・「私たちの立ち位置は『常識』か『神の心理』か」菊地大司教の年間第24主日メッセージ

週刊大司教第93回:年間第24主日 

2019_06_img_0249 教区カテキスタの養成講座の、今年度のコースが終わりを迎え、10日午後、最終回の講話(私が担当)、修了式と任命・派遣のミサがカテドラルで行われました。これについては、別途また別の記事でお知らせします。新しくカテキスタとして任命された方々には、今後の活躍を期待します。共に歩む教会共同体を、一緒に育てて参りましょう。(写真はアシジの聖フランシスコ大聖堂)

 毎年9月14日と15日には、秋田の聖体奉仕会修道院で、聖母マリアと共に祈る秋田の聖母の日が、2014年から行われてきました。残念ながら、コロナ禍のために中止となってきました。今年こそは再開できるかと期待して、いつもの信徒による旅行社パラダイスさんと巡礼を組もうと企画していましたが、今年も中止となってしまいました。

 「もう一年だけの辛抱」であることを祈ります。来年こそは。祈りの雰囲気に満ちあふれた秋田の地で、聖母を通じて主イエスへと導かれるために、共にロザリオの祈りを捧げることができる日の再開を,祈り続けます。聖体奉仕会では、今年の秋田の聖母の日のために、20分程度のメッセージビデオを用意しているようです。14日には公開の予定と聞いていますので、またお知らせします。

 9月10日は、日本205福者殉教者の記念日です。そしてこの日は「元和の大殉教」の日でもあります。今年でちょうど400年となり、長崎教区では祈念の祈りがささげられています。長崎教区のお知らせには、次のように記されています。

「毎年9月10日は日本205福者殉教者の記念日です。1622(元和8)年9月10日に長崎西坂の丘にて55名(うち52名は福者)が火刑・斬首され、『元和の大殉教』と呼ばれています。今年で400年目を迎えます。長崎の地は日本二十六聖人の殉教をはじめ、多くのキリシタンが殉教した土地です。彼らはその信仰をなによりの宝とし、死を前に恨み言ではなく、神への賛美と感謝のうちに、命の限り神の愛を人々に証ししました」

 改めて、日本の殉教者の信仰における勇気に倣い、私たちも現代社会にあって福音を証しする信仰を持つことができるよう、その取り次ぎを祈りましょう。

 以下、本日午後時配信、週刊大司教第93回、年間第24主日メッセージ原稿です。

【年間第24主日C(ビデオ配信メッセージ)2022年9月11日】

 出エジプト記は、モーセが不在の間、不信に陥ったイスラエルの民が、金の雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげた様を記しています。民のこの行動は神の怒りを招きますが、モーセはなんとか神の怒りをなだめようと努めます。出エジプトの出来事を体験したイスラエルの民でさえ、先行きの不安に駆られ不信感が増大したときに、自分の心を落ち着けてくれる存在に頼ってしまう。人間の心の弱さを象徴する話です。

 私たちは、基本的に変革よりも安定を望みます。自分の心を落ち着けてくれる道を求めようとします。その思いが募るとき、結果として手に入れるのは、自分の願いを満たしてくれる答えであり、往々にしてその答えは、真理とはほど遠い道であることが、この物語から示唆されます。

 真理の道は神が用意された道であるにもかかわらず、不安や不信、または利己的な思いは、真理の道から私たちの目をそらせ、自分が思い描いた欺瞞の道へと誘います。そこに神の命はありません。

 教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」の中で、「出向いていく」教会であることを求めながら、教会共同体が福音宣教のために「司牧的な回心が要請する構造改革」に取り組むように求めています(27項)。その上で、「宣教を中心とした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません(33項)」と記し、自分たちが経験に基づいて思い描いている理想に固執することなく、「常に聖霊の働きに心を開き真理の道を識別し続けるように」と求めています。

 ルカ福音は、99匹の羊を野原に残してでさえも、見失った一匹を探しに出かける「善い牧者」の姿を記しています。

 このたとえ話の導入では、やはり過去のしがらみや倫理的基準に捕らわれたファリサイ派や律法学者が、罪人と食事を共にするイエスを批判する姿が記されています。自分たちの安全地帯に留まろうとする選択は、真理からはほど遠いことが示唆されています。

 そしてイエスは、「1対99の比較」という選択肢を持ち出し、「1を諦めても99を確保する」という常識的な判断ではなく、「神の判断は、一人も失われることなくすべての命を徹底的に愛し守り救うのだ」という、神の真理の道を明確に示します。「常識」と「神の真理」。私たちの立ち位置は、どちら側にあるのでしょうか。

 2016年5月4日の一般謁見で、教皇様は「私たちは皆、見失った小羊を肩に担いだ良い羊飼いの姿をよく知っています。その姿は、罪人に対するイエスの心配りと、誰かが居なくなっても決して諦めずに探してくださる神の慈しみを常に表わしています」と述べています。

その上で、「だれも何も救いのみ旨から神を引き離すことはできません。神は現代の使い捨て文化とは無関係です。まったく関係ありません。神はだれも見捨てません。神は皆を一人ひとり愛し、探しておられます。神は『人を見捨てる』という言葉を知りません。なぜなら、神は完全な愛であり、完全な慈しみだからです」と指摘されています。

 更に教皇様は「自分が『正しい』と思い込み、自分自身の中に、自分の小さな共同体の中に、そして小教区の中に閉じ籠ってはなりません。それは、他者との出会いへと私たちを導く『宣教への熱意』が欠けているときに起こります」とも指摘されます。

 「常識」と「神の真理」。私たちの立ち位置は、どちら側にあるのでしょうか。

(編集「かとりっく・あい」)

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2022年9月10日