・ロザリオの月の初めにー「聖母マリアの取り次ぎにより、神の平和が取り戻されるように」ー菊地大司教の年間第27主日メッセージ

2021年10月 2日 (土) 週刊大司教第46回:年間第27主日

Kojimachibvm 時間は本当に飛ぶように過ぎ去ってしまいます。とりわけ、現在のように不確定要素のただ中で翻弄され、対応に追われるとき、心はどうしても落ち着きを失い、気がつくと、あっという間に時間だけが過ぎていたと言うことなのでしょうか。10月となり、今年も年末に向けての3ヶ月となりました。

 10月はロザリオの月です。(聖母子像の写真は麹町教会)

 教皇レオ13世によって、10月は聖母マリアにささげられた「ロザリオの月」と定められました。そもそも10月7日のロザリオの聖母の記念日は、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が、ロザリオの祈りによってもたらされたとされていることに因んで定められています。歴史的背景が変わった現代社会にあっても、ロザリオは信仰を守り深めるための、ある意味、霊的な戦いの道具でもあります。

 教皇パウロ六世が1969年に発表された使徒的勧告「レクレンス・メンシス・オクトーベル」は、冒頭で、「諸民族の心と精神の和解によって最後には真の平和が世界に輝くよう、幸いなるおとめマリアの助けを願うために、十月にロザリオを唱えることを強く勧めます」と記しています。

 この困難な状況に立ち向かう今だからこそ、神の母であり、教会の母であり、そして私たちの母である聖母マリアの取り次ぎによって、世界に、そして私たちの心と体に、神の平和が取り戻されるよう、共にいてくださる主イエスと歩みをともにしながら、命の与え主である御父に祈り続けましょう。

 東京教区では、すでに教区ホームページなどで公示したように、10月1日から、感染対策を取りながら教会活動を再開しています。今後状況がどのように変化するのかまだ見通せませんが、互いの命を守るための積極的な愛の行動として、感染対策にご協力ください。

 なお昨日付で人事の公示をいたしましたが、これまで10年以上にわたって東京教区の司牧のために貢献してくださった李 宗安師(現青梅・あきる野教会主任司祭)は、李神父様の所属するソウル教区と東京教区との契約が満了し、10月末をもって帰国されることになりました。

 ソウル教区からは、すでに後任の神父様が任命され、派遣の手続きが進んでいますが、残念ながら現在の感染症の状況で日本政府から宗教ヴィザが発給されず、入国できずに待機されている状態です。李神父様のこれまでの東京での司牧に対する貢献に感謝するとともに、帰国されてからのソウル教区でのご活躍をお祈りいたします。(なお、フランス語共同体の新しい担当司祭もフランス司教団から任命されていますが、同様の理由で、入国できず、待機中です)

 以下、2日午後6時公開の、週刊大司教第46回のメッセージ原稿です。

【年間第27主日B(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第46回 2021年10月3日】

 創世記は、冒頭で神による天地創造の業を記していますが、二章においては創造物語の視点を変え、人が賜物である命を与えられた理由を記しています。

 二人の人が創造された理由がそこに記されているように、私たちは互いに「彼に合う助ける者」となるように、その命を与えられている。そう記す創世記は、私たちが互いに助け合い、支え合うことこそが、命を生きる本質である、と強調します。

 マルコ福音も、ファリサイ派の人たちとイエスの、離縁に関する議論について記しながら、二人の人が一体となることの根本にある、命に与えられた使命、すなわち、互いに助け合い、支え合うことこそが私たちが命を生きる意味であることを明確にします。

 ヘブライ人への手紙は、救いの創始者、すなわち、天地を形作られた神ご自身が、数々の苦しみを通じて完全な者となったことで、「多くの子らを栄光へと導いた」と記します。

 教皇ベネディクト16世は回勅『希望による救い』の中で、「人間は単なる経済条件の生産物ではありません。有利な経済条件を作り出すことによって、外部から人間を救うことはできないのです(21)」と指摘します。その上で教皇は、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼす(39)」と述べています。

 教会が常に顕彰してやまない殉教者たちは、その人生における苦しみを通じて、まさしく「人間であることの根本的な構成要素」を明確に表現した存在です。殉教者たちは信仰を生き抜くことで苦しみ抜きながらも、賜物としていのちを与えられた人間の生きる意味を明確にした存在です。主ご自身が苦しみを通じて多くの人を救いへと導いたように、苦しみを通じて人間の本質を明確に示した殉教者たちは、その命は、自分のためではなく、互いに助け合うため、支え合うためにこそ与えられていることをはっきりと示されました。

 私たちには、苦しみのうちにあっても連帯のうちに、互いの命を支え合って生きることが求められています。

 教皇フランシスコは、一般謁見を昨年9月2日に一時中断後再開した時、こう話されました。

 「新型コロナ大感染は、私たちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。私たちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、共に協力しなければなりません。独力ではなく、協力するのです。独りでは決してできないからです。一緒に協力するか、さもなければ、何も出来ないかです。私たち全員が、連帯のうちに共に行動しなければなりません」

 感染症の状況の中で、私たちは命の危機を肌で感じました。この不安と苦しみの中にあって、私たちの心はどうしても自分の方へと向かってしまいます。自分の命を守ろうとして、利己的になってしまいます。分断と分裂、そして孤立と孤独は、この数年、世界各地で社会の課題となって顕在化してきましたが、このパンデミックによって、さらに明確な社会の課題として、いや、命の危機をもたらす要因として、私たちの目前に立ちはだかっています。私たちは、互いに助け合う者として命を与えられていることを思い起こし、殉教者の勇気に倣い、命を生きる本当の意味を、広く証しし、伝えてまいりましょう。

(菊地大司教「司教の日記」より=「カトリック・あい」編集)

 

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2021年10月2日