・「神の愛を受け、勇気をもって証し続ける」菊地大司教の復活節第二主日の説教

2021年4月10日 (土) 週刊大司教第二十一回:復活節第二主日

Img_20210407_191211-1 復活節第二主日は、ヨハネパウロ二世によって、「神の慈しみの主日」と定められています。この主日について、2016年の「司教の日記」に記事がありますので、是非ご一読ください。こちらのリンクから2016年4月3日の「司教の日記」の記事に飛びます。(写真は、暗闇に輝く、カテドラル鐘楼の十字架)

 新型コロナウイルスによる感染は終息せず、あらためて検査で陽性になる方が増えているようです。東京教区の一部では、4月12日から一か月間、蔓延防止等重点措置の対象となることが発表されています。教区内の対象地域は23区、八王子市、立川市、武蔵野市、府中市、調布市及び町田市とされ、期間は4月12日(月曜日)午前零時から5月11日(火曜日)午前零時までとなっています。

 東京都によれば、都民に対しては以下の要請がなされています。(事業者には別途要請があります)

  • 都県境を越えた不要不急の外出・移動の自粛。特に、変異株により感染が拡大している大都市圏との往来の自粛(新型インフルエンザ等対策特別措置法第24条第9項)

  • 日中も含めた不要不急の外出・移動の自粛(法第24条第9項)医療機関への通院、食料・医薬品・生活必需品の買い出し、必要な職場への出勤、屋外での運動や散歩など、生活や健康の維持のために必要な場合を除き、原則として外出しないこと等を要請

  • 混雑している場所や時間を避けて行動すること(法第24条第9項)

  • 措置区域において、営業時間の変更を要請した時間以降、飲食店にみだりに出入りしないこと(法第31条の6第2項)

  • 会食において会話をする際のマスク着用の徹底(法第24条第9項)

 東京大司教区としては、また別途、公示しますが、これまでの対応を変更はしませんが、対策がすでに長期におよび、慣れや、疲れも見られることから、今一度、感染対策を徹底するように、それぞれの小教区にお願いします。

 また信徒の皆さん、司祭修道者の皆さんにあっては、今一度、気を引き締めて、共にこの困難な時期を乗り越えていくことができるように、互いに支え合い励まし合いながら、務めて参りましょう。

 以下、本日夕方6時公開の週刊大司教第21回のメッセージ原稿です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

復活節第二主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第21回 2021年4月11日

 使徒言行録は、互いに助け合い支え合う初代教会共同体の姿を描き、心と思いを一つにした共同体の有り様そのものが、復活の主を証しする福音宣教となっていた、と指摘します。

 使徒ヨハネは「神を愛するとは、神の掟を守ること」と記し、「私たちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子どもたちを愛します」と加えることで、神の望まれる生き方をする者は互いに愛し合い、大切にしあうのだ、と指摘します。

 ヨハネ福音は、有名な弟子トマスの不信仰の話です。結局トマスは信じたのですから、この話を「トマスの不信仰」と言われてしまうのは、トマス自身には不本意でしょうが、実際にはこの話は、愛する弟子を何としてでも自らの愛のうちに包み込もうとして手を尽くされる、イエスご自身の慈しみと愛の深さを見事に表現しています。

 イエスは、恐れにとらわれ、扉を閉ざしている弟子たちのもとに現れ、自らがそうされたように、勇気を持って外に出て福音を証しせよ、と弟子を派遣します。そのために弟子たちを、自らの慈しみと愛で包み込もうとされます。勇気と希望を与えるこのイエスの言葉は、困難を抱え、不安の内にある私たちにも、今日、同じように告げられる言葉です。

 私たちは、扉を閉ざして逃げるのではなく、心と思いを一つにして、互いに支え合いながら、勇気を持って福音を証しするように、と派遣されています。それは罪の枷(かせ)に縛られ、暗闇の内にとらわれている世界に、解放と希望と光を伝えるためであります。イエスは私たちを慈しみと愛で包み、守ってくださいます。

 復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって「神の慈しみの主日」と定められました。「人類は、信頼を持って私の慈しみへ向かわない限り、平和を得ないであろう」という聖ファウスティナが受けた主イエスの慈しみのメッセージに基づいて、「神の慈しみと愛に身を委ね、受けた慈しみと愛を分かち合う必要」について黙想する日であります。

 1980年に発表された回勅「慈しみ深い神」で、教皇はこう指摘されています。

 「愛が自らを表す様態とか領域とが、聖書の言葉では「憐れみ・慈しみ」と呼ばれています」(慈しみ深い神3)

 その上で、「この『愛を信じる』とは、慈しみを信じることです。慈しみは愛になくてはならない広がりの中にあって、いわば『愛の別名』です」(慈しみ深い神7)と言われます。

 すなわち、「悪と利己主義と恐れの力に負けている人類」に、「赦し、和解させ、また希望する」ために、心に力を与えてくれるのは、神の愛であり、その愛が目に見える形で具体化された言葉と行いが、神の慈しみであると指摘されています。

 同時に教皇は、「憐れみ深い人々は幸いである、その人たちは憐れみを受ける」という山上の垂訓の言葉を引用しながら、「人間は神の慈しみを受け取り経験するだけでなく、他の人に向かって、『慈しみをもつ』ように命じられている」と、神の慈しみは一方通行ではなくて、相互に作用するものだ、とも語ります。(慈しみ深い神14)

 信仰における同じ確信をもって、教皇フランシスコは、「福音の喜び」にこう記していました。

 「教会は無償の憐れみの場でなければなりません。」(114)

 誰ひとり排除されてもいい人はいない。誰ひとり忘れ去られてもいい人はいない。神の愛を身に受けて、それに包まれ、勇気を持って希望を証しし、告げ知らせてまいりましょう。

(編集「カトリック・あい」)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2021年4月10日