・「福音に希望を抱き、伝えながら歩み続けたい」菊地大司教、「王であるキリストの主日」に

2024年11月23日 (土)週刊大司教第186回:王であるキリストの主日

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 典礼の暦における最後の主日は「王であるキリスト」の主日です。また週刊大司教のメッセージでも触れていますが、教皇様はこの日を世界青年の日と定めておられます。

 教皇様の今年の世界青年の日のメッセージは、テーマを「主に望みをおく人は、歩いても疲れない」(イザヤ40・31参照)としており、日本語の翻訳はこちらの中央協議会のリンクでご覧いただけます。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第186回目のメッセージ原稿です。

(王であるキリストの主日B 2024年11月24日)

 ヨハネ福音は、ピラトとイエスの問答を記しています。ピラトが象徴するのは、国家を支配するこの世の権威です。それに対してイエスは、神の国、すなわち神の支配について語ります。そしてこの問答が全くかみ合わない事実が、この世の支配と神の支配が全く異なる実体であることを物語っています。

 神の支配とは神の秩序が確立していることであり、それはイエスご自身が、「真理に属する人は皆、私の声を聞く」と言われるように、人間の欲望や知識に根ざしたこの世の権力が支配する国家とは異なる、真理による支配であることを、イエスはピラトに向かって宣言されます。

 「カトリック教会のカテキズム」は、「罪と苦しみと死に対する勝利」こそが神の支配の実現によって到来すると指摘しています(カテキズム要約314)。

   その上でカテキズムは、「キリストのみ国は教会のうちにすでに現存しているとはいえ、まだ、王であるキリストが地上に来臨し、『大いなる力と栄光』とを持って完成されるには至っていません。・・・ですから、キリスト者は、特に感謝の祭儀の中で、キリストの来臨を早めるために、『主よ、来てください』と祈るのです」として、教会こそが、この世の権威の支配する現実に対して声を上げ、真理に基づいた神の支配を自らの言葉と行いを持って示し続けることを求めます(671)。

   私たちがしばしば目にするのは、自分ではなく他の誰かの命の犠牲や誰かの苦しみを踏み台にして、自らの野望を成し遂げようとするこの世の権力の姿です。しかし真理の王は、自ら進んで他者の救いのために苦しみを背負い、自らの言葉と行いで愛と慈しみを具体的にあかしされる方であります。人類の犯すおろかで傲慢な罪を糾弾するのではなく、そのすべてを赦すために、自らを生け贄として犠牲にされる方であります。

 「神がすべての支配者」と信じる私たちは、神が望まれる世界の構築を目指して行かなくてはなりません。神の真理が支配する国、すなわち神の秩序が完全に実現している世界、神の愛と慈しみに満ちあふれた世界、すべての命が尊重される世界を目指して、言葉を語り行いを持って証ししたいと思います。

  本日は世界青年の日でもあります。教皇様は、イザヤ書から「主に望みをおく人は、歩いても疲れない」を引用され、今年のテーマとされました(イザヤ40・31参照)。

  メッセージの中で教皇様は、「戦争の悲劇、社会的不正義、格差、飢餓、人間の搾取と被造物の搾取――。・・・(青年たちは)将来に不安を覚え、夢を具体的に描けないため、希望をもてずに、倦怠と憂鬱から抜け出せず、時には犯罪や破壊行為への幻想に引き込まれかねません」と指摘されます。

  その上で教皇様は、希望を持って人生の旅路を歩み続ける巡礼者となるようにと呼びかけて、「希望とはまさに、神が私たちに吹き込んでくださる新たな力であり、それがあるからレースを続けることができ、『先を見つめる目』を持てるので、その時々の困難を乗り越えて確かなゴール、すなわち神との交わりと永遠の命の充満へと導かれるのです」と呼びかけておられます。

   神の真理が支配する国は絶望ではなく希望に満ちあふれた国であるはずです。私たちも常に福音における希望を心に抱き、それを伝えながら、歩み続けたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

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2024年11月23日