♰「核兵器から解放された世界の実現へ、核保有国、非保有国の全ての人の参加が必要だ」-長崎爆心地で訴え

 

長崎爆心地公園で祈る教皇フランシスコ 2019年11月24日長崎爆心地公園で祈る教皇フランシスコ 2019年11月24日  (AFP or licensors)

 教皇フランシスコは24日朝、長崎の爆心地公園を訪問され、「核兵器をはじめ、大量破壊兵器の保有は、人類が心の底から一番望む平和と安定をかなえるものではない。それどころか、試練にさらすだけです」などと語り、核兵器のない世界実現への取り組みを促す「平和のメッセージ」を述べられた。

 23日夕に日本に着かれた教皇は、24日の早朝、羽田空港から特別機で長崎に向かわれ、午前9時半ごろ、長崎空港に到着。花束などの歓迎を受けられた後、市内の爆心地公園を訪れ、被爆者から渡された白い花輪を原子爆弾落下中心地碑に捧げた教皇は、降りしきる雨の中、沈黙のうちに祈り続けられた。

 祈りを終えて、教皇は「核兵器のない世界の実現のために、無関心を捨て、『真の平和の道具』となるように」と全ての人々に呼び掛ける平和のメッセージを、静かに力強く述べられた。

 その中で教皇は、「人の心にある最も深い望みの一つは、平和と安定への望みです」とされたうえで、「核兵器や大量破壊兵器の所有は、この望みに対する最良の答えではありません。むしろ、それを絶ええず試みにさらすものなのです」と語られ、「恐怖と相互不信を土台とした偽りの上に平和と安全を築こうとする、今日の世界の矛盾」を指摘。「こうした”解決策”は、人と人の関係をむしばみ、相互の対話を阻みます」と言明された。

 「国際的な平和と安定は、相互破壊への不安や、壊滅の脅威を土台とした、いかなる企てとも相いれません… 軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。そうした資源は本来、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきもの」と強調。

 さらに、「核兵器から解放された平和な世界は、あらゆる場所の、数え切れないほどの人の熱望です… この理想を実現するには、個々人、宗教団体、市民社会、核兵器保有国と非保有国など、すべての人の参加が必要です」と訴えらえた。

 そして、「カトリック教会にとって、人々と国家間の平和の実現に取り組むことは、神と地上のあらゆる人に対する責務」と述べ、日本の司教協議会が昨年の7月、核兵器廃絶の呼びかけを行い、また、日本の教会では毎年8月に「平和旬間」を行っていることに触れられた。

 教皇は「核兵器のない世界が可能であり必要である」という確信のもとに、「核兵器は、今日の国際的な、また国家の安全保障への脅威から私たちを守ってくれるものではない」と心に刻むよう、世界の政治指導者たちに求められ、「 今日、私たちが心を痛めている何百万という人の苦しみに無関心でいること、傷の痛みに叫ぶ兄弟の声に耳を塞ぐこと、対話することのできない文化による破滅を前に目を閉ざすことは、誰もできません」と断言された。

 最後に、「心の改め、いのちの文化、ゆるしの文化、兄弟愛の文化の勝利のために、毎日心を一つにして祈ってください」と願われた教皇は、アッシジの聖フランシスコに由来する平和を求める祈りを、次のように唱えられた。

 「主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。 憎しみがあるところに愛を、いさかいがあるところにゆるしを、疑いのあるところに信仰を、絶望があるところに希望を、闇に光を、悲しみあるところに喜びをもたらすものとしてください」。

 教皇は「記憶にとどめるこの場所(長崎の爆心地)は、私たちに無関心でいることを許さず、真の平和の道具となって働き、過去と同じ過ちを犯さないよう促しています」と語られた。

 この集いの後、教皇は日本二十六聖人殉教者への表敬を行うために、殉教記念碑の立つ長崎市内の西坂公園に向かわれた。

(編集「カトリック・あい」見出しも)

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*バチカンが発表した教皇の核兵器に関するメッセージ全文は以下の通り。

愛する兄弟姉妹の皆さん。

この場所は、私たち人間が過ちを犯しうる存在であるということを、悲しみと恐れとともに意識させてくれます。近年、浦上教会で見いだされた被爆十字架とマリア像は、被爆なさったかたとそのご家族が生身の身体に受けられた筆舌に尽くしがたい苦しみを、あらためて思い起こさせてくれます。

人の心にあるもっとも深い望みの一つは、平和と安定への望みです。核兵器や大量破壊兵器を所有することは、この望みへの最良のこたえではありません。それどころか、この望みをたえず試みにさらすことになるのです。私たちの世界は、手に負えない分裂の中にあります。それは、恐怖と相互不信を土台とした偽りの確かさの上に平和と安全を築き、確かなものにしようという解決策です。人と人の関係をむしばみ、相互の対話を阻んでしまうものです。

国際的な平和と安定は、相互破壊への不安や、壊滅の脅威を土台とした、どんな企てとも相いれないものです。むしろ、現在と未来のすべての人類家族が共有する相互尊重と奉仕への協力と連帯という、世界的な倫理によってのみ実現可能となります。

ここは、核兵器が人道的にも環境にも悲劇的な結末をもたらすことの証人である町です。そして、軍備拡張競争に反対する声は、小さくとも常に上がっています。軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは途方もないテロ行為です。

核兵器から解放された平和な世界。それは、あらゆる場所で、数え切れないほどの人が熱望していることです。この理想を実現するには、すべての人の参加が必要です。個々人、宗教団体、市民社会、核兵器保有国も、非保有国も、軍隊も民間も、国際機関もそうです。

 核兵器の脅威に対しては、一致団結して応じなくてはなりません。それは、現今の世界を覆う不信の流れを打ち壊す、困難ながらも堅固な構造を土台とした、相互の信頼に基づくものです。1963年に聖ヨハネ23世教皇は、回勅『地上の平和(パーチェム・イン・テリス)』で核兵器の禁止を世界に訴えていますが(112番[邦訳60番]参照)、そこではこう断言してもいます。「軍備の均衡が平和の条件であるという理解を、真の平和は相互の信頼の上にしか構築できないという原則に置き換える必要があります」(113番[邦訳61番])。

今、拡大しつつある、相互不信の流れを壊さなくてはなりません。相互不信によって、兵器使用を制限する国際的な枠組みが崩壊する危険があるのです。わたしたちは、多国間主義の衰退を目の当たりにしています。それは、兵器の技術革新にあってさらに危険なことです。この指摘は、相互の結びつきを特徴とする現今の情勢から見ると的を射ていないように見えるかもしれませんが、あらゆる国の指導者が緊急に注意を払うだけでなく、力を注ぎ込むべき点なのです。

カトリック教会としては、人々と国家間の平和の実現に向けて不退転の決意を固めています。それは、神に対し、そしてこの地上のあらゆる人に対する責務なのです。核兵器禁止条約を含め、核軍縮と核不拡散に関する主要な国際的な法的原則に則り、飽くことなく、迅速に行動し、訴えていくことでしょう。

 昨年の7月、日本司教協議会は、核兵器廃絶の呼びかけを行いました。また、日本の教会では毎年8月に、平和に向けた10日間の平和旬間を行っています。どうか、祈り、一致の促進の飽くなき探求、対話への粘り強い招きが、わたしたちが信を置く「武器」でありますように。また、平和を真に保証する、正義と連帯のある世界を築く取り組みを鼓舞するものとなりますように。

核兵器のない世界が可能であり必要であるという確信をもって、政治をつかさどる指導者の皆さんにお願いします。核兵器は、今日の国際的また国家の、安全保障への脅威からわたしたちを守ってくれるものではない、そう心に刻んでください。人道的および環境の観点から、核兵器の使用がもたらす壊滅的な破壊を考えなくてはなりません。

 核の理論によって促される、恐れ、不信、敵意の増幅を止めなければなりません。今の地球の状態から見ると、その資源がどのように使われるのかを真剣に考察することが必要です。複雑で困難な持続可能な開発のための2030アジェンダの達成、すなわち人類の全人的発展という目的を達成するためにも、真剣に考察しなくてはなりません。1964年に、すでに教皇聖パウロ6世は、防衛費の一部から世界基金を創設し、貧しい人々の援助に充てることを提案しています(「ムンバイでの報道記者へのスピーチ(1964年12月4日)」。回勅『ポプロールム・プログレッシオ(1967年3月26日)』参照)。

こういったことすべてのために、信頼関係と相互の発展とを確かなものとするための構造を作り上げ、状況に対応できる指導者たちの協力を得ることが、きわめて重要です。責務には、わたしたち皆がかかわっていますし、全員が必要とされています。今日、わたしたちが心を痛めている何百万という人の苦しみに、無関心でいてよい人はいません。傷の痛みに叫ぶ兄弟の声に耳を塞いでよい人はどこにもいません。対話することのできない文化による破滅を前に目を閉ざしてよい人はどこにもいません。

心を改めることができるよう、また、いのちの文化、ゆるしの文化、兄弟愛の文化が勝利を収めるよう、毎日心を一つにして祈ってくださるようお願いします。共通の目的地を目指す中で、相互の違いを認め保証する兄弟愛です。

ここにおられる皆さんの中には、カトリック信者でないかたもおられることでしょう。でも、アッシジの聖フランシスコに由来する平和を求める祈りは、私たち全員の祈りとなると確信しています。

主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。
憎しみがあるところに愛を、
いさかいがあるところにゆるしを、
疑いのあるところに信仰を、
絶望があるところに希望を、
闇に光を、
悲しみあるところに喜びをもたらすものとしてください。

記憶にとどめるこの場所、それはわたしたちをハッとさせ、無関心でいることを許さないだけでなく、神にもと信頼を寄せるよう促してくれます。また、わたしたちが真の平和の道具となって働くよう勧めてくれています。過去と同じ過ちを犯さないためにも勧めているのです。

皆さんとご家族、そして、全国民が、繁栄と社会の和の恵みを享受できますようお祈りいたします。

 

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2019年11月24日