・「聖体に生かされた私たちは、社会のただ中で愛を証しする」菊地大司教の主の晩餐のミサ

2021年4月 1日 (木) 聖木曜日・主の晩餐@東京カテドラル2021

 聖なる三日間が始まりました。昨年は、ミサは非公開でしたが、今年は数点の感染対策の制約の下、行うことになりました。聖座(バチカン)の典礼秘跡省からも、感染症下での聖週間の典礼について、特別な定めを設けるガイドラインが出ていますが、東京教区の典礼委員会でも、同様にガイドラインを作成して、主任司祭の皆さんに配布してあります。この聖なる三日間も、通常とは異なる点が諸々あると思いますが、どうか事情をご理解くださり御寛恕ください。特に今夜のミサでは、例年行われる洗足式や、ミサ後の聖体礼拝などが行われないことになっています。

 なおすでに教区ホームページなどでもお知らせしていますが、ケルン教区の呼びかけで、ケルン教区、レーゲンスブルグ教区、ニューヨーク教区、そして東京教区は、連帯して、聖木曜日にミャンマーの平和と安定のため、自由が守られいのちの尊厳が守られるように、共に祈ることにしています。聖香油ミサでも触れましたが、どうかミャンマーのためにお祈りください。これはチャールズ・ボ枢機卿を始め、ミャンマーの司教団からの要請に応えるものです。今日に間に合わない場合は、明日以降でも構いません。ミャンマーのためにお祈りください

以下、本日のミサの説教原稿です。

【聖木曜日・主の晩餐 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年4月1日】

 教会共同体は、聖体の秘跡によって霊的に養われ、キリストの体にあって一致するように招かれています。わたしたちは聖体の秘跡によって、神のあふれんばかりの愛を、心と体で、具体的に感じさせられます。聖体において現存されている主イエスは、「わたしの記念としてこれを行え」という言葉を聖体の秘跡制定に伴わせることによって、残していく弟子たちに対する切々たる思いを実感として残し、聖体祭儀が繰り返される度ごとに同じように実感させようとなさいます。

 出エジプト記は、「過ぎ越し」を定められた神の言葉を記していますが、その終わりにはこう記されています。

 「この日は、あなたがたの記念となる。あなたがたはこれを主の祭りとして祝い、とこしての掟として代々にわたって祝いなさい」(12章14節)

 パウロはコリントの教会への手紙において、最後の晩餐における聖体の秘跡制定にあたり、「私の記念としてこれを行え」というイエスが残された言葉を記し、さらににこう続けます。

「だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲む度に、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(コリントの手紙1・11章26節)

 そしてヨハネ福音書は、最後の晩餐の出来事として、直接に聖体の秘跡制定を伝えるのではなく、その席上、イエスご自身が弟子の足を洗ったという出来事を記します。この出来事は、弟子たちにとって常識を超えた衝撃的な体験であったことでしょう。その終わりに、こうあります。

 「それで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ」(13章14‐15節)

 聖書に記され、残されたこれらの言葉に込められた、神の思いは何でしょうか。それは神が私たちに対して行った業を、私たちがいつまでも記憶にとどめ、それを決して忘れてはならない。その行いに込められた神の思いを、心に刻み込むように。刻み込むことによって、それを忘れないだけではなく、自らも同じように実践し続けよーそのように願う神の切々たる思いが、感じられる言葉であります。

 神のその思いを表現するために、旧約でも新約でも、「記念」という言葉が使われます。この「記念」は、単に「記念日」のように、暦に残しておく過去のある出来事ではなく、具体的な生き方への指示、命令を現す言葉です。「忘れずに生きよ」という指示です。そしてその忘れてはならない記憶は、知識としての記憶ではなく、心が揺り動かされたその衝撃を、心に刻み込んでおく記憶です。私たちには、子々孫々まで、その記憶を具体的に生き、伝える務めがあります。

 教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「教会に命を与える聖体」に、こう記しています。

 「聖体は、信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧です。それゆえ、それは教会が歴史の中を旅する上で携えることのできる、最も貴重な宝だ、ということができます。(教会に命を与える聖体9)」

 その上で教皇は、ヨハネ福音書が「弟子の足を洗う」という愛の奉仕の業を記していることに触れて、「『主が来られるときまで』主の死を告げ知らせながら、聖体にあずかる者は誰でも、自分の生活を変え、自分の生活をある意味で完全に『聖体に生かされた』ものにしていくよう導かれます。(20)」と指摘します。

 すなわち、「私の記念としてこれを行え」というイエスの言葉は、単に聖体の秘跡を繰り返すことだけを求めているのではなく、その結果として、日々の生活が「聖体に生かされた」ものとなること、すなわち、「徹底した愛の奉仕に具体的に生きる」ことが求められているのだ、と指摘されます。

 聖体を受ける私たちには、イエスご自身が生きたように、愛と慈しみをもって、隣人を愛しながら、互いに支え合って生きていくことが求められています。それは聖体をいただく者の、聖なる義務であります。

 主イエスの言葉を心に刻み、代々受け継ぎながら、社会の現実の直中にあって、主が語り行われたこと、その祈り、そして愛に満ちた生き方を証ししていく務めは、私たち教会共同体に与えられた使命であります。

 教会はこの一年間、新型コロナ感染症の危機のなかにあって、さまざまな困難に直面してきました。そもそも集まることが難しい今、さらには集まったとしても、距離を保ち、接触を避け、共に歌うこともない状況で、信仰共同体を存続させる危機に直面しています。

 自らの存在が危機に直面するとき、どうしても私たちの心は内向きになって、守りに入ってしまいます。自分たちのことばかりを心配するとき、主イエスがその言葉と行いで証しした神の慈しみを具体的に生きる行動は、背後に追いやられてしまう危険があります。

 同時に私たちは、今回の危機的状況が、健康だけではなく、例えば経済や雇用などの問題も惹起し、それが命の危機を招いている状況も、直接に、また間接に知らされています。助けを必要とする命は、この危機的状況の中で、残念ながら増加しています。

 幸いなことに、教会には、このような状況にあっても愛の奉仕に務めようとする活動が多く見られます。東京大司教区の災害対応チームでは、そういった活動を紹介しようと、三度にわたってオンラインセミナーを開催してきました。特に先週の日曜日には、小教区を中心に、食を確保するための活動を行っているグループの話を聞くことができました。

 賜物である命を守るためには、当然のことですが、「衣・食・住」が充分に保障されていることが不可欠です。かつては、いわゆる途上国の、とりわけ貧困地域で生きる人たちが直面する問題だ、と思い込み、日本のような先進国では食料は充分に行き渡り、「衣・食・住」の問題で命が危機に陥ることは、それほど多くはない、と思われるきらいがありました。

 しかし、この数年の経済格差の広がりや、この一年の感染症の状況下における経済危機、雇用危機が、「衣・食・住」を命を危機に陥れる連鎖の重要な要因としつつある現実に、今、私たちの社会は直面しています。その中で、「食」を保障する活動には、愛の奉仕として大きな意味があります。

 聖体の秘跡によって生かされている教会は、主イエスの言葉と行いを心に刻み、賜物である命を守るために、互いに支え合い助け合うことの大切さを、社会のただ中に出向いていって、証ししなければなりません。

 教皇ヨハネパウロ二世は「聖体には、主の受難と死という出来事が永久に刻み込まれています。聖体は、単にこれらの出来事を思い出させるに留まらず、それらを秘跡によって再現します。聖体は、十字架上のいけにえを世々に永続させるのです。(11)」と述べています。

 御聖体に生かされている私たちは、神ご自身による目に見える行いによる究極的な愛のあかしである十字架上のいけにえを、代々に渡って告げしらせる務めがあります。この困難な時期だからこそ、常識の枷を打ち破って愛の業を弟子たちの心に焼き付けたイエスに倣い、愛の証しに生きていきましょう。

(編集「カトリック・あい」=引用された聖書の箇所は「聖書協会・共同訳」にさせていただきました)

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2021年4月1日