・「慈しみをもって互いに支え合う愛の証人に」菊地大司教の復活節第三主日説教

週刊大司教第二十二回:復活節第三主日

21otsugef04 復活節も第三主日となりました。(写真は、先週、4月11日に行われた、お告げのフランシスコ姉妹会での、シスター堀内桐子の終生誓願式の様子です。シスター堀内、おめでとうございます)

 東京教区内でも、東京都の一部の地域はこの月曜日からすでにまん延防止等重点措置の対象となっていますが、今度は千葉県の一部も、4月20日から5月11日まで、同措置の対象となることが発表されています。対象となる地域は、船橋市と市川市、松戸市、柏市、浦安市と報道されています。

 先般、東京が対象となった際の公示にも記しましたが、新たに対象となった地域の教会にあっては、感染対策を今一度徹底してくださるようにお願いします。現時点での東京教区の感染対策については、このリンクの東京教区ホームページをご覧ください。

 昨年12月18日に帰天されたた東京教区名誉大司教ペトロ岡田武夫大司教の追悼ミサは、1月に予定されていましたが、感染対策のため延期となっていました。このたび、4月19日の月曜日に、追悼ミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂で執り行うことといたしました。

 残念ながら、感染対策のため、皆さんに自由に参列していただけません。申し訳ありませんが、ミサへの参加は、小教区などの代表者の方に限定とさせていただきます。

 しかしながら、ミサ後、午後2時半頃から4時までの間は、どなたでも自由に大聖堂にお入りいただき、献花や追悼のお祈りをしていただくことができます。大聖堂内の「密」の状況によっては、入場制限を行うことになるかも知れませんが、この時間に、岡田大司教様の永遠の安息のためのお祈りをささげていただけますと幸いです。

 なお、5月8日には、府中墓地に納骨いたします。5月8日以降、府中墓地を訪れる際には、教区司祭の墓所でも、お祈りいただければと思います。

 以下、本日土曜日午後6時公開の、週刊大司教のメッセージ原稿です。

復活節第三主日B(ビデオ配信メッセージ)2021年4月18日

 ルカ福音は、エマオへの道で復活された主と歩みを共にし、食卓を囲み、パンを割いた時に「イエスだ」と気付いた二人の弟子について触れています。

 イエスが復活された主だ、と悟った二人の弟子は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださった時、私たちの心は燃えていたではないか」と語り合い、その心の高ぶりを分かち合うためにエルサレムへと、とって返します。

 本日のルカ福音はその二人がエルサレムに戻った様から、話を始めています。二人は、復活された主との出会いという自らの体験と心の思いを分かち合う、復活の主の証し人、証人となりました。

 そこに現れた主ご自身は、さまざまな手段を講じてご自分を示され、弟子たちの理解を促します。それによってイエスは、復活が単なるこの世の命への復帰の奇跡ではなく、体の復活でありながらも、同時に超越した命、すなわち「死の状態から時空を超えた別の命に」移ったことを明示します。(「カトリック教会のカテキズム」646項)

 弟子たちに復活の命を解き明かしたイエスは、今日の福音の終わりに、「あなた方は、これらのことの証人となる」と告げられます。

 使徒言行録は、復活の出来事を体験したペトロが、力強くイエスについて証しする姿を記しています。ペトロは変身したのでしょうか。もちろん復活の主との出会いが彼の心に勇気を与え、揺るぎない信仰を持って語る使徒に変えたのは、間違いがないでしょう。

 しかし、全く異なる人に変身してしまった訳ではありません。ペトロは、復活の主との出会いの体験を通じて、「何を語るべきなのか」を悟ったのです。それが、ペトロがここで強調する「私たちは、このことの証人です」という言葉に込められています。

 使徒ヨハネは手紙で、「神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています」と記します。

 すなわち、恐れていたペトロは、自分の心の内を語る自分の証人でした。ですから恐れを証ししていたのです。しかし復活された主との出会いによって、神の言葉を心に植え付けられ、心は燃え立たせられ、その言葉を守ることで、心の内に神の愛が実現しました。そして使徒は「自らが何を語るべきなのか」を悟ったのです。神が求める証人は自分の心のうちを語るのではなく、復活された主との出会いで与えられた神の言葉を語るのです。復活された主との出会いによって燃え立たせられた心の内に実現する、神の愛を証しするのです。

 2015年12月に、教皇フランシスコは「慈しみの特別聖年」を始めるにあたり、大勅書「イエス・キリスト、父の慈しみのみ顔」にこう記しておられました。

 「教会には、神の慈しみを告げ知らせる使命があります。慈しみは福音の脈打つ心臓であって、教会がすべての人の心と知性に届けなければならないものです… したがって、教会のあるところでは、御父の慈しみを現さなければなりません」(12)

 私たちは、何を証しする証人なのでしょうか。私たちの教会共同体は、何を証しする証人となっているのでしょうか。対立や、いがみ合いや、差別や排除ではなく、慈しみをもってすべてを包み込み、互いに支え合う愛を、証しする証人でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

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2021年4月17日