
(2020.12.18 Vatican News)
教皇付きの説教者、ラニエロ・カンタラメッサ枢機卿が18日、待降節黙想のための第三回講話を、教皇フランシスコとバチカンの幹部たちを、「世界の貧しい人々と苦しみ-謙虚さーの中に、主の御言葉を見出す必要性」をテーマに行った。
枢機卿はまず、「神は愛であり、それゆえ謙遜。クリスマスは神の謙遜さの饗宴です。なぜなら、神はご自身を謙虚にされ、私たちの間に住まわれ、貧しい人々、謙虚な人々、そして世界の苦しみをご自分で担われたからです」としたうえで、「クリスマスを心から、真に祝うためには、『私たちの間に住まわれることで、貧しい人々、謙虚な人々、そして苦しみをご自分で担われた神』を認識する謙遜さが必要です」と語った。
そして、「主は私たちの間に御自身の住まいを作られました。つまり、受肉によって不可逆的な行動を達成されたのです。人の子は地上においでになり、神は、消え去ることはない。エマヌエル-私たちと共におられる神-は、友として、そして悪の勢力に対抗する同盟者として、人の側におられるのです」と強調した。
*謙遜の欠如は、神が人となられたことを信じることの障害
また、枢機卿は、「キリストの人における神性と人間性の完全な結合は、考えられるあらゆる新しさの中で最大のもの」とする一方で、「私たちの中には、御言葉が私たちの間に住まわれたという、矛盾した、あってはならないことを受け入れることができない人がいます。神は人と交わり合うことがない、と考えるからです」と述べた。
そして、「神が人となられたことを信じることの障害となるのは、謙虚さが欠けていること」とし、聖アウグスチヌスも「謙虚になれず、私は神ご自身の謙虚さを理解できなかった」と自己の体験として、それを認めている、と述べ、「これこそが、現在の無神論の究極のルーツなのです」と指摘した。
*神の謙虚さ
さらに、枢機卿は、「自分を誇示するのに、ほとんど力はいりませんが、身を引いて自分を目立たなくするには、もっと沢山の力が必要です… これは神がご自分を目立たなくする計り知れない力でなさること。ご自身を空にされ、奴隷の姿で、謙虚にされ、死、十字架での死に至るまで従順になられました」とし、「このように、『神は愛である』と『神は謙虚である』という主張は、コインの表と裏のようなもの。それは、愛ゆえに自分を小さくし、他の人々を表に出るようにする。その意味で、神だけが、本当に謙虚なのです」と言明。「御言葉が肉となり、私たちの間に住まわれる、という受肉の神秘の核心は、『神が私たちと共に永遠におられること』であり、それは不可逆的です」と強調した。