2024年9月21日 (土)週刊大司教第184回:年間第25主日B
9月も終わりに近づきました。来週末には、世界代表司教会議(シノドス)第16回定期総会の第二会期に参加するために、ローマに出かけます。9月30日と10月1日に黙想会が行われ、その後、10月2日からシノドスの第二会期が始まります。
東京教区のYoutubeチャンネルで土曜の夕方6時に配信している「週刊大司教」ですが、来週9月28日の夜はシノドス前の特別版を配信します。その後、10月5日から10月末までは、通常の「週刊大司教」はお休みとさせていただきます。ただし昨年同様、シノドスの現場からのレポートをお送りすることができればと思います。
会期前の二日間の黙想会の終わり、10月1日の午後6時(日本時間2日午前1時)、聖ペトロ大聖堂で、教皇様司式で回心の儀が行われます。ともに歩む教会は常に回心を続ける教会でもあると教皇様は呼びかけ、そのためにも教会は、自らの罪を掲げ、その痛みと時に恥を身に受けることによって、復活のように再び立ち上がることを赦される、と言われます。
回心の儀では、虐待の罪、戦争の罪、世界中での移民を無視した罪の三つの体験者が分かち合いを行い、その後に怠りも含めて教会が関わった次のような罪が告白されます。
平和に反する罪、被造物や先住民族や移住者に対する罪、虐待の罪、女性、家族、青年に対する罪、教義を石を投げるために利用した罪、貧困への罪、シノドス性に反し、耳を傾けず、交わりを拒否し、皆が参加することを拒んだ罪。
シノドス期間中はバチカンのyoutubeサイトなどで、映像配信もあると思いますので、映像を通じて是非ご一緒いただければと思います。
また度々繰り返していることですが、第二会期で”シノドスの道”が終わるのではなくて、シノドス(共働)的な教会となるための道は、今回の2期にわたるシノドス総会を通じて明確になるのですから、終わってからこそが教会全体の取り組みの始まりです。改めて司教協議会の会長としてのメッセージにも目を通していただければ幸いです。
以下、本日午後6時配信、週刊大司教第184回、年間第25主日のメッセージです。
【年間第25主日B 2024年9月22日】
マルコ福音は、誰が一番偉いのかと弟子たちが議論していた話を記します。誰が一番偉いのか、というよりも、自分が一番になりたい、皆の上に立ちたい、というのは、人間社会につきものの、避けて通ることのできない欲望の一つです。
その弟子たちに対して、イエスは、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい」と教えます。これは弟子たちに対する回答というよりも、この世に対する警告の言葉でもあります。この世界が価値があると定めるはかりではなく、神は、皆に使えるものとなるところに価値を見いだされる。神が良しとされる価値観は、弟子たちが囚われているような、この世の価値観とは全く異なっているのだ、ということを悟らせようとする言葉です。
受難と死へと至るイエスの生涯そのものが、人間の常識をはるかに超えた人生です。その人生にこそ、自らが創造された人類への愛と慈しみが具現化しています。神の常識は、人間が最も忌み嫌う、苦しみと死の自己犠牲の道にこそ、神の栄光と愛と慈しみがあるとするのです。信仰の道は、私たちの常識をはるかに超えたところにあります。
その意味で、教皇が今、教会全体に根付かせようとしている”シノドスの道”も、私たちの常識を遙かに超えた神の価値観の道のりです。10月には、今回の世界代表司教会議(シノドス)総会の第二会期が始まります。ローマでの会議は、それぞれの国を代表してレポートを発表する場ではなく、歩むべき道を見極めるための具体的な作業をする場となっています。
今回のシノドスは、シノドス(共働)性そのものを取り上げ、シノドス(共働)的な教会が宣教する教会であるためにどのような道を歩むべきかを一緒に識別するためのプロセスです。ですから、多くの人が期待しているような、具体的な事柄は何も決まらないかもしれません。またこの10月の会議ですべてが終了するものでもありません。いま進められているプロセスは、終わりに向かっているのではなく、始まりに過ぎません。教会はこれから常に、シノドス的な教会であるために努力を続けていきます。なぜなら、神の民である教会は、その本性からしてシノドス的であり、ともに歩み続ける存在だからであります
教会に民主主義を持ち込むのではないか、とか、新しい政治的イデオロギーではないか、とか、この会期が終わるまでに日本では何もしないのか、とか、いろいろな意見が飛び交っているのは事実です。しかしそういったことではなくて、聖母マリアと主イエスとの歩み、主イエスと弟子たちとの歩み、そういった教会誕生の原点にある姿を、確実に具体化して生きていこうとするのが、今の”シノドスの道”の目的です。これからも長い目で見ながら、その具体化に努めて行きたいと思います。
聖霊の導きを識別し続けながらともに歩むこの”シノドスの道”は、簡単な道ではありません。時間と手間のかかることでもあり、まずもって忍耐を必要とします。同時にそこで見出される神の計画の道は、常に安楽の道であるとも限りません。なぜならば、神の救いの計画の中心には常に十字架の苦しみが存在しているからです。
”シノドスの道”を共に歩むことで、私たちは様々な困難に直面することでしょう。様々な意見の対立に翻弄されるでしょう。常識の壁が立ちはだかることでしょう。決断の及ぼす影響を考え、たじろいでしまうかも知れません。その時にこそ、苦しみと自己犠牲の道にこそ、神は価値を見出されることを思い起こしましょう。
(編集「カトリック・あい」=以前からご本人にもご注意申し上げているのですが、いまだに教皇が21年秋に始められた「シノドスの道(英語でsinodality way あるいはsinodality pass=バチカンでもいまだに表記が定まっていませんが)」と、その中間集約の世界レベルの具体的な場とも言うべき「世界代表司教会議第16回通常総会」が、同じ「シノドス」という言葉で混同して使われており、信者の間で理解に障害をもたらす原因の一つとなっているようです。「カトリック・あい」では、バチカン発表の文章、教皇のお話なども含めて、言葉の書き分けを当初から行っており、上記の菊地大司教の文章も、誤字の修正も含めて、表記の統一を図っています)