♰「 長崎が原爆で負った傷、現在の多くの罪なき戦争の犠牲者のために、声を上げ、祈ろう」-長崎でのミサ

 

愛は、憎しみと利己心に打ち負かす

 そして、「『自分を救うがいい!』(35節)-罪もないのに苦しみを味わわされ、十字架の生贄とされている人(イエス)に発せられたあざけりの叫びは、とどめの言葉ではありません… むしろ、(あざけった)彼らは、心動かされる人たち、歴史を形作る正当なやり方として、苦しみに対する共感を選ぶ人たちを呼び覚ますでしょう」とされた。

 また教皇は「聖パウロ三木とその仲間たち、そして勇気ある証しにいのちを捧げた何百人の人々が、私たちを招いています-彼らの勇気ある信仰告白への足跡の中に、十字架につけられたキリストによって私たちのための犠牲として注がれた愛は、あらゆる形の憎しみ、利己心、そしてあざけりを打ち負かすことができるのです」とも語られた。

社会から拒否された人々は、王たるキリストの生きた秘跡

 さらに教皇は「宣教師の弟子であり、目撃者であり、布告者として、私たちは、いかなる形の悪に直面しても、その使命を放棄することはできません。そうではなく、私たちは自分がどこにいようとも、キリストの王国のパン種になるように召されているのです。家庭、職場、そして社会において、です。私たちは、聖霊が人々の間に希望の息を吐きかけるための、小さな隙間とならねばなりません」と説かれた。

 そして、こう指摘された。「天の王国、私たちの共通の目的地は、明日についてだけでなく、今日についてのものなのですー病んでいる人、障害を持つ人、高齢者、見捨てられた人、難民、そして移民労働者に対する、無関心と沈黙が蔓延する今日、です。彼らすべてが、私たちの王であるキリストの、生きた秘跡。なぜなら、イエスご本人が、彼らの顔の中に、ご自身を見られるのを、望まれたからです」。

声を上げる勇気を持とう

 ルカ福音書は「カルワリオの丘で、多くの人が沈黙する中であざけりの叫びが上がる一方、善良な泥棒が、罪もないのに苦しみを味わわされ十字架の生贄とされている人を守ろうとした」(23章41節)と書いている。教皇は「彼の取った態度は、勇気のある信仰告白でした… 私たち誰もに、同じ可能性があります-黙り続けること、あざけること、あるいは福音を告げ知らせること、を選ぶことができるのです」と諭された。

 また、原爆によって壊滅的な被害に遭った長崎の地に注意を向けられ、「この町は心に癒しがたい傷を抱えています、それは、”第三次世界大戦”が細かく分散して起きている今、過去と現在の、とても多くの罪のない戦争犠牲者が耐えている想像を絶する苦しみから生まれた傷でもあります」と語られ、カルワリオの丘の”良い泥棒”のように「この長崎の地で、声を上げ、共に祈りましょう-天に向かって大声を上げるこの愚かな行為で、今もなお苦しめられている人たちのために」

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2019年11月24日