(解説)日本の教会として、教皇を心から一致してお迎えし、活性化につなぐ体制が作れるか

(解説・カトリック・あい)2019.1.24

 教皇フランシスコが23日、WYD大会参加のためパナマに向かう機中での記者会見で、質問に答える形で、11月に日本訪問を希望されることを表明された。

 日本訪問については、安倍首相が2014年にバチカンで教皇と会談した際に招請し、広島県知事や広島市長、長崎市長も、被爆地訪問を求め、教皇から昨年5月に広島、長崎両市に送られた手紙で「両市の市民のために、私の祈りをささげることを約束します」と訪問の意向を表明された。さらに、教皇は昨年9月に宮崎市の民間団体関係者と会見した際、「来年、日本を訪れたい」と発言されていた。

 このように、教会以外の官民の訪日要請の動きが先行する中で、日本の司教団としては先月になって、前田大阪大司教が、枢機卿任命を受けた一連の公式行事出席のためローマを訪問した機会に、日本のカトリック司教協議会の会長、副会長である高見・長崎大司教、菊地・東京大司教とともに、教皇と会見した際、教皇から来年末にも被爆地の広島、長崎を訪問する意向が示されていた。

 訪日がまだ教皇の外国訪問の公式日程として確定しないのは、確定した教皇の外遊日程がまだ、今年前半までであり、夏以降のバチカンや相手国内外の諸情勢の変化なども含めて見極める必要があるからではないか、とも見られる。

 また、教皇の日本訪問と関連しては、韓国の文大統領が昨秋、教皇を会見した際、米国と北朝鮮の間の朝鮮半島非核化問題の打開を狙って、北朝鮮訪問を求めたと伝えられ、中国も、バチカンとの司教承認に関する暫定合意を受ける形での教皇訪中を実現し、米中関係険悪化の中でバチカンを”味方”に引き入れようとの思惑が出てきている、との観測もある。可能性はどれほどあるか、現状からは測りがたいが、日本と北朝鮮、中国の訪問を合わせることができれば、世界的にも大きな効果が期待できるかもしれない、という思いが、バチカンの外交官僚にあるかもしれない。

 このような複雑、深刻な東アジアの国際情勢と関係国の思惑が”教皇訪問”に、単なる”善意”では済まない、微妙な問題が絡んでいるようにも見られるのだが、それよりも、日本の教会として真剣に考えるべきは、教皇を心から一致、連帯してお迎えする体制ができるかどうかだろう。新信仰共同体の高松での神学校、叙階問題で連帯が崩れて以来、日本の教会にはかつて第二バチカン公会議の「世界に開かれた教会」の精神を受けた全国福音宣教推進会議のような熱のこもった全国的な活動の盛り上がりは見られない。

 しかも、バチカン主導で司祭育成の強化が図られようとしている中で、日本では、わずかな神学生を司祭にするための育成体制が4月から東京と長崎に分かれることになり、加えて、新求道共同体の神学校が東京に再開する動きも出るなど、問題を抱えている。

 教皇が福音宣教の熱意を込めて出されるメッセージの受け止めも、最近出された一連の使徒的勧告の日本語翻訳が一年も、半年も遅れて完成するという対応に象徴されるように、信徒に浸透するには程遠い。

 司教団の中には「単に訪問のときだけの準備をするのではなく、訪問が日本における福音宣教をさらに強める契機となるように、事前に霊的にも良い準備を」と取り組みに努力を始める動きもあるが、まだ一般信徒、小教区には具体的な声は届いていない。

 教皇訪問が実現すれば、元気を失った日本の教会が勇気を取り戻し、活性化の契機ともなり得る。素晴らしいことだ。だが、日本としての一致した盛り上がりに欠けたままの日本の福音宣教の現状の中で、心から一致と連帯をもって教皇をお迎えすることができるのか、訪日を単なるお祭り騒ぎに終わらせ、教皇の日本に対する思いを、具体的な形で結実させる契機にできるのか。

 政治的な思惑の強い政府に主導権をゆだねることなく、真剣な反省と、一致した強力な取り組みを、あらためて日本の教会指導者たちに求めたい。

このエントリーをはてなブックマークに追加
2019年10月17日