとんど期待できない多くの「勧告」もありましたが、(注:大気や水を)汚染が少ない代替エネルギーへの迅速かつ効果的な移行を確実にするような提案には進展が見られませんでした。

 50. エジプトのシャルム・エル・シェイクのCOP27 (2022年)は、ロシアによるウクライナ軍事侵攻がもたらした世界的な経済、エネルギー危機によって、カーボンの使用が増し、皆がその供給を得ようとする中で開かれ、開発途上国は、エネルギーの入手と開発の見込みを立てることを緊急課題としました。可燃性の燃料がまだ世界のエネルギー消費の80%を占め、さらにその使用が増え続けているという事実は、率直に認めるところとはなりました。

(41-50項=新井忍試訳)

 

51. エジプトで行われたこの会議もまた、交渉の難しさを示す一例となりました。少なくとも、気候変動による災害の影響を大きく被る国々の「損失と損害」への資金援助制度を固めた、という点では一歩前進と言えるかもしれません。これは、発展途上国に新たな発言権とより大きな役割を与えるものになると思われますが、ここでも、資金を拠出することを求められる国々の具体的な責任をはじめ、多くの点が不明瞭なままになっています。

52.今日も引き続き、私たちは次のように言うことができます。「監視・定期的見直し・不履行時の罰則のための適切な仕組みが欠けていたため、協定は不十分にしか履行されていません。宣言された諸原則は今なお、効率的かつ柔軟な実際的実施手段を必要としています」[32]。また、「地球全体の共通善より自国の国益を優先する国々の立場のため、国際交渉は有意な進展を遂げられていません。私たちが隠そうとしていることの結果を被る人々は、この良心と責任感の欠如を忘れることはないでしょう」[33]。

 

 

第5章 COP28に期待するものは?

53. アラブ首長国連邦が11月の国連気候変動枠組条約第28回締約国会議(COP28)を主催します。ペルシャ湾沿岸のこの国は、再生可能エネルギー資源に大きな投資を行ってはいるものの、化石燃料の大輸出国として知られています。一方、ガス会社や石油会社は更なる増産を目指して、アラブ首長国連邦における新プロジェクトを計画中です。何も希望できることはない、と言ってしまうのは自殺的でしょう。それでは全人類、とりわけ最も貧しい人々を、気候変動の最悪の影響に晒すことになるからです。

54.「人間には些細な利害を超えてより大きな視点で物事を考える力がある」という確信が私たちにあるなら、COP28は継続的モニタリングの下での効果的な取り組みを実現し、エネルギー転換を決定的に加速させることを期待し続けることができるでしょう。この会議は、1992年以降に行われたすべてが、実際のところ真摯かつ努力に価するものであったことを示す、方向転換の象徴となりえます。そうならなければ、大きな失望を招き、これまでに達成された成果を損なうものとなるでしょう。

55. 多くの交渉と合意にもかかわらず、地球規模での二酸化炭素排出量は増え続けています。確かに、これまでの一連の合意がなければ、排出量はさらに増えていただろう、と言えるでしょう。しかし、他の環境関連のテーマをみると、オゾン層の保護のように、意志さえあれば、非常に大きな成果が得られているのです。これに対して、風力や太陽光といったクリーンなエネルギー源への移行、脱化石燃料化への取り組みは、十分なスピードでは進んでいません。このため、行われていることが何であれ、「注意をそらすための詭策」としか見なされない恐れがあります。

56. 表向きは心配していても、実質を伴った変化をもたらすような勇気はない、というメンタリティーから、私たちは脱却しなければなりません。(注*2015年にパリのCOP21で合意された協定では、世界の平均気温上昇を産業革命以前に比べてプラス2℃より十分低く保ち、1.5℃に抑える努力をする、と決めていたが)今の二酸化炭素排出量のペースで行くと、たった数年でプラス1.5° Cを超え、さらにすぐ3° Cになり、臨界点に至る危険性が高いことが分かっています。仮に、この後戻りできない地点に達することが避けれたとしても、結果は壊滅的なものとなることが確実であり、莫大な費用と、深刻かつ耐え難い経済的・社会的な打撃を伴う緊急措置を取らなければならなくなるでしょう。今できる対策にはコストがかかりますが、そのコストは、対策が遅れれば遅れるほど重くなります。

57. 私は、次のように主張することが極めて重要と考えています。それは、「発生した環境問題ごとに技術的解決策を立てるだけでは、互いに関連しているものを切り離し、世界システムの本当の、最も深い問題を覆い隠すことになる」[34]ということです。短期的には、回復不可能な悪を前に、適応する努力が必要なのは事実です。二酸化炭素ガスを吸収したり回収したりすることを可能にするいくつかの対策や技術の進歩が有望であることも証明されています。しかし、これでは、水面下で事態の悪化が進んでいるのを間に合わせの修復でごまかすような考え方に、囚われてしまう恐れがあります。将来の問題は新たな技術的介入によって全て解決される、と当て込むのは、雪玉を丘の上から転がすようなもので、一種の「殺人的傾向のあるプラグマティズム」です。

58. この問題を純粋に環境的なもの、「グリーン」なもの、ロマンティックなもの、経済的利権の物笑いの種、として取り上げる無責任な嘲笑に、きっぱりと終止符を打ちましょう。気候変動が、あらゆるレベルにおいて人間と社会の問題であることを、はっきりと認めましょう。であるからこそ、すべての人々が関与する必要があるのです。気候変動に関する会議では、「過激派」として否定的な見方をされる団体の行動が注目を集めがちです。しかし実際には、そうした団体が、健全な「圧力」を行使すべき社会が全体として空にしているスペースを埋めています。子供たちの未来が危機にさらされていることをすべての家庭が理解するためにもです。

59. COP28を、私たち人類に名誉と品位を与える歴史的なイベントにしたいと心から思うなら、効率的、義務的、容易に監視可能、という三つの条件を満たすような拘束力のあるエネルギー転換の実施を望むほかありません。これは、抜本的で、強力で、万人の参加を前提とする、という三つを要件とする、新たなプロセスを開始するためです。今までなかった、このようなプロセスによってのみ、国際政治は信用性を取り戻すことが可能です。この具体的な方法によってのみ、二酸化炭素の排出量を大幅に減らし、時間の経過とともにさらに大きな悪が生じるのを防ぐことが可能となるのです。

60.COP28に参加する人々が、特定の国や企業の目先の利益よりも、共通善と子供たちの未来を考えることのできる戦略家でありますように。そうなることで、「政治の恥」ではなく「政治の崇高さ」を示すことができますように。権力を持つ人々に対して、私はひたすら、次の質問を繰り返します-「(注:会議が失敗すれば)『緊急かつ必要な際に行動を起こせなかった』と記憶されるのが落ちなのに、なぜ、この期に及んで権力にしがみつこうとするのですか」[35]。

(51項から60項=岩井田泰試訳)

 

第6章 霊的な刺激

 

61. この点で、カトリック信者に自身の信仰から生まれた刺激を思い起していただくことが欠せません。 他の宗教の兄弟姉妹たちにも同じようにするよう勧めます。本物の信仰は人間の心に力を与えるだけでなく、人生を変え、目標を変え、他者との関係や創造物との関係に光を当てることができることを、私たちは知っているからです。

 

 信仰の光に照らして

62. 聖書にはこう記されています。「神は、造ったものすべてをご覧になった。それは極めて良かった」(創世記 1章31節)。 「地とそこにあるすべてのものも、あなたの神、主のもの」(申命記10章14節)です。 それゆえ、神は私たちに次のように告げられます。「土地は私のものであり、あなた方は私のもとにいる居留者か滞在者に過ぎない」(レビ記 25章23節)。 したがって、「神の地球に対する責任とは、知性を授けられた人間が自然の法則と、この世界の生き物の間に存在する微妙な均衡を尊重しなければならないこと、を意味するのです」 [36]。

63. 同時に、「宇宙全体は、そのあらゆる多様な関係において、神の尽きることのない豊かさを表わしています」。 したがって、賢明であるためには、「さまざまなものをそれらの複数の関係の中で把握する必要がある」 [37] のです。”知恵の道”に沿って、非常に多くの種が絶滅し、気候変動の危機が他の多くの生き物の生命を危険にさらしていることに、私たちは無関心であってはなりません。

64. イエスは「世界に存在する美しさに注意を払うように人々を招かれました。それは、イエスご自身が常に自然と触れ合い、自然に親しみと驚きに満ちた魅力を与えていたからです。 国中を旅する際、しばしば立ち止まって父が蒔かれた美しさについて深く考え、物事の中に神のメッセージを見るように弟子たちに勧められました」 [38]。

65. したがって、「この世の生き物たちは、もはや単に自然な姿で私たちの前に現れることはありません。なぜなら、復活されたイエスが、神秘の中で生き物たちを自身で保持され、彼らの目的としての満ち足りた方向に導いておられるからです。人間の目が熟視し、賞賛した野の花や鳥そのものが、今では彼の輝かしい存在で満たされているのです」 [39] 。

 「宇宙が神の中で展開し、神がそれを完全に満たすのであれば… 木の葉、山道、露のしずく、貧しい人の顔に、神秘的な意味を見て取ることができます」 [40] 。世界は無限の愛を歌っています。どうして、私たちはそれを大切にしないことができるでしょうか?

 

交わりと献身の旅をする

 

66. 神は、私たちをご自身のすべての被造物と結び付けました。 それにもかかわらず、”技術官僚的”な思考が、私たちを周囲の世界から孤立させ、世界全体が“contact zone(接触帯=「互いに触れ合い、影響し合う領域」の意味)”であることを忘れさせることで、私たちを欺く可能性があります [41]。

67. ユダヤ教とキリスト教の宇宙観は、神のすべての被造物の素晴らしい協和音の中で、人間の独特で中心的な価値を擁護していますが、今日、それでは「状況に応じた人間中心主義」を維持することしかできないことを認識せざるを得なくなっています。 言い換えれば、人間の生活は他の生き物なしでは理解できず、持続不可能であることを認識すること。 なぜなら、「宇宙の一部として、私たち全員が目に見えない絆で結ばれており、一種の普遍的な家族、つまり神聖で愛情深く謙虚な敬意で満たされる崇高な交わりを形成しているからです」 [42]。

68. これは私たち自身の意志の産物ではありません。 その起源は別の場所、私たちの存在の奥底にあります。なぜなら、「神は、私たちを周囲の世界に極めて密接に結びつけてくれたので、私たちは、土壌の砂漠化をほとんど身体的な病気のように感じ、種の絶滅を痛みを伴う外観の損傷として感じることができるからです」 [43] 。

 それでは、「人間は自律的で、全能で、無限である」と考えるのをやめ、謙虚だがより実りある方法で、自分自身について異なる考え方を始めましょう。

69. 皆さん一人ひとりに、私たちの家である世界との和解の巡礼を共にし、世界をより美しくすることに協力してくださるようにお願いします。このように申し上げるのは、この取り組みは私たちの個人の尊厳と最高の価値観に関係しているからです。 同時に、私が強調したいのは、最も効果的な解決策は、個人の努力だけではなく、何よりも国内、国際レベルでの主要な政治的な決定によってもたらされるということを、正直に認める必要がある、ということです。

70. それでもなお、それぞれのほんの少しの取り組みが役に立ち、地球の気温を 10 分の 1 度上昇しないようにすれば、多くの人々の苦しみをいくらか和らげるのに十分かも知れません。 しかし、重要なことは、この問題は必ずしも計量的に量ることができない、ということです。つまり、文化が変わらなければ、社会で活動する人々のライフスタイルや信念が成熟しなければ、永続するような変化はなく、個人の変化がなければ文化の変化はない、ということを認識する必要があるのです。

71.  (空気や水などの)環境汚染、ごみを減らし、よく注意して消費する各家庭の努力が、新しい文化を生み出しています。 個人、家族、地域社会の習慣が変わりつつあるという事実だけでも、政治を担当する諸部署が責任を十分に果たしていないことについての懸念、権力者たちが見せる(環境問題への)関心の欠如への憤り、などが増大していることの説明がつきます。次のような認識を持ちましょう-このような動きが計量的な観点から見て、すぐに目覚ましい効果を生むわけではないが、社会の奥深くから湧き上がる大きな変化のプロセスをもたらすのを、私たちが助けているのだ、と。

72. 米国の1人当たり(注:二酸化炭素)排出量が中国の1人当たり排出量の約 2 倍、最貧国の平均約 7 倍であること考えると [44] 、 西洋モデルと結びついた責任感を欠いたライフスタイルは、(注:地球環境に)重大な、長期にわたる影響をもたらすことになる、と言えます。そして 結果として、私たちは、欠かすことのできない政治判断をもって、互いを心から思いやる道を歩むことになるでしょう。

73. 「神を讃美せよ」がこの勧告のタイトルです。 これをタイトルとしたのは、人間が「神に取って代わる」と宣言するとき、人間自身が自分の最悪の敵になるからです。

 

  教皇就任11年目となる2023年、アッシジの聖フランシスコの祝日である10月4日 ローマの聖ヨハネ・ラテラノ大聖堂にて授かる  フランシスコ

(61項から73項まで、南條俊二試訳)

 

              APOSTOLIC EXHORTATION LAUDATE DEUM 

   OF THE HOLY FATHER FRANCIS TO ALL PEOPLE OF GOOD WILL ON THE CLIMATE CRISIS

 

1. “Praise God for all his creatures”. This was the message that Saint Francis of Assisi proclaimed by his life, his canticles and all his actions. In this way, he accepted the invitation of the biblical Psalms and reflected the sensitivity of Jesus before the creatures of his Father: “Consider the lilies of the field, how they grow; they neither toil nor spin, yet I tell you, even Solomon in all his glory was not clothed like one of these” (Mt 6:28-29). “Are not five sparrows sold for two pennies? Yet not one of them is forgotten in God’s sight” (Lk 12:6). How can we not admire this tenderness of Jesus for all the beings that accompany us along the way!

2. Eight years have passed since I published the Encyclical Letter Laudato Si’, when I wanted to share with all of you, my brothers and sisters of our suffering planet, my heartfelt concerns about the care of our common home. Yet, with the passage of time, I have realized that our responses have not been adequate, while the world in which we live is collapsing and may be nearing the breaking point. In addition to this possibility, it is indubitable that the impact of climate change will increasingly prejudice the lives and families of many persons. We will feel its effects in the areas of healthcare, sources of employment, access to resources, housing, forced migrations, etc.

3. This is a global social issue and one intimately related to the dignity of human life. The Bishops of the United States have expressed very well this social meaning of our concern about climate change, which goes beyond a merely ecological approach, because “our care for one another and our care for the earth are intimately bound together. Climate change is one of the principal challenges facing society and the global community. The effects of climate change are borne by the most vulnerable people, whether at home or around the world”. [1] In a few words, the Bishops assembled for the Synod for Amazonia said the same thing: “Attacks on nature have consequences for people’s lives”. [2] And to express bluntly that this is no longer a secondary or ideological question, but a drama that harms us all, the African bishops stated that climate change makes manifest “a tragic and striking example of structural sin”. [3]

4. The reflection and information that we can gather from these past eight years allow us to clarify and complete what we were able to state some time ago. For this reason, and because the situation is now even more pressing, I have wished to share these pages with you.

 

1. The Global Climate Crisis
5. Despite all attempts to deny, conceal, gloss over or relativize the issue, the signs of climate change are here and increasingly evident. No one can ignore the fact that in recent years we have witnessed extreme weather phenomena, frequent periods of unusual heat, drought and other cries of protest on the part of the earth that are only a few palpable expressions of a silent disease that affects everyone. Admittedly, not every concrete catastrophe ought to be attributed to global climate change. Nonetheless, it is verifiable that specific climate changes provoked by humanity are notably heightening the probability of extreme phenomena that are increasingly frequent and intense. For this reason, we know that every time the global temperature increases by 0.5° C, the intensity and frequency of great rains and floods increase in some areas and severe droughts in others, extreme heat waves in some places and heavy snowfall in others. [4] If up to now we could have heat waves several times a year, what will happen if the global temperature increases by 1.5° C, which we are approaching? Those heat waves will be much more frequent and with greater intensity. If it should rise above 2 degrees, the icecaps of Greenland and a large part of Antarctica [5] will melt completely, with immensely grave consequences for everyone.
Resistance and confusion
6. In recent years, some have chosen to deride these facts. They bring up allegedly solid scientific data, like the fact that the planet has always had, and will have, periods of cooling and warming. They forget to mention another relevant datum: that what we are presently experiencing is an unusual acceleration of warming, at such a speed that it will take only one generation – not centuries or millennia – in order to verify it. The rise in the sea level and the melting of glaciers can be easily perceived by an individual in his or her lifetime, and probably in a few years many populations will have to move their homes because of these facts.
7. In order to ridicule those who speak of global warming, it is pointed out that intermittent periods of extreme cold regularly occur. One fails to mention that this and other extraordinary symptoms are nothing but diverse alternative expressions of the same cause: the global imbalance that is provoking the warming of the planet. Droughts and floods, the dried-up lakes, communities swept away by seaquakes and flooding ultimately have the same origin. At the same time, if we speak of a global phenomenon, we cannot confuse this with sporadic events explained in good part by local factors.
8. Lack of information leads to confusion between large-scale climate projections that involve long periods of time – we are talking about decades at least – with weather forecasts that at most can cover a few weeks. When we speak of climate change, we are referring to a global reality – and constant local variations – that persists for several decades.
9. In an attempt to simplify reality, there are those who would place responsibility on the poor, since they have many children, and even attempt to resolve the problem by mutilating women in less developed countries. As usual, it would seem that everything is the fault of the poor. Yet the reality is that a low, richer percentage of the planet contaminates more than the poorest 50% of the total world population, and that per capita emissions of the richer countries are much greater than those of the poorer ones. [6] How can we forget that Africa, home to more than half of the world’s poorest people, is responsible for a minimal portion of historic emissions?

10. It is often heard also that efforts to mitigate climate change by reducing the use of fossil fuels and developing cleaner energy sources will lead to a reduction in the number of jobs. What is happening is that millions of people are losing their jobs due to different effects of climate change: rising sea levels, droughts and other phenomena affecting the planet have left many people adrift. Conversely, the transition to renewable forms of energy, properly managed, as well as efforts to adapt to the damage caused by climate change, are capable of generating countless jobs in different sectors. This demands that politicians and business leaders should even now be concerning themselves with it.

11. It is no longer possible to doubt the human – “anthropic” – origin of climate change. Let us see why. The concentration of greenhouse gases in the atmosphere, which causes global warming, was stable until the nineteenth century, below 300 parts per million in volume. But in the middle of that century, in conjunction with industrial development, emissions began to increase. In the past fifty years, this increase has accelerated significantly, as the Mauna Loa observatory, which has taken daily measurements of carbon dioxide since 1958, has confirmed. While I was writing Laudato Si’, they hit a historic high – 400 parts per million – until arriving at 423 parts per million in June 2023. [7] More than 42% of total net emissions since the year 1850 were produced after 1990. [8]

12. At the same time, we have confirmed that in the last fifty years the temperature has risen at an unprecedented speed, greater than any time over the past two thousand years. In this period, the trend was a warming of 0.15° C per decade, double that of the last 150 years. From 1850 on, the global temperature has risen by 1.1° C, with even greater impact on the polar regions. At this rate, it is possible that in just ten years we will reach the recommended maximum global ceiling of 1.5° C. [9] This increase has not occurred on the earth’s surface alone but also several kilometres higher in the atmosphere, on the surface of the oceans and even in their depths for hundreds of metres. Thus the acidification of the seas increased and their oxygen levels were reduced. The glaciers are receding, the snow cover is diminishing and the sea level is constantly rising. [10]

13. It is not possible to conceal the correlation of these global climate phenomena and the accelerated increase in greenhouse gas emissions, particularly since the mid-twentieth century. The overwhelming majority of scientists specializing in the climate support this correlation, and only a very small percentage of them seek to deny the evidence. Regrettably, the climate crisis is not exactly a matter that interests the great economic powers, whose concern is with the greatest profit possible at minimal cost and in the shortest amount of time.

14. I feel obliged to make these clarifications, which may appear obvious, because of certain dismissive and scarcely reasonable opinions that I encounter, even within the Catholic Church. Yet we can no longer doubt that the reason for the unusual rapidity of these dangerous changes is a fact that cannot be concealed: the enormous novelties that have to do with unchecked human intervention on nature in the past two centuries. Events of natural origin that usually cause warming, such as volcanic eruptions and others, are insufficient to explain the proportion and speed of the changes of recent decades. [11] The change in average surface temperatures cannot be explained except as the result of the increase of greenhouse gases.

Damages and risks

15. Some effects of the climate crisis are already irreversible, at least for several hundred years, such as the increase in the global temperature of the oceans, their acidification and the decrease of oxygen. Ocean waters have a thermal inertia and centuries are needed to normalize their temperature and salinity, which affects the survival of many species. This is one of the many signs that the other creatures of this world have stopped being our companions along the way and have become instead our victims.

16. The same can be said about the decrease in the continental ice sheets. The melting of the poles will not be able to be reversed for hundreds of years. As for the climate, there are factors that have persisted for long periods of time, independent of the events that may have triggered them. For this reason, we are now unable to halt the enormous damage we have caused. We barely have time to prevent even more tragic damage.

17. Certain apocalyptic diagnoses may well appear scarcely reasonable or insufficiently grounded. This should not lead us to ignore the real possibility that we are approaching a critical point. Small changes can cause greater ones, unforeseen and perhaps already irreversible, due to factors of inertia. This would end up precipitating a cascade of events having a snowball effect. In such cases, it is always too late, since no intervention will be able to halt a process once begun. There is no turning back. We cannot state with certainty that all this is going to happen, based on present conditions. But it is certain that it continues to be a possibility, if we take into account phenomena already in motion that “sensitize” the climate, like the reduction of ice sheets, changes in ocean currents, deforestation in tropical rainforests and the melting of permafrost in Russia, etc. [12]

18. Consequently, a broader perspective is urgently needed, one that can enable us to esteem the marvels of progress, but also to pay serious attention to other effects that were probably unimaginable a century ago. What is being asked of us is nothing other than a certain responsibility for the legacy we will leave behind, once we pass from this world.

19. Finally, we can add that the Covid-19 pandemic brought out the close relation of human life with that of other living beings and with the natural environment. But in a special way, it confirmed that what happens in one part of the world has repercussions on the entire planet. This allows me to reiterate two convictions that I repeat over and over again: “Everything is connected” and “No one is saved alone”.

 

2. A Growing Technocratic Paradigm

20. In Laudato Si’, I offered a brief resumé of the technocratic paradigm underlying the current process of environmental decay. It is “a certain way of understanding human life and activity [that] has gone awry, to the serious detriment of the world around us”. [13] Deep down, it consists in thinking “as if reality, goodness and truth automatically flow from technological and economic power as such”. [14] As a logical consequence, it then becomes easy “to accept the idea of infinite or unlimited growth, which proves so attractive to economists, financiers and experts in technology”. [15]

21. In recent years, we have been able to confirm this diagnosis, even as we have witnessed a new advance of the above paradigm. Artificial intelligence and the latest technological innovations start with the notion of a human being with no limits, whose abilities and possibilities can be infinitely expanded thanks to technology. In this way, the technocratic paradigm monstrously feeds upon itself.

22. Without a doubt, the natural resources required by technology, such as lithium, silicon and so many others, are not unlimited, yet the greater problem is the ideology underlying an obsession: to increase human power beyond anything imaginable, before which nonhuman reality is a mere resource at its disposal. Everything that exists ceases to be a gift for which we should be thankful, esteem and cherish, and instead becomes a slave, prey to any whim of the human mind and its capacities.

23. It is chilling to realize that the capacities expanded by technology “have given those with the knowledge and especially the economic resources to use them, an impressive dominance over the whole of humanity and the entire world. Never has humanity had such power over itself, yet nothing ensures that it will be used wisely, particularly when we consider how it is currently being used… In whose hands does all this power lie, or will it eventually end up? It is extremely risky for a small part of humanity to have it”. [16]

Rethinking our use of power

24. Not every increase in power represents progress for humanity. We need only think of the “admirable” technologies that were employed to decimate populations, drop atomic bombs and annihilate ethnic groups. There were historical moments where our admiration at progress blinded us to the horror of its consequences. But that risk is always present, because “our immense technological development has not been accompanied by a development in human responsibility, values and conscience… We stand naked and exposed in the face of our ever-increasing power, lacking the wherewithal to control it. We have certain superficial mechanisms, but we cannot claim to have a sound ethics, a culture and spirituality genuinely capable of setting limits and teaching clear-minded self-restraint”. [17] It is not strange that so great a power in such hands is capable of destroying life, while the mentality proper to the technocratic paradigm blinds us and does not permit us to see this extremely grave problem of present-day humanity.

25. Contrary to this technocratic paradigm, we say that the world that surrounds us is not an object of exploitation, unbridled use and unlimited ambition. Nor can we claim that nature is a mere “setting” in which we develop our lives and our projects. For “we are part of nature, included in it and thus in constant interaction with it”, [18] and thus “we [do] not look at the world from without but from within”. [19]

26. This itself excludes the idea that the human being is extraneous, a foreign element capable only of harming the environment. Human beings must be recognized as a part of nature. Human life, intelligence and freedom are elements of the nature that enriches our planet, part of its internal workings and its equilibrium.

27. For this reason, a healthy ecology is also the result of interaction between human beings and the environment, as occurs in the indigenous cultures and has occurred for centuries in different regions of the earth. Human groupings have often “created” an environment, [20] reshaping it in some way without destroying it or endangering it. The great present-day problem is that the technocratic paradigm has destroyed that healthy and harmonious relationship. In any event, the indispensable need to move beyond that paradigm, so damaging and destructive, will not be found in a denial of the human being, but include the interaction of natural systems “with social systems”. [21]

28. We need to rethink among other things the question of human power, its meaning and its limits. For our power has frenetically increased in a few decades. We have made impressive and awesome technological advances, and we have not realized that at the same time we have turned into highly dangerous beings, capable of threatening the lives of many beings and our own survival. Today it is worth repeating the ironic comment of Solovyov about an “age which was so advanced as to be actually the last one”. [22] We need lucidity and honesty in order to recognize in time that our power and the progress we are producing are turning against us. [23]

The ethical goad

29. The ethical decadence of real power is disguised thanks to marketing and false information, useful tools in the hands of those with greater resources to employ them to shape public opinion. With the help of these means, whenever plans are made to undertake a project involving significant changes in the environment or high levels of contamination, one raises the hopes of the people of that area by speaking of the local progress that it will be able to generate or of the potential for economic growth, employment and human promotion that it would mean for their children. Yet in reality there does not seem to be any true interest in the future of these people, since they are not clearly told that the project will result in the clearing of their lands, a decline in the quality of their lives, a desolate and less habitable landscape lacking in life, the joy of community and hope for the future; in addition to the global damage that eventually compromises many other people as well.

30. One need but think of the momentary excitement raised by the money received in exchange for the deposit of nuclear waste in a certain place. The house that one could have bought with that money has turned into a grave due to the diseases that were then unleashed. And I am not saying this, moved by a overflowing imagination, but on the basis of something we have seen. It could be said that this is an extreme example, but in these cases there is no room for speaking of “lesser” damages, for it is precisely the amassing of damages considered tolerable that has brought us to the situation in which we now find ourselves.

31. This situation has to do not only with physics or biology, but also with the economy and the way we conceive it. The mentality of maximum gain at minimal cost, disguised in terms of reasonableness, progress and illusory promises, makes impossible any sincere concern for our common home and any real preoccupation about assisting the poor and the needy discarded by our society. In recent years, we can note that, astounded and excited by the promises of any number of false prophets, the poor themselves at times fall prey to the illusion of a world that is not being built for them.

32. Mistaken notions also develop about the concept of “meritocracy”, which becomes seen as a “merited” human power to which everything must be submitted, under the rule of those born with greater possibilities and advantages. A healthy approach to the value of hard work, the development of one’s native abilities and a praiseworthy spirit of initiative is one thing, but if one does not seek a genuine equality of opportunity, “meritocracy” can easily become a screen that further consolidates the privileges of a few with great power. In this perverse logic, why should they care about the damage done to our common home, if they feel securely shielded by the financial resources that they have earned by their abilities and effort?

33. In conscience, and with an eye to the children who will pay for the harm done by their actions, the question of meaning inevitably arises: “What is the meaning of my life? What is the meaning of my time on this earth? And what is the ultimate meaning of all my work and effort?”

34. Although “our own days seem to be showing signs of a certain regression… each new generation must take up the struggles and attainments of past generations, while setting its sights even higher. This is the path. Goodness, together with love, justice and solidarity, are not achieved once and for all; they have to be realized each day”. [24] For there to be solid and lasting advances, I would insist that, “preference should be given to multilateral agreements between States”. [25]

35. It is not helpful to confuse multilateralism with a world authority concentrated in one person or in an elite with excessive power: “When we talk about the possibility of some form of world authority regulated by law, we need not necessarily think of a personal authority”. [26] We are speaking above all of “more effective world organizations, equipped with the power to provide for the global common good, the elimination of hunger and poverty and the sure defence of fundamental human rights”. [27] The issue is that they must be endowed with real authority, in such a way as to “provide for” the attainment of certain essential goals. In this way, there could come about a multilateralism that is not dependent on changing political conditions or the interests of a certain few, and possesses a stable efficacy.

36. It continues to be regrettable that global crises are being squandered when they could be the occasions to bring about beneficial changes. [28] This is what happened in the 2007-2008 financial crisis and again in the Covid-19 crisis. For “the actual strategies developed worldwide in the wake of [those crises] fostered greater individualism, less integration and increased freedom for the truly powerful, who always find a way to escape unscathed”. [29]

Reconfiguring multilateralism

37. More than saving the old multilateralism, it appears that the current challenge is to reconfigure and recreate it, taking into account the new world situation. I invite you to recognize that “many groups and organizations within civil society help to compensate for the shortcomings of the international community, its lack of coordination in complex situations, and its lack of attention to fundamental human rights”. [30] For example, the Ottawa Process against the use, production and manufacture of antipersonnel mines is one example that shows how civil society with its organizations is capable of creating effective dynamics that the United Nations cannot. In this way, the principle of subsidiarity is applied also to the global-local relationship.

38. In the medium-term, globalization favours spontaneous cultural interchanges, greater mutual knowledge and processes of integration of peoples, which end up provoking a multilateralism “from below” and not simply one determined by the elites of power. The demands that rise up from below throughout the world, where activists from very different countries help and support one another, can end up pressuring the sources of power. It is to be hoped that this will happen with respect to the climate crisis. For this reason, I reiterate that “unless citizens control political power – national, regional and municipal – it will not be possible to control damage to the environment”. [31]

39. Postmodern culture has generated a new sensitivity towards the more vulnerable and less powerful. This is connected with my insistence in the Encyclical Letter Fratelli Tutti on the primacy of the human person and the defence of his or her dignity beyond every circumstance. It is another way of encouraging multilateralism for the sake of resolving the real problems of humanity, securing before all else respect for the dignity of persons, in such a way that ethics will prevail over local or contingent interests.

40. It is not a matter of replacing politics, but of recognizing that the emerging forces are becoming increasingly relevant and are in fact capable of obtaining important results in the resolution of concrete problems, as some of them demonstrated during the pandemic. The very fact that answers to problems can come from any country, however little, ends up presenting multilateralism as an inevitable process.

41. The old diplomacy, also in crisis, continues to show its importance and necessity. Still, it has not succeeded in generating a model of multilateral diplomacy capable of responding to the new configuration of the world; yet should it be able to reconfigure itself, it must be part of the solution, because the experience of centuries cannot be cast aside either.

42. Our world has become so multipolar and at the same time so complex that a different framework for effective cooperation is required. It is not enough to think only of balances of power but also of the need to provide a response to new problems and to react with global mechanisms to the environmental, public health, cultural and social challenges, especially in order to consolidate respect for the most elementary human rights, social rights and the protection of our common home. It is a matter of establishing global and effective rules that can permit “providing for” this global safeguarding.

43. All this presupposes the development of a new procedure for decision-making and legitimizing those decisions, since the one put in place several decades ago is not sufficient nor does it appear effective. In this framework, there would necessarily be required spaces for conversation, consultation, arbitration, conflict resolution and supervision, and, in the end, a sort of increased “democratization” in the global context, so that the various situations can be expressed and included. It is no longer helpful for us to support institutions in order to preserve the rights of the more powerful without caring for those of all.

44. For several decades now, representatives of more than 190 countries have met periodically to address the issue of climate change. The 1992 Rio de Janeiro Conference led to the adoption of the United Nations Framework Convention on Climate Change (UNFCCC), a treaty that took effect when the necessary ratification on the part of the signatories concluded in 1994. These States meet annually in the Conference of the Parties (COP), the highest decision-making body. Some of these Conferences were failures, like that of Copenhagen (2009), while others made it possible to take important steps forward, like COP3 in Kyoto (1997). Its significant Protocol set the goal of reducing overall greenhouse gas emissions by 5% with respect to 1990. The deadline was the year 2012, but this, clearly, was not achieved.

45. All parties also committed themselves to implementing programmes of adaptation in order to reduce the effects of climate change now taking place. Provisions were also made for aid to cover the costs of the measures in developing countries. The Protocol actually took effect in 2005.

46. Afterwards, it was proposed to create a mechanism regarding the loss and damage caused by climate change, which recognizes as those chiefly responsible the richer countries and seeks to compensate for the loss and damage that climate change produces in the more vulnerable countries. It was not yet a matter of financing the “adaptation” of those countries, but of compensating them for damage already incurred. This question was the subject of important discussions at various Conferences.

47. COP21 in Paris (2015) represented another significant moment, since it generated an agreement that involved everyone. It can be considered as a new beginning, given the failure to meet the goals previously set. The agreement took effect on 4 November 2016. Albeit a binding agreement, not all its dispositions are obligations in the strict sense, and some of them leave ample room for discretion. In any case, properly speaking, there are no provisions for sanctions in the case of unfulfilled commitments, nor effective instruments to ensure their fulfilment. It also provides for a certain flexibility in the case of developing countries.

48. The Paris Agreement presents a broad and ambitious objective: to keep the increase of average global temperatures to under 2° C with respect to preindustrial levels, and with the aim of decreasing them to 1.5° C. Work is still under way to consolidate concrete procedures for monitoring and to facilitate general criteria for comparing the objectives of the different countries. This makes it difficult to achieve a more objective (quantitative) evaluation of the real results.

49. Following several Conferences with scarce results, and the disappointment of COP25 in Madrid (2019), it was hoped that this inertia would be reversed at COP26 in Glasgow (2021). In effect, its result was to relaunch the Paris Agreement, put on hold by the overall effects of the pandemic. Furthermore, there was an abundance of “recommendations” whose actual effect was hardly foreseeable. Proposals tending to ensure a rapid and effective transition to alternative and less polluting forms of energy made no progress.

50. COP27 in Sharm El Sheikh (2022) was from the outset threatened by the situation created by the invasion of Ukraine, which caused a significant economic and energy crisis. Carbon use increased and everyone sought to have sufficient supplies. Developing countries regarded access to energy and prospects for development as an urgent priority. There was an evident openness to recognizing the fact that combustible fuels still provide 80% of the world’s energy, and that their use continues to increase.

51. This Conference in Egypt was one more example of the difficulty of negotiations. It could be said that at least it marked a step forward in consolidating a system for financing “loss and damage” in countries most affected by climate disasters. This would seem to give a new voice and a greater role to developing countries. Yet here too, many points remained imprecise, above all the concrete responsibility of the countries that have to contribute.

52. Today we can continue to state that, “the accords have been poorly implemented, due to lack of suitable mechanisms for oversight, periodic review and penalties in cases of noncompliance. The principles which they proclaimed still await an efficient and flexible means of practical implementation”. [32] Also, that “international negotiations cannot make significant progress due to positions taken by countries which place their national interests above the global common good. Those who will have to suffer the consequences of what we are trying to hide will not forget this failure of conscience and responsibility”. [33]

 

5. What to Expect from COP28 in Dubai?

53. The United Arab Emirates will host the next Conference of the Parties (COP28). It is a country of the Persian Gulf known as a great exporter of fossil fuels, although it has made significant investments in renewable energy sources. Meanwhile, gas and oil companies are planning new projects there, with the aim of further increasing their production. To say that there is nothing to hope for would be suicidal, for it would mean exposing all humanity, especially the poorest, to the worst impacts of climate change.

54. If we are confident in the capacity of human beings to transcend their petty interests and to think in bigger terms, we can keep hoping that COP28 will allow for a decisive acceleration of energy transition, with effective commitments subject to ongoing monitoring. This Conference can represent a change of direction, showing that everything done since 1992 was in fact serious and worth the effort, or else it will be a great disappointment and jeopardize whatever good has been achieved thus far.

55. Despite the many negotiations and agreements, global emissions continue to increase. Certainly, it could be said that, without those agreements, they would have increased even more. Still, in other themes related to the environment, when there was a will, very significant results were obtained, as was the case with the protection of the ozone layer. Yet, the necessary transition towards clean energy sources such as wind and solar energy, and the abandonment of fossil fuels, is not progressing at the necessary speed. Consequently, whatever is being done risks being seen only as a ploy to distract attention.

56. We must move beyond the mentality of appearing to be concerned but not having the courage needed to produce substantial changes. We know that at this pace in just a few years we will surpass the maximum recommended limit of 1.5° C and shortly thereafter even reach 3° C, with a high risk of arriving at a critical point. Even if we do not reach this point of no return, it is certain that the consequences would be disastrous and precipitous measures would have to be taken, at enormous cost and with grave and intolerable economic and social effects. Although the measures that we can take now are costly, the cost will be all the more burdensome the longer we wait.

57. I consider it essential to insist that “to seek only a technical remedy to each environmental problem which comes up is to separate what is in reality interconnected and to mask the true and deepest problems of the global system”. [34] It is true that efforts at adaptation are needed in the face of evils that are irreversible in the short term. Also some interventions and technological advances that make it possible to absorb or capture gas emissions have proved promising. Nonetheless, we risk remaining trapped in the mindset of pasting and papering over cracks, while beneath the surface there is a continuing deterioration to which we continue to contribute. To suppose that all problems in the future will be able to be solved by new technical interventions is a form of homicidal pragmatism, like pushing a snowball down a hill.

58. Once and for all, let us put an end to the irresponsible derision that would present this issue as something purely ecological, “green”, romantic, frequently subject to ridicule by economic interests. Let us finally admit that it is a human and social problem on any number of levels. For this reason, it calls for involvement on the part of all. In Conferences on the climate, the actions of groups negatively portrayed as “radicalized” tend to attract attention. But in reality they are filling a space left empty by society as a whole, which ought to exercise a healthy “pressure”, since every family ought to realize that the future of their children is at stake.

59. If there is sincere interest in making COP28 a historic event that honours and ennobles us as human beings, then one can only hope for binding forms of energy transition that meet three conditions: that they be efficient, obligatory and readily monitored. This, in order to achieve the beginning of a new process marked by three requirements: that it be drastic, intense and count on the commitment of all. That is not what has happened so far, and only a process of this sort can enable international politics to recover its credibility, since only in this concrete manner will it be possible to reduce significantly carbon dioxide levels and to prevent even greater evils over time.

60. May those taking part in the Conference be strategists capable of considering the common good and the future of their children, more than the short-term interests of certain countries or businesses. In this way, may they demonstrate the nobility of politics and not its shame. To the powerful, I can only repeat this question: “What would induce anyone, at this stage, to hold on to power, only to be remembered for their inability to take action when it was urgent and necessary to do so?” [35]

 

6. Spiritual Motivations

61. I cannot fail in this regard to remind the Catholic faithful of the motivations born of their faith. I encourage my brothers and sisters of other religions to do the same, since we know that authentic faith not only gives strength to the human heart, but also transforms life, transfigures our goals and sheds light on our relationship to others and with creation as a whole.

In the light of faith

62. The Bible tells us: “God saw everything that he had made, and indeed, it was very good” ( Gen 1:31). His is “the earth with all that is in it” ( Deut 10:14). For this reason, he tells us that, “the land shall not be sold in perpetuity, for the land is mine; with me you are but aliens and tenants” ( Lev 25:23). Hence, “responsibility for God’s earth means that human beings, endowed with intelligence, must respect the laws of nature and the delicate equilibria existing between the creatures of this world”. [36]

63. At the same time, “the universe as a whole, in all its manifold relationships, shows forth the inexhaustible richness of God”. Hence, to be wise, “we need to grasp the variety of things in their multiple relationships”. [37] Along this path of wisdom, it is not a matter of indifference to us that so many species are disappearing and that the climate crisis endangers the life of many other beings.

64. Jesus “was able to invite others to be attentive to the beauty that there is in the world because he himself was in constant touch with nature, lending it an attraction full of fondness and wonder. As he made his way throughout the land, he often stopped to contemplate the beauty sown by his Father, and invited his disciples to perceive a divine message in things”. [38]

65. Hence, “the creatures of this world no longer appear to us under merely natural guise, because the risen One is mysteriously holding them to himself and directing them towards fullness as their end. The very flowers of the field and the birds which his human eyes contemplated and admired are now imbued with his radiant presence”. [39] If “the universe unfolds in God, who fills it completely… there is a mystical meaning to be found in a leaf, in a mountain trail, in a dewdrop, in a poor person’s face”. [40] The world sings of an infinite Love: how can we fail to care for it?

 

Journeying in communion and commitment

66. God has united us to all his creatures. Nonetheless, the technocratic paradigm can isolate us from the world that surrounds us and deceive us by making us forget that the entire world is a “contact zone”. [41]

67. The Judaeo-Christian vision of the cosmos defends the unique and central value of the human being amid the marvellous concert of all God’s creatures, but today we see ourselves forced to realize that it is only possible to sustain a “situated anthropocentrism”. To recognize, in other words, that human life is incomprehensible and unsustainable without other creatures. For “as part of the universe… all of us are linked by unseen bonds and together form a kind of universal family, a sublime communion which fills us with a sacred, affectionate and humble respect”. [42]

68. This is not a product of our own will; its origin lies elsewhere, in the depths of our being, since “God has joined us so closely to the world around us that we can feel the desertification of the soil almost as a physical ailment, and the extinction of a species as a painful disfigurement”. [43] Let us stop thinking, then, of human beings as autonomous, omnipotent and limitless, and begin to think of ourselves differently, in a humbler but more fruitful way.

69. I ask everyone to accompany this pilgrimage of reconciliation with the world that is our home and to help make it more beautiful, because that commitment has to do with our personal dignity and highest values. At the same time, I cannot deny that it is necessary to be honest and recognize that the most effective solutions will not come from individual efforts alone, but above all from major political decisions on the national and international level.

70. Nonetheless, every little bit helps, and avoiding an increase of a tenth of a degree in the global temperature would already suffice to alleviate some suffering for many people. Yet what is important is something less quantitative: the need to realize that there are no lasting changes without cultural changes, without a maturing of lifestyles and convictions within societies, and there are no cultural changes without personal changes.

71. Efforts by households to reduce pollution and waste, and to consume with prudence, are creating a new culture. The mere fact that personal, family and community habits are changing is contributing to greater concern about the unfulfilled responsibilities of the political sectors and indignation at the lack of interest shown by the powerful. Let us realize, then, that even though this does not immediately produce a notable effect from the quantitative standpoint, we are helping to bring about large processes of transformation rising from deep within society.

72. If we consider that emissions per individual in the United States are about two times greater than those of individuals living in China, and about seven times greater than the average of the poorest countries, [44] we can state that a broad change in the irresponsible lifestyle connected with the Western model would have a significant long-term impact. As a result, along with indispensable political decisions, we would be making progress along the way to genuine care for one another.

73. “Praise God” is the title of this letter. For when human beings claim to take God’s place, they become their own worst enemies.

Given in Rome, at the Basilica of Saint John Lateran, on 4 October, the Feast of Saint Francis of Assisi, in the year 2023, the eleventh of my Pontificate.

FRANCIS

 


 

[1] UNITED STATES CONFERENCE OF CATHOLIC BISHOPS, Global Climate Change Background, 2019.

[2] SPECIAL ASSEMBLY FOR THE PAN-AMAZONIAN REGION, Final Document, October 2019, 10: AAS 111 (2019), 1744.

[3] SYMPOSIUM OF EPISCOPAL CONFERENCES OF AFRICA AND MADAGASCAR (SECAM), African Climate Dialogues Communiqué, Nairobi, 17 October 2022.

[4] Cf. INTERGOVERNMENTAL PANEL ON CLIMATE CHANGE (IPCC), Climate Change 2021, The Physical Science Basis, Cambridge and New York, 2021, B.2.2.

[5] Cf. ID., Climate Change 2023, Synthesis Report, Summary for Policymakers, B.3.2. For the 2023 Report, see https://www.ipcc.ch/report/ar6/syr/downloads/report/IPCC_AR6_SYR_SPM.pdf.

[6] Cf. UNITED NATIONS ENVIRONMENT PROGRAM, The Emissions Gap Report 2022: https://www.unep.org/resources/emissions-gap-report-2022.

[7] Cf. National Oceanic and Atmospheric Administration, Earth System Research Laboratories, Global Monitoring Laboratory,  Trends in Atmospheric Carbon Dioxide: https://www.gml.noaa.gov/ccgg/trends/.

[8] Cf. IPCC, Climate Change 2023, Synthesis Report, Summary for Policymakers, A.1.3.

[9] Cf. ibid., B.5.3.

[10] These are data of the IPCC, based on 34,000 studies: INTERGOVERNMENTAL PANEL ON CLIMATE CHANGE (IPCC); cf. Synthesis Report of the Sixth Assessment Report (20/03/2023): AR6 Synthesis Report: Climate Change 2023 (ipcc.ch).

[11] Cf. IPCC, Climate Change 2023, Synthesis Report, Summary for Policymakers, A.1.2.

[12] Cf. ibid.

[13] Encyclical Letter Laudato Si’(24 May 2015), 101: AAS 107 (2015), 887.

[14] Ibid., 105: AAS 107 (2015), 889.

[15] Ibid. 106: AAS 107 (2015), 890.

[16] Ibid., 104: AAS 107 (2015), 888-889.

[17] Ibid., 105: AAS 107 (2015), 889.

[18] Ibid., 139: AAS 107 (2015), 903.

[19] Ibid., 220: AAS 107 (2015), 934.

[20] Cf. S. SÖRLIN-P. WARDE, “Making the Environment Historical. An Introduction”, in S. SÖRLIN-P. WARDE, eds., Nature’s End: History and the Environment, Basingstroke-New York, 2009, 1-23.

[21] Encyclical Letter Laudato Si’(24 May 2015), 139: AAS 107 (2015), 903.

[22] Cf. War, Progress and the End of History, Including a Short Story of the Anti-Christ. Three Discussions by Vladimir Soloviev, London, 1915, p. 197.

[23] Cf. SAINT PAUL VI, Address to FAO on its 25th Anniversary(16 November 1970), 4: AAS 62 (1970), 833.

[24] Encyclical Letter Fratelli Tutti(3 October 2020), 11: AAS 112 (2020), 972.

[25] Ibid., 174: AAS 112 (2020), 1030.

[26] Ibid., 172: AAS 112 (2020), 1029.

[27] Ibid.

[28] Cf. ibid., 170: AAS 112 (2020), 1029.

[29] Ibid.

[30] Ibid., 175: AAS 112 (2020), 1031.

[31] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 179: AAS 107 (2015), 918.

[32] Ibid., 167: AAS 107 (2015), 914.

[33] Ibid., 169: AAS 107 (2015), 915.

[34] Ibid., 111: AAS 107 (2015), 982.

[35] Ibid., 57: AAS 107 (2015), 870.

[36] Ibid., 68: AAS 107 (2015), 874.

[37] Ibid., 86: AAS 107 (2015), 881.

[38] Ibid., 97: AAS 107 (2015), 886.

[39] Ibid., 100: AAS 197 (2015), 887.

[40] Ibid., 233: AAS 107 (2015), 938.

[41] Cf. D. J. HARAWAY, When Species Meet, Minneapolis, 2008, pp. 205-249.

[42] Encyclical Letter Laudato Si’ (24 May 2015), 89: AAS 107 (2015), 883.

[43] Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (24 November 2013), 215: AAS 105 (2013), 1109.

[44] Cf. UNITED NATIONS ENVIRONMENT PROGRAM, The Emissions Gap Report 2022: https://www.unep.org/resources/emissions-gap-report-2022.

2023年10月4日

・教皇の使徒的勧告「Laudate Deum(神をほめたたえよ)」発表ー「私たちは気候変動の地球的危機に十分に対応していない、限界点に近づいている」

 

Land devastated by droughtLand devastated by drought 

(2023.10.4  Vatican News)

 教皇フランシスコは、アッシジの聖フランシスコの祝日の4日、2015年の環境回勅「ラウダ―ト・シ」の続編としての使徒的勧告「Laudate Deum(仮訳:神をほめたたえよ)」を発表された。

 勧告で教皇は、「私たちは気候変動の地球的な危機に、十分に対応していない、限界点に近づいています」とされ、「地球温暖化の原因が人類そのものにあることは、もはや疑う余地がありません」と、”気候変動否定論者”を批判し、「私たちの共通の家(地球)への配慮」がキリスト教の信仰からどのように生まれているかについて説明。

 「『神をほめたたえよ』がこの書簡のタイトルです。 それは、人類が『神の代わりになる』と主張するとき、自分たち自身が最悪の敵となるなる(注:ことを自戒する)ためです」と強調されている。

 この使徒的勧告は6章73項から成り、回勅「Laudato si」よりも対象範囲を広げ、統合生態学に関する同回勅の主張をより明確にし、完璧にすることを目指すとともに、気候変動がもたらしている緊急事態を前に警鐘を鳴らし、国際社会が共同責任を果たすよう求めている。

 そして具体的に、11月末から12月初めにかけてドバイで開かれる国連気候変動枠組条約第28回締約国会議(COP28)を見据えて、次のように記しておられる。

 「時間の経過とともに、私たちの対応が適切ではなかったことに気づきました。私たちが住んでいる世界は、崩壊の限界点に近づいているのかも知れません。 その可能性に加えて、気候変動が多くの人々の生活や家庭にますます大きな影響を与えることは疑いの余地がありません」 (2項) 、それは「社会と国際社会が直面する主要な課題の一つ」であり、「気候変動の影響は、それぞれの国で、世界中で、最も弱い立場にある人々が負わされています」(3項)。

*気候変動による危機が一段と明白に

 勧告の第1章は、世界的な気候変動がもたらしている危機を取り上げ、 教皇は「この問題を否定し、隠蔽し、ごまかし、あるいは相対化しようとするあらゆる試みがあるにもかかわらず、気候変動がもたらす危機は存在し、一段と明白になっています」と指摘。「近年、私たちは異常な気象現象、頻繁に起こる異常な暑さ、干ばつ、その他、地球の抗議の叫び」を目の当たりにしており、これは「すべての人に影響を与える静かに進行する病い」と述べている。

 そして、「人類によって引き起こされた特定の気候変動が、ますます頻繁かつ激しさを増している極端な現象が起きる可能性を著しく高めていることは検証可能です」とし、具体的に、地球の気温が今より2度以上上昇した場合、「グリーンランドと南極の大部分の氷冠が完全に溶け、すべての人にとって計り知れない深刻な影響をもたらす」(5項)と説明。

 気候変動の影響を軽視する人々について、「私たちが現在経験しているのは、温暖化の異常な加速であり、検証するのに数世紀や数千年ではなく、ほんの一世代の時間しかかからないほどのスピード。おそらく数年以内に、これらの事実のために多くの人々が今の住まいを移さなければならなくなるでしょう」(6項)。 厳しい寒さも、「同じ原因の別の症状」 (7項)と指摘している。

 

 

 

*貧しい人たちに責任はない

 さらに教皇は、「現実の問題を単純化しようとして、子どもをたくさん抱えいることを理由にして貧しい人たちに責任を押し付け、発展が遅れた国の女性たちをひどく傷つけることで問題を解決しようとする人さえいる」と批判。 「いつもされているように、すべての問題が起きているのは貧しい人々のせいであるように思う向きもあるかもしれませんが、現実には、地球上の限られた裕福な人々が世界総人口の50%以上を占める最も貧しい人々を汚染し、豊かな国の一人当たりの(注:二酸化炭素)排出量は貧しい国の排出量よりもはるかに多い… 世界の最も貧しい人々の半数以上が暮らすアフリカが、歴史的な排出量のごくわずかな部分を占めているに過ぎない、ということをどうして忘れることができるでしょうか?」 (9項)と訴えている。

 教皇はまた、化石燃料の使用を減らして気候変動を緩和しようとする取り組みは、「雇用の減少につながる」と主張する人々によって挑戦を受けているが、「実際には、気候変動によるさまざまな影響で、何百万の人々が仕事を失っている。海面上昇、干ばつ、その他地球に影響を与える現象で、多くの人々が行き場を失っているのです」 と指摘。「適切に管理された再生可能エネルギーへの移行によって… さまざまな分野で無数の雇用を生み出すことができる。政界や経済界の指導者たちには、今、この問題に取り組むことが求められています」(10項)と強調している。

 

(以上、翻訳・編集「カトリック・あい」、以下はバチカン放送日本語課の翻訳を「カトリック・あい」が編集=Vatican Newsの公式英語訳の「気候変動に関する国際的な会議と協定の欠陥」の箇所が翻訳から抜けていたので、追加しました)

 

 

*人類そのものに原因があるのは疑う余地がない

 教皇は「気候変動の人的原因は、すでに疑う余地がない」と明言される。「大気中の温室効果ガスの濃度は…この50年間で大きく上昇した」(11項)が、これとともに気温も「この2千年間で前例を見ない速さで上昇した」(12項)。それに伴い、海洋酸性化と氷河融解も進んでいる。これらの出来事の一致と温室効果ガス排出の上昇は「隠すことはできません。気象学者の大多数はこの相関関係を支持していますが、ごく一部の学者がこの明白さを否定しようとし続けています」と述べつつ、残念ながら、気候危機は「最小のコストと最短の時間で最大の利益を上げようとする、経済的な権力者たちにとって、大きな関心事ではありません」(13項)と記している。

 

 

*今なら、さらにひどい被害を防ぐのに辛うじて間に合う

 

 教皇は 「カトリック教会の内部にも、こうした軽蔑的で非理性的な考えがあることを認めざるを得ません。しかし、気候変動の異常なこれほどまでに危険な速さの理由がどこにあるのか、疑うべくもありません。気候変動の加速は、人間の自然に対する止むことのない介入と結びついています」(14項)と述べる。

 残念ながら、気候変動に伴う現象のいくつかは、少なくとも数百年の間は元に戻すことができないだろう。教皇は「より広い視点を持つことが急務」であるとし、「問われているのは、私たちがこの世を旅した後に残すものに対する、ある種の責任以外の何ものでもありません」(18)としている。

 

 

 

*”技術官僚”的な思考:「限界を持たない人間」という発想は誤りだ 

 勧告の第2章は、「善と真理は、技術と経済の力そのものから自然と花開くもの、との考えに基づく」(20項)”技術官僚”的な思考について語っている。それは「限界を持たない人間」という理想を基礎にしている。「人類が自分自身に対しこれほど大きな権力を持つ一方で、それをより良く使う保証を持たなかったことは、これまでにありません…それがごく一部の人間の手の中にあることは恐ろしいことです」(23項)と言われる。

 「私たちを取り巻く世界は、搾取や、とどまることのない消費、際限ない野望の対象ではない」(25項)と言明され、「私たちも自然の一部だ」という意識をもつことで、「人類は、環境を破壊することしかできない、”外部”の存在、”外部”の原因」という発想を消し去ることができる(26項)と指摘される。

 

*権力の倫理的退廃: 市場開拓と偽情報の氾濫

 私たちは「目を見張るような驚くべき技術発展を遂げると同時に、自分たちが、多くの生き物の営みと自分たち自身の生存を危機にさらす非常に危険な存在になったことに気づいていません」(28項)。「現実の権力の倫理の低下は、市場開拓と偽情報によって覆い隠されています。それらを通して世論に影響を与えるための大きな資金力を持っている者の手の中で、それは便利なメカニズムとなっています」。

 そして、「多くの”偽預言者”の約束を前に恍惚とし、貧しい人たち自身もまた、自分たちのために構築されているのではない世界の”欺瞞の罠”に陥ることがあります」(31項)。「より良い発展条件と共に生まれた者たちの支配」(32項)が存在している、と批判される。

 

*国際政治の脆弱さ:国際金融危機や新型コロナ大感染の経験が無駄にされている

 第3章で、教皇は「国際政治の脆弱さ」というテーマと向き合っておられる。「国家間の多国間的な合意」(34項)を促す必要があり、「世界の共通善を保証するための、権威の備わった、より効果的な国際機関」を希望される。このような国際機関は「不可欠ないくつかの目標の実現を保証するための、実質的な権威を備えねばなりません」(35項)としている。

 さらに教皇は、2007年から2009年にかけての国際金融危機や新型コロナの大感染などの地球的な危機の経験が無駄にされていることを嘆かれ、これらの危機は「個人中心主義を増大させ、一体感を後退させ、『自分たちだけが常に無傷で助かる方法』を見つける権力者たちに、より多くの自由をもたらしました」(36項)とされ、今日の挑戦は、脆弱な国際共同体を助け、補う、市民社会の多くのグループや組織を評価しつつ、「新しい世界情勢の光に照らされた」(37項) 新しい多国間主義を追求すること、と強調されている。

 

*求められる「下からの多国間主義」「全地球的な大きな民主化」の推進

 そのうえで、教皇は「単に”権力エリート”たちによって決められたのではない”下からの多国間主義”」(38項)を提唱される。そして、「普遍的かつ効果的な規則」(42項)を通し「全地球的な仕組みをもって働きかける」ための「効果的な協力のための新たな枠組み」が求められており、そのために「全地球的な”大きな民主化”を進める必要がある」と指摘。「すべての人の権利ではなく、強い者たちの権利を守るだけの制度を支えることは、もはや有益ではありません」(43項)と言明されている。

 

 

*気候変動に関する国際的な会議と協定の欠陥:国益が優先される限り、大きな進展はない

 第4章では、教皇がこれまでに開かれたさまざまな気候変動に関する会議について説明。(注:2020年以降の地球温暖化対策の国際的な枠組みを定めた)2016年のパリ協定を思い起され、「拘束力をもつ協定ではありますが、加盟国が約束を守る、厳密な意味での義務を負っているわけではなく、一部に裁量の余地が残されている」(47項)、 「約束を果たさなくても制裁を受けることはなく、協定を執行するための効果的な手段も欠如しており、約束の履行を確実にするための効果的な手段も不足している」、そして、「監視のための具体的な手順を統合し、さまざまな国の目的を比較するための一般的な基準を促進するための作業がまだ途上にあります」(48項)と指摘。

 教皇は、2019年のマドリードでの国連気候変動枠組条約第25回締約国会議(COP25)に失望されたこと、2021年のグラスゴーCOP26では多くの「勧告」を伴ってパリ協定の目標を復活させたが、「代替エネルギーや汚染の少ない形態への迅速、かつ効果的な移行を確保する傾向にある提案には進展がなかった」こと、を回想( 49項)。

 2022年にエジプトで開かれたCOP27は「交渉の難しさを示すもう一つの例」であり、「気候災害の最も大きな影響を受けた国々の『損失と損害』に資金を供与するシステムの強化に向けた一歩を踏み出した」ものの、 多くの点で「不正確」さが残された(51項)。

 こうしたこれまでの動きから、 国際交渉は「世界共通利益よりも国益を優先する各国の立場を取り続ける限り、大きな進展は見込めません」とされ、「 私たちが隠そうとしていることの結果に苦しまなければならない人々は、この良心と責任の欠如を決して忘れないでしょう」(52項)と訴えられた。

 

 

*11月のドバイ COP28 が地球温暖化抑制のエネルギー転換を加速させることに期待

  
 第5章では、以上のような
回顧を踏まえて、教皇は今年11月30日から12月12日までドバイで開かれる国連気候変動枠組条約第28回締約国会議(COP28)に注目され、「COP28が、効果的な取り組みを恒久的な方法で監視しながら、(注:地球温暖化を抑える)エネルギーの転換に確実なスピードをもたらすことを夢見ずにはいられません」(54項)と期待を表明。その一方で、残念ながら「クリーンなエネルギーへの移行は…、十分な速さで進んでいません」(55項)とも指摘している。

 

 

*環境問題を嘲笑することは、もはやできない

 教皇は、経済的利益のために環境問題を軽視する人々に、「無責任な愚弄」をやめるように呼びかけられている。そして、これは「広義の、あらゆるレベルにおける人類と社会の問題」であり、「すべての人を巻き込む必要がある」と強調。その一方で、過激な団体の抗議活動に対しては、「すべての家族は自分たちの子らの未来がかかっていることを考える」(58項)必要があると抑制を求めつつ、本来なら健全な対応が期待される、ある種の「社会の空白を占めるもの」との受け止め方をしておられる。

 教皇は、ドバイでのCOP28に、効果的で「(注:各国の協定順綬状況を)監視・計測しやすい」「エネルギー移行を義務付ける方法」が生まれることを期待(59項)。また、会議で発表者たちが、「国や企業の利益ではなく、共通善と彼らの子らの未来を考えることができる人々」であることを願い、それによって「政治の恥ではなく、高貴さを示すことができるように」(60項)希望されている。

 

*地球温暖化防止への取り組みはの推進力は、キリスト教の信仰から湧き出るもの


 最終章である第6章で教皇は、地球温暖化防止への取り組みの推進力はキリスト教信仰から湧き出るものだということを思い起されるともに、「他の諸宗教の兄弟姉妹たちに同様のことを働きかける」(61項)よう信者たちに次のように求めておられる。

 「ユダヤ教-キリスト教的な世界観は、すべての生き物の素晴らしい調和の中にある人間の特別で中心的な価値を信じている… 私たちはある意味一つの普遍的家族、至上の共同体を形作っており、それは聖なる、愛に満ちた、謙虚な尊重へと私たちを招いています」(67項)。

 そして、「これは私たちの意志の産物ではありません… 神は、私たちを取り巻く世界に、私たちを強く、分かちがたく一致させたから」(68項)であり、重要なことは「文化的な変化無くして、恒久的な変化は無い…人々の中の変化無くして、文化の変化は無い」(70項)のを思い起すこと。「汚染を減らし、無駄をなくし、賢明な消費をしようとする家庭の努力が、新しい文化を作り出そうとしています」(71項)と希望を述べておられる。

 教皇は勧告の終わりに、「米国での一人当たりの二酸化炭素排出量は、中国の約2倍、最も貧しい国々の平均の約7倍になっている」ことを改めて指摘され、「西洋的なやり方と結びついた無責任な生活スタイルを変える動きの広がりは、長期的に大きな影響を与えるでしょう。そのために欠かすことのできない政治的決断と共に、私たちは互いをいたわり合う道を歩むことができるでしょう」(72項)と期待を込めて展望されている。

 

 

2023年10月4日

(評論)東京補佐司教にレンボ・ミラノ外国宣教会管区長が任命されたのを機に考えるべきこと

 日本の教会は信教の自由が認められた明治以降、もともと、バリ外国宣教会など外国の修道会が中心になって教区が作られ、司教も外国人の修道会員がなってきたが、太平洋戦争が始まった1941年前後から”日本化”がなされ、司教は修道会に属さない日本人に取って代わっていた。

 外国人司祭、修道会司祭が司教になる動きが目立ってきたのは最近五年間のことだ。それを象徴するのか、9月16日の教皇フランシスコによる、ミラノ外国宣教会・東アジア管区長のアンドレア・レンボ師の東京大司教区の補佐司教任命だ。

 

*過去5年間に誕生した新司教8人中、外国人5人、修道会員6人

 

 現在、日本に16ある教区(大阪・高松教区合併で間もなく15になる)のうち外国人司教は5人、修道会8人。2023年まで最近5年間に新たに司教になった8人のうち外国人が5人、修道会が6人となっている。(Opus Dei会員も修道会員にカウント)言い換えれば、過去5年間で新司教となった8人のうち、教区司祭はわずか2人、日本人は3人しかいない、ということになる。

 小教区での現場の司牧経験を豊富に持ち、一般信徒の心情や彼らの抱える問題にも現場で接してきたはずの教区司祭、日本語を母国語として話し、理解し、日本で育って、日本文化、風土環境に長く身を置いてきたはずの日本人司祭に、司教のなり手がいなかった、との見方も成り立つ。

 もちろん、外国人司教が好ましくない、修道会会員の司教が好ましくない、というつもりは毛頭ない。霊的に優れ、リーダーシップがあり、社会的常識を備えた司牧者が選ばれるのは当然だし、そこに外国人であるなし、修道会会員であるなしは関係ない、というのが正論だろう。(もっとも、現在の司教たち全員がそのような資質を備えている、と言うつもりはないが)

*カトリックの”土着化”はもはや無理か

 

 だが、故井上洋治神父やカトリック作家の遠藤周作氏が訴え続けていた、日本人の精神風土に受け入れられる、身の丈に合ったカトリック、キリスト教の”土着”という観点が、まったく忘れ去られていいものだろうか。

 数年前の事だ。ある有力修道会の当時の日本管区長に、このような問いかけをした時、「日本の教会のリーダーシップを日本人だけでとろうとするのは、もはや無理ですね」という答えを聞いて、愕然としたことがあった。先のような現実を目の前にして、もはや”土着”の努力は放棄せざるを得ないのだろうか。

 正確なデータは把握されていないようだが、日本の信者数の半分はすでに外国国籍の信者で占められている、と言われる。実際に、首都圏の小教区でも、外国人労働者が多く居住している地域では、信者の大部分を外国人で占める教会も増えている、と聞く。一方で、日本人の信者は、若者を中心に教会離れが進み、コロナ禍の数年でそれが加速しているようだ。司祭の高齢化、減少も急速に進んでいる。

 内外の経済、社会、政治の不安が続き、先が見えない中で、本来、教会が果たすべき役割は大きいはずだが、特定の組織による非建設的な政府批判以外に、人々に、教会員に希望を与えるような目立った取り組みもないままの状態が続いている。

*日本の教会が一致した新たな福音宣教への取り組みは30年間止まったまま

 

 そのような状況の中で、第二バチカン公会議の精神を受けて、どのように日本における福音宣教を進めて行ったらいいのか。1987年と1993年の二度にわたって開かれた福音宣教推進全国会議の問題意識はまさにそこにあった。だが、十分な成果を生む前に、日本のカトリック教会と離れた形の神学校開設問題など機に、司教団はじめ司祭、信徒が一致して取り組む機運は失われ、動きは止まったまま30年が過ぎている。

 「教会を『世界に開かれた教会』に転換する。そして福音の光に沿って現代世界をリードできるような教会に育てる。それが、第二バチカン公会議の開催を呼びかけたヨハネ23世教皇の真意だったのです。その根本にあるのは、教会には、人類と共に歩む使命がある、という厳粛な事実の再認識です。… 公会議は、典礼の刷新、信教の自由の確立、プロテスタント諸教会との一致運動、諸宗教との対話、司教・司祭・信徒・修道者の召命の見直しと要請、修道会の刷新、社会正義の実現等など、実に多岐の課題に取り組んだのです… 日本の教会も、公会議の影響を受け、大きく変わりました。1987年に開かれた福音宣教推進全国会議は、公会議の流れを受け、公会議の成果の徹底を図ろうとするもの…」

 先日亡くなられた森・元東京教区補佐司教は、当時の東京教区生涯養成員会が主催した連続講演会「第二バチカン公会議と私たちの歩む道」の講演集にこのような序文を寄せてくださったのは、1998年3月のことだった。

*森司教の遺志を継ぎ、日本の教会活性化を”新戦力”に期待できないか

 

 森司教は、当時の白柳枢機卿・東京大司教と共に、日本の教会改革の推進力となり、司教を辞した後も、亡くなるまで日本中の司祭、信徒たちにその必要を訴え続けられた。残念ながら、このような司教の願いは十分に果たされずにいる。

 ”土着化”を事実上放棄した日本の教会、数多くの問題を抱え、沈滞した日本の教会を活性化させる起爆剤になることを、”新戦力”となった外国人司教、修道会員司教に期待するのは無理だろうか。

(「カトリック・あい」代表・南條俊二)

2023年9月18日

・「教皇の発言は『新ロシア的』で信頼できない、バチカンの調停で和平実現はない」ウクライナ大統領顧問が批判(CRUX)

(2023.9.9 Crux Staff)

   ローマ発– ゼレンスキー・ウクライナ大統領の上級顧問、ミハイロ・ポドリャク氏が8日、同国のニュースチャンネル24に出演し、ロシアのカトリック青年の日の集会での教皇フランシスコの

「偉大な母ロシア…」の賞賛発言が物議を醸していることについて、教皇発言は「親ロシア的で、信頼できない」と批判。ウクライナで侵略戦争を進めるロシアとの「和平調停にバチカンが役割を果たす可能性はない」と言明した。そして、教皇の新ロシア的な発言は、バチカン銀行がロシアからの投資を受け入れていることが影響している、との見方も示した。

 ポドリャク氏は、「教皇はこのような言動で、知らず知らずのうちにバチカンの評判を落としている」と述べ、「教皇という調停者が親ロシア的な立場をとっているのであれば、その人物について語るのは意味がない。それは誰の目にも明らかだ… これは初めてではなかったが、私たちは見て見ぬふりをしていたのだ」 とも語った。

 教皇は物議を醸した発言の後、モンゴル訪問からの帰途の機上会見で、この問題について記者から聞かれ、「自分はロシアの『帝国主義』を賞賛しているのではなく、『文化』を賞賛しているのです」と釈明したが、ポドリャク氏は 「今日、彼が親ロシア的な立場をとっているのは明らかであり、これは(現在のロシアによる軍事侵略を止める努力の中で)非常に否定的な形で受け止められている… 他国を侵略し、その国民を殺害しているロシアの権利を声高らかに宣伝するなら、その人は軍事侵略を推進していることになる」と強く批判した。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。Crux is dedicated to smart, wired and independent reporting on the Vatican and worldwide Catholic Church. That kind of reporting doesn’t come cheap, and we need your support. You can help Crux by giving a small amount monthly, or with a onetime gift. Please remember, Crux is a for-profit organization, so contributions are not tax-deductible.

2023年9月11日

・「偉大な母なるロシア…」の教皇発言に、ウクライナのギリシャ・カトリック司教団が「私たちに大きな痛みを与えている」と抗議(CRUX)

(2023.9.8  Crux  Senior Correspondent  Elise Ann Allen)

    「戦争の犠牲者への司牧的支援」をテーマにしたギリシャ・カトリック司教協議会連盟総会が13日までローマで開かれているが、教皇の平和特使、イタリア司教協議会のマッテオ・ズッピ枢機卿が8日、総会に出席中のウクライナ司教団(UGCC)と会見、ロシアとの戦争における「勝利」は、「平和であり、敵の自尊心を奪うことではない。そうすることは、将来の敵意と敵対行為につながる」と述べた。

 この会見は、先日、ロシアのカトリック「青年の日」の会合にビデオ参加した教皇フランシスコがプーチン大統領が信奉するピヨートル大帝などを讃える発言をして、ウクライナはじめ世界的に物議を醸している中で行われた。教皇はロシアの若いカトリック信者たちに「偉大な母なるロシア」を称賛し、「ピョートル1世、エカチェリーナ2世の大ロシア、その偉大な啓蒙帝国」を称賛していた。

 この発言に対して、関係者間に、「教皇は、ロシアの『帝国主義プロパガンダ』を反芻している」と非難の声が上がり、ギリシャ・カトリック教会のウクライナ司教協議会会長、スビアトスラフ・シェフチュク司教も「教皇の言葉は、私たちに大きな痛みと懸念を引き起こした」と声明を発表するなど、ウクライナの人々や教会当局も強く反発している。

 これに対し、ズッピ枢機卿は、直接答えるのを避けつつ、2017年に亡くなったキエフ・ハリチの元大司教であるルボミル・フサール枢機卿を「偉大な霊的権威を持った方だった」と讃えたうえで、彼の言葉を引用する形で「私たち全員が、完全な意味で人間のように振る舞えば、真の最終的な勝利が可能になる。そうでない勝利は部分的または想像上のものであり、真の平和につながることは決してない」と述べた。

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 教皇は、物議を醸している発言の後、モンゴル訪問からの帰途の機中記者会見でこの問題について質問され、「私がそのような発言をした時、『帝国主義』は頭になかった。頭にあったのは『文化』でした。そして『伝統と文化』は決して『帝国主義』ではありません」と釈明したうえで、「世界には、自分たちのイデオロギーを押し付けたい帝国主義者がいます。文化が”蒸留”されてイデオロギーになるとき、毒になります。私たちは(このようなイデオロギーと文化を)区別する必要があります。ロシアの文化も、政治のために否定されてはなりません」と語っていた。

 この問題は、教皇が9月6日にUGCCの司教たちと会見した際にも取り上げられたが、会見後のバチカン広報の説明では、詳細なやり取りは明らかにされず、モンゴル訪問からの帰途の機上会見での教皇の言葉が繰り返されたことにとどまった。

 一方で、UGCCが発表した声明では、教皇と「率直な会話」をしたが、「ウクライナ国民の痛み、苦しみ、そしてある種の失望」を伝えた、とし、「ウクライナと世界中の私たちの信者が教皇に伝えたい言葉を私たちに託し、そのすべてのことを教皇に伝えた… その中には、教皇の特定の振る舞いや発言は『現在、尊厳と独立のための闘争で血を流しているウクライナの人々にとって、痛みであり、苦しみだ』との一部の司教の声を含まれている」と明言。

 声明はさらに、「ロシアのウクライナ軍事侵攻が始まって以来、バチカンとウクライナの間に”誤解”が生じており、これらの誤解は、ロシアのプロパガンダによって『ロシアの残忍なイデオロギー』を正当化するために利用されている」と指摘し、「私たちの教会の信徒たちは、真実と正義の普遍的な声であるはずの、教皇のすべての言葉に対して敏感に反応している」としたうえで、「教皇は、『殉教の次元』を体験しているウクライナの人々の側にいると表明されてが、それは十分に伝わっていない… 私たちは教皇に、戦争に直面し続けるウクライナの人々がしばしば経験する無力感を伝えた、と述べている。

 また、ウクライナの司教団は、教皇との会見で、昨年11月にロシア軍によって逮捕され、いまだに拘留されているイワン・レヴィツキー、ボフダン・ハレタ両神父の釈放を実現するための努力を続けてくれるよう求め、十字架や祈祷書、ロザリオなど二人の私物の一部を教皇の渡した。これに対し、バチカン国務長官のパロリン枢機卿は「二人のために祈っています」と述べるとともに、バチカンにとって現在の優先事項は、捕虜交換とロシアからのウクライナの子供たちの帰還の実現であり、これはズッピ和平特使がキーウとモスクワを訪問した際にも取り上げられている、と説明した。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。Crux is dedicated to smart, wired and independent reporting on the Vatican and worldwide Catholic Church. That kind of reporting doesn’t come cheap, and we need your support. You can help Crux by giving a small amount monthly, or with a onetime gift. Please remember, Crux is a for-profit organization, so contributions are not tax-deductible.

2023年9月11日

・ロシアのウクライナ軍事侵略が恐るべき環境破壊を起こしている―「被造物のための祈願日」にギリシャ正教会総主教が声明

(2023.8.31 Vatican News By Lisa Zengarini)

     9月1日の「被造物のための祈願日」を前にした8月31日、ギリシャ正教会コンスタンティノープル・エキュメニカル総主教のバルトロマイ1世が声明を発表。「環境破壊」と「人権の損壊」の密接な関係を指摘し、具体的にロシアのウクライナ軍事侵略が引き起こしている「恐るべき環境破壊」を糾弾。 「あらゆる戦いの行為は、自然環境に重大な脅威をもたらす、創造物に対する戦争だ」と訴えた。

 ロシアの軍事侵略がウクライナでの恐るべき環境破壊をもたらしている

 声明で総主教は、ロシアがウクライナで続けているあらゆる種類の武器を使った攻撃が「大気、水、そして地球全体を汚染し、核兵器による大量虐殺の危険性を高め、原子力発電所からの放射能の放出、建物の爆撃による発がん性の粉塵発生、森林破壊、農地の破壊による食糧生産の減少など、ウクライナの人々と環境に計り知れない損失をもたらし、今ももたらし続けている」と強く非難し、戦闘の即時停止と「誠実な対話」の開始を、プーチン大統領を筆頭とする関係国首脳たちに改めて要求した。

 また総主教は、人権の概念が、今日では環境権を含む範囲に拡大しており、人権の尊重を求める闘いで、「気候変動、飲料水や肥沃な土壌、清潔な土壌の不足によって脅かされている現実を無視することはできない」と指摘。現在の地球環境の危機に、「何よりも、人権の観点から対処することが緊急に求められている」と訴えた。

 そして、「あらゆる側面と次元において、これらの権利は一つのものであり、分離できないことは自明。  過去数十年にわたって総主教庁が取り組んできた環境保全への取り組みに対する肯定的な反応を評価しつつ、「キリスト教世界だけでなく、他の宗教、政界、市民社会、科学、エコロジー運動や若者の間でも、同じ動きが進んでいる。自然環境の破壊は、何よりも貧しい人々に影響を与える」と強調した。

 そのうえで、環境保護に関する意識を高めるために教会が行ったすべての努力は「単なる追加的な活動ではなく、聖体祭儀の延長としての、本質的な表現と実現である」と、声明を締めくくっている。

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    9月1日の「被造物のための祈願日」は、教皇フランシスコが2015年に制定し、10月4日の祝日まで続く1か月にわたるキリスト教の「創造の季節」の始まりに位置付けられている。そして、この季節の最終日、10月4日のアッシジの聖フランシスコの祝日に、教皇は2015年に発出した環境回勅「ラウダート・シ」の第二部を発表する予定でだ。

 「被造物のための祈願日」を前にした8月31日、モンゴル訪問に立つ教皇は、X(旧ツイッター)への書き込みで、「明日から始まるこの #創造の季節 に、次のいくつもの鼓動について考えてみましょう―私たち自身の鼓動、私たちの母親や祖母の鼓動、創造の鼓動、そして神の心の鼓動―を」。 https://seasonofcreation.org

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2023年9月1日

(読者投稿)”シノドスの道”から外れ、信徒への思いやりと愛の無い”合併劇”

 大阪、高松の教区合併についての、コラム筆者の方の考えに賛同します。

 両教区の担当者たちが「合併」あるいは「吸収合併」でないことを強調するのは、宗教法人法との絡みがあるのではないでしょうか。今回の「合併」を文部科学省にどのように報告する(した)のか分かりませんが、「吸収合併」であれば、細かな規定に縛られて手続きが厄介なのでしょう。法律の専門家ではないので確信を持って言うことはできませんが。

 また、「吸収合併」だとすれば、吸収される高松教区に対して、丁寧な説明が必要となります。それを避けるために「統合」としたのかも知れません。

 これまでの経緯と今後の方針について、両教区の信徒たちには、何の具体的な説明もなされていないようです。私は二つの教区以外の教区の信徒ですが、高松 大阪両教区の信者の皆さんには、今回のバチカンの発表は、青天の霹靂だったのではないでしょうか。

 一切情報を開示せず、結論だけを事務的に公表するやり方は、「全体主義国家」「独裁組織」がすることでしょう。今日の民主的社会では通用しないはずです。「教会には民主主義は当てはまらない」と言うのは責任逃れの便法として使わているにすぎません。

 私の所属する教区では、6年前に教区の合併に関するアンケートを司祭を対象に取っています。しかし、アンケートを取ったこと自体、アンケート集計の結果は信者には一切知らされていません。「信者には関係ないことだ。口を出すな」が、教区の責任者の意識の根底にあるのでしょう。「トップが決めたことに従順に従うのが信徒のつとめ」と言ってはばからない姿勢―教皇フランシスコが最も嫌っておられる「聖職者中心主義」からきているようです。

 日本の多くの教区で、小教区で、教皇フランシスコが主導されている”シノドスの道”や共に歩む教会の建設について語られることは、ほとんどありません。今年の10月と来年の10月、二期にわたる世界代表司教会議(シノドス)総会が終わって文書が出てきたら、対応を考えよう、ということなのでしょう。教皇が常々言っておられる「共に歩む教会、シノダル(共働的)な教会」の意味が全く理解されていません。

 今回の大阪、高松教区の「合併劇」に関する、関係教区の責任ある立場の方々のおかしな対応は、教皇が主導される”シノドスの道”からまったく外れた「信徒への思いやりと愛のない合併劇」。それに尽きると思います。

(日本の南に住む一信徒より)

2023年9月1日

・教皇の“偉大な母なるロシア”の失言にウクライナは遺憾表明、ロシアは謝意!(CRUX)

(2023.8.30  Crux Staff

ローマ –8月25日にサンクトペテルブルクで開かれた「ロシア青年の日大会」にビデオ参加した教皇フランシスコの発言が物議を醸している。教皇は、彼らに向けた講話で、カトリック教徒としての努力を励ます言葉を述べる中で、プーチン大統領が”模範”とするピヨートル大帝を讃えているように受け取られる発言と共に、彼らが「偉大な母なるロシアの後継者だ」と讃えるような表現をした、というものだ。

 ウクライナ政府の報道官は「『偉大な母なるロシアの後継者だ』というような言葉は、帝国主義的プロパガンダに当たる」と反論。同国のギリシャ・カトリック教会の指導者スヴャトスラフ・シェフチュク総大司教も「教皇の言葉が、私たちに大きな悲しみと懸念を引き起こした」と遺憾の意を表明している。

 これに対して、ロシア大統領府のペスコフ報道官はロシアのタス通信とのインタビューで、「ウクライナ戦争に対する、バランスの取れたアプローチだ。教皇はロシアの歴史を知っており、これは非常に前向きなことだ」と称賛。

 ロシア外務省のザハロワ報道官も29日のイタリア通信社アンサとのインタビューで、教皇の言葉に感謝を表明。「ウクライナ紛争を巡るバチカンとロシア政府の対話は、継続しており、両者の関係は相互尊重と建設的な精神で特徴付けられている」と強調。さらに、「クレムリンは、ウクライナ紛争に対するバチカンのバランスの取れたアプローチと、平和的解決を模索するバチカンと教皇個人の努力に深く感謝しているが、残念ながらキエフ政権はこれを拒否したている」と述べた。

 ザハロワ氏の発言は、ウクライナのゼレンスキー大統領が5月にバチカンで教皇と会見した際、ウクライナはロシアとの紛争において調停者を必要としないと述べるとともに、バチカンに対しウクライナの和平計画を支持するよう求めたことが念頭にあると思われる。

 この問題に関し、バチカン報道局は29日に、「ロシアの若者に対する教皇の発言は誤解されている。教皇には、ロシア皇帝の専制主義を称賛する意図はまったくなかった」と否定声明を出した。

 しかし、ウクライナのラテン典礼司教会議の議長であるスコマロフスキー司教は同日、「『偉大なるロシア』への言及は、残念だが、ウクライナに対して9年間も残忍で血なまぐさい戦争を繰り広げている国に対する”偉大な神話”を永続させることになる」と懸念を表明するとともに、「教皇のウクライナ国民に対する支持の姿勢に疑問の余地はない。一つの言葉を問題にするのでなく、ロシアのウクライナ軍事侵攻に対する教皇の姿勢全体を見るべきだ」とウクライナ国民に”自制”を求める一方で、今回のような”誤解”は「教皇とウクライナの間で、外交レベルと教会レベルの両方で、適切な対話が欠如していることによって引き起こされている」と指摘した。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2023年8月31日

・「唐突な教区の『お知らせ』に違和感、信徒が知りたい情報が皆無」大阪教区との合併に、高松教区の有志信徒たちの声

(2023.8.28 カトリックあい)

 バチカンが15日に発表した大阪、高松両教区の合併は、日本の教会関係者の間に大きな波紋を広げているが、当事者である高松教区の信徒有志の方から、普段から教会の在り方などを真剣に考え、努力している若い信徒、中堅の信徒数人の意見をまとめて送っていただいたので、以下に紹介する。共感の声、あるいは異論、反論を歓迎。公平に掲載します。

 

合併の理由について、まず真摯な説明を聞きたい

 

*バチカンの発表を受けて、高松教区が出した「お知らせ」に違和感を覚える信徒が多いようだ。「新しい教区の設立であり、既存の大阪大司教区と高松司教区との合併ではありません」と言うだけで、あとはバチカンの発表そのまま。社会の一般常識からして、これは合併、あるいは吸収合併以外の何ものでもないが、なぜ、このような事態になったのか、なぜ合併される必要があるのか、信徒にとってに寝耳に水の発表になったのか、”新しい教区”になって、何が変わるのか、現在の高松教区はどのような形になるのか、などの疑問に全く答えていない。いや、答える意思さえないように思われる。

 「日本のカトリック現勢」2023年版によると、高松教区の登録信徒数は4208人で全国16教区の中で最も少なく、しかも主日のミサ参加者は平均で新潟、大分両教区と共に1000人を割り込んでいる。若者や中堅層の教会離れには理由があったのに、そのような訴えに、高位聖職者や教会運営に携わる人々は全く聞く耳を持たないどころか、「そんな信徒は要らん」と言い放つ人物までいたのだ。退任司教をはじめ、関わりを持った司祭、助祭たちに、まず、真摯な説明を聞きたい。

 

 

 

四国の教会を立ち直らせる機会にするために必要なことは

 

*今回の大阪、高松教区の合併は、四国の教会を立ち直らせる機会となる可能性がある。信徒数が減少の一途を辿っている四国の教会を、関西の援助も受けながら立て直す絶好のチャンスだと認識して、早急に動き始めることが大切だと思う。だが、その前に、高松教区の指導者たちは、これまで教区のために尽くしてきた信徒へ、真摯な説明をする必要がある。自分たちが率先して教会活性化に取り組むべきであったのに、何も努力しないどころが、前向きの取り組みをしようとする信徒たちを排除することさえしてきた。それが、今回の合併の根本的原因だと思う。しっかり反省し、合併の機会に、”トップダウン”から”ボトムアップ”の組織に転換することを期待する。

 

”大阪”が高松教区の現状を無視し、信徒を傷つけないか心配

*高松教区が無くなるのは決して良いことではない。 教区内で生じている問題を、合併で誕生する”大阪高松大司教区”が、しっかりと引き継ぎ、解決してくれるのだろうか。”新教区の誕生”という言葉はともかく、実際には弱小な高松教区が 大阪教区の中に組み込まれるわけだ。大阪教区の指導者たちが、高松教区の現状を蔑ろにし、信徒をいたずらに傷つけないか、懸念している。
「新教区の誕生」と言うと聞こえは良いが、率直に申し上げて、地理的にも心情的にも大阪と四国の間にはかなりの距離がある。合併の発表を聞いて私たちが動揺しているように、大阪教区の方々の中にも動揺されている方が少なくないのではなかろうか。 この動揺が、心理的、感情的な”すれ違い”となり、大きな軋轢を生むことがないように、新教区発足前に、まず、両教区の信徒の交流の場を作り、互いを知ることが必要だと考える。そのためにも、高松教区は、合併に備えた人事を行い、まともな信徒すらミサに参加できないような現在の教会運営の体制を改めることを求めたい。

 

“お金を回収する道具”のように扱ってきたのが原因か

 

*大阪教区への吸収合併を選択せざるを得なくなったのは、高松教区の政策の失敗だと思う。私の見方では、教区は、信徒をお金を回収する道具のように扱ってきた。キリストの教えとはあまりにもかけ離れ、善良な信徒を失うことに繋がったと考えられる。「法律に従う行為だ」と言いながら、個人の遺産をその人の意思に反して奪おうとするマフィアのボス的な行動も見られた。 お金を集めるためになりふり構わず権力を振るった結果、人もお金も離れてしまったのではないだろうか。合併されたら、こうした問題、責任が消えるわけではない。まず、真摯な反省の表明を伴った、信頼回復が必要だ。

*{お知らせ」では「新しい教区の設立で… 合併ではありません」としているが、誰が聞いても吸収合併である事は明らかだ。なぜこのような事態になったのか、一切説明がないが、実質的に財政破綻したのが、理由ではないか。率直かつ誠実な説明がないまま、合併されても、信徒の教会離れがさらに進むのではなかろうか。現状を見る限り、教区挙げて信頼に努めることは、残念ながら期待できない。

 

2023年8月28日

・大阪教区、前田教区長名で同様の大阪、高松両教区の統合の”お知らせ”

(2023.8.17 カトリック・あい)

 バチカンが15日付けで発表した大阪、高松両教区の”統合”について、大阪教区も16日の日付の教区ホームページで、前田大司教名のお知らせを、教区の司祭、信徒たち関係者に伝えた。高松教区と同様、バチカンの公式発表で「incorporazione (合併あるいは統合の意味)」としているのに対して、「新しい教区の設立であり… 合併ではありません」と、「合併」と見なされることに、わざわざ断りを入れている。

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台風7 号の通過により多くの教会では、聖母被昇天のお祝いを中止にされたことと思います。皆様のご家庭におかれても被害が出ていないことをお祈りしています。
さて、8 月15 日バチカン時間12 時(日本時間19 時)に、教皇庁は以下の発表をいたしました。

教皇フランシスコは、大阪と高松の両教区を統合し、新たに大阪高松大司教区を設立した。
また、教皇フランシスコは、現大阪大司教区大司教のトマス・アクィナス前田万葉枢機卿を新大司教区の初代大司教に任命した。

この度の発表は、新しい教区の設立であり、既存の大阪大司教区と高松司教区との合併ではありません。これから、それぞれの教区の担当者によって意見交換を重ねて、神様が新大司教区に求められていることを識別し、新体制を整えていきます。様々な面でご不安をおかけするかもしれませんが、新しい歩みの中でシノドス的な教会を築いていけるように進んでまいりますので、皆様のご理解とご協力をよろしくお願いいたします。

なお、新大司教区の設立記念ミサや着座に関しては、今後、改めてお知らせいたします。

感謝と祈りのうち

2023年8月17日