“シノドスの道”に思う⑯その1「シノドス総会第2会期を前に、米国とドイツの教会はどのような歩みをしているのか」

    日本のシノドス担当者は「霊における会話」を重視しているようです。「霊における会話」は、昨年10月の世界代表司教会議(シノドス)第16回総会の第1会期のための『討議要綱」に出てきましたが、討議するには、その中身があるはずです。ですから、『討議要綱』のA2.33の最後に「具体的行動に導く正確でしばしば予期しない方向に一歩前進することがなければ、それは霊における会話ではありません」とあります。具体的な課題や問題を「霊的な会話」を方法として討議するなら何がしかの「具体的行動」が一つの結果として出てくるはずです。そのことが、シノドス担当者、いや日本の司教団はどこまで分かっているのでしょうか。米国とドイツの教会の最近の歩みから考えてみます。

*米国の場合;第1会期後も多くの話し合いが・・

 昨年、第1会期が終わり、その『まとめ報告書』がバチカンから出ました。その後、合衆国では76%の教区・主教区は、さらなる「聴く」機会を設けたのです。今年の5月までの短期間ではありましたが、1千以上の「聴く」集会、3万5千人超が参加しました。第1会期と第2会期の中間段階での取り組みです。

 各教区は2,3回の「聴く」集会をするように、シノドスチームから勧められました。その具体的内容を少し紹介します。いろんなことで決断できないこと、教会が伝統的なことを変えていると思うこと、自分たちの教会の規則に反する現代的なことを教会が認めていることなどで、共同体の中に様々な緊張があることが明るみに出たなど。しかし「難しい主題について話し合わなければ、私たち
は機能不良の家族のようになるといった意見も。「他者の考えを聴くことは、挑戦だ。一致しない点が出ても、さらに大きな討議をする必要を見出す」…つまり具体的な問題を分かち合う中で、現在の緊張・不和は、将来の一段高い調和や真理の発見、そして兄弟関係につながるのだ、というのです。

 また「聖職者主義」がどれだけ悪影響を与えているか、女性の能動的な参加が小教区や司教区その他でどれほど求められているか、典礼の問題、カトリック教会の社会教説を深めねばならないこと、性のアイデンティティの問題、性的虐待の問題、人種差別問題などなど。シノダリティが成長していくためには、教区や小教区レベルその他で、具体的で意味あるコミニケーションがなされ、共同責任がなければならないと参加者は主張しています。

 私たちは具体的な問題で分裂や分極化が生じることを恐れがちですが、そうではなく、将来の一致・統合のための過程だと考えて避けてはならないことを、米国の例から学びます。そしてこの文書の中には一度も「霊的会話」なる言葉は出てきません!

*ドイツの場合;ここでも第1会期後、様々な対話が・・

 同じくドイツの司教協議会も、総会第1会期のまとめ報告書が出た後、各教区に具体的に信徒を巻き込んでシノダル(共働的)な取り組みをするように指示しました。その結果、各教区は具体的に信徒を巻き込んでシノダルな動き、つまり全員参加を求めて対話をし、互いの意見を聞き、シノダルな仕組みや委員会の設置などが進みました。そうした中で「神は教会に何をするように求めているのか」という問いを草の根レベルで意識するようになった、と言っています。

 そこには「霊における会話」も方法として用いたことが2回ほど述べられています。またどうすれば、多くの人々を対話やシノダルな構造に参加させることができるか、彼らを協議と意思決定の過程に誘い、また指導的な奉仕職もシノダルな共同体に統合できるか、など分かち合い、またいくつかの教区では新たにシノダルな団体を作ることもしています。シノダリティ(共働性)を考える上で中心的な課題は「参加」です。

 さらに重要な問題として、女性に種々の奉仕職への参加の機会を与えることは喫緊の課題であると再度議論されています。日本にも当てはまる「虐待を生み出す構造」について、また、それに関連して「透明性と説明責任」なども話し合われました。

 この文書の最後には「具体化」という見出しで13項目が挙げられています。「指導者の権威がシノダルに拘束されて行使される」こと、「教会における権力の分散、奉仕者の選任の際、神の民ももっと参加する」こと、「司祭の独身義務の見直し」、「女性が指導者の地位につけるようにする」ことなど。シノダルな教会になっていくには、このような問題の「具体化」を考え、また試行錯誤しながらも実行していくしかないのだと思います。

*霊的会話でも、内容を具体化することが必要・・

 ドイツでは、7月9日の司教協議会のプレス発表で、ベッティング司教協議会議長がローマでの第2会期の討議要綱について解説しています。10月の総会第2会期では、これまで出てきた具体的な個々の改革すべき事柄を中心の論点にはせず、「どうすれば宣教的なシノダルな教会になるのか」がテーマだが、そのためには第1会期で出てきた問題提起の諸相を第2会期の集会で「構造化し具体化し」なければならないこと、そのために「関係」「方法」「場所」という観点から協議されるだろうことを述べています。

 「関係」とは、教区、小教区、信徒を上下の列で考えるのではなく、関係のネットワークとして考える、「方法」とは、意思決定への全員参加や透明性と説明責任を持たせる、「場所」とは、信者が住んでいる具体的な場、文化や土地柄などの多様性を重視し、画一性を強制しない、などです。

 そのあとにベッティング議長が2点述べています。一つは虐待や性的暴力行為は組織的な原因が考えられるのだから、その組織的原因を除去しなければならない(討議要綱の第75項参照)。次に、教皇は10個の作業部会を作って個々の問題を扱うことを決めたが、部会の具体的な説明はされていないし、どういうプロセスで、また人選はどういうふうに決めたのか、これは透明性と説明責任に欠
けることであり、こういった外部委託は「参加」の精神を損なうものであるので「変革」が必要であると。「具体的な変革なしでシノダルな教会のビジョンは信用できないし、シ
ノドスの道から力と希望を汲もうとする神の民のメンバーを遠ざけるものである、と(討議要綱の第71項)。

 以上から、シノダリティを考えるには、まず具体的な問題や課題を考え、「具体的な変革」を考えることから出発するしかないのではないでしょうか。具体的な問題を主題化することなしに霊的会話も成立しないと考えます。

 日本でも信徒と共に「分かち合い」などの「聴く」機会、「発言する」場をもっと提供していくべきでしょう。

*シノドス総会第2会期の討議要綱についての評価

ドイツの信者団体「我が教会」が総会第二会期の討議要綱をどう評価しているか、彼らのウェブサイトの7月9日の投稿を見てみると…。

 「2021年10月に世界規模で始まった”シノドスの道”は、小教区から教区、国、大陸のレベルに、そしてローマへ、また地方に戻るといった循環的な、学習しながらの作業であり、まだその途中ではあるが、一定の評価はできる。しかしながら、第一バチカン公会議以降、君主制的、中央集権的でやってきたローマ・カトリック教会が抱えている組織的(制度的)な困難さは、今でもなお明白である。従って、今日の世界でそれぞれの『異なった文脈』に応じて、諸課題を正当に公平に扱うことのできる神の民の共同体になることは困難だ」としています。
います。

・討議要綱71項と72項の重要な部分は・・

 71項には「(地域や文化といった)文脈の特殊性に適したシノダルな意思決定のプロセスに命を与えるためにあらゆる可能なことを実行することは地方教会の責任です。このことは極めて重要かつ急を要する仕事です。なぜなら今回の世界シノドスが成功裡に実践されるかどうかは、そこに掛かっているからです。目に見える変化がなければ、シノダルな教会の見通しが信用されることはないでしょう」。補完性(相補性)の原理によって、普遍的な事柄以外はもっと地方教会の自治に任せるべきでしょう。補完性の原理については、このコラム「シノドスの道に思う③」でも述べました。

 72項は「“最後に、協議(諮問)、共同の識別、シノダルな意思決定という一連のプロセスが可能であるためには、それに参加する人々が、関連するあらゆる情報にもれなくアクセスできなければなりません。そうすることでその人々は自分自身の合理的な意見を構築することができるのです。・・健全な意思決定のプロセスには、そのための適切なレベルの透明性が必要です」とあります。

・「透明性と説明責任」を求めている点は評価できるが・・

 討議要綱の文中に17回も出てくる「透明性と説明責任」に関する具体的な記載は、シノダルな教会の文化と実践には重要なことだと考えられ、また聖職者主義がはっきりと批判されている点も評価できる、と「我が教会」は言います。そして、「財政的なスキャンダルや性的虐待やパワハラなどによって教会の信用が落ちてしまったのだから、透明性と説明責任は、今こそ必要」とし、「透明性と説明責任」を明らかにするための効果的な形や手続きを展開していく責任は、「現地教会の組織や団体、特に司教協議会にある」と言っています。

 同時に、「そこまで現地教会に責任を持たせるのなら、バチカンはドイツの”シノドスの道”の歩みを阻むことを、もう止めるべきではないか」とも批判しています。

・教会での女性の働きと地位については待ったなし

 また「我が教会」は、「いわゆる女性の問題」について、討議要綱の姿勢を明確に批判しています。特別の研究グループという、いわば外部に任せるのではなく、第1会期と同様に第2会期でもシノドスの集会で取り上げるべきであると。なぜなら2021年に教皇が”シノドスの道”を始められる前から世界の各地の教会では女性の地位と奉仕職の問題が大きくなっていて、「教会は女性の大きな力、活躍を失うなら、教会自体が立ち行かなくなる」という危機感を持っているからです。

 「バチカンが自分たちと専門家だけで重要な問題を審議&意思決定するのではなく、皆でシノダルに協議すべきだ」と、信徒たちは考えているからです。また女性たち、そしてノンバイナリー(男か女かという二分法に当てはめて性を考えない立場)に同等の権利を認めることは「教会の将来の存続問題」であると言っています。

 日本もシノダルな教会になるために、米国やドイツの歩みを参考に、今からでも、少しずつ、しかし着実に司祭や信徒の間で対話や分かち合いを重ねていく努力が必要でしょう。

*諸文書はドイツ司教協議会www.dbk.de ドイツカトリック者中央委員会www.zdk.de 米国カトリック司教協議会www.usccb.orgから。

(西方の一司祭)

2024年9月28日

・カトリック精神を広める⑪ 神様からの呼び掛け:アウグスティヌスの場合

 あなたは信じますか?神様から直接人間に呼び掛けることがあることを

 アウグスティヌスの場合。アウグスティヌスは、カトリック教会で最も重要な哲学者、神学者の一人で、西暦313年にローマのコンスタンチヌス大帝によって、カトリックが公認された後の世界で、マニ教をはじめとした異端との戦いや三位一体といったカトリックの教義に重要な役割を果たした聖人であるが、実は、青年の頃は、性欲等の物欲や、マニ教との異端の教えに染まり、カトリックの熱心な信者であった母モニカを困らせていた。はっきり言って罪人であったが、32歳の時に、神からの呼び掛けに答え一大回心を遂げた。その経緯は、著書「告白」に詳しい。どんな経緯で回心を遂げたのであろうか。

 32歳の時に、母モニカが、16年連れ添った素性のよろしくない女性と別れさせ、良縁を探してきたが、彼女はまだ婚期に達しておらず、2年待たねばならないという。性欲を我慢できない彼は、またしても情婦を探し、性欲を満たしていた。

 良心の呵責に悩まされた彼は、たまたまアフリカから帰った友人から、荒野に住んで修道生活を送る修道士の話しを聞いて、「無学な者が奮起して天をうばったのに、私どもは学問がありながら、どこをのたうち回っているのか。血肉の中にではないか」(「聖人たちの生涯」池田敏雄著、中央出版社より引用)。

 興奮した彼は、涙を拭おうともせずに外に走り出た。すると、隣家の庭で遊ぶ子供たちが「取って読め、取って読め」と繰り返し歌っていた。これを聞いたアウグスティヌスは、これは「聖書を開いて読め!」との神の命令と悟り、すぐに聖書を探して開いたところ、「ローマ人への手紙」13章12節が目に止まった。

 「夜は更けて日は近づいた、だから、闇に行われる業(わざ)を捨てて、光の甲(よろい)をつけよう。昼のように謹(つつし)んで行動しよう。酒盛り、淫乱、好色、争い、妬み(ねたみ)を行わず、主イエス・キリストを着よ。よこしまな肉の欲を満たすために心を傾けることはするな」(「旧約・新約聖書」ドンボスコ社)。

 これを読んで、アウグスティヌスは回心を遂げたのである。

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 初めての詩集を、Amazonkindleよりリリースしましたので、お知らせします⇒https://www.amazon.co.jp/dp/B0DHTWRHSK詩の中の「神々の道楽」は、かなり衝撃的な詩ですが、これは作者自身を揶揄している詩ですので、驚かないでいただけたら幸いです。

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(横浜教区信徒 森川海守=ホームページ:https://www.morikawa12.com

2024年9月27日

・神様からの贈り物 ⑭校長先生から電話をいただき、22年前に戻った気持ちに

 日が昇り、朝の家事を終えた頃、机に置いたスマホの着信ランプが光った。私の胸に、ドキッと緊張が走った。知らない番号からの電話だったからだ。過去に、迷惑電話が頻繁にかかってきた時期があったので、警戒心が強かった。

 しかし、電話番号を検索してみて、驚いた。なんと母校の番号だった。留守電を聞いてみると、「校長です。あなたからのお手紙が届いたので、お礼に電話しました。もしよかったら、電話ください」というメッセージが残されていた。その声は、私の在学時に、教頭先生だった方の声だった。

  私は、すぐに折り返し電話をした。自分の名前を告げ、つい先ほど校長先生からお電話をいただいたので折り返した旨を伝えた。事務員から「少々お待ちください」と言われ、ドキドキしながら保留音を聞いた。「私は、大勢いる卒業生のひとりに過ぎない。事務員さんが、直接、校長先生に取り次いでくれるなんてあるのかしら?」と気が気ではなかった。しかし、それは杞憂だった。

 

***

 

 「三品さん? 私だけど。お手紙届きましたよ。素晴らしいですね!」

  ごく自然な呼び掛けに、まるで目の前に先生がいらっしゃるような気持ちになった。懐かしい声に、胸の辺りに熱いものが込み上げた。

  手紙を書いた経緯は、「カトリックあい」で書いたコラムを、先生にも読んでほしかったからだ。電話では、帰天したシスターのことや互いの近況などを話した。私は、しばし22年前に戻ったような気持ちだった。

  電話を終える直前に、先生からある質問をされた。「あなたは、仕事についてはどう考えているの? 時々、卒業生が仕事を頼みたい人を探していることがあるんですよ」。そう尋ねられたものの、この言葉に、私はどう答えていいのか、分からなかった。

  発達障害や学習障害などの診断がされてから、社会でうまくやれない原因は分かったものの、働く自信が、まるで無くなってしまった。心身の状態も決して良いものではなく、主治医から一般的な就労の許可は出ていない。それでも、私には社会の役に立ちたい気持ちがあった。

  先生は、私の迷いを感じ取ってくださったようだった。「もし必要だったら、連絡しなさいね。それ以外でも、何かあったら、私に電話しなさいね」。その時、受話器の向こうからチャイムが聞こえた。学校の一時間目の授業が始まる時間だ。先生の声と鐘の音が重なる。先生は、「もう行かなくてはいけないけれども、あなたと話せてよかった。しっかり話せた。電話をくれて本当に良かった。いい? 何かあったら、電話しなさいね」と、念を押して電話を終えた。

  目頭が、じわっと熱くなった。目の縁に、みるみる涙がたまっていくのがわかった。それらは、まもなくボロボロと音を立てるようにこぼれ落ちた。通話時間が12分◯秒と表示された。この短い電話が、凍った心をゆっくりと溶かし始めた。

 

***

 

 あれから一年、私は今月、福祉的就労ができる作業所へ見学に行く予定だ。一般就労までの道のりは、まだ遠い。けれど、私は一歩を踏み出すことにした。次回は、先生に嬉しい報告ができそうだ。

 

(カトリック東京教区信徒・三品麻衣)

2024年9月27日

・Sr.阿部の「乃木坂の修道院から」④ 「今、ここに在り、私の人生を生きる」

  「今、ここに在り、私の人生を生きる」に限る―そんな思いを強くしながら、30年ぶりに乃木坂の修道院で生活しています。

 東京・乃木坂の聖パウロ女子修道会を初めて訪れた時の、曲がりくねった同じ坂道、上り切った処に修道院が在ります。尽きない思い出を懐かしみながら上り下り、多少、「きついなぁ」と感じる様になりました。

 久々に姉妹たちと母国語で、新鮮な気持ちで語らっています。目を輝かせて、宣教の出会いの思い出を語る姉妹。本当に素敵な福音宣教物語なのですが、私は既に暗記出来るほど繰り返し聞いているのです。鮮明に覚えている感動の思い出を、今を生き、語る隣人に全身の焦点を合わせて聞く…、生きている実感を噛み締める日々です。

 「今、ここに在り生きる」-開き直った姿勢でここ数年過ごしています。単純さっぱりの実感があり爽快です。「もう何度も聞いた、またか、時間がもったいない…」と考えたらイライラして、心ここに在らず、という自分になりますよね。人生-時間、何のために?仕事?効率よく生きる?ノルマを果たす?

 長い人生でたくさんのことを学びましたが、無駄だと思える事、振り払って生きてきた事々が、キラキラ輝く人生の星屑、大切に押しいただくようになりました。

  *   *   *

 タイを去る寸前、チャンタブリのカミリアン老人ホームを訪問しました。尊敬するレナート神父が、60人のスタッフと140の要介護の患者と老人たちのお世話をしています。自力で歩ける人、車椅子で動ける人を除いて重軽度の介護が必要な人たちが大半。目と口だけが動かせる人、寝たきりの人を時間の許す限り訪ねました。

 何もできないけど、側にいて「十字架のイエスと共に一番大切なお仕事をしている」と拝む様な気持ちで、摩ったり手を握ったり、目をじっと見つめて、信じる思いを捧げました。

 レナート神父は毎日訪問して声をかけておられますが、入所者がどれほど喜んでいるかよく分かります。「スタッフは介護だけで手いっぱい。シスターみたいな存在が大事で望まれているんだけど…」

仏教徒が殆どですが、何人かの信者と朝ミサで会いました。近々洗礼を受ける2人は、連日周りの人のお世話や話し相手、とっても優しい笑顔で感心しました。折り紙を一緒に楽しみ、指ロザリオを造って、欲しい方に差し上げました。皆さんお守りにして、嬉しそうに指にかざして笑顔… ほんの数日間でしたが、タイ国民を支える合掌する手でもある人々に触れて、「お別れ出来て良かったなぁ」と感謝です。

 愛読者の皆さん、星屑を拾いながら、「今」に焦点を絞って、爽やかに生きていきましょう!

(阿部羊子=あべ・ようこ=聖パウロ女子修道会会員)

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2024年9月2日

・シノドスの道に思う ⑮総会第2会期の準備要綱を吟味するー「シノダリティ」と「ヒエラルキー」は”競合”しないのか

 ピウス12世(在位1939年~1958年)は「トリエント公会議からの路線を順守し、1947年、典礼に関する回勅『メディアトル・デイ』を出します。「教会は、神と人類を仲介する大祭司イエス・キリストの任務を継ぐもので、その中に典礼があり、祭壇の秘跡などに現存するキリストに人は活かされるが、それも祭壇の奉仕者を通してである」(第20項)など、権威的な教会観が述べられています。

 「人を教え、統治し、犠牲を捧げる役目は、教会が持っており、そうすることで教会は創造主と被造物の間を再確立する」(第19項)。そして「教会は一つの社会であり、それ自身の権威とヒエラルキアを当然備えている。つまり神秘体のすべての構成員は同じ祝福を分かち持つが、同じ力(権力)を持つわけでも同じ行為をする資格を持つわけでもない。贖い主は、ご自分の王国が、ある仕方で天上のヒエラルキアに似た聖なる秩序(位階)の上に建てられ維持されることを意図された」(第39項)。だから、使徒と、彼らが按手した後継者だけが、祭司職の権能を与えられている… このような教会観は過去のものです。

 一冊良書を紹介させていただきます。藤崎衛著『ローマ教皇はなぜ特別な存在なのか』(NHK出版)。わずか160ページの本ですが、ローマ教皇の権威・権力が西欧中世世界の中でどのように作られていったか学べます。

 振り返ってみますと、教皇フランシスコは2015年10月の『世界代表司教会議(シノドス)設立50周年記念式典における演説』で、教会のあるべき姿が、「共に歩む」シノダル(共働的)な教会でなければならないこと、それは「聴く」教会であり、その運営方法は「すべての人に関わることは、すべての人によって承認されなければならない」が原則、と語られました。

 だから教会は、基本的には全員参加で、意思決定の過程にも最初から最後まで信徒も関わることができ、透明性と説明責任を負っている。「この教会は、”逆ピラミッド”のように… 唯一の権威は、奉仕の権威であり、唯一の権力は、十字架の権力であるべきです」と。

 2024年3月14日付けバチカンのシノドス事務局の文書『宣教するシノドス的教会になるには』には、「シノドス的次元と位階的次元は競合するものではない」-シノダリティ(共働性)とヒエラルキー(位階制)は競合しないと言っていますが、7月に出された10月のシノドス総会第2会期に向けた討議要綱はそうなっているでしょうか。

 「カトリック・あい」には7月中旬から、すでに全文の日本語試訳が掲載されています(司教団の中央協議会ホームページには、いまだに討議要綱原文も日本語訳も載っていない)が、種々の活動を決める際の「意思決定の過程」に一般信徒をどのように参加させるかについて、どのように記述されているのかを見てみましょう。

 「ピラミッド型」という言葉が出てくるのは2か所。第36項と第3部の冒頭部分です。36項では、聖職者の職務観を刷新して権力の行使をピラミッド型からシノダルな型へ移行させ、一般信徒のカリスマと奉仕活動を促す。責任分担をもっときめ細やかにすれば、「意思決定に向けて論じ合うdecision-making 」過程と「最終的に決定を下す(decision-taking 」過程をもっとシノダルな形にできるでしょうと。

 第3部の冒頭では、小教区→司教区→教会管区→司教協議会→ 普遍教会といったピラミッド型に従って教会の活動や諸関係等を連続的な次元や段階で処理していくのではなく、また教会間の諸関係と活動を、直線的な形ではなく、むしろ網の目のようなネットワークとして捉えるべきだ、と言っています。

 討議要綱に「逆ピラミッド」という言葉が見当たらないのは残念ですが、ピラミッド型から「奉仕するヒエラルキー」へという方向性はわずかながら感じられます。

 シノダルな教会になるため、種々の活動を決める際の「意思決定の過程」に一般信徒をどのように参加させるか、その点がどう記述されているのかを見てみましょう。「意思決定のプロセス」を述べた67項から70項は特に重要です。

 第67項 <シノダルな教会においては共同体の多様なメンバー全員が、祈り、聴き、識別し、司牧に関わる決定の際には助言することへ招かれています。このことが明確に実行されるべきです。そのためには、すべての人が、「意思決定に向けて論じ合う decision-making 」過程と「最終的に決定を下す(decision-taking 」過程に参加することが最もシノダルな教会になっていくには効果的であることは想像に難くないでしょう。この参加は、共同体の個々のメンバーを考慮し、個々の能力や賜物を尊重して、様々な異なった責任分担に基づいてなされるものです。>

 ⇒私のコメント:ここで「最終的な意思決定」過程にも信徒は参加するのが効果的とは言っていますが、参加させるとは明言していません。

 第68項 <・・意思決定のプロセスがどのような形をとっていくのかを考えてみましょう。通常、意思決定プロセス(decision-making)は、識別、協議、協働を一緒に行なうという「参加と入念な検討」の段階を含んでおり、この段階はその後続いてなされる「意思決定」に情報を提供し支援します。この「意思決定」をするのは究極的には教区の司教などの権限を有する権威者の責任になります。・・・課題を遂行することは共働の仕事であり、決定は奉仕職の責任です。>

 ⇒私のコメント:要するに、「審議はシノダルに、決定は聖職者がする」ということのようです。これで納得する信徒はいるでしょうか。

 第69項 <権威者は、意思決定する前に、諮問(協議)の段階を踏むことが義務となっています。この協議(諮問)や聴取を軽視することはできません。法的には諮問(協議)で得た意見に権威(者)は拘束されませんが、しかし全般的な意見の一致があるのなら、明白な理由がない限り(=自己の意見がそれに勝るものと自ら判断する理由がない限り)権威者はそれから免れないことになっています。もし権限を有する権威者がそれを無視するなら、権威者は諮問(協議)者たちから孤立してしまい、一致の絆を傷つけることになります。権威の行使は、恣意的な意思を押し付けることではなく、むしろ聖霊が求めることを共に探していく調停的な力となることにあります。>

 ⇒私のコメント:ここで「自ら」とは、言うまでもなく「司教など権限の保持者」です。司教は、「皆が優れていて合理的だ」という意見に逆らって、自己の意見に固執することはできない。しかし多数者の意見が何らかの拘束力をもたないと、司教が”我が道”を行く恐れは十分にあります。)

 第70項 <シノダルな教会においても、決定(決議)は司教、司教団、ローマ教皇の責任かつ権利です。しかしその決定権・決議権は無条件ではありません。諮問(協議)の過程で適切な識別の結果として出てきた方向性は、—特にそれが地方教会の参加諸団体によって出されたものであるなら—無視されてはなりません。識別の目的は・・聖霊に従って皆で共有された決定に至ることです。教会において、審議は、皆の助けをもってなされ、かつ、その奉仕職ゆえに決定を下す司牧的権威者なしでは、なされないのです。このゆえに、教会法典に散見される定型句、「諮問投票権(参考投票権)のみ」は諮問(協議)の価値を貶めるものであるので、修正すべきです。>

 ⇒私のコメント:現行教会法典の「参考投票権のみ」は修正されるべきだ、と明言したことは改革への意志を示していますが、問題は、どのように具体化されるかでしょう。67~70項は結局、「ヒエラルキーの下でのシノダリティ」という構想のようで、その意味で「シノダリティとヒエラルキーは競合しない」ということのようです。

 

*ドイツが考える意思決定のあり方はどうなっているか・・

 

 ドイツの提案(2022年9月8~10日 第4シノドス集会&フォーラム 教会における権力とその分散」)を紹介します。

 教区レベル(小教区レベルも同様)で、既存の評議会や委員会、団体・グループ等からシノドス評議会を作り、教区の重要な事柄すなわち重大な人事計画や人事的開発、司牧計画、将来の展望、重大な財政的決議などを審議する。その際のプロセスは次に通りだ。

① 教区のシノドス評議会は自由・平等・秘密の投票で選出されるべきである。その構成は、教区の神の民をその種々の自発的なフルタイム勤務の団体と奉仕・役務と共に反映するものとなり、またできる限り性別的かつ年代的に平等に構成されるべきである。・・・

② 教区のシノドス評議会は、司教、及び、評議会によって選ばれた議長の二人が共同議長として運営されなければならない。

③ 司教が教区のシノドス評議会の決議(決定)を認めれば、この決議は法的に効力を持つものとなる。

④司教がそれに同意しないために、法的に有効な決議ができない場合は、新たに審議がなされるべきである。ここでも合意に達しないときは、評議会は三分の二の多数をもって司教の票を否定しても構わない。

⑤司教がこの決定をも否定したために、いかなる合意にも至らない場合は、調停の手続きが開始されることになるが、その場合の条件は前もって決めておかねばならないし、そのことにすべての関係する者が関わっておくべきである。

 この「シノドス評議会」はすでに筆者がコラム「シノドスの道に思う➉」で紹介した司教に対応する「カウンターパート」を意味します。ここまですれば、「共同参加」「共同責任」と言えるでしょう。

 以上のような協議と決定過程を、透明性と監視(スーパービジョン)を確保しながら行なうなら、司教の「一致の奉仕」もなされた、と言えると思います。

 

*信徒団体「我々が教会」の5つの目標&要求が達成されない限り、大量の教会離れは続く

 話は変わりますが、以前も紹介したドイツの信徒団体「我々が教会Wir SindKirche 」の規約にある「5つの目標と要求」は次の通りです。

①兄弟的教会を造ること ②教会のすべての奉仕職を女性にも同等に認めること ③司祭に独身制を強制しない ④セクシュアリティをポジティブに評価する;良心の責任ある決定を認めること。
⑤脅すようなメッセージではなく福音を。

 この5つの目標&要求に賛同する種々の団体や組織、有志を内に含んでいる団体(組織)が「我々が教会」です。ちなみに、筆者はこのコラム「シノドスの道に思う④」で倫理神学者へーリンクの考えが極めてシノダルなものであることを紹介しました。

 へーリンクはこの「我々が教会」の一員でもありました。ドイツは2022年度に52万人の信者が、23年度には40万2694人がカトリック教会から離れました。死者も含めると、わずか1年の間にカトリック人口は59万人も減っています。「我々が教会」の5つの目標と要求が達成されない限り、教会離れは今後も続くでしょう。上述の「意思決定のプロセス」でも、聖職者と同等の権利を信徒に認めない限り、納得する信徒はいないでしょう。そして、このような問題意識が希薄な日本の教会は…

(西方の一司祭)

2024年8月31日

・神様からの贈り物⑭ 私に望まれることを受け取る心の余白を用意していたい

 「なぜ、こんなことが、私に起きるのだろう?」普段なら流せる些細な、すれ違いやトラブルだとしても、それらが重なると、前向きに考えるのが難しくなってしまう。自分の信念に従って行動した時には、尚更だ。風船から空気が抜けてしまうように、あっという間に希望が消えてしまう。

 きっかけは、理不尽な目に遭っていた仲間を、私が助けようとしたことだった。私の言動は、周りからは理解されなかった。「正しいことをしたのになぜ? 言わなければ良かった」という無力感が心を覆った。処理できなかった感情が積み重なり、いつしかそれらが生ゴミのように腐敗臭を漂わせた。

 気持ちが沈む中、一生懸命に打開策を考えては実行した。けれども、一向に解決しなかった。「もう、できることはやった」-その自覚はあったが、どうしても諦めきれなかった。

 考え込んで数日、「もうにでもなれ!」と降参するように、散歩に出た。目的地を特に決めずに、無心になってしばらく歩いていた。そんな時、急に頭の中にこんな考えが浮かんだ。「神さまは、私に何をお望みなのだろう? 私にどんな役割を果たしてほしい、と考えていらっしゃるのかしら?」。すると、爽やかな風や、緑のきらめき、広がる青空が、急に感じられるようになった。物事は何も解決していなかったが、生きるエネルギーが沸いてきた。

 後日、先に記したトラブルは、意外な、良い形で終結した。また、その人が理不尽な行為に及んだ背景を知った。反省の言葉と謝罪を受け、その人の素直さに心を打たれた。人生何が起きるか分からないものだ。

 こんなふうに「なぜ?」と原因を人間の視点で考えるのではなく、神さまの思いや望まれることに思いを馳せたとき、気持ちがすっと軽くなった。振り返ると、私の心は、自分の思いでパンパンになっていた。心に余白がなくなっていた。私を通して主の思いを実現させるため、私のやりたいことではなく、神さまが私に何を望まれていることに注目したい。そして、それをいつでも受け取れる余白と余裕を、心に用意していたい。

(東京教区信徒・三品麻衣)

2024年8月31日

・カトリック精神を広める⑩ 神様からの呼び掛けーマザー・テレサの場合

  あなたは信じますか?神様から直接人間に呼び掛けることがあることを…。

 マザー・テレサは、ご存知のように、1997年に85歳で亡くなった時点で、123か国に3914人のシスターを擁する「神の愛の宣教者会」(公式ホームページ:https://www.motherteresa.org/)。に育て上げていた。日本では、1978年以降、東京都山谷、名古屋、別府の3か所に支部修道院を創設し、インドだけではなく、全世界で貧しい人々のために働き、1979年にノーベル平和賞を受賞された故マザー・テレサも、神の呼び掛けを直接聞いた一人である。聞くところによると、一生独身を通す神父様達も、神の呼び掛けを聞いて、神父様やシスターになる、という。そうでなければ、聖職を長く続けられないであろう。

 マザー・テレサは、1910年8月26日ギリシャの北に位置するマケドニア共和国(旧ユーゴスラビア共和国)のスコピエに、建築家の父とイタリア出身の母との間で生まれた。姉と兄がおり、両親は、果樹園を経営し、裕福な家だったようだ。父母とも熱心なカトリック教徒で、18歳の時、シスタ―になることを決意したという。そのことを、彼女は「神がお決めになったのです」と「マザー・テレサ 愛の軌跡」(三代川律子訳、日本教文社)の著者、ナヴィン・チャウラ氏と語っている。19歳の時に希望してインドに派遣され、「神からの呼び掛け」を聞いたのは38歳、ロレット修道会がインドのコルカタで運営している女子の学校で、校長兼地理の教師をしていた時である。 

 1946年9月10日、黙想会に出席のため、コルカタからダージリンに向かう汽車の中で、「貧しい人々とともにいるキリストに尽くしなさい」という神の呼び掛けを直接、聞いたという。それも一度や二度ではない。

 彼女の証言を聞いてみよう。

「内なる呼び掛けの声です。ロレット修道会での生活は幸せでした。しかし、それを捨てて、路上で暮らす貧しい人々のために働くように、と言う声がはっきりと聞こえたのです。呼び掛けが意味する内容はとても単純なことでした。私に修道院を去ることを命じていました。神は私にもっと何かを求めている。私に、もっと貧しくなること、そして神の姿そのものである貧しい人々を愛することを求めている、と感じたのです」(前掲書)。」

 ロレット修道会を退会し、コルカタのスラムで、貧しい人々のために働く許可をローマの教皇庁から得るのに2年かかっている。

 1948年8月8日38歳の時に、ロレット修道会の修道服をぬぎ、水色のふちどり、肩に十字架をつけた白いサリーを身にまとって活動を始めた。スラムで小さい学校を開いたら、初日に5人の子供が来て、その後は日増しに人数が増えていったという。

 その後は、以下の4つの家を作って活動している。

 ・子どもの家(シシュ・ババン) ・親に捨てられた乳幼児の世話する家 ・死を待つ人の家(マザーハウス):病気や飢えで、死にかけている人々を看護する家 ・学校:スラム街で、貧しい子どもたちを集め、勉強を教える ・平和の村:ハンセン病の人々の世話をし、自立のために手助けをする 

 マザー・テレサは2003年10月19日教皇ヨハネ・パウロ二世により福者に列せられ、2016年9月4日に教皇フランシスコにより聖人に列せられた。

(横浜教区信徒・森川海守=ホームページ:https://www.morikawa12.com

 

2024年8月31日

(読者投稿)シノドス総会第2会期直前の今になって、「シノドス・ハンドブック」!ー〝周回遅れ”の日本の司教団

 先日、中央協議会のホームページで「シノドス・ハンドブック」が発行されたことを知った。目を通してみて即時の感想は… 案の定というべきか、期待外れの内容だった。

〇なぜこの時期に発行したのか。今年の始めに、日本の教会でシノドスに取り組む3つの方針が出された。その一つが、シノドス・ハンドブックの発行である。これを作成するのに、どうして半年もかかるものなのか。10月の世界代表司教会議(シノドス)総会第2会期の2か月前に出しても、地方の信徒に伝わるのは第2会期終了後になってしまうだろう。どういう目的で、この時期に出したのか、理解できない。「霊における会話」を信者に普及させたいのであれば、もっと早い時期、3年前に教皇フランシスコが”シノドスの道”を始められた段階で出すべきだったのではないだろうか。

〇この文書の作成者は「日本カトリック司教協議会シノドス特別チーム」である。ということは、日本の各教区のシノドスへの取り組みを把握しているはずだ。いくつもの教区で、小教区レベルからの全信者が参加する取り組みが何もされていない現状を認識しているのだろうか。そのようなところに、このハンドブックを送ってどうなるのだろうか。活用できないことは目に見えている。日本の教会の現状を踏まえて行なう、という発想が欠けていると思う

 かつて日本の教会にはそのような取り組みがあった。第二バチカン公会議の成果を受けた「全国福音宣教推進会議(NICE)」の運動である。「共に喜びをもって歩もう」という、まさに、現在の”シノドスの道”の歩みを始められた教皇フランシスコの思いを先取りした形で、「分かち合い」が不充分ながらも実践されてきた。「聞いて、吸い取り、活かす」ということで「ともに」福音の喜びを生きる道を模索してきた。だが、”高松教区問題”で司教団の歩みが乱れる中で、その運動はいつしか立ち消えになり、NICEを主導した故白柳枢機卿、森司教のようなリーダシップを発揮する人材も司教団に出ないまま、今に至っている、というのが実際のところだ。

 

〇教区間の格差に目を向けるべきではなかろうか。日本における具体的方針の中に「教区におけるシノドスの集いを、できれば9月までに実施する」というものがあった。日本の15教区の実状はどうだろうか。シノドスについてほとんど語られず行動のない教区が存在している。信徒の中には、「シノドスは既に終わっている」「代表者が3月東京に行って参加してきた」ということで、自分たちには関係ないという認識もある。「シノドスの集い」を教区で取り組む予定も準備も信徒に知らせていないのが実状である。このことを「シノドス特別チーム」はどのように考えているのだろうか。後は、各教区の判断で済ませるつもりだろうか。

〇このハンドブックには「非売品」と表示されている。今回のシノドスの重要性を考えるなら、全信者に配付すべきではないだろうか。読者を限定するのであれば、神の民の参加を望むシノドスの趣旨に反することになる。財政面の問題があれば、廉価でも販売すれば良いことである。

 先月にはバチカンのシノドス事務局からシノドス第2会期の討議要綱が発表され、信徒も各自考えていくことになる。そのためには、その材料を「シノドス特別チーム」は早く提供していくべきである。しかし、司教団の消極的姿勢は変わらない。そうであるならば、信徒は自分たちで情報を集めて、分かち合うしかないだろう。

(南のカトリック教会の信徒より)

2024年8月9日

・Sr.阿部の「乃木坂の修道院から」③どんな状況にあっても、父なる神を信じて人生を踊りたい

 仏教信仰の厚いタイ国に長年生活している間に、自分の信仰が少し単純になったなぁ、とありがたい気持ちで思い返しています。

 どこに行っても、目に留まる煌びやかな金箔と赤や派手な彩りの寺院が、ここかしこにあり、信徒が普段にお参りして、線香を捧げ、額ずき、祈る姿はたいへん印象的です。

 多いなぁと思って、調べてみましたが、寺院は3万余。日本の寺院の方がその2倍以上(僧侶は13万余)も多いのです。タイの出家僧侶は29万余、早朝、霞んだ橙色の袈裟を纏い裸足で街を巡り歩き、跪座して捧げ物をする人々のために念仏する姿、高層ビルがそびえる大都会バンコクの巷に見られるこういう光景は、何と言い表したらよいのでしょうか。

    ✴

 カトリック信徒の信仰生活も同じ様に、荘厳な飾り付け、聖体、十字架や聖母子、聖画像に触れ平伏して祈る、感覚が生き生きとした信仰の表現です。

 生活の節々で神仏と関わり、目に見えない次元との行き交いを仲介する僧侶、天と地の交歓を身近に感じながらの人生でしたが、タイの信心雰囲気には終始、何故か馴染めませんでした。けれど、私の信仰を深く、純粋に、研ぎ澄ませる励みになっていたことは確実です。

   ✴

︎ 闇のどん底で私の信じる神は、私を『踊りませんか』と誘ってくださる方か?「自分の拝む、自分の信じる神によって喜んで踊れるか…恐ろしい神を信じている限りでは踊れません。要するに体が動かないのです」(『踊りませんか』=理辺良保行著 あかし書房=より)


タイに派遣される50歳頃から、この問い掛けはいつも、私の内にこだましていました。「どんな状況にあっても、イエスが示された父なる神を信じて、人生を踊りたい」-この私の密かな願いが、感性豊かなタイの人々の信仰心に触れ、辿り着いた私の境地だと思います。

   ✴

 日本に戻って巷の純粋な信仰に触れました。『お祈りする時、住所を言い忘れたんです』と先日あるご婦人との会話、え? 「たくさんの方が祈るので自分の名前と住所をいつも言うんですよ、でないと神様が困るでしょう?」と。紙に描かれた十字架とマリア様を大事に隠し持ってお祈りしている仏教徒の方でした。何と純な…感動しました。

 久しぶりに乃木坂の修道院で姉妹たちと共に祈り、生活しながら、今日-此処に-息吹いている素朴な信仰、本当に嬉しく思います。

 水を掬うように大事に心にいただいて、爽やかな信仰の道を歩み続けたいです。いかなる境地においても、人生を踊りに誘って下さる方と共に、今を生きて捧げる、これに尽きるなぁ、と思います。

 愛読者の皆さん、爽やかな霊の風に導かれ暑い夏を乗り切りましょう。

(阿部羊子=あべ・ようこ=聖パウロ女子修道会会員)

2024年8月1日

・愛ある船旅への幻想曲(42) 10月のシノドス総会第2会期を前にー60年前の第二バチカン公会議が目指した「開かれた教会」はどこに行った?

 歳とともに暑さが身に応える。愛猫と過ごす夏は、暑くても難なく乗り越えられたが、今年の夏に愛猫は居ない。。

 愛し愛されたからだろうか。長患いもせず、綺麗で見事な旅立ちを、私たち家族は彼から学んだ。猫を持って、猫可愛がりを体現した14年だった。

 ペットを飼ったことがない人たちはペットの死を体験することはない。この寂しさに身を置くこともない。。

 人間として生きていると、何事も身を持って体験せねば分からないことが多いだろう。

 動物観は、国や地方によって違うらしい。西洋人の動物観は、旧約聖書の創造主である神が、全ての生き物を創った後に、神に似せて人間を作り支配することを許したことから、人間が支配するとされる。日本人の動物観は、仏教の輪廻転生の考え方があり、不殺生から人と動物とは同格とされている(和辻哲郎哲学者ー動物観の形成に影響を及ぼす風土から)

 そんな日本にも動物虐待が後を絶たない。私が住む県にも、動物愛護団体が増えている。私が知るシェルターには、世界各国からボランティアが来ている。彼らの動物への愛は半端でない。以前は、毎年夏休みを利用し、短期滞在のアイルランド人のカトリック信徒がミサにも参加されていたが、今は外国人ボランティアがミサに与ることはない。世界中で後を絶たないカトリック教会の性的虐待ニュースが世界各国の若者たちに影響していることを、ここでも知る。

 先日、久しぶりに会った女性信徒3人でランチを共にした。一人が言った―「私は今、外国人のミサに与っているの」と。暗に日本人が教会に居ないことを告げようとしたのだが。すると、もう一人の高齢女性が「教会の悪口はやめましょう」。この言葉に、先ほどの方と私は「これは“教会の悪口”⁇ 事実を伝えているのでしょう⁉︎」と反論した。すると、その方は、『教会に対して絶対に負の発言はしないように。教会ってどういう所⁈と思われるじゃない』と反撃された。

 今の教会の状態を改善する気などさらさらなく、閉鎖的で旧態依然とした教会で満足する信徒がここにも居ることを改めて知らされた。なぜ、カトリックが「真実を隠す宗教」になってしまったのか。真実を言う信徒の自由さえ奪い、「体裁だけのカトリック教会」を世に伝えようとする信者像が社会で受け入れられるはずがない。

 イエスは、なぜ十字架上で血を流されたのか。今一度正しく学ぶ必要があるのではなかろうか。

 司教、聖職者を含む信者の二極化から差別が生じ、真摯に教会を考える聖職者と信徒を無下に扱う教会で、司教に”付き従う”聖職者と信徒に、“隣人愛”を語る資格はない。自覚も反省もないままでは、今後、ますます信徒が減り、小教区、さらには教区の合併再編が増えることだろう。

  第2バチカン公会議を機に、世界に、社会に開かれた、全ての人々と共に歩む教会に向けた刷新が始まったはずなのに、60年経った今も、このような日本の教会の状況がある。その原因が、今わかるような気がする。そして、従来通りの教会を望んでいる信者たちを「保守派」として肯定的に受け止める風潮がある。何を持って『保守』と言うのか。開かれた、共に歩む教会にも、そのための改革にも興味がなく、「自分に居場所のある教会」に安住しようとする信者たちを『保守派』と”前向き”に呼ぶことに、私には大きな抵抗がある。

 60年前と今の世界、社会は随分変わってきている。カトリック教会はどうだろうか。私は、教皇が2021年秋から始められた”シノドスの道”に、どう対応すれば良いか分からなかった。適切な指導を信者たちにする指導者も教区にはいなかった。亡くなられた森司教から「開かれた教会をめざして―NICE1公式記録集」に目を通すことを勧められた。。

 今も「聖職者中心主義」の指導者たちに委ねられた教会の姿がある。私のように60年前に子供だった信徒は、今の後期高齢信徒の聖職者への思いとは全く違うのである。「神父さま〜司教さま〜」と目がハートマークになることは一切なく、「悪いことは悪い。変なことは変」と、はっきり言う。そして、嫌われる。結構なことだ。非人間的な組織が教会と呼ばれ、頭ごなしに自分勝手な教会論を押し付けられる現状は、まだしばらくは続くだろう。しかし、限界がもうすぐ来ることを忘れてはならない。

 いついかなる場所であれ、愛を持って綺麗な旅立ちをしたい私である。

 (西の憂うるパヴァーヌ)

2024年7月31日

・映画がカトリックを広める ③モーセの「十戒」、「サウンドオブ・ミュージック」、そして「天使にラブソングを」

 映画「十戒」といえば、名優チャールトン・ヘストンがモーセ役を演じている1956年版が有名である。映画では、旧約聖書の7つの物語、アダムとイブ、ソドムとゴモラ、ノアの箱舟、モーセの出エジプトなどの物語を、聖書の記述通りに正確に再現されている。中でも、エジプトを出たモーセとイスラエルの民を追いかけるエジプト軍の前に出現した、真っ二つに割れた海。そこを歩いて渡りきった彼らの前で、後を追うエジプト軍が、もとに戻った海に巻き込まれて全滅するシーンが、ことのほか有名である。

  ところで、このような物語は単なる作り話なのだろうか。「単なる作り話ではない」と言うのは、大学受験で有名な故竹内均氏である。著書「地球物理学者竹内均の旧約聖書」(同文書院、1988年)では、紀元前1400年頃の地中海で起こったサントリニ島の火山大爆発による島の陥没、カルデラの生成などにより、実際に海が真っ二つに割れた事件が、モーセの出エジプトに記されている、と主張しておられる。

 その他の物語も、実際に起こった事件が旧約聖書の物語に反映されている、という。日本の神話も、単なる物語ではなく、実際に起こった国誕生の事件が神話に反映している、というのが、もはや定説のようになっている。それはともかく、「十戒」を見れば、西洋人が話題にする聖書の物語が一通り理解できるので、教養として鑑賞してはどうだろう。

 

 聖書物語などキリスト教そのものを表現した作品ではないが、カトリック精神が充満している映画としては、「サウンドオブ・ミュージック」をお勧めしたい。

 ジュリー・アンドリュース扮する修道女が、見渡す限りの山の草原で歌い上げる、まさに、今でいえばドローンで撮ったような雄大な冒頭のシーンが有名だ。実は彼女は、毎回祈りの時間に遅れ、院長から「あなたは修道女に向いていない」と諭されていた。歌っているところではなかったのだ。

 そうして7人の子供を持つ大佐一家に家庭教師として赴任する中での、恋あり、一家を捕らえようとするナチからの逃走劇ありの、実話に基づいた映画である。楽しい映画で、見たことがない人は是非鑑賞を勧めたい。実はこの映画の続編があって、ナチの追跡から辛うじてアメリカに逃れたトラップ一家がいかにしてアメリカで有名な家庭コーラスになっていくかが演じられている。

  「天使にラブソングを」もいい。ギャングに追われた女性主人公の逃亡先の修道院の、あまりにも音程の酷いコーラスを立派に育て上げていく物語で、大ヒットし、続編が何編か作られている。

 

(横浜教区信徒 森川海守 ホームページ:https://www.morikawa12.com

2024年7月31日

・神様からの贈り物 ⑬神様の子どもである喜びを、ろうそくの火を分けるように広げたい

  今から10年ほど前、初めての本を出版した。私は嬉しくて舞い上がっていた。著名な方々も含め、たくさんの人たちに献本として拙著を送付してしまった。ある日、受け取らなかった旨のスタンプが押されて返送されたものがあり、はっとした。相手方に、献本を受けているかを確認しなかった、と気づいた。対応は温かいものが多く、とても嬉しかったが、献本を辞退されたのは残念、というのも正直な気持ちだった。

 そんな中、出版社から私のもとにメールである連絡が入った。「三品さんにお手紙が届いています。教会関係の方でしょうか」と言われ、不思議に思った。「誰だろう?知っている人なら、直接私に言ってくるはずだし…」と考えたからだった。

  後日、自宅に転送された葉書の送り主を見て驚いた。『置かれた場所で咲きなさい』の著者であるシスター渡辺和子からだった。「たしかに受けとりました」という言葉とともに、学生たちのために必ず役立てること、そして神のご加護がありますように、というメッセージが自筆で書かれていた。会ったこともない私に、このようなお返事をくださるとは、夢にも思っていなかったので、とても驚いた。感動と嬉しさで胸がいっぱいになった。

 もう一人、私の献本に丁寧なお返事をくださった方がいる。そのH神父は、感想も添えてくれた。私がいちばん伝えたかった「病気は神様からのお恵みだったと気づいた」という一文に注目してくださり、心が喜びで満ちあふれた。「どうぞミサにいらしてください」と、目の前にいる人に語りかけるような言葉に感動した。だが、ミサへ行く勇気が出ず、そのままにしていたら、H神父が他教会に異動されたことを知った。

 このような方々にとって、私は無名の一般人だ。突然の献本に驚いただろう。この経験を通して、一人ひとりを神様の子どもとして大切にしてもらう喜びを感じた。これからも、この喜びを、ろうそくの火を分けるように、たくさんの人に広げたい。

(東京教区信徒・三品麻衣)

2024年7月31日

・“シノドスの道”に思う⑭ドイツの視点から・8「バチカンに抗して一般信徒を巻き込み真剣に前進しようとしているが、日本の教会は?

 前回、ドイツの「カトリックの日」は信徒主催・主体の祭典であること、ドイツという国が民主主義国になるために、カトリック市民が大きく貢献したことを述べました。「民主主義とキリスト者であることは一緒にやっていける」というZdK議長の言葉も紹介しました

 ところで教皇フランシスコの言葉「今日の民主主義は不健全です。キリスト者はもっと政治に参加して健全化に寄与すべき」(カトリック新聞7月28日付)。教会の健全化のためにも、信徒がもっと教会運営に参加できるよう、バチカンも民主化に向けて努力すべきでは、と筆者は思います。今回紹介することもそれに関係します。以下、4月頃からのドイツの司教協議会と信徒団体、そしてバチカンとのやり取りを紹介します。

 

 

*司教協議会常任委員会と信徒団体の間の信頼関係は・・

 4月末にドイツ司教協議会(DBK)の常任委員会と一般信徒団体である聖ゲオルグ・スカウト協会の間でトラブルが発生しました。スカウト協会は、規定としてDBKの承認を得た補助司祭(霊的指導のため)が必要なのですが、DBKがその候補者を拒否してしまったため、司教たちと諸信徒団体の信頼関係が損ないかねない事態となり、シノドス委員会にも影響を与えることになったようです。

 シノドス委員会は、ドイツ・カトリック者中央委員会(ZdK)と司教たちが共同でドイツのカトリック教会の今後のことを共に協議し決めていこうとするものです。しかし、今回の司教たちの「拒否」は、諸信徒団体の批判的な行動に対するリアクションだという判断を、ZdKは下しているのです。

 

 

*ZdKの司教たちに向けた疑問と批判

 上記の事態に直面して、ZdKは次のように批判しています。

 ①上記のような決定をDBKの常任委員会がしたことは、シノドス委員会における建設的で信頼関係の中でなされるべき協働に著しく異議を唱えるものである。カトリック教会やその組織、その指導者たちと教えのレベルに向けられる批判的疑問は、シノドス委員会で議論の対象となるべきである。教会信徒団体の批判的行動を通してのみ、カトリック教会は自らを根本的に改革しようとするのだから、このような議論を恐れてはならない。

 ②常任委員会が先の決定をしたことで、司教たちは「シノドスの道」が決定したことをどれだけ尊重しているのだろうか。それらを自分たちに課せられたものとして受け止めているのだろう
か、疑わしい。それら決定事項を司教たちが具体的な行動に限られた範囲でのみ実行するのではないか、あるいは実行の妨害すらするのではないかと危惧される。

 ③それゆえ、DBKは信徒の間で失った信頼の回復をする責任がある。

 以上に加え、幾つかの質問を二回目のシノドス委員会で真っ先に司教たちに付きつけました―スカウト協会の補助司祭の候補者を司教たちが拒否したことに見られる透明性と説明責任を欠いたやり方を続けるつもりなら、どうして「シノドスの道」で信頼関係の中で共働できるのか? 司教たちは「シノドスの道」の諸決定をどのように、またいつ自分たちの教区で実行するつもりなのか?司教たちはシノドス委員会にどのように貢献してくれるのか? 司教たちはバチカンの保留や反対にどう対処するつもりなのか?―などです。このように、透明性と説明責任を求めて信徒団体が司教たちに発言できるのは素晴らしい、と思います。日本の教会ではどうでしょう?

 

 

*シノドス委員会を昨年11月、今年6月に開催

 シノドス委員会の初会合は昨年11月にエッセンで開かれましたが、マインツでの二回目の会合は64名の参加者で開かれれました。「『シノダル(共働的)な教会』であるとは、どういう意味か?」という問いがテーマとなり、最終的に3つのコミッション(委員会)を作ることが決まりました。

 一つ目の委員会は、「構造的原理としてのシノダリティとは何か」を深めること、そしてシノドス評議会のあり得る規律・規則を議論すること、が仕事です。

 二つ目の委員会は、これまでのドイツの教会の「シノドスの道」での諸決定が実行されているかの評価と監視。

 三つ目の第三委員会は、ドイツの教会の「シノドスの道」を今後発展させるためにどう導いていくか、を考えるのが仕事です。

 DBKのベッティングは「具体的な変化を見えるようにすることが重要だ。現地の教会の行動が変化していることを人々は見ることができなければならない」と。ZdK議長も「我々の教会における構造的な変化への責任を我々は持たなければならない」と前向きです。

 

 

*6月に開かれた司教たちとバチカンの担当者との会談の中身は

 教皇フランシスコの意向に従って、ドイツ司教団の代表とバチカンの代表それぞれ6名が、丸一日の会議をしました。以下、聖座とドイツ司教協議会の共同声明を紹介します。

 両者の会談は2022年11月のアドリミナの時に始まり、2023年7月に意見交換がなされ、2024年3月22日になされたことの続きとして、前もって予定されていたことでした。日本のカトリック新聞(7月21日付)が書いている「ドイツ司教団の代表はバチカンに呼び出され」ではありません。この会談は先回の合意(取り決め)に基づいてなされ、ドイツの教会におけるシノダリティの実践を具体的にどう形作っていくかについて、第二バチカン公会議の教会論と教会法の規定と世界シノドスの成果と一致させながら考えるという内容でした。具体的には以下の通りです。

 【ドイツのシノドス委員会についての報告】

 この会議ではまず、6月15日のシノドス委員会での協議内容がドイツ側から報告されました。全国的なシノダルな団体を法的にも可能なものとして設立するための神学的基盤と可能性について、
また司教職の行使と全信徒の共同責任の促進との関係について、シノダリティをどう具体化できるかという観点から議論されたことをバチカン側に伝えました。効果的な福音化に向けてシノダリティの実践へ向けて進んでいることを分かち合ったのです。

 【バチカンの介入】

 次に、シノドス委員会Ausschussによって設立される委員会Kommissionはシノダリティをどう考えるかという問題と、「シノドス審議会Gremiun)」の仕組みをどうするか、という問題に取り組むことになりました。そしてこの「シノドス審議会」の構想については、先の委員会が「権限を持つバチカン省庁の代表者によって構成される委員会Kommission」とコンタクトを取りながら、なされることになりました。つまり、ドイツ側の委員会とバチカン側の委員会が共同で「シノドス審議会」を考えていく、というのです。

 ここで振り返ってみますと、シノドス委員会とは、2026年までにシノドス評議会Ratを設立するための一時的な作業集団でした。シノドス評議会とは司教協議会と信徒団体ZdKから選ばれた人たちがドイツの教会の全国的な方向・運営を考えていくものとして構想されていました。司教と信徒団体の共同統治を目指していたのです。

 ところが、今回のバチカンとの会談後の共同声明では、明言はしていませんが、明らかにバチカン側の要求でしょう、今後のドイツのあり方に「バチカン側の委員会Kommissionも一緒になって協議していく」ということです。従って、これまでドイツ側が構想していたシノドス評議会Ratと、今後進められていくシノドス審議会Gremiumとは、違ったものになると思われます。

 【バチカンは2つの変更を求めてきた】

 バチカンは2つの変更を求めてきました。一つは名称の変更です。先ほど述べたように、シノドス評議会Ratはシノドス審議会Gremiumに変更されました。ただし、正式名称はまだ決まってはいません。もう一つはこのシノドス審議会の地位は、「司教協議会の上でも同等でもない」ということです。シノダリティ(共働性)は、司教たちの下で構想・実践されていくということでしょう。「信徒と司教の共同統治は許さない」という形。しかも上述したようにドイツ側の委員会とバチカン側の委員会の二つが「共同で協議し、構想していく」ということです。

 特に名称変更は実質の大きな変更です。恐らく、ドイツ側の委員会に司教と信徒たち、すなわちZdKの代表やシノドス集会から選ばれた人がメンバーとなるだろうと思われます。ドイツの「シノドスの道」は大きな転換を迫られることになった、と言えるでしょう。

*似たようなことはフランスでも起きている

 実は、バチカンはこれに近いことをフランスの司教団にも要求したようです。カトリックメディア「ザ・ピラー」3月23日付けによると、フランスの司教協議会が昨年11月、バチカンに新しい司教協議会の規約を提出し承認するよう求めたところ、「司教協議会の新規の仕組みにおいては、司教の団体的責任をもっと明白に強調するように」と指示された、ということです。そして、「バチカンはドイツが司教と信徒の共同の審議団体を作ろうとしている計画を念頭に置いて、このような要求をしてきた。バチカンは司教の責任性が曖昧にされるのを恐れている」と解説しています。

 

 

*バチカンに送られたドイツ司教団の報告書と日本の司教団の報告書との違いは

 このコラム「シノドスの道に思う➉」で申し上げたように、世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会・第一会期の総括文書がバチカンの事務局から出された後、ドイツ司教協議会は、国内の各司教区とカトリック諸団体に3月末日までに「省察報告書」を提出するよう求め、それを要約した文書をバチカンのシノドス事務局に5月22日付で送りました。

 それによると、各教区が具体的に信徒を巻き込んでシノダル(共働的)な動き、つまり全員参加を求めて対話をし、互いの意見を聞き、シノダルな仕組みや委員会の設置などが進んだ。そうした中で「神は教会に何をするように求めているのか」という問いを草の根レベルで意識するようになった、としています。

 またこのコラム「シノドスの道に思う⑨」で紹介したビュルツブルク共同シノドス(多くの信徒や修道者も参加して、共同責任で審議していこうとした画期的な教会会議)の精神を思い出しながら、皆が参加する構造を作る努力や、場合によっては共同審議だけでなく決定も共同でするなど、具体的な取り組みを進めています。

 ある司教区では「教区協議会は(司教、司祭、修道者、一般信徒)全員が意見を出せるように民主的でオープンかつ公平な雰囲気」でなされ。「聖霊における会話」という手法も使いながら、教区の中の困難な問題をどう解決していくかについて、具体的な話し合いを進めている、ということです。また、別の教区では「いわゆる同意メソッド」で、一つの解決策だけを取り上げるのではなく「反対するのも自由」のやり方で、深刻な意見対立も最終的に一致をみるような努力をしている、といいます。

 それに対して、日本の教会はどうでしょう。報告書「シノドス的教会を目指して日本のカトリック教会の挑戦」が出されましたが、具体的な”実績”と言えるのは、”シノドスの道”を歩む方法にすぎない「霊における会話」を一部の人が”実践”したことだけのように読み取れます。定義もはっきりしない「霊における対話」のほかは、どうなっているのでしょうか。「透明性」も「説明責任」を果たすことから程遠く、「挑戦」という言葉だけが空しく響きます。

*ドイツ司教協議会www.dbk.de ドイツカトリック者中央委員会www.zdk.de 聖ゲオルグ・スカウト協会 https://dpsg.de/en/die-dpsg  カトリック系メディア The pillar
(西方の一司祭)

2024年7月31日

(読者投稿)「さっぱりの日本のシノドスの道」に同感、教皇が提唱する「互いに耳を傾け、理解し、共に働く」共同体を取り戻そう

 読者投稿の「さっぱりの日本のシノドスの道」に同感です。第二バチカン公会議の「世界に開かれた、共に歩む教会」の精神を受けて、約30年前に日本の教会が取り組んだ「NICE(福音宣教推進全国会議)」の事も、教会で聞いた覚えがありません。今回のシノドスの歩みも同じような道を辿りそうな予感が致します。

 私の教区でも数か月前、司教と司祭たちによる「霊における対話」の試みがなされた、と教区報に大きく取り上げられていましたが、では、それを今後どのように進めていくのか。知らされていません。「霊における対話」を振り返っての感想に、果たして、そのような対話ができるのか、という不安の声があった、と聞きました。

 司教と司祭のみの集まりでさえ不安を覚えるのですから、信徒と共にとなると不安しかない、ということかも知れません。いずれにせよ、「霊における対話」を教区が小教区レベルまで進めるためには、準備にかなりのエネルギーが必要とされるに違いありません。

 私は自分の小教区共同体でも、10年前と比べて「シノダリティ(共働性)」が低下している、と感じています。戦争を体験した世代には、シノダリティを、ごく自然に、空気のように小教区に創り出していた司祭や信徒達が多くいた気がするのですが、世代交代が進むうちに、それまでの共通認識が薄らぎ、あるいは喪失している、と思う事が増えました。コロナ禍で分断を当たり前として、もしくは心地よく受け入れてしまい、問題を自分事とする力が衰えた気もします。今年の信者総会に集まった人の大半が後期高齢者、そのような現状です。

 教区の号令を待っていては、いつになるか分かりません。「地区委員」が主催していた、小教区の地区ごとに集まる茶話会「地区のつどい」を、「シノドスの歩み」という意識をもって活用することなど、司祭、信徒が小教区レベルから具体的な取り組みをすることが必要な時期に来ていると思います。。

 テーマをしっかり決めて逸脱しないようにし、誰かの批判にならないような配慮も求められますが、それでも、うまくいかないかもしれません。しかし、教皇の提唱される”シノドスの道”の歩みには、教会を構成する聖職者、信徒が互い声に耳を傾け、理解し、福音宣教に共に働く、そうした教会文化を創り出す、という狙いがあるはずです。

 森司教の「信徒の霊性」を読んでおらず、手探り状態ではありますが、参加型プロセスによって教会に属する実感が強まり、風通しのよい、より良い共同体になれば良い、と強く希望しています。

(2024.7.5 東の教区の信徒、匿名希望)

2024年7月6日

・Chris Kyogetuの宗教と文学⑮ 洗礼を受ける前、私は夢で「10人のおとめ」の1人になった 

 

 2014年の8月に私は洗礼を受けたが、その前にある夢を見た。

 眠る前に、新約聖書のマタイによる福音書の25章にある「10人のおとめ」のたとえを読んでいた。その時は、集中力がなかったのか、表面だけをなぞったようで、おそらく話の内容を把握できなかった。登場人物ですらどうだったのか、眠気もあったので頭に入っていないなと思ったし、そういうことは誰にでもあるとは思う。ただ何気なく読んで、本を閉じた。おそらくこれが現代文のテストであったのなら致命的だったかもしれない。それぐらい分かっていなかった。明日、読み直そうとも思わなかった。特にそんなことも考えず、ポストイットに「マタイの25章」と最後に読んだ箇所だけを書き残して机に貼って、そのまま本を閉じて眠りについた。

 気がつくと、身体が重たいような感覚があったが、夢の中で、眠っていたのを起こされていて、一人の男の人に日本語かどうか、どこの国かもわからない言語で、腕を掴まれながら「持っているか、持っていないか」と問われた。自分の持っていたランプが消え掛かっているので、持っていない気もしたけれども、ここに来る前に、家に油を取りに帰って持ってきた記憶があった。一緒にいた隣の女性はそれを笑ったが、だんだんと、私は持っていたような気がするとも思うようになっていて、「持っている」と答えた。

 そうしたら本当に、私は油を持っていて、ランプに灯りをつけた。その瞬間の麦畑のような、夜空の下で明かりが灯る瞬間だけ、今でも記憶している。もう10年も経った事なので、その記憶に補正がかかっているのかも知れないが、夜空が不気味なようで、でも、灯りがついた瞬間に「命拾いをした」という安堵感があった。

 「お前も入れ」と言われて、他の賢いおとめたちと、花婿と一緒に、私は祝宴の会場に入った。すると、後ろで油を分けてもらえなかった愚かなおとめたちが数人、門から入れずに「影」となった。それで、夢の中で思った。「あぁ、いつも油を持っていないと いざという時に助からないんだな」と。助かった高揚感と、そして残された「影」が気になって、胸が痛くなった。

 起きてみて、それが不思議な夢だったのだ、とは思ったものの、すぐに日常に溶けていった。そしてまた聖書を読む時間になり、ポストイットに書き残した箇所を見て、それが昨晩、寝る前に読んだ聖書の「10人のおとめ」のたとえだ、ということに気づいた。しかし、あの時、眠る前は、一切、話なんか分かっていなかったはずだった。でも、再度読んでみると、ほとんど、夢の通りだったのだ。理解がより深まったはずなのに、それから夢に出てくることはない。

 夢というものはその出てきた他者と繋がっているはずがない。たとえ、それが現実の記憶に沿っていて事実であったとしても、夢とは「他者と共に時間を過ごした」というわけではなく、私の「印象」だけが見せる物語だ。

 意識では把握できないもの、無意識は、本当にあるのか。それは心理学でも学派によって否定もされたりもするが、もしもこれが無意識でなければ、説明がつかないと思う。そして神秘体験はさらに深いところにある。一時期は、その経験から旧約聖書の創世記ではファラオの夢を解いたヨセフや、夢解きののダニエルが出てくるダニエル書があるのに、新約聖書には何故、イエスが来るようになって夢解きがいなくなったのか、という持論を純粋に語った時期もあった。

 しかし、思い返せば、共感はさほどされず、それすらも若さに思えるように、もっとそういった「不思議」だけでは生きられないのもまたキリスト教だと知った十年間だった。語ることすらも、馬鹿らしい日もあった。

 それでもこの夢の記憶が尾をひいていて、「神秘」の可能性だけは残していた。「奇跡」を体験した、それだけでは伝道にならないということを知っていく十年だった。私の喜びと、そして、そんな夢を見たのに「幸福」とも言えなかった時と、そして今だから、やはり「確かなものがある」と思えることがある。奇跡は、語れる機会も重要であって、この話は温存しておくとしている。

 重要なのは、日々の生活の中で取り組むべき実践は、イエスが人々の元へ渡り歩いた労苦であり、イエスの教えの実践である。「父と子はお互いを純粋に与え合い、純粋に引き渡し合う運動です。この運動において、両者は豊であり、その結実は両者の一致であり、それは完全に一つです」とベネディクト16世教皇が三位一体をそのように語り、「三位一体の神秘はこの世にあっては、十字架の神秘に翻訳されなければならない」とした。

 だが、この美しさは、苦しみもある、ということだ。豊さゆえに現れる聖霊というのは、人間の喜びだけではない、ということも常にある。神秘を語りたい、どこか聖書の話をできる人はいないか、と探す信者は多いと思うが、いたらいたで、楽しさだけでは成り立たないのは、相手に壁があるからではなく、三位一体そのものを共感することは非常に困難だからである。

 経験したことが各々の「夢」でしかないように、「他者」へと繋がりを持つことは、簡単な面もあるが、深くなることは容易ではない。宗教の語り合いについて、私は苦しみも引き渡し合うことだと思うので、最近はあまり求めなくなった。人の不幸を安易に聞くことは怖いことだ。

 信仰を理解し合うこと、それをどこまでできるのか、簡単にはできないことぐらい分かっている。それが正常な判断だと思う。生い立ちも、運命も違う人同士の中で、それらを語るのは苦しいこともある。自分の想像以上の不幸をいかに一致させられるのか、それは苦しいことではないだろうか。

 安易に、「言葉」一つで救えることはない。一つの姿勢が救う一歩になるのかもしれないが、常にそれらの可能性は不透明だ。イエスが人助けをすることについて、心地よさだけで語ることには「嘘」がある。自分の苦しさだけを語ることは驕りでもある。現実は、他人の奇跡なんかでは救われない。お互いの貧しさと貧しさの一致は、非常に苦しいものがある。しかし、各々は,「おとめ」のように眠っているようで、常に信仰は生きている。だからこそ、常に燃料がいる。名も知られていないおとめと花婿、一緒に祝宴に入れる(マタイ25章10節)のか、その日まで、分からない。

 あの夢を十年前は「良い夢だった」と言っていたが、今年同じく「良い夢だった」と思うことは抱いている心が違う。そしてまた十年後、「良い夢だった」と言ってる時には、どんな自分になっているのかは想像できない。

(Chris Kyogetu)

2024年7月1日