訪日中の教皇フランシスコは25日朝、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、青年たちとの集いを行われた。
集いでは、3人の代表が、今日の日本社会で青年はどう神と出会い生きて行くべきか、若者たちが自分のよさに気付くようどう寄り添うべきか、また外国籍を持って生活することの喜びや苦しみ、いじめや差別の問題などをテーマに発表し、今日の日本の青年たちが抱える現実と苦悩に光を当てながら、教皇に助言を求めた。
これに答える形で、教皇はこの日のために準備された講話に、さらなる励ましや、時には冗談を織り交ぜながら、若者たちに語りかけられた。
*若者の文化的・宗教的多様性こそ、未来に手渡せる素晴らしさ
「今日の日本に生きる若者における文化的・宗教的な多様性」をご覧になった教皇は、「それこそが、この世代が未来に手渡せる素晴らしさです」と述べられ、「人類家族に必要なのは、皆の同一化ではなく、共存を学ぶこと、友情をはぐくみ、他者の不安に関心を寄せ、異なる経験や見方を尊重すること」と話された。
*「いじめの文化」には皆で力を合わせ「だめ」と言おう
いじめと差別に苦しんだ一人の発表者の経験に、「いじめの被害者が『自分は弱い』『価値がない』と自身を責めることも珍しくありませんが、実はいじめる側こそ、本当は弱虫であり、『他者を傷つけることで、自分のアイデンティティを肯定できる』と考えている」と答えられ、「違いを脅威に思い、自分と違うとみれば攻撃する… いじめる人たちは、本人自身がおびえており、見せかけの強さを装っているのです」と話された。
そして、「『いじめの文化』に対しては、力を合わせて、はっきり『だめ』という必要があります… この”疫病”に対する最良の薬は、皆さん自身。友人や仲間同士で「絶対だめ」「それは間違っている」と言わねばなりません」と強調された。
「愛と平和の敵である『恐れ』は、常に善の敵です… イエスは弟子たちに『恐れることはない』と言われましたが、それは神を愛し、兄弟姉妹を愛するなら、その愛は恐れを締め出すからです」と説かれ、「イエスの生き方に私たちは慰めを得るはずです… イエスご自身も、侮蔑され、拒絶され、十字架につけられる意味を知っておられました」と話された。そして、他とは「違う」者である意味を、身をもって味わわれたイエスこそ、ある意味で、最も「隅に追いやられた人」だったが、「与えるための命に満ちていました」と語られた。
*他者のための、神のための時間を作ろう
また教皇は「持っていないことに目を留めるより、自分が与え、差し出すことのできる命を見いだすことが重要」とされ、「他者のために時間を割き、耳を傾け、共感することで初めて、自分のこれまでの人生と傷から、自身を新たにし、周囲の世界を変えることができる愛に向かって進み出せるのです」と話された。また、「家族や友人のために時間を取ると同時に、神のための時間を作ることの大切さ」を示された。
また教皇は、「人間や社会が外的に高度に発展しても、内的生活は貧しく、熱意も活力も失っていることがよくあります」とされ、「特に、世界には、物質的には豊かでも、『孤独の奴隷』となっている人が多い」と指摘。「孤独と『愛されていない』という思いこそが、最も恐ろしい『貧困』だ」というマザー・テレサの言葉を思い起こされ、「霊的な貧困との闘いは、私たち皆に課せられた挑戦」と語られた。
そして、「私たちにとって最も重要なことは、『何を手にしたか』『手にできるか』ではなく、それを『誰と共有するのか』です。物も大切ですが、人間は『欠けてはならない存在』… あなたが存在しているのは神のためであることは間違いありませんが、神はあなたに『他者のためにも存在して欲しいと』望んでおられます。神はあなたの中に、沢山の賜物、カリスマを置かれましたが、それらは『あなたのため』というよりも、『他者のため』なのです」と話された。
*『魂の自撮りカメラ』はいらない、自分の中にこもらず他の人の所へ
教皇は、「社会において友情が可能であることの『証し人』となるように。攻撃や軽蔑ではなく、他者のもつ豊かさを評価することを学ぶように」と彼らを励まされた。
また、発表者の「自分の良さや勇気に気づくには、どのような助けを与えたらよいのでしょうか」との問いには「自分らしさや持ち味を知るためには鏡を見ても仕方がありません。幸い今のところ『魂の自撮りカメラ』はありませんが、幸せになるには、手伝ってもらい、『写真を誰かに撮ってもらう』必要があります。そのためには、『自分の中にこもらず、他の人、特に最も困窮している人の所へ出向いていくことです」と答えられた。
最後にと教皇は、「日本は若者を必要としており、世界もまた、自覚のある、寛大で、明るく情熱的な、『全ての人のための家を建てる力』をもった若者を必要としてます」と訴えられ、「若者たちが霊的な知恵をはぐくみ、人生において、本当の幸せへの道を見つけることができるように」と祈られた。
(編集「カトリック・あい」)