・「教会が、訪れる人に重荷を負わせる場ではなく、安らぎを与える場となっているのか」—菊地・東京大司教の年間第14主日

2026年7月 4日 (土)週刊大司教第263回:年間第14主日A

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 7月になりました。年間第14主日です。

 前回もお知らせしましたが、6月26日(金)と27日(土)に臨時の枢機卿会があったため、ローマに出かけていました。毎日40度近い熱波に襲われていたヨーロッパですが、ローマも異常に暑い毎日でした。

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 28日(日)にはブラジル司教団が設置するコレジオ(宿舎)を会場に、朝のミサに始まり夕方6時近くまで、各大陸別司教協議会連盟の集まりがあり、私もアジア司教協議会連盟の事務局長ですので、他の司教様方と一緒に参加して参りました。今後、大陸別司教協議会連盟の連携をどのように強めていくのかなどについて意見交換でした。

 その後、29日(月)は聖ペトロと聖パウロの祝日で、これはローマのお祝いでもあるので、ローマは休日でした。午前中は、教皇様が司式するミサに共同司式。このミサの中で、この一年間に管区大司教(メトロポリタン)に任命された大司教様方が、教皇様との一致の印であるパリウムを頂きました。

 私自身のパリウムを頂くミサは2018年6月29日でしたが、この時のミサは聖ペトロ広場、つまり外のでミサでした。しかし今年は異常な暑さということもあり、ミサは聖ペトロ大聖堂内で行われました。天上が遙かに高いので、エアコンがないものの、暑さは少し和らいでいました。

 聖ペトロ広場に通じる道には、前夜から準備された花絵がいくつも並び、その多くのが平和訴える内容でした。そしてその晩には、バチカンの前のサンタンジェロ城で花火大会。あまりの人混みに近づけず、広場から眺めました。

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 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第263回、年間第14主日のメッセージです。

【年間第14主日A 2026年7月5日】

 心の安らぎは、絶望の中にではなく、希望のうちに見い出されます。私たちの人生の歩みにおける希望は、一体どこに見いだすことができるのでしょうか。

 現代社会にあって、希望を見い出し、心の安らぎを得ることは容易ではありません。自分の周囲だけでなく、世界全体の現実を見れば、今この瞬間も暴力にさらされていのちの危機に直面したり、貧困や圧政の中でもがき苦しんでいる人たちの現実が容易に見いだされます。社会が発展し、技術が進歩する中で、人々の暮らしは改善され、希望が生み出されると考えられてきましたが、現実は残念ながら、そうではありません。

 この現実の中にあって、人と人との出会いの中にあって希望を見い出し、安らぎを生み出すことは、教会の使命の一つではないでしょうか。

 教皇ベネディクト16世は、回勅「希望による救い」で、理性と自由意志を与えられた人間は、社会の発展の中で様々な種類の希望が生まれ、そしてそれが奪われ、また発展が必ずしも命を生かす希望には繋がらないことを体験してきたと指摘します。

 その上で教皇は、「私たちは日々を歩んでいくために、小さな希望から大きな希望まで、何がしかの希望を必要としています。しかし、私たちは偉大な希望がなければ満足できません。この偉大な希望は、他のあらゆる希望を超えたものでなければなりません。この偉大な希望は、神以外にはあり得ません」(31)と記し、「真の希望は神の懐に抱かれることによってのみ達成される」ことを明示されています。

 マタイ福音には、「重荷を負う者は、誰でも私のもとへ来なさい。休ませてあげよう」と言う主イエスの言葉が記されていました。

 教会が、訪れる人に重荷を負わせる場ではなく、安らぎを与える場となっているでしょうか。もちろん教会共同体には様々な人が存在して当然ですから、「すべての人が同じように考え、仲良く過ごす」というのは、現実的ではありません。

 異なる人が互いに理解することに苦労しながらも、それでも教会が希望と安らぎを生み出す場となり得るのはどうしてでしょうか。それは教会共同体が「シノドス的な共同体として、互いに支え合い、耳を傾け合い、共に祈り、聖霊の導きを識別しようとして共に歩もうとするからであり、その教会共同体の真ん中には、主イエスご自身が現存され、その主の存在こそが、希望の源となっているからに他なりません。「一人ひとりの優しい性格に頼った仲良し共同体」を目指しているのではなく、「互いに異なる存在を尊重し耳を傾け、支え合い、祈り合う中で、共にイエスに身を寄せ合う」からこそ、安らぎが生まれ、希望が生み出されます。

 残念ながら、教会共同体の中で、安らぎではなく、苦しみを生み出してしまっている事実が存在します。様々なレベルでのハラスメントがあったり、互いの、また時に一方的な無理解に起因する対立があったりするのは否定できない事実であります。教会に集まっているのは、私も含めてすべてが罪の重荷を抱え、欠点を抱えた不十分な人間です。

 感謝の祭儀の中でご聖体をいただいて主と一致するとき、私たちの心に主ご自身が来てくださいます。主と共にある私たちは、主が与えてくださる安らぎを、自らも証しし、行動する道を見い出していきましょう。

(編集「カトリック・あい」)

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2026年7月4日