・「『優しさによる革命』が求められている」-年間第17主日・高齢者のための祈願日に、菊池大司教

2022年7月23日 (土)週刊大司教第八十六回:年間第十七主日

 今年の年間第17主日は、メッセージでも触れていますが、7月の第四日曜日ですから、祖父母と高齢者のための世界祈願日と定められています。教皇様が定められ、昨年から始まりました。この祈願日のために、教皇様はメッセージを発表されています。今年のタイトルは、「白髪になってもなお実を結び」です。

 多くの皆様にお祈りいただきましたが、司教総会が火曜日7月19日から金曜日7月22日朝まで開催され、無事に終了しました。お祈りに感謝いたします。22synodsprayer01

 昨日の午後は、シノドス準備文書に記されているように、他のキリスト教諸派の方々から、共に歩む教会の姿勢についての分かち合いをお聞きする設け、麹町教会を会場に、NCC(日本キリスト教協議会)、聖公会、福音ルーテル教会の代表の方々をお招きして、シンポジウムを開催しました。

 興味深い分かち合いのひとときでした。カトリック側からは、司教総会において採択されたばかりの、日本の教会からの報告書を私から、かいつまんで説明させていただきました。

 バチカンのシノドス事務局による準備文書には、「一つの洗礼によって結ばれた、異なる信仰告白をもつキリスト者間の対話は、シノドスの旅において特別な位置を占めています」と、その意義が記されています。

 シンポジウムの終わりには、共に歩む教会の姿を黙想し、聖霊の導きを願いながら、前田枢機卿様の司式で、合同礼拝を行い、私が説教を担当させていただきました。

 東京では感染者数が急増しています。行動制限が行政から発出されるとのニュースも耳にします。現状では、基本的な感染対策である、手指の消毒、うがい、屋内でのマスク着用、充分な換気の確保を徹底し、適度の距離を保っていることで、教会での典礼は可能だと判断していますが、行政が制限などを求めた場合には、適宜対応することにいたします。

 もちろん、それぞれの小教区ので状況の違いや、信徒の皆さんのお考えの違いもあることでしょうから、最終的にはそれぞれの小教区で、基本を守った上で、判断してくださって構いません。

 以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第86回、年間第17主日メッセージ原稿です。

【年間第17主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第86回 2022年7月24日】

 ルカ福音は、「祈りを教えてください」と願う弟子たちに、イエスが、「父よ、御名が崇められますように」と始まる「主の祈り」を教えたことを記しています。

 イエスが示すもっとも基本となる祈りは、「父よ」と始まります。イエスが指し示す御父のイメージは、例えば放蕩息子を迎え入れる父親に象徴されるような、神のいつくしみを具体化した存在です。私たちに語りかける御父は、私たちがその呼びかけに応えるのを待ち続け、私たちが語る言葉に耳を傾けてくださいます。

 「カトリック教会のカテキズム」は、主の祈りを「全福音の要約、最も完全な祈り」とする教父たちの言葉を紹介し、「福音の本質的内容を祈りの形でまとめている」と指摘しています(要約579項)。

 主の祈りは、私たちが神に従ってたどるべき道を明示する祈りです。先に呼びかけてくださった神に対する私たちの答えとして、私たち自身の生きる姿勢を明確にするこの祈りは重要であり、神は、私たちの決意表明に耳を傾けてくださいます。

 私たちの祈りに耳を傾けられる御父の姿勢は、創世記に記されたソドムの町に関するアブラハムと神のやりとりにも、よく表れています。辛抱強く耳を傾けるのは、御父です。

 御父が耳を傾けてくださる存在であるからこそ、イエスは弟子たちに「求めなさい。探しなさい。門を叩きなさい」と諭します。与えられるものは「よいもの」です。「聖霊」です。邪悪な事柄を執拗に求めたからといって、それは聞き入れられません。私たちが執拗に祈り求めるためには、まず、「父よ」と呼びかける、あの福音を凝縮した祈りが必要であり、その祈りのあとに続けて求めることができるのは、善であり、悪ではありません。神の御旨の実現であり、悪の支配ではありません。赦しであって、分断や分裂ではありません。

 教皇フランシスコは、昨年2021年から、7月26日の聖ヨアキムとアンナの記念日に近い主日を「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定められました。今年は7月24日がこの祈願日となります。今年の祈願日のために教皇様はメッセージを用意され、そのテーマを詩編92から取った「白髪になってもなお実を結び」とされています。

 長寿であることは、多くの国で祝福でしたが、日本のように少子高齢化が急激に進むと、そうとばかりも言っていられなくなります。教皇様はご自身の近頃の体調に触れながら、6月15日の一般謁見で、「高齢になると、もう自分の身体のコントロールが効かなくなります。何をして、何をしないかを選択することを学ばなければなりません。身体の活力は私たちを裏切り、見捨てます。たとえ心は望み続けても。そして、人はその願望を静めることを学ばなければなりません」と述べておられます。

 今年のメッセージでは、しかし、「聖書が教えているように、長寿は祝福であり、老人は疎まれる存在ではなく、命を豊かに与えてくださる神の慈しみの生きたしるしです」と指摘されます。

 その上で教皇様は、力が全てを支配することを良しとするかのような、現代社会にあって、高齢者の謙遜さと蓄えた知恵が必要だとして、こう言われます。「私たちが面倒を見てもらう、ということ自体が、共に生きることは可能であるばかりか、必要なことだ、と表明する一つの手段です」。

 教皇様はこれを、「優しさによる革命」と呼ばれています。「力による革命」ではなく、「謙遜さと知恵による革命」です。神の語りかけに積極的に応え、お互いには耳を傾け合いましょう。

(編集「カトリック・あい」)

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2022年7月23日