・「社会のただ中で、希望の光となろう」菊地大司教の復活のメッセージと主日の説教

2021年4月 4日 (日)復活の主日@東京カテドラル2021

御復活 おめでとうございます。

 東京では既に桜も散り、季節は足早に進んでいますが、多少すっきりとしない天気の中、復活のお祝いを迎えることができました。例年であれば、ミサ後に復活の祝賀会などが催される教会も少なくないと思いますが、残念ながらそれもかないません。

 ご自宅でお祈りされた皆さんにも、命を守るための積極的な行動に、復活された命の主の豊かな祝福が注がれますように。

 まず、東京教区ホームページに掲載されている、復活のメッセージビデオの原稿です。

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 困難な状況が続いていますが、今年はなんとか聖週間の典礼と復活の典礼を行うことができました。まだまだお祝いなどのために集まることは出来ませんが、祈りの時を共にしながら、主の復活を祝うことができることに感謝したいと思います。

 この復活の季節に、洗礼を受け、教会共同体の一員となられる皆さんに、心からお喜び申し上げます。

 現代世界のすべての人々と、喜びと希望、苦悩と不安と共にしている教会は、困難の内にある世界の人々との連帯しながら、主キリストの復活が示している新しい命への希望を高く掲げ、不安と恐れの暗闇を振り払う存在として、現代世界に命を吹き込む存在でありたいと思います。闇に光を輝かせる存在でありたいと思います。

 私たちはキリストの体の一部です。洗礼を受け、新しい命へと招かれ、互いに信仰の絆に結ばれ、キリストの体を作りあげています。信仰に日々生きている私たちが、教会そのものです。

 困難な事態は一年以上続いています。今後、いつになったら安心して集まることができるのか、まだ分かりません。この状況の中で、忘れ去られて孤立する人、経済的に困窮する人、病床にある人、理解の相違から排除されたり、対立の中に巻き込まれる人など、様々な形で危険にさらされる命への配慮が、大切です。

 死に打ち勝って復活された主イエスは、新しい命の希望です。私たち自身も、社会のただ中で希望の光となりましょう。

あらためて、御復活おめでとうございます。

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 そして、以下は本日の東京カテドラル聖マリア大聖堂での10時のミサの、説教原稿です。

【復活の主日 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年4月4日】

主の復活おめでとうございます。

 昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられた方々には、心からお祝い申し上げます。

 昨年初め頃から今に至るまで、私たちは一年以上にわたって、尋常ではない状況の中で生活をしています。今はワクチンの接種も始まっているなど、暗闇の中にも多少の光が見えてきました。それでも社会全体が受けている影響には大きいものがあり、世界の状況にも目を配れば、まだまだこの共通の家に住む私たちは、完全な光を見い出してはいません。命の危機は続いています。

 教会もこの一年間、厳しい状況の中に置かれています。感染症対策のために、また互いの命を守るための責任ある行動として、教会活動の自粛や、一時的な公開ミサの中止など、いわば試練の時が続いています。これを「試練」と感じる一番の理由は、喜びの欠如であります。

 もちろん個人的には、日曜のミサにあずかれないことや、予定されていたイベントが軒並みに中止になるなど、霊的に枯渇し、また「楽しみを奪われた」という意味で、喜びが欠如しています。しかし私たちから喜びを奪う一番の要因は、共同体が集うことができないことにあります。

 教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」を、こう書き始めておられます。

  「福音の喜びは、イエスに出会う人々の心と生活全体を満たします」(1)

 自分の殻に閉じ籠って他者への配慮を忘れる生き方ではなく、出向いて行って交わりを深め、福音に生きる喜びを共にすることの重要性を説く教皇は、次のように指摘されます。

 「福音を宣教する共同体は喜びに満ちていて、いつも『祝う』ことを知っています。小さな勝利を、福音宣教における一歩一歩の前進を喜び祝います。」(24)

 その上で教皇は「隣人の聖なる偉大さを眺め、あらゆる人間の中に神を見つけ、神の愛により頼むことで、共に生きることの煩わしさに耐え、良い方である御父のように他者の幸福を望んで神の愛に心を開くことのできる兄弟愛」こそが真の癒しを提供する、とされ、「共同体を奪われないようにしましょう」と呼びかけられています。(92)

 感染症対策のため、教会が選択した道は、残念ながら実際に集まって共に祈り、共に学び、共に活動する機会を制限することになってしまいました。具体的に肌で感じることのできる共同体の存在が制限されたことが、信仰における喜びをも制限してしまうことを、今、肌で感じています。

 その事実が逆に、意識するしないにかかわらず、キリスト者が共同体として集うこと自体が、どれほどの福音の喜びを自然に生み出していたのか、私たちに気付かせます。

 私たちには、福音の喜びを生み出す共同体が必要です。共に祈る共同体が必要です。兄弟愛を見い出し、兄弟愛を実践する共同体が必要です。福音を共に証しし、共に出向いていく共同体が必要です。

 もちろん私たちは、「教会共同体とは、具体的な人の集まりであり、現実の組織体であると同時に、霊的な共同体であること」も知っています。

 「カトリック教会のカテキズム」には、「私たちは生者と死者を問わず、万人と連帯関係にあり、その連帯関係は聖徒の交わりを土台としているのです」と記されています。「地上の旅路を歩む民」と「天上の栄光にあずかる人たち」には連帯関係があり、共に教会を作り上げています。

 それを第二バチカン公会議の教会憲章は「目に見える集団と霊的共同体、地上の教会と天上の善に飾られた教会は、二つのものとして考えられるべきではなく、人間的要素と神的要素を併せ持つ、複雑な一つの実在を形成している」と記しています。

 私たちは、信仰における兄弟姉妹と、そして信仰の先達と共に、キリストの唯一の体において一致し、連帯関係のうちに教会共同体を作り上げています。ですから、どこにいても、独りで祈りをささげていても、独りで愛の業に励んでいたとしても、また司祭が独りでミサを捧げていても、私たちはそれを霊的な絆にあって、共同体の業として行うのです。一つの体であるキリストに結ばれている限り、私たちは霊的に孤立することはありません。

 とは言え、現実社会での生活は、そう簡単に割り切れるものでもありません。

 教皇フランシスコは、今年、「ヨセフの年」を祝うように招かれておられます。使徒的書簡「父の心で」に、次のように記されています。

 「人生には、意味を理解できない出来事が数多く起こります。…ヨセフは、起きていることに場を空けるために自分の推論を脇に置き、自分の目にどれほど不可解に映っているとしても、それを受け入れ、その責任を引き受け、自分の過去に対するわだかまりを解くのです。過去に対するわだかまりを解かなければ、私たちは次の一歩を踏み出すことすらできないでしょう。期待とその結果としての失望に、とらわれたままになるからです。ヨセフの霊的生活は、明らかにする道ではなく、受け入れる道を示しています」

 ヨハネ福音は、復活の出来事を目の当たりにしても、「いったい何が起こったのか」を理解できずにいたペトロの姿を記しています。ところが使徒言行録には、復活の主に出会ったペトロが、力強く語る姿が記されています。

 イエスが十字架につけられた日に恐れをなして隠れ、三度、「イエスを知らない」と裏切ったあの夜の態度とは、また、復活の出来事を目の当たりにしても理解できなかった、ヨハネ福音に記された姿とは打って変わって、イエスについて、そしてイエスの死と復活を通じてもたらされる救いについて、力強く語る姿を、使徒言行録は記しています。

 それは「知識を教えているような姿」ではなく、「心からあふれてくるものを、どうしても語らずにはいられないペトロの姿」です。それほど多くの人に伝えたくて仕方のない話がある。自分には分かち合いたい宝のような話があるーそういうペトロの熱意が伝わってくるような姿です。復活された主と出会ったペトロは、喜びに満ちあふれており、あふれる喜びを分かち合わずにはいられません。復活の主と出会った共同体は、あふれんばかりの福音の喜びに満たされています。

 ご存じのように、長年にわたって姉妹関係にあるミャンマーの教会を、東京教区はケルン教区と共に支援してきました。2月1日の軍事クーデター後、自由と民主主義の尊重を訴え抗議する人たちや、以前からあった少数民族との対立の中で難民となった人たちへの、暴力的な対応によって、多くの命が奪われています。命を奪う現実に喜びはありません。ミャンマーの教会の呼びかけに応え、連帯の内に平和を祈りたいと思います。暴力ではなくて対話の内に、人間の尊厳が守られる社会が確立されるように呼びかけたい、と思います。命の危機を避けるように呼びかけたいと思います。

 私たちは、共同体の霊的な繋がりの内に、福音の喜びを共に見い出したいと思います。不可解な現実の中で、愛を実践するように招いておられる主は、私たちとの出会いを待っておられます。困難な中だからこそ、ペトロのように主との出会いの喜びを、福音の喜びを、共に証しする共同体でありましょう。

(編集「カトリック・あい」=見出しも・表記は読みやすくするために当用漢字表記に原則統一させていただきました。)

 

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2021年4月4日