教皇フランシスコは25日午後、東京ドームで約5万人参加のミサを捧げられた。
教皇は、東京ドームを埋めたカトリック信徒、キリスト教各派の信徒、そして、仏教、イスラム教、ユダヤ教など他宗教の信徒、指導者を前にしたミサ中の講話で、まず、イエスの山上の説教に注目され、その説教は、「私たちがイエスに到達するために呼ばれている道の素晴らしさを説いているもの。イエスにおいて、私たちは、神の愛される子供たちになる自由を得るのです」と話し始められた。
*神の子供であるためのハードル
しかし、この道の途中で、神の子であることの自由が、不安と競争の悪循環によって抑えつけられ、弱められることもあり得る。生産性と消費者主義を熱心に追求することが、「私たちが誰なのか」「私たちに何の価値があるのか」を測る、あるいは規定する唯一の基準になってしまう、と教皇は指摘。.「この基準が、本当に重要なものに対して、私たちを徐々に鈍感にし、不必要なものやはかないものに憧れるようにしてしまいます」と警告した。
教皇は「高度に発展した日本では、多くの人が自分たちの人生と存在の意味をつかむことが出来ずに、社会的に疎外されています」と指摘、「互いに支えあい、助け合う場所であるはずの家庭、学校、共同体社会が、利益と効率を追求する過度の競争によって浸食されている… その結果、多くの人が平和と安定を失っている」と警告した。
*優先順位を正しく定めること
このような現状に対する解毒剤として、教皇は、山上の説教の直後にイエスが語られた言葉「あなたの人生を、明日の事を心配しないように」を示され、すす「この言葉は私たちの周りで起こっていることを無視したり、私たちの日々の義務と責任について無責任であることを勧めているのではありません」とした。
そのうえで、「これは、イエスのやり方に従って、優先順位を正すための招きー『神の国と神の義を第一に求めなさい。そうすれば、これら全てのものはあなたのものになる』という招きなのです… そうして、主は私たちに日々の決断を再評価し、私たちの命のコストも含めて、いかなるコストを払っても成功の追求していく過程で、閉じ込められたり孤立したりしないように、私たちを招いておられるのです」、さらに「この世で、自分の利益あるいは収穫だけに目を向ける世俗的な態度、個々の幸せだけを追求する利己心は、現実に、私たちをとても不幸な、奴隷にし、真に調和のとれた人間的な社会の正しい発展を妨げるのです」と説かれた。
*人生をありのまま受け入れる
隔離され、取り囲まれ、さらには窒息させられた「私」の反対は、共有され、称賛され、伝えられた「私たち」以外にありえない、とする教皇は、この点において、「私たち自身の生活と自然との関係に対する本物のケアは、友愛、正義、他者への忠実さと切り離すことはできません」と述べた。
そして、キリスト教共同体は「すべての命を守り、感謝と思いやり、寛大さ、人の話を素直に聴くことによって特徴づけられる生き方への知恵と勇気で証しするように」求められており、「そのすべての脆弱さと簡明さをもって、人の命を、障害を持つ人、虚弱な人、外国人、間違いを犯した人、病気の人、刑務所にいる人などをありのまま引き寄せ、受け入れることのできる共同体だ」と説明された。その共同体をイエスは模範によって導くー「イエスはハンセン病患者、目の見えない人、麻痺した人、ファリサイ派の人、罪人、十字架上の泥棒を受け入れ、ご自分を十字架につけた人を許しさえしました」と語られた。
*キリスト教共同体は野戦病院だ
教皇はまた、「命の福音の宣言は、共同体としての私たちが傷を癒し、和解と赦しの道を常に提供する『野戦病院』になることを緊急に求めています… キリスト教徒にとって、それぞれの人と状況を判断できる唯一の可能な尺度は、『すべての子供たちへの父の思いやり』です… こうして、私たちは、すべての生命をさらに守り、気遣う『社会の預言的なパン種』になることができるのです」と説かれた。
(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)
教皇の日本司牧訪問 教皇の説教 東京ドーム (2019 年 11 月 25 日、東京) 公式発表の全文
今聞いた福音は、イエスの最初の長い説教の一節です。「山上の説教」と呼ばれているもので、私たちが歩むよう招かれている道の美しさを説いています。聖書によれば、山は、神がご自身を明かされ、ご自身を知らしめる場所です。
神はモーセに、「私のもとへ登りなさい」(出エジプト記 24章1 節参照)と仰せになりました。その山頂には、主意主義によっても、「出世主義」によっても到達できません。分かれ道において師なるかたに、注意深く、忍耐をもって丁寧に聞くことによってのみ、山頂に到達できるのです。山頂は平らになり、周りがすべて見渡せるようになり、そこはたえず新たな展望を、御父のいつくしみを中心とする展望を与えてくれるのです。
イエスにこそ、人間とは何かの極みがあり、私たちの考えをことごとく凌駕する充満に至る道が示されています。イエスにおいて、神に愛されている子どもの自由を味わう新しいのちを見い出すのです。
しかし、私たちはこの道において、子としての自由が窒息し弱まるときがあることを知っています。それは、不安と競争心という悪循環に陥るときです。息も切れるほど熱狂的
に生産性と消費を追い求めることに、自分の関心や全エネルギーを注ぐ時です。まるでそれが、自分の選択の評価と判断の、また自分は何者か、自分の価値はどれほどかを定めるための、唯一の基準であるかのように、です。
そのような判断基準は、大切なことに対して徐々に私たちを無関心、無感覚にし、心を表面的ではかない事柄へと向かうよう、押しやるのです。何でも生産でき、すべてを支配でき、すべてを操れると思い込む熱狂が、どれほど心を抑圧し、縛りつけることでしょう。
ここ日本は、経済的には高度に発展した社会です。今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、命の意味が分からず、自分の存在の意味を見いだせず、
社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました。家庭、学校、共同体は、一人ひとりが支え合い、また、他者を支える場であるべきなのに、利益と効率を追い求める過剰な競争によって、ますます損なわれています。多くの人が、当惑し不安を感じています。過剰な要求や、平和と安定を奪う数々の不安によって打ちのめされているのです。
力づける香油のごとく、主のことばが鳴り響きます。思い煩うことなく、信頼しなさい、と。主は三度にわたって繰り返して仰せになります。「自分のいのちのことで思い悩むな、……明日のことまで思い悩むな」(マタイ福音書 6章25節、31節、34節参照」。
これは、「周りで起きていることに関心をもつな」という意味でも、「自分の務めや日々の責任に対していい加減でいなさい」という意味でも、言っておられるのではありません。そうではなく、「意味のあるより広い展望に心を開くことを優先して、そこに主と同じ方向に目を向けるための余地を作りなさい」という励ましなのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6福音書6章33節)。
主は、「食料や衣服といった必需品が大切でない」とおっしゃっているのではありません。それよりも、私たちの日々の選択について振り返るよう招いておられるのです。何として
でも成功を、しかも命を賭けてまで成功を追求することにとらわれ、孤立してしまわないようにです。
世俗の姿勢は,この世での己の利益や利潤のみを追い求めます。利己主義は個人の幸せを主張しますが、実は、巧妙に私たちを不幸にし、奴隷にします。そのうえ、真に調和のある人間的な社会の発展を阻むのです。
孤立し、閉ざされ、息ができずにいる私に抗しうるものは、分かち合い、祝い合い、交わる私たち-これしかありません(「一般謁見講話(2019 年 2 月 13 日)」参照)。主
のこの招きは、私たちに次のことを思い出させてくれます。「必要なのは、『私たちの現実は与えられたものであり、この自由さえも恵みとして受け取ったものだ、ということ
を、歓喜のうちに認めることです。それは今日の、自分のものは自力で獲得するとか、自らの発意と自由意志の結果だと思い込む世界では難しいことです』」(使徒的勧告『喜びに喜べ』55)。
それゆえ、第一朗読において、聖書は私たちに思い起こさせます。命と美に満ちているこの世界は、何よりも、私たちに先立って存在される、創造主からの素晴らしい贈り物であることを。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それはきわめてよかった」(創世記 1章31節)。与えられた美と善は、それを分かち合い、他者に差し
出すためのものです。私たちはこの世界の主人でも所有者でもなく、あの創造的な夢に与る者なのです。「私たちが、自分たち自身のいのちを真に気遣い、自然との関わりをも真に気遣うことは、友愛、正義、他者への誠実と不可分の関係にある」(回勅『ラウダート・シ』70)のです。
この現実を前に、キリスト者の共同体として、私たちは、すべての命を守り、証しするよう招かれています。知恵と勇気をもって、無償性と思いやり、寛大さと素直に耳を傾ける姿勢、それらに特徴づけられる証しです。それは、実際に目前にある命を抱擁し、受け入れる態度です。「そこにあるもろさ、さもしさをそっくりそのまま、そして少なからず見られる、矛盾やくだらなさをもすべてそのまま」(「ワールドユースデーパナマ大会の前晩の祈りでの講話(2019 年 1 月 26 日」)引き受けるのです。
私たちは、この教えを推し進める共同体となるよう招かれています。つまり、「完全でもなく、純粋でも洗練されてもいなくても、愛をかけるに値しない、と思ったとしても、まるごと全てを受け入れるのです。障害をもつ人や弱い人は、愛するに値しないのですか。よそから来た人、間違いを犯した人、病気の人、牢にいる人は、愛するに値しないのですか。イエスは、重い皮膚病の人、目の見えない人、からだの不自由な人を抱きしめました。ファリサイ派の人や罪人をその腕で包んでくださいました。十字架にかけられた盗人すらも腕に抱き、ご自分を十字架刑に処した人々さえも赦されたのです」(同)。
命の福音を告げるということは、共同体として私たちを駆り立て、私たちに強く求めます。それは、傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある「野戦病院」となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です。善意あるすべての人と、また、異なる宗教を信じる人々と、絶えざる協力と対話を重ねつつ、主に結ばれるなら、私たちは、すべての命を、よりいっそう守り世話する、社会の預言的パン種となれるでしょう。