・聖金曜日・「主の受難」の枢機卿説教「教会内部で友愛が損なわれている、まず司牧者が良心の糾明を」

(2021.4.2 Vatican News  Robin Gomes)

   聖金曜日の「主の受難」の典礼が2日夜(日本時間3日未明)バチカンの聖ペトロ大聖堂で教皇フランシスコの主宰で行われ、儀式中の説教は教皇の説教師、ラネリオ・カンタラメッサ枢機卿が担当した。

 枢機卿はまず、「カトリックの信徒の間の友愛が損なわれている」とし、「司牧者たちは、教会における友愛と一致を作ることについて真剣に良心の糾明を、率先して行うべきです」。具体的には、「平和を築くのと、まったく同じ方法で友愛を築きますー私たちの周りから、私たち皆で始めます… それは、私たちにとって普遍的な友愛がカトリック教会とともに始まることを意味するのです」と強調した。

*イエスは「兄弟」という言葉に「助けを必要としているすべての人」の意味を込められた

 そして、枢機卿は、教皇が昨年秋に発出された回勅「Fratelli tutti(兄弟の皆さん)」を引用する形で、友愛と一致について考察した。

 「この回勅は、カトリック教会の内外の非常に幅広い人々に向けられたものであり、人類全体に向けられたもの… 私たちの公私にわたり、宗教界から社会的および政治的分野に至るまで、人生のさまざまな分野で、現実を見据えたうえで、人類が公正な友愛に到達するための道を提示しています」と前置き。

 枢機卿は「私たちが祝っている十字架の神秘は、ゴルゴタの丘から始まったキリスト論的な友愛の基盤に正確に焦点を合わせるように強いています」と述べ、「『brother(兄弟)』という言葉の最も一般的な意味はsibling(兄弟姉妹)です。さらに一歩進んで、同じnation(国民)あるいはpeople(住民)を意味します」としたうえで、「『兄弟』が聖書にあるように『 neighbour (隣人)』と訳されることで、すべての人間を含む広い意味になります。イエスが『あなたが私のこれらの最も小さい兄弟の一人のためにしたことは何でも、あなたは私のためにしたのである』*と言われる時、イエスは『助けを必要としているすべての人』をさして言っておられるのです」と語った。

*注:イタリア語版、英語版など各国語版聖書で「one of these least brothers」とされている箇所は、日本語の「聖書協会共同訳」「新共同訳」では「この最も小さな者」とされている。

*主が復活された後、キリストが私たちの「兄弟」となる

 そのうえで、枢機卿は、「主の復活をもって、『兄弟』の重要性に決定的な進展があります… 過ぎ越しの神秘において、キリストは『多くの兄弟の中で長子』(ローマの信徒への手紙8章29節)となり、弟子たちは、新しい、非常に深い意味で『兄弟姉妹』になるからです」とし、「イエスが、弟子たちを初めて『兄弟』と呼ぶのは復活された後、墓の外に立って泣いているマグダラのマリアに復活された姿を見せ、『私の兄弟たちの所に行って、こう言いなさいー私に父であり、あなたがたの父である方、また私の神であり、あなたがたの神である方のもとに私は上る』(ヨハネ福音書20章17節)と命じられた時です」と説いた。

 そして、「主が復活された後、『兄弟』という言葉は、信仰で結ばれた兄弟、キリスト教共同社会のメンバー、つまり『キリストの血を分けた兄弟』を表わすようになります。家族、国民、あるいは民族に代わるのではなく、キリストの友愛がそれらすべてに“戴冠”されるのです。キリスト教の信仰は二つ目の、決定的な側面を加えますー私たちが『兄弟』なのは、創造され、共通の父を持つからだけでなく、共通の兄弟、キリストー贖罪によって多くの兄弟の中で最初に生まれた者ーをもつ、という側面です」と指摘。

 

*教会内部の不一致を癒す

 また枢機卿は、「カトリックの信徒の間の友愛は傷ついているが、教会の不一致は教義、秘跡、そして司牧が原因ではありません… カトリックを二極化する不一致は、宗教的、教会的配慮よりも優先された結果、観念体系にまで発展した政治的な意見が原因になっています。公けに話し合われない、あるいは軽蔑され、否定される問題です」と述べた。

 そこで求められるのは、「友愛を、平和を作るのと同じやり方で作ること。そして、自分たち自身から、教会の中で始めること。必要なのは、真剣な良心の糾明と回心」であり、「不一致の醸成は、悪魔ー”種を蒔く敵”ーの”卓越”した業です」と注意した。

 そして、「イエズスこそ私たちが従うべき模範。当時のユダヤにおける四つの主要勢力ーファリサイ派、サドカイ派、ヘロデ大王を始祖とするユダヤ王朝支持のヘロデ党、熱心党ーのいずれに引き込まれることも拒否し、初期のキリスト教徒も同じ道を歩みました…。司牧者は良心を真剣に糾明する最初の人になる必要がある。自分の群れを『自分』に導いているのか、それともイエスに導いているのか、自問せねばなりません」と司祭たちに忠告した。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2021年4月3日